第4話 婚約破棄の一時間後、皇太子の婚約者になりました
「戴冠式の日に決行する。王子を殺せ。今度こそ、必ず――そう聞こえました」
セラフィナが言葉を絞り出すと、応接室からすべての音が消えた。
ルシアンは立ち上がった姿勢のまま動かない。いつもなら軽口の一つでも挟みそうなノアも、今度ばかりは笑わず、契約書の横へ新しい紙を広げた。
「最初から、もう一度お願いします。声の調子や、背後に聞こえた音も、覚えている限りすべて」
「低い男性の声でした。年齢までは分かりません。ただ、言葉遣いは荒くありません。命令することに慣れているような……大声を出さなくても、相手が従うと思っている話し方でした」
「貴族、もしくは軍人でしょうか」
「可能性はありますが、決めつけないでください。宝石が聞かせるものは、そのときの感情によって歪みます。実際には怯えていた人でも、石には強い声だけが残ることがあります」
ノアはうなずき、言葉を選びながら書き留めていく。
ルシアンは机へ両手をついた。
「他には」
「金属を擦る音がしました。刃物を研いでいたのかもしれません。ただ、金細工を削る音にも似ています。遠くで鐘が……いえ、これは今夜の夜会で聞いた音かもしれません。現在の音と、石に残された音が混ざっていて……」
セラフィナはこめかみを押さえた。
耳の奥で、止まったはずの楽団が演奏を続けている。先ほど飲んだスープの器が机に置かれる音、オスカーの怒鳴り声、亡き王妃の苦しげな呼吸まで、何度も重なっては離れた。
目の前でルシアンが何かを言った。
唇は動いているのに、声が聞こえない。
「申し訳ありません。もう一度お願いします」
彼は今度はゆっくりと、口の形が分かるように話した。
「どこか、痛むのか」
「痛みではありません。少し、音が多すぎるだけです」
「能力を使った影響か」
「おそらく」
「王宮医を呼ぶ」
「お待ちください。わたしの能力について知らせる人間は、できるだけ少なくすると決めたばかりです」
「君が倒れてからでは遅い」
「呼ばれた医師に、何と説明なさるおつもりですか。宝石に残る暗殺計画を聞いて具合が悪くなりました、と?」
「疲労で倒れたと説明する」
「それでは通常の診察しかできません。結局、能力について話さなければ、適切な治療も――」
視界が急に傾いた。
立ち上がろうとした覚えはなかったのに、床が近づいてくる。
次の瞬間、強い腕がセラフィナの背中と肩を支えた。
鼻先が黒い礼装へぶつかり、少し遅れて、冷たい革と淡い木の香りがした。
「座れ」
ルシアンの声は、今度は聞こえた。
「触れる際は、事前に許可を取るという条件です」
「転倒を防ぐ場合は緊急時に含まれる」
「契約書をきちんと覚えていらっしゃるのですね」
「先ほど署名したばかりだ。忘れると思うのか」
「世の中には、署名した瞬間から都合の悪い約束を忘れる方もいらっしゃいます」
「また元婚約者と比べているな」
「今回は一般論です」
「君の一般論には、たいてい一人の男が含まれている」
口では言い返しながらも、足へ力が戻らない。ルシアンに支えられたまま椅子へ座らされ、ノアから水の入った杯を渡された。
「少しずつ飲んでください。飲み終えたら、残っている焼き菓子も召し上がっていただきます」
「先ほど食べました」
「殿下との言い争いで、相当な体力を消費なさったのでしょう」
「ノア」
「殿下もお一ついかがですか。お二人とも、食べている間は静かになりますので」
ルシアンは答えなかったが、皿に残っていた焼き菓子を一つ取った。
人には食べろと言っておきながら自分は必要ないと言い張っていたくせに、指摘されると素直に食べるらしい。
セラフィナも、蜂蜜の挟まった焼き菓子を少しずつ口へ運んだ。甘さが舌に広がると、ばらばらだった意識がようやく現在へ戻ってくる。
「先ほどの声ですが」
落ち着いてから、セラフィナは白い手巾に包まれた指輪を見た。
「王妃様のものとは明らかに違いました。おそらく、この指輪が王妃様の手を離れた後に触れた人物です」
「短時間触れただけでも、声は残るのか」
「普通は残りません。長年身につけていたか、その瞬間に非常に強い感情を抱いていたか、そのどちらかです」
「暗殺を命じた男が、この指輪を長年所有していた可能性があると?」
「あります。ただ、オスカー様からこの指輪を贈られて三年になります。その間、あの声を聞いたことは一度もありませんでした。台座の裏に詰められていた封印材が残響を抑えていたのだと思います」
「封じた者は、中に声が残っていると知っていた」
「少なくとも、何かを聞かれたくないとは考えていたのでしょう」
ノアが書き終えた紙を軽く振り、インクを乾かした。
「ベルモント伯爵家は、ますます無関係では済まなくなりましたね。指輪の入手経路だけでなく、封印加工を施した職人も突き止める必要があります」
「オスカー様は、本当に何も知らなかったのだと思います」
セラフィナが言うと、ルシアンは冷ややかな目を向けた。
「またかばうのか」
「かばっているのではありません。あの方は嘘が上手ではありませんから。先ほどの慌て方は、罪を隠している人というより、突然、自分の足元に穴が開いた人の反応でした」
「十分に付き合いが長かったということか」
「三年も婚約していましたので」
「だから未練がある」
「殿下は、どうしてその話へ戻したがるのですか」
「調査対象に情を挟まれては困る」
「調査対象に情があるからこそ、見えることもあります。嫌いな相手について調べれば、何でも悪意に見えてしまうでしょう」
「では、君はあの男を公平に見られると?」
「努力します。少なくとも、婚約を破棄された仕返しとして、していない罪まで背負わせるつもりはありません」
ルシアンは何も答えなかった。
納得していない顔だったが、反対もしなかった。
「話を戻しましょう」
ノアが二人の間へ紙を置いた。
「暗殺の声が事実なら、三か月後まで待っている余裕はありません。星冠庫の調査は早ければ早いほどよいでしょう。ただ、その前に今夜の招待客へ、セラフィナ様を王宮へお連れする理由を説明する必要があります」
「王室宝石修復師として任命すると発表すればよいのではありませんか」
「それだけでは、なぜ殿下と同じ馬車で王宮へ向かうのか、なぜ王太子宮で暮らすのかという疑問が残ります。夜会にいた方々は、すでに殿下があなたを特別扱いしていると感じていますから」
「わたし、王太子宮で暮らすのですか」
「護衛の都合上、そうなる」
ルシアンが当然のように答えた。
「聞いておりません」
「契約書の第九項に、王家が指定する安全な場所へ滞在するとある」
「安全な場所とは書きましたが、王太子宮とは書かれておりません」
「今の王都で最も警備が厳しい場所だ」
「殿下もお住まいなのですよね」
「私の宮殿だから当然だろう」
「危険人物を避けるための滞在先に、出会った当日に偽装婚約を迫る男性が住んでいるというのは、安全と言えるのでしょうか」
「私が危険人物だと?」
「危険ではないと証明できるほど、まだ存じ上げません」
ノアが再びペンを取った。
「追加条件として、居室は離れた場所を用意し、鍵の管理はセラフィナ様ご本人に任せましょう」
「それならば、ひとまずは納得します」
「私が彼女の部屋へ無断で入ると思っているのか」
ルシアンが不満そうに言う。
セラフィナはすぐに答えた。
「思っていないのでしたら、条件へ加えても困らないでしょう」
「……好きにしろ」
言い負かされたことが気に入らないらしい。
ノアは素早く補足文を書き終えると、二人へ確認させた。
それから指輪を証拠用の箱へ納め、王家の封蝋を三か所へ施した。箱はルシアンとノア、それにセラフィナの三人が揃わなければ開けないことになった。
すべてが終わった頃には、夜会で婚約を破棄されてから一時間近くが過ぎていた。
「では、皆様へ発表いたしましょう」
ノアの言葉に、セラフィナは立ち上がりかけて、すぐ座り直した。
「発表とは、まさか今夜、偽装婚約まで?」
「今夜でなければ、明朝には勝手な噂が王都中を駆け巡ります。ベルモント伯爵令息との婚約を維持したまま殿下と密会していた、指輪を盗んで殿下の気を引いた、婚約破棄そのものが最初から計画だった――人は事実が分からないと、自分が一番楽しめる話を作りますので」
「嫌になるほど想像できます」
「ですから、順序を明確にします。ベルモント伯爵令息が一方的に婚約破棄を宣言した。その後、盗難品が発見され、セラフィナ様が王室宝石修復師へ任命された。そして、王家の都合により殿下との婚約が成立した」
「最後だけ、ずいぶん雑ではありませんか」
「本当の理由を公表できませんから」
セラフィナは額へ手を当てた。
婚約破棄されたことだけでも頭が追いついていないのに、その一時間後には皇太子の婚約者として発表される。
明日の新聞がどのような見出しをつけるのか、考えたくもなかった。
「行くぞ」
ルシアンが手を差し出した。
「何でしょう」
「婚約者を広間へ連れていくのに、別々に歩くつもりか」
「先ほど条件へ加えたばかりです。事前に許可を取ってください」
「今、取っている」
「命令に聞こえました」
ルシアンは面倒そうに息を吐いた。
それから、差し出した手の角度をわずかに変える。
「セラフィナ・リード。広間へ戻る間、私の手を取ってくれるか」
「嫌そうなお顔で頼まれても、婚約者らしく見えません」
「条件が多すぎる」
「十九項目を受け入れたのは殿下です」
「では、どうすればいい」
「せめて、わたしを見ておっしゃってください」
ルシアンは一度目を閉じた。
覚悟を決めるほどのことなのだろうか。
やがて青い瞳が、正面からセラフィナを捉えた。
「一緒に来てほしい」
笑顔ではなかった。
それでも先ほどまでの命令する声とは違い、不器用なりに相手へ委ねようとしているのが分かった。
「承知しました」
セラフィナは、その手へ自分の手を重ねた。
広間へ戻ると、数え切れない視線が二人へ突き刺さった。
オスカーとミレイユは、衛兵に挟まれて別々に立っている。オスカーはルシアンと手を取り合うセラフィナを見た瞬間、何度も目を瞬かせた。
「セラフィナ……?」
ルシアンは広間の中央まで進み、招待客を見渡した。
「今夜、ベルモント伯爵家が所有していた指輪から、王家の盗難品が発見された。詳しい入手経路については、これから正式な捜査を行う。関係者の罪が確定したわけではないため、憶測での発言は慎むように」
オスカーがわずかに安堵した。
しかし、ルシアンの話はそこで終わらなかった。
「また、指輪の価値と状態を即座に見抜いたセラフィナ・リード伯爵令嬢を、本日付で王室宝石修復師へ任命する」
広間がざわめいた。
セラフィナは無意識に背筋を伸ばした。
没落した伯爵家の娘。石の声が聞こえると噂され、気味悪がられていた修復師。
その自分が、王室の職人として認められた。
婚約よりも、その事実のほうが胸へ深く届いた。
「そして、王家の事情により、私はセラフィナ・リード伯爵令嬢と正式に婚約する」
今度こそ、広間が爆発したような騒ぎになった。
「待ってください!」
オスカーが衛兵の間から声を上げた。
「セラフィナは、つい先ほどまで私の婚約者でした。いくら殿下でも、そのようにすぐ――」
「君が自ら婚約破棄を宣言したのだろう」
「それは、そうですが」
「この場にいる全員が聞いている。婚約破棄を撤回したいのか」
オスカーは言葉に詰まった。
隣にはミレイユがいる。ここで撤回したいと言えば、今度は彼女を捨てることになる。
それでも彼は、セラフィナとルシアンの重なった手から目を離せずにいた。
「私は……ただ、あまりに急な話なので」
「君が心配する必要はない。セラフィナは、もう君の婚約者ではない」
淡々と告げられた言葉に、オスカーの肩が落ちた。
セラフィナは、胸が晴れるような爽快感を覚えなかった。
ただ、自分と彼の間にあった三年間が、本当に終わったのだと感じただけだった。
夜会はそのまま散会となり、ベルモント家の者たちは事情聴取のため王宮へ連れていかれた。
セラフィナもルシアンと同じ馬車へ乗り込む。
扉が閉じると、彼女は大きく息を吐いた。
「疲れたか」
「婚約を破棄された後、皇太子殿下と婚約するまで一時間でした。疲れていない人がいたら、お会いしてみたいです」
「後悔しているか」
「それを判断するだけの時間もありません」
「ならば、王宮へ着いてから後悔しろ」
「もう少し優しい言葉は選べないのですか」
「努力はする」
馬車が夜の王都を走り始めた。
しばらくして、ルシアンが窓の外へ目を向ける。セラフィナも何気なく同じ方向を見た。
暗い路地の屋根に、何かが光った。
次の瞬間、ルシアンがセラフィナの肩を強く引いた。
「伏せろ!」
窓硝子が砕け、一本の矢が車内へ飛び込んだ。
ルシアンに抱え込まれるようにして床へ伏せたセラフィナの耳元を、矢がかすめていく。
矢尻は向かい側の座席へ深く突き刺さった。
そこには細い紙片が結びつけられていた。
ルシアンが紙片を外し、書かれた文字を読む。
『王妃の声を聞いた女を、王宮へ入れるな』
婚約を発表してから、まだ十分も経っていなかった。




