第5話 命を狙われたので、皇太子宮へ連れ込まれました
割れた窓から夜風が吹き込み、馬車の床へ散らばった硝子片を震わせていた。
セラフィナは、ルシアンに抱え込まれるような格好で床へ伏せている。頬のすぐ横には彼の腕があり、黒い礼装の袖に細かな硝子の粉が光っていた。
外から衛兵たちの怒鳴り声と、馬が激しく蹄を鳴らす音が聞こえる。
「もう大丈夫でしょうか」
「まだ動くな」
「ですが、犯人は逃げているようです」
「二射目が来ないとは限らない」
「この姿勢では、殿下のほうがよい的になります」
「私のほうが君より頑丈だ」
「身分の話をするなら、次期国王と没落伯爵家の娘では、殿下を盾にするほうが国の損失は大きいと思います」
ルシアンが、すぐ近くで息を吐いた。
「命を狙われた直後に、国の損失を計算するな」
「では、何を考えればよろしいのですか」
「普通は怖がるところだろう」
「怖いです。怖いから、別のことを考えているのです」
セラフィナが答えると、ルシアンは黙り込んだ。
その腕から力が抜ける。
ようやく起き上がってよいのかと思ったが、彼はまだセラフィナの肩を支えたままだった。
「殿下」
「何だ」
「緊急時であることは理解していますが、そろそろ離していただけますか」
「もう少し待て」
「なぜです?」
「君の髪に硝子がついている」
ルシアンは片手でセラフィナの頭を押さえ、もう片方の手で髪についた小さな破片を一つずつ取り除いていく。
触れられるたびに、頭皮が落ち着かない。
婚約を破棄された夜に、別の男性と馬車の床へ寝転がり、髪の硝子を取ってもらうことになるとは思わなかった。
ましてや相手は皇太子である。
人生は時々、本人の理解が追いつくのを待たず、勝手に話を進めるらしい。
「これで最後だ」
ルシアンが硝子片を床へ落とした。
そのとき、彼の手の甲から血が垂れ、セラフィナの袖へ赤い染みを作った。
「殿下、怪我をなさっています」
「かすり傷だ」
「かすり傷からも血は出ます。手を見せてください」
「王宮へ着いてからでいい」
「契約の第十三項をお忘れですか。双方が健康維持に努めるという条件です」
「矢が飛んでくる状況で適用する条項ではない」
「怪我を放置してよいとも書いておりません。手を出してください」
セラフィナが掌を向けても、ルシアンは動こうとしなかった。
「殿下」
「命令するな」
「婚約者からのお願いです」
言い換えると、ルシアンの眉間に深いしわが寄った。
「今、その立場を使うのか」
「使えるものは使います」
「君は本当に遠慮がないな」
文句を言いながらも、彼は手を差し出した。
手の甲に長い切り傷がある。おそらくセラフィナを庇った際、割れた窓の縁で切ったのだろう。
セラフィナは自分のドレスの袖口へ手をかけた。
「何をしている」
「布が必要です」
「そのドレスは高価だろう」
「殿下のお命よりは安いです」
「大げさだ。これくらいで死にはしない」
「では、殿下のお手よりは安いです。三か月後の戴冠式で、包帯だらけの手を国民へ振るおつもりですか」
「振る必要があるのか」
「国民に向かって手くらい振ってください」
セラフィナは袖口の内側にある薄布を少し裂いた。礼装用のドレスだったため、表から見ても傷はほとんど分からない。
傷口へ布を当てようとしたところで、ルシアンが手を引いた。
「痛みましたか」
「違う。君の手も傷ついている」
見れば、セラフィナの左手にも細かな切り傷があった。先ほど床へ伏せた際、硝子に触れたらしい。
「これくらいなら平気です」
「私と同じことを言っているぞ」
「殿下とわたしでは傷の長さが違います」
「血が出ていることに変わりはないと言ったのは君だ」
言い返せなかった。
ルシアンは裂いた布の半分を取り、セラフィナの左手へ巻き始めた。包帯を結ぶことには慣れていないらしく、一度目は緩すぎ、二度目はきつすぎた。
「少し痛いです」
「どの程度だ」
「指が紫色になる程度です」
「早く言え」
「我慢できるか試していました」
「試すな」
結び直された布は、今度はちょうどよい強さだった。
セラフィナもルシアンの手へ残りの布を巻く。二人の手に、同じドレスから裂いた布が巻かれた。
傍から見れば、ずいぶん仲のよい婚約者に見えるかもしれない。
つい一時間ほど前まで別の男性と婚約していたことを思うと、セラフィナは自分がひどく薄情な女になったような気がした。
けれど、だからといってオスカーのもとへ戻りたいわけでもない。
人間の心は一つの感情だけを入れる箱ではない。腹を立てながら寂しくなり、傷つきながら相手を心配し、それでも二度と会いたくないと思う。
面倒で、矛盾していて、自分のものなのに思いどおりにならない。
「どうした」
ルシアンに尋ねられ、セラフィナは彼の手から離れた。
「少し、考え事をしていただけです」
「元婚約者のことか」
「殿下は、どうしてすぐにそこへ結びつけるのですか」
「君が急に暗い顔をするのは、たいていあの男の話をした後だ」
「まだ出会って数時間なのに、ずいぶん観察なさっているのですね」
ルシアンの動きが止まった。
「護衛対象の状態を確認するのは当然だ」
「そういうことにしておきます」
「他に何がある」
「ありません」
答えながら、セラフィナは矢が刺さった座席へ目を向けた。
矢尻の近くには、警告文を結びつけていた黒い紐と、小さな封印材が残っている。
「触るな」
ルシアンが制止した。
「触りません。見ているだけです」
「何か分かるのか」
「黒い封印材が、婚約指輪の台座に詰められていたものとよく似ています。ただ、暗いので断定はできません。捨てずに保管してください」
ルシアンの目つきが変わった。
彼は馬車の外へ向かって声を上げた。
「御者。馬車を止めず、そのまま王宮へ向かえ。後方の護衛は犯人を追跡。前方は隊列を詰めろ」
「殿下、いったん別の場所へ避難したほうがよいのではありませんか」
「王宮より安全な場所はない」
「攻撃した者は、王家の馬車が通る道を知っていました。しかも、わたしが王妃様の声を聞いたことまで知っています。夜会の会場にいた者から知らせを受けたとしか思えません」
「ああ」
「王宮の中にも、犯人へ情報を流している者がいる可能性があります」
「それでも行く。少なくとも、矢が飛び込んでくる馬車よりは安全だ」
「それは否定できません」
馬車は速度を上げた。
しばらくすると、外から護衛騎士が馬を寄せ、窓越しに報告する。
「殿下、狙撃地点と思われる建物を確認いたしました。しかし、犯人はすでに逃走しております。屋根の上に弓と外套だけが残されていました」
「顔を見た者は」
「おりません」
「現場を封鎖しろ。弓や外套には素手で触れるな。夜会の招待客と使用人の中から、発表直後に席を外した者を調べろ」
「承知いたしました」
騎士が離れる。
セラフィナは矢に結ばれていた紙片を見た。
「犯人は、最初からわたしを殺すつもりだったのでしょうか」
「君を狙った矢だ」
「ですが、わざわざ警告文をつけています。本当に殺すことだけが目的なら、余計なことをする必要はありません」
「私への警告だと?」
「王妃の声を聞いた女を王宮へ入れるな、と書いてあります。わたしに読ませるなら、『王宮へ行くな』と書けばよいでしょう。これは殿下に、わたしを捨てろと命じているのです」
「従うと思われているなら、見くびられたものだ」
「犯人は、殿下がわたしを調査の道具として使っていると知っているのかもしれません。危険が大きくなれば、別の方法を選ぶと考えたのでしょう」
「君を捨てるつもりはない」
ルシアンは迷わず言った。
その言葉に、心臓が不自然に跳ねた。
すぐに、今は能力を手放す気がないという意味だと分かる。それでも、婚約を破棄されたばかりの夜には、少し強すぎる言葉だった。
「……偽の婚約者に対して、その言い方は誤解を招きます」
「何を誤解する」
「分からないのでしたら、そのままで結構です」
「君は時々、説明の途中で諦めるな」
「説明しても、今の殿下には届かないと思っただけです」
「それでは私がひどく鈍い男のようではないか」
セラフィナは黙って窓の外を見た。
ルシアンも何も言わなくなった。
王宮へ到着すると、セラフィナは馬車から降りる前に、矢と紙片を証拠用の袋へ入れるよう指示した。
深夜にもかかわらず、王太子宮の玄関には多くの使用人が並んでいた。その先頭に立っていたのは、灰色の髪をきっちりと結い上げた、背筋の伸びた年配の女性である。
「お帰りなさいませ、殿下」
女性はルシアンへ一礼した後、セラフィナを見た。
視線が一度、破れたドレスの袖と、二人の手に巻かれた同じ布へ落ちる。
「そちらの方が、今夜突然お決まりになった婚約者様でございますね」
「情報が早いな、マルタ」
「婚約発表の使者が到着した直後、馬車が襲撃されたとの報告も届きました。少なくとも殿下よりは、王太子宮の使用人のほうが連絡を大切にしております」
「皮肉は明日にしろ。彼女は疲れている」
「殿下から女性をお気遣いになるお言葉を聞けるとは、長生きはするものですね」
マルタと呼ばれた女性は、今度はセラフィナへ丁寧に頭を下げた。
「王太子宮の家政を預かっております、マルタと申します。事情は明日、ゆっくり伺います。今夜はお怪我の手当てと、お召し替えを優先いたしましょう」
「よろしくお願いいたします。ただ、わたしの部屋について確認したいことがございます」
「殿下のお部屋とは東西に分けて――と申し上げたいところですが、先ほどの襲撃を受け、隣室をご用意いたしました」
「隣室」
セラフィナはルシアンを見た。
「話が違います」
「護衛上の判断だ」
「居室は離れた場所にすると補足したはずです」
「王太子宮の中では、壁一枚隔てれば離れた部屋だ」
「一般的には、それを隣の部屋と呼びます」
マルタが静かに口を挟む。
「両室の間には内扉がございますが、鍵はセラフィナ様のお部屋側からのみかけられるようにいたします。殿下には合鍵をお渡ししません」
「マルタ」
「婚約者様との信頼関係を築きたいのでしたら、まずは扉を破らず、正面から訪ねることを覚えてくださいませ」
「私は扉を破ったことなどない」
「十六歳の頃、執務室へ閉じ込められたと思い込み、扉を蹴破りました」
「鍵が壊れていた」
「押して開ける扉を、引いて開けようとなさっていただけです」
ノアに続き、この宮殿には皇太子を恐れない人間がいるらしい。
セラフィナは少しだけ安心した。
用意された客室で傷の手当てと着替えを済ませた後、本来ならすぐ休むべきだった。
しかし、セラフィナは矢に使われていた黒い封印材が気になり、眠ることができなかった。
マルタへ頼んで小さな作業机と明かりを用意してもらい、王家の証拠袋を開封する。
やがて、扉が二度叩かれた。
「誰でしょうか」
「私だ」
ルシアンの声だった。
内扉ではなく、廊下側の正面扉から来たらしい。
「お入りください」
扉を開けたルシアンの後ろには、証人としてノアも立っていた。
「契約条件を守ってくださったのですね」
「破れば、君がまた十九項目を増やしそうだからな」
「増やされて困るようなことをなさらなければよいのです」
二人は作業机を挟んで座った。
セラフィナは矢に残された黒い塊を、細い銀の針で少しだけ削る。明かりへ透かすと、内部に銀色の粉が七つの星の形へ浮かび上がった。
その模様を見た瞬間、背中が冷えた。
「これは……」
「分かったのか」
セラフィナは返事をせず、鞄から小さな拡大鏡を取り出した。角度を変え、もう一度確認する。
間違いない。
「夜星膠です。宝石の台座を封じ、光と魔力を遮断するための特殊な接着材です」
「指輪にも使われていたものか」
「おそらく同じものです」
「製造元は分かるか」
ルシアンの問いに、セラフィナはすぐ答えられなかった。
この配合を知っている職人は、ほとんど残っていない。
八年前、王妃が亡くなった頃に使われていた古い技法。銀粉で七つの星を浮かべるのは、模倣品を防ぐための工房印だった。
「この夜星膠を作ったのは、リード工房です」
「君の家か」
「はい。ただし、わたしは製造方法を教わっておりません。母が亡くなってから、工房では一度も作られていないはずです」
「他に作れる者は」
セラフィナは、手の中の拡大鏡を握りしめた。
「一人だけです」
嫌な予感が、胸の奥で形を持ち始める。
「父です。今も生きている人間の中で、この配合を知っているのは、わたしの父だけです」




