第3話 偽婚約の条件は十九項目です
「お断りいたします」
セラフィナは、ほとんど間を置かずに答えた。
ルシアンが目を細める。
壁際に立っていたノアは、書き留めていたペンを止めた。皇太子からの求婚を、ここまで迷いなく断る女性を見るのは初めてなのかもしれない。
もっとも、これは求婚などという甘いものではなかった。
亡き母の死を調べるため、三か月だけ婚約者になれ。
言い方を少し変えれば、王家の宝物庫へ入るための通行証になれ、という話である。
「理由を聞こう」
「初対面の男性と婚約したくないからです」
「私は初対面の女に、恋愛感情を理由として婚約を申し込んでいるわけではない」
「なお悪いではありませんか。恋愛感情すらないのに、わたしの立場だけが必要なのでしょう」
「君の能力も必要だ」
「訂正していただいても、あまりうれしくありません」
ルシアンは不機嫌そうに指先で机を二度叩いた。
その仕草を見て、セラフィナは先ほどまで婚約者だった男のことを思い出した。オスカーも自分の思いどおりにならないと、よく机や肘掛けを指で叩いていた。
似ている、と思った。
口に出せば不敬罪になりそうなので黙っていたが、黙っているせいで余計に顔へ出たらしい。
「何だ」
「何も申し上げておりません」
「顔に書いてある」
「殿下は石の声だけでなく、人の顔まで読めるのですか」
「君の顔が分かりやすいだけだ。今、私を誰かと比べただろう」
「否定いたします」
「誰と比べた」
「否定しているのに答える必要がありますか」
「ベルモント伯爵令息か」
どうして分かったのだろう。
セラフィナは視線を逸らした。ノアが机へ向かったまま、肩をかすかに震わせている。
「似ているのか、私とあの男が」
ルシアンの声が一段低くなった。
「机を指で叩くところだけです」
「今後、二度としない」
「そこまで嫌なのですか」
「当然だ」
「オスカー様にも、よいところはありました」
言ってから、胸が少し痛んだ。
何をかばっているのだろう。
たった今、皆の前で自分を捨て、追い詰められれば王家の盗品まで自分のせいにしようとした男である。それでも三年間のすべてが最初から悪かったわけではない。
寒い日に温かい飲み物を届けてくれたこともあった。仕事で指を切ったときには、治るまで毎日見舞いに来てくれた。
あれも全部嘘だったと決めつければ簡単なのに、思い出は本人の都合に合わせて、きれいに悪と善へ分かれてくれない。
「よいところがある男は、婚約者を大勢の前で辱めない」
ルシアンは冷たく言った。
「分かっています。ただ、嫌いになればすべてを忘れられるほど、人の気持ちは便利ではありません」
「未練があるのか」
「その質問に、殿下が答えを必要とする理由はありますか」
「婚約を結ぶなら、現在の感情は確認しておくべきだろう」
「偽の婚約ではありませんでしたか」
「偽であっても、元婚約者へ戻られては計画に支障が出る」
あまりに真顔で言われたので、セラフィナは腹を立てるより先にあきれた。
「ご安心ください。戻りません。未練があることと、その人ともう一度やり直すことは、まったく別の話です」
「私にはよく分からない」
「でしょうね」
「君は私に対して遠慮がなさすぎないか」
「殿下がわたしの心へ遠慮なく踏み込んでくるので、お互いさまです」
そこで会話が途切れた。
ノアのペンが紙の上を走る音だけが響く。
「ノア」
「はい」
「今のやり取りまで記録しているのか」
「後ほど契約条件へ影響する可能性がありますので。特に、殿下が女性の心情を理解する能力に欠けているという点は、今後の安全管理上、重要かと存じます」
「その一文は消せ」
「すでにインクが乾きました」
「新しい紙へ書き直せ」
「紙は国民の税金で購入しております」
ルシアンはノアを睨んだが、ノアは涼しい顔で書類を整えた。
この二人は主従というより、長年喧嘩を続けている兄弟に近いのかもしれない。そう思うと、氷のように見えた皇太子が、ほんの少しだけ人間らしく見えた。
もっとも、それで婚約を受け入れる気にはならない。
「殿下。わたしを宝物庫へ入れたいのでしたら、宝物庫の規則を変えてはいかがですか。王室宝石修復師として正式に任命していただければ済む話です」
「規則ではない。星冠庫の扉には、初代国王が結んだ誓約魔法がかけられている。王家の血を引く者、もしくは王家へ迎え入れられることが正式に決まった者にしか開かない」
「その誓約魔法を解除することは?」
「専門家に調べさせた。早くても半年、無理に壊せば中の宝石まで損なわれる可能性がある」
「では、半年待ちましょう」
「三か月後に私の戴冠式がある」
セラフィナは初めて、その言葉の意味を理解した。
現国王が病に伏していることは知っていた。しかし、退位の日取りが決まっていたとは聞いていない。
「まだ公表されていないのですね」
「ああ。父の体調は、民に伝えられているより悪い。三か月後、私は王位を継ぐ。それまでに母が残した言葉の意味を確かめなければならない」
『ルシアンを、王冠に近づけないで』
指輪から聞こえた言葉が、セラフィナの耳の奥で蘇る。
亡き王妃は、息子が王になることを望んでいなかったのだろうか。それとも、王冠そのものに危険があるのか。
「殿下が王になることを、お母様が拒んでいた可能性もあります」
「承知している」
答えたルシアンの顔には、怒りも動揺もなかった。
その平静さが、かえって痛々しく見えた。
「それでも知りたいのですか」
「知りたいのではない。知らなければならない。母が私を王座から遠ざけたかったのなら、その理由を確かめる。王冠に何かあるのなら、戴冠式までに取り除く。それだけだ」
「何も分からなかった場合は?」
「予定どおり王になる」
「怖くはないのですか」
「怖いからといって、代わりを用意できる立場ではない」
その答えは、妙にセラフィナの胸へ残った。
皇太子ならば何もかも自由になると思っていた。しかし実際には、逃げることすら許されない。
だからといって、セラフィナが巻き込まれてよい理由にはならないのだが。
「事情は理解しました。それでも、わたしには関係のないことです」
「すでに関係している」
「どういう意味でしょう」
「君は大勢の前で母の言葉を口にした。ベルモント家の指輪が王家の盗難品であることも明らかになった。今夜のことは、どれだけ口止めしても外へ漏れる」
「わたしが狙われると?」
「可能性は高い」
「ずいぶん脅迫に似た求婚ですこと」
「私は事実を説明している」
「殿下は、女性へ逃げ道を残すという考えをお持ちではないのですか」
「逃げ道を残した結果、君が殺されれば意味がない」
あまりに率直な言葉だった。
優しさなのか、単に必要な能力を失いたくないだけなのか分からない。おそらく本人にも区別がついていないのだろう。
セラフィナは椅子の背へ体を預けた。
急に疲れが押し寄せてきた。
昼から何も食べていないことを思い出す。夜会へ来る前、宝石の研磨に夢中になり、夕食を後回しにしたのだ。
そのうえ、婚約を破棄され、王家の陰謀へ片足を突っ込んでいる。
夢なら、もう少し都合のよい展開にしてほしかった。
腹の奥が小さく鳴った。
聞こえないふりをしたかったが、部屋が静かすぎた。
ノアが窓の外へ顔を向ける。
ルシアンはセラフィナを見た。
「今の音は何だ」
「現在の音と過去の音が混ざっておりますので、わたしには分かりません」
「君の腹ではないのか」
「分かりません」
「最後に食事をしたのはいつだ」
「殿下には関係ございません」
「ノア。軽食を用意させろ」
「承知しました。胃に優しいスープとパン、それに甘いものも少々でよろしいですか」
「頼んでおりません」
「顔色が悪い。何も食べずに能力を使わせ、倒れられては困る」
「結局、わたしではなく能力の心配なのですね」
「今はそう思ってくれて構わない」
言い訳をしないところだけは、オスカーとは違う。
それが誠実なのか無神経なのか、まだ判断はつかなかった。
間もなく、温かな野菜のスープと小さなパン、蜂蜜を挟んだ焼き菓子が運ばれてきた。
断るつもりだったのに、湯気の立つスープを前にすると、空腹には勝てなかった。
「いただきます」
「どうぞ」
ルシアンが見ているので、ひどく食べにくい。
「殿下も何か召し上がってはいかがですか」
「私は必要ない」
「人が食べているところを見つめるのは、あまり品のよい行為ではありません」
「毒が入っていないか確認している」
セラフィナは口へ運びかけたスプーンを止めた。
「それは、食べる前に教えていただきたかったです」
「王宮から持ってきた食器と食材だ。問題はない」
「では、何を確認しているのですか」
「君が本当に食べるかどうかだ」
「食べています」
「ならばいい」
やはり、この男の考えていることは分からない。
スープを半分ほど飲んだところで、セラフィナはようやく腹を決めた。
「条件があります」
ルシアンが姿勢を正した。
「聞こう」
「期間は三か月。延長には双方の署名が必要です。婚約期間中も、わたしは宝石修復師として仕事を続けます。殿下の所有物になるつもりはありません」
「当然だ」
「その当然が通じない男性と、先ほどまで婚約しておりましたので、言葉にしておきたいのです」
「分かった。続けろ」
「わたしの能力について、許可なく公表しないこと。石の声を聞くよう強要しないこと。作業中は、わたしの指示に従っていただきます」
「護衛上の問題がない限り認める」
「それから、正当な理由なく体へ触れないこと」
ルシアンの眉が寄った。
「夜会では、腕を組む必要がある。婚約者として踊ることもあるだろう」
「事前にお知らせください」
「襲撃を受けた際にも、事前の許可が必要か」
「緊急時は除きます。ですが、緊急時だったと言えば何でも許されるわけではありません」
「私を何だと思っている」
「出会って一時間も経っていない男性です」
ノアのペンが忙しく動く。
「公の場で婚約者らしく振る舞うことは必要だ」
「それは殿下も同じです」
「私は十分に振る舞える」
「先ほどから一度も笑っておりませんが」
「笑う必要があるのか」
「愛する婚約者を見る顔が、罪人の取り調べと同じでは困ります」
「君も私を愛する女の顔をしていない」
「ですから、お互い練習が必要です」
「私に笑顔の練習をしろと?」
「偽装を提案なさったのは殿下です」
ルシアンは心底嫌そうな顔をした。
ノアが真面目な声で提案する。
「毎朝、鏡の前で十分ほど練習なさいますか」
「その条件は認めない」
「では、わたしも婚約者らしい笑顔はお約束できません」
「……五分ならば」
「七分」
「なぜ増やす」
「間を取りました」
「普通、間を取れば減るだろう」
「では、十分で」
「七分でいい」
それから一時間近く、三人は条件を詰めた。
セラフィナの実家と工房には王家の護衛をつける。ただし、借金を王家が肩代わりすることは認めなかった。セラフィナは援助ではなく、王室宝石修復師として正当な報酬を受け取る。
居室は別。互いの部屋へ入る際には、緊急時を除いて許可を得る。契約終了後、セラフィナの名誉を傷つける発表をしない。ベルモント家の捜査と婚約破棄は切り離して扱う。
十三番目の条件で、再び揉めた。
「健康を損なう行為を慎むこと、というのは何ですか」
「食事を抜くな」
「それを婚約条件へ入れる必要がありますか」
「必要だ。今日、君は昼から何も食べていなかった」
「仕事に集中して、たまたま忘れただけです」
「忘れる人間へ口頭で注意しても意味がない」
「では、殿下も同じ条件を守ってください」
ルシアンが黙る。
ノアが楽しそうに言った。
「殿下もよく食事を抜かれます。昨夜も夕食を召し上がらず、執務室で書類を――」
「ノア」
「事実でございます」
「ならば、殿下を含めてください。どちらか一方にだけ食事を強いるのは不公平です」
「私は王太子だ」
「王太子は食事をしなくても生きられるのですか」
「……双方が健康維持に努める。これでいいか」
「結構です」
すべての調整が終わったとき、条件は十九項目になっていた。
ノアが新しい羊皮紙へ清書し、最後にセラフィナとルシアンが内容を確認する。
「後悔しているか」
署名用のペンを渡しながら、ルシアンが尋ねた。
「どの件についてでしょう。今夜だけで、後悔の候補が多すぎます」
「私との婚約だ」
「まだ署名しておりません」
「署名するつもりなのだろう」
「怖いですし、面倒ですし、できれば今すぐ家へ帰って眠りたいと思っています」
「正直だな」
「ですが、わたしが断っても事件から逃げられないのでしょう。それなら、条件と報酬を決めて、自分から関わったほうがまだ納得できます」
「君はすべてを仕事にするのだな」
その言葉は、オスカーから言われたものとよく似ていた。
セラフィナの手が止まる。
ルシアンは、彼女の表情の変化に気づいたらしい。
「責めたつもりはない」
「分かっています」
「君が仕事として考えることで自分を守れるなら、それでいい。ただし、危険まで一人で抱え込むな。それも条件へ加える」
「もう十九項目あります」
「二十項目にすればいい」
「きりが悪いので嫌です」
「そこにこだわるのか」
結局、十五番目の文言を修正し、「危険を認識した場合は互いに報告する」と付け加えた。
セラフィナは十九項目の契約書へ署名した。
続いて、ルシアンが王家の印章を押す。
紺色の封蝋へ銀の印が沈んだ瞬間、白い手巾に包まれていた青玉が強い光を放った。
セラフィナの耳から、現在の音が消える。
代わりに聞こえてきたのは、先ほどの王妃とは違う、低い男の声だった。
『戴冠式の日に決行する』
刃物を研ぐような音が続く。
『王子を殺せ。今度こそ、必ず』
セラフィナの手からペンが落ちた。
「どうした」
ルシアンが立ち上がる。
彼女は答えようとしたが、喉が震えて、すぐには声にならなかった。
三か月後の戴冠式。
それは調査の期限ではない。
犯人がルシアンを殺すと決めた日だった。




