第2話 冷徹皇太子は母の声を忘れない
広間にいた誰もが、セラフィナの返事を待っていた。
けれどセラフィナ自身は、何から説明すればよいのか分からなかった。
婚約を破棄されたばかりで、その場で返した指輪が王家の盗難品だと告げられ、しかも石の中から聞こえた声の主が、目の前にいる皇太子の亡き母かもしれない。
こんな出来事を順序立てて説明できる人間がいるなら、ぜひ代わってほしかった。
「……この石からです」
結局、ひどく間の抜けた答えになった。
ルシアンの眉がわずかに動く。
「石から?」
「はい。宝石には、長く身につけていた方の感情や言葉が残ることがあります。すべての石に残るわけではありませんし、いつでも聞こえるわけでもありません。ただ、この青玉には封印のような加工が施されていました。それが先ほど割れて、声が流れ込んできたのです」
「殿下、騙されてはいけません!」
オスカーが割り込んだ。
先ほどまで婚約破棄を言い渡した側として堂々と振る舞っていたのに、今は額に汗を浮かべている。
「この女は昔から、石の声が聞こえるなどという気味の悪いことを言っておりました。そんなものは証拠になりません。盗まれた王家の宝石だという話だって、セラフィナが今ここで作り上げたのかもしれない!」
「オスカー様」
セラフィナは、思わず彼の名前を呼んでいた。
「何だ」
「先ほど殿下は、ご自分でこの指輪を王家のものだとおっしゃいました。わたしが殿下に何かを吹き込む時間はありませんでした。それなのに、どうしてわたしが話を作り上げたことになるのですか」
「それは……お前たちが以前から通じていた可能性もあるだろう」
言った本人も、さすがに無理があると気づいたらしい。
声が途中から小さくなった。
ルシアンは怒るでもなく、感情の見えない顔でオスカーを眺めていた。それがかえって恐ろしかったのか、オスカーは半歩後ろへ下がる。
「ベルモント伯爵令息」
「は、はい」
「私とリード伯爵令嬢が以前から通じていたと、君はそう主張するのだな」
「可能性の話でございます。決して、殿下を侮辱するつもりでは――」
「私の夜会への出席予定は、三時間前に決まった」
「……はい?」
「国王陛下の代理として急遽出席した。招待客に知らせたのは、私が王宮を出た後だ。それ以前に彼女と打ち合わせるのは不可能だが、それでも私たちが通じていたと?」
「それは、その……セラフィナならば、何か方法を考えたかもしれません。彼女は昔から、妙なところで頭が回りますので」
セラフィナは目を閉じたくなった。
三年も婚約していた相手が追い詰められ、口から出任せを重ねている。そのみっともなさが哀れである一方、以前なら自分がどうにか取り繕ってやっただろうとも思う。
帳簿の数字が合わないときも、母親への贈り物を忘れたときも、取引先の名前を間違えたときも、最後にはいつもセラフィナが直した。
そして直すたびに、彼は「君といると試験を受けている気分になる」と不満を募らせていたのだ。
助けても怒られるのなら、もう助ける必要はない。
ようやくそれを理解した。
「ノア」
ルシアンが呼ぶと、招待客の間から一人の青年が進み出た。明るい褐色の髪を後ろへ撫でつけ、細身の礼装を身につけている。
「お呼びでしょうか、殿下」
「広間の扉を閉じろ。今夜の招待客と使用人、楽団員まで全員の名前を記録する。この指輪に触れた者がいれば、それもだ」
「承知しました。せっかくの夜会ですのに、最後が事情聴取とは。皆様にとって忘れられない夜になりそうですね」
「余計なことを言うな」
「場を和ませようとしただけです」
「和んでいる者がどこにいる」
ノアと呼ばれた青年は広間を見回した。誰もが一斉に目を逸らす。
「おりませんね。失礼いたしました」
軽い調子で答えながらも、彼が指示を出すと動きは早かった。衛兵がすべての扉を閉じ、招待客の記録を始める。音楽は止まり、楽団員たちまで楽器を抱えたまま並ばされた。
自分たちの婚約破棄だけでも明日の社交界を賑わせるには十分だったのに、王家の盗難品まで加わってしまった。
セラフィナは、こめかみが痛くなってきた。
「殿下、お待ちください」
ミレイユが青ざめた顔で進み出た。
「わたくしは、この指輪について何も存じません。オスカー様からは、セラフィナ様との婚約についても、すでに両家の了承を得ていると伺っておりました。本当です。どうか信じてくださいませ」
「ミレイユ、今は余計なことを言わないほうがいい」
「余計なことではありません。先ほどから、あなたのお話はわたくしが聞いていたものと違っております。今夜だって、婚約を解消した後に皆様へ紹介してくださるとおっしゃったではありませんか」
「だから、そのつもりだった。セラフィナが騒がずに受け入れていれば、何も問題は起きなかったんだ」
「セラフィナ様は騒いでおりませんわ。むしろ、騒いでいるのはずっとオスカー様ではありませんか」
オスカーが言葉を失った。
ミレイユも、自分が思わず本音を口にしたことに気づいたのだろう。両手で口元を覆う。
セラフィナは怒ればよいのか、笑えばよいのか分からなかった。
代わりに、ミレイユへ静かに告げる。
「今夜のことを知らなかったというお話は、信じます」
「セラフィナ様……」
「ただし、だからといって、わたしがあなたを慰められると思わないでください。今はまだ、あなたの顔を見るだけで胸が痛みます。事情があったとしても、すぐに笑って許せるほど、わたしはできた人間ではありません」
ミレイユの瞳が揺れた。
「……はい。ごもっともです」
「謝罪も、今は受け取りません。受け取れば、許さなければならないような気持ちになりますので」
「分かりました。それでも、いつか改めてお話しさせてください」
セラフィナは答えなかった。
いつかが来るかどうか、今は考えたくなかった。
「話は別室で聞く」
ルシアンはそう告げると、セラフィナの手元へ視線を落とした。
「指輪を私に渡せるか」
「申し訳ございませんが、このまま手渡すことはできません」
広間に、別の意味で緊張が走った。
皇太子の要求を断ったのだから当然だろう。
ルシアンも意外そうに目を細める。
「理由を聞こう」
「封印が壊れたばかりです。人の手の脂や香水が入れば、残響が濁る恐れがあります。また、誰がどの順番で触れたかを記録しなければ、後になって証拠として扱えません。清潔な柔布と蓋のできる箱をご用意ください。それまでは、わたしが持っています」
「私が奪うとは思わないのか」
「奪われた場合は、殿下が証拠品を不適切に扱ったと、皆様の前で証言いたします」
ノアが咳をした。
笑いをこらえたようにも聞こえた。
ルシアンはしばらく黙っていたが、やがて胸元から白い手巾を取り出した。銀糸で小鳥の刺繍が施されている。
「これは使えるか。洗濯後、まだ一度も使用していない」
「香料は?」
「つけていない」
「では、お借りします」
セラフィナは手巾を受け取り、指輪をそっと包んだ。刺繍された小鳥が青い石の上へ重なる。
その瞬間、ルシアンの表情がわずかに歪んだ。
「その刺繍は、母が好んで使っていた紋様だ」
「青い小鳥、ですか」
ルシアンの目が鋭くなる。
「なぜ色を知っている」
「先ほど、石の中の女性が言いました。『あの子を守って。私の、小さな青い鳥を』と」
ルシアンの呼吸が止まった。
ほんの一瞬だったが、セラフィナには分かった。
彼はすぐに表情を戻したものの、握られた右手の指が白くなっている。
「……別室へ行く」
それ以上、広間で話すつもりはないらしい。
案内されたのは、夜会場に隣接する小さな応接室だった。オスカーとミレイユは別の部屋で事情を聞かれることになり、ここへ入ったのはセラフィナとルシアン、そして側近のノアだけである。
扉が閉まるなり、ルシアンは座ることもせずに尋ねた。
「もう一度、母の声を聞くことはできるか」
「分かりません」
「できるのか、できないのかを聞いている」
「ですから、分からないのです。石に残る声は、こちらの都合で話してくれる亡霊ではありません。一度しか聞こえないこともありますし、同じ言葉を繰り返すこともあります。加工の状態や、石が受けた熱によっても変わります」
「ならば、今すぐ試せ」
命令する声だった。
セラフィナの胸に、苛立ちが湧いた。
婚約を破棄されたばかりの自分に同情してほしいとは思わない。だが、皇太子だからといって、こちらの能力も気持ちも好きに扱ってよいわけではない。
「お断りいたします」
「何?」
「殿下は今、お母様の声を聞きたいだけです。指輪の状態も、わたしの負担も考えておられません」
「君に何の負担がある」
「強い残響を聞いた後は、現在の音を聞き分けにくくなることがあります。今も、殿下の声の後ろで、広間の音楽が繰り返し聞こえています。もう演奏は止まっているのに」
「それを先に言え」
「言う前に命令なさいました」
「私は――」
ルシアンは反論しかけ、言葉を飲み込んだ。
ノアが壁際から口を挟む。
「殿下。今のところは、リード伯爵令嬢のおっしゃるとおりかと」
「お前はどちらの側だ」
「殿下の側です。ですから、殿下が悲しみのあまり、初対面の女性へ無理強いしたという記録を残したくありません」
「記録しているのか」
「仕事ですので」
ルシアンは深く息を吐き、ようやく椅子へ腰を下ろした。
「……悪かった」
セラフィナは耳を疑った。
「今、謝罪なさいましたか」
「二度は言わない」
「聞き間違いかもしれませんので、もう一度お願いいたします」
「君は意外と性格が悪いな」
「先ほど婚約者にも似たようなことを言われました」
「そうか。では、あの男の意見にも一理あったのだろう」
「謝罪を撤回なさるのでしたら、わたしは帰ります」
立ち上がろうとすると、ルシアンが片手を上げた。
「待て。私が悪かった。これでいいか」
「最初よりずいぶん雑になりましたが、受け取ります」
ノアが今度こそ小さく笑った。
ルシアンは彼を睨んだ後、セラフィナへ向き直る。
「母が私を『青い鳥』と呼んでいたことは、ほとんど誰も知らない。幼い頃、私は雷を怖がって、母の部屋へ逃げ込んでいた。そのとき着ていた寝間着が青かったから、そう呼ばれた」
「かわいらしいお話ですね」
「忘れろ」
「難しい注文です」
「命令だ」
「人の記憶は命令では消せません。宝石の記憶も同じです」
ルシアンは不機嫌そうに黙り込んだ。
しかし、その目から先ほどまでの疑いは薄れている。
「問題の指輪は、母が死の直前まで身につけていたものだ。死後、王家の最奥にある星冠庫へ納められた。それが半年後に偽物と入れ替わっていることが判明した」
「星冠庫へ出入りできた方は?」
「王族と、王族との婚姻が正式に認められた者だけだ。宝物庫を管理する官吏でさえ、外側の扉までしか入れない」
「では、ベルモント家の方が簡単に盗めるものではありませんね」
「ああ。だからこそ、君の力が必要だ」
「指輪を調べることでしたら、ここでもできます」
「指輪だけではない。星冠庫には、母が残した首飾りや王冠、耳飾りが保管されている。それらにも声が残っている可能性があるのだろう」
セラフィナは答えず、手巾に包んだ指輪を見た。
亡き王妃の最期。
王家の宝物庫から盗まれた国宝。
その国宝を婚約指輪として渡したベルモント家。
関わらないほうがよい。どう考えても、自分のような没落伯爵家の令嬢が首を突っ込んでよい話ではなかった。
「お断りします」
「そう言うと思った」
「では、なぜお話しになったのですか」
「断れない条件を用意するためだ」
嫌な予感がした。
ルシアンは机の上で指を組み、政治の話でもするような冷静な声で告げた。
「星冠庫の内側へ入れるのは、王族と、その正式な婚約者だけだ」
「……まさか」
「セラフィナ・リード」
その青い目に、甘さも照れもなかった。
あるのは母の死を追い続けてきた男の、息苦しいほどの執念だけだった。
「三か月でいい。私の婚約者になれ」




