第1話 返した指輪が泣いた
「セラフィナ・リード。君との婚約を破棄する」
楽団がちょうど一曲を奏で終えたところだった。
最後の弦の余韻が消えるのを待っていたかのように、オスカー・ベルモントの声が夜会の広間へ響き渡る。
あまりにもよく通る声だったので、誰かが落とした銀の匙の音まで、ひどく場違いに聞こえた。
セラフィナは瞬きを忘れたまま、五歩ほど離れた場所に立つ婚約者を見つめた。濃紺の礼装を身につけたオスカーは、緊張しているのか、胸元の飾り布を何度も指先で直している。
その隣には、淡い桃色のドレスをまとったミレイユ・ローデンがいた。
華やかな栗色の髪も、困ったように伏せられた大きな瞳も、今夜の彼女にはよく似合っている。少なくとも、宝石を磨くための灰色の粉を落とし切れず、爪の間をわずかに黒くしている自分よりは、よほど夜会にふさわしかった。
「……理由を伺ってもよろしいでしょうか」
自分でも驚くほど、平坦な声が出た。
泣かなかったのは強いからではない。こんなところで泣けば、オスカーが安心するような気がしただけだ。
予想外の反応だったのか、オスカーは一度唇を結んでから、少しだけ声を強めた。
「君は、いつもそうだな。まず理由を聞く。誰が悪いのか、何が問題なのか、順番に並べて、最後にはまるで帳簿を締めるように結論を出す。婚約というのは仕事ではないんだ、セラフィナ。人と人との結びつきなんだよ」
「ええ。ですから、その結びつきを終わらせたい理由を伺っています」
「そういうところだと言っているんだ!」
オスカーの声に、周囲から小さなどよめきが上がった。彼自身も思った以上に大きな声が出たことに驚いたらしく、一瞬だけ顔をこわばらせる。それでも、ここまで観客を集めておいて引き下がることはできなかったのだろう。
「君は冷たい。僕が贈った首飾りを見ても、きれいだとは言わず、留め金の強度が足りないと言った。母上が君のために開いた茶会にも来なかった。僕が仕事の相談をしても、不正確な数字では判断できないと突き放した。僕は……僕は、君といると、いつも試験を受けているような気分になるんだ」
「首飾りは、そのまま使えば落ちました。茶会の日には、ベルモント家から依頼された王冠飾りの修復期限が迫っていました。仕事の相談については、数字を三度変えたのはオスカー様です」
「ほら、まただ。どうして一つ一つ言い返さなければ気が済まない」
「言い返しているのではなく、違っているところを訂正しています」
「それを言い返していると言うんだ!」
今度こそ、誰も声を上げなかった。
セラフィナには理解できなかった。間違っていることを間違ったままにしておけば、二人の関係は円満だったのだろうか。それとも、気づいていないふりをして笑うことが、オスカーの望んでいた愛情だったのだろうか。
分からない。
けれど、尋ねたところで、今の彼は自分に都合のよい答えしか返さないだろう。
オスカーは隣のミレイユへ目を向けた。その表情がふっと柔らかくなるのを見て、セラフィナの胸に遅れて痛みが差し込んだ。
「ああ、彼女は違う。ミレイユは僕が失敗しても笑って許してくれる。疲れているときには、大丈夫ですかと聞いてくれる。君のように、原因は何ですか、いつまでに直せますか、などとは言わない。僕が欲しかったのは正しい答えじゃない。僕を受け入れてくれる人だったんだ」
「オスカー様」
ミレイユが小さく袖を引いた。
「わたくし、こんなふうに皆様の前でお話しなさるとは聞いておりませんでした。セラフィナ様とは、もう両家でお話が済んでいると……」
「君は黙っていてくれ。これは僕とセラフィナの問題だ」
「ですが――」
「心配しなくていい。今夜ですべて終わる」
そう言われたミレイユは、困惑を残したまま口を閉じた。
彼女も何も知らなかったのかもしれない。あるいは、今になって知らなかったふりをしているだけかもしれない。
どちらでもよかった。
今のセラフィナには、人の言葉の裏側まで考えてやる余裕がなかった。
「一つだけ、聞かせてください」
セラフィナは、冷えていく指先をドレスの陰で握りしめた。
「どうして今夜なのですか。両家へ話を通し、正式な書面を交わすこともできたはずです。わざわざ夜会の最中に、これだけの方々を集めて宣言する必要がありましたか」
オスカーは目を逸らした。
ほんのわずかな沈黙だったが、それで十分だった。
「二人きりで話せば、君は僕の言葉を一つずつ記録して、翌日には分厚い書類を持ってくるだろう。父上も、君に言いくるめられるかもしれない。だから証人が必要だった。僕が自分の意志で婚約を破棄したと、皆の前ではっきりさせたかったんだ」
「なるほど」
セラフィナはうなずいた。
「つまり、わたしと話し合うのが怖かったのですね」
オスカーの顔が赤く染まった。
「違う!」
「では、話し合いを避けた理由を何と呼べばよろしいでしょう。わたしは言葉を扱うのが得意ではありませんので、適切な表現があれば教えてください」
「最後まで僕を馬鹿にするのか!」
「しておりません。わたしは今、とても傷ついています。けれど、傷ついた人間が必ず泣いたり叫んだりすると思われているのでしたら、それはオスカー様の思い込みです」
言い切った途端、喉の奥が焼けるように痛んだ。
本当は泣きたかった。
婚約を失ったからではない。
この人と暮らすつもりで考えた小さな家のこと。南向きの窓際に作業机を置き、オスカーが眩しがるから朝食の席には薄いカーテンを掛けようと、くだらないことまで書き込んだ間取り図のことを思い出してしまったからだ。
あの紙を、帰ったら捨てなければならない。
きっと捨てられない。
そんな自分がひどく惨めだった。
オスカーは何か言いかけたが、結局、差し出した手のひらを上へ向けただけだった。
「指輪を返してくれ」
セラフィナは左手へ視線を落とした。
中指にはめられた青い婚約指輪は、三年前にオスカーから贈られたものだった。ベルモント家に代々伝わる品だと聞かされていたが、不思議なことに産地も職人も分からない。
他人の宝石に残された声を、持ち主の許可なく聞かない。
それが宝石修復師としてセラフィナが自分に課している決まりだった。だからこの指輪についても、詳しく調べたことはなかった。
「早くしてくれ」
「分かっています。少し、きつくなっていて……」
指輪は、こんなときに限って抜けなかった。
引けば関節に引っかかり、ひねれば赤くなった皮膚が痛む。周囲の視線が指先へ集まっているのが分かった。誰かがこらえきれずに笑い、その笑いを咳でごまかした。
婚約を破棄されたうえ、指輪すらきれいに返せない。
あまりの間の悪さに、セラフィナ自身まで笑いたくなった。
「申し訳ありません。まさか、最後までわたしの指にしがみつくとは思いませんでした」
皮肉を言うと、オスカーはますます不機嫌になった。
「石にまで好かれていると言いたいのか」
「いいえ。宝石に人間の都合は分かりません」
ようやく指輪が外れた。
擦れた指の根元に、赤い輪が残っている。セラフィナはそれを隠すように手を握ると、もう片方の手に載せた指輪をオスカーへ差し出そうとした。
そのとき、青い石の奥で、細い光が揺れた。
セラフィナは動きを止めた。
傷ではない。
内部に六本の光が浮かぶ、古い星型の研磨。今では失われた王家の加工法だった。さらに石を支える台座の裏には、黒い封蝋のようなものが詰められている。
「オスカー様。この指輪は、本当にベルモント家に伝わるものですか」
「今度は何だ。返したくないから難癖をつけるつもりか」
「そうではありません。ただ、この加工は――」
セラフィナの親指が、台座の黒い欠片へ触れた。
ぱきり、と小さな音がする。
封じられていた何かが割れた。
次の瞬間、冷たい水へ頭ごと沈められたような感覚に襲われた。
遠いところで女が泣いている。
苦しそうな呼吸。床を引っかく爪。転がる金属の器。誰かが扉の向こうから名前を呼んでいる。
そして、消えかけた声が、はっきりとセラフィナの耳元で囁いた。
『お願い……ルシアンを、王冠に近づけないで』
セラフィナは息を呑んだ。
『あの子を守って。私の、小さな青い鳥を――』
指輪を落としかけ、慌てて両手で包み込む。
「ルシアンを……王冠に近づけないで」
無意識に、聞こえた言葉を繰り返していた。
広間の空気が変わった。
オスカーが眉をひそめる。
「何を言っているんだ。とうとうおかしくなったのか」
「違います。この石に、女の方の声が残っています。とても苦しそうで……ルシアンという方を守ってほしいと――」
「もうやめろ。皆が見ているんだぞ」
「だから、わたしは最初から皆様の前で話すべきではないと申し上げたのです」
「そういう話をしているんじゃない!」
オスカーが指輪を奪おうと手を伸ばした。
だが、その手がセラフィナへ届くより先に、低い声が広間を切り裂いた。
「触るな」
人々が一斉に道を空けた。
黒い礼装の上から濃紺の外套を羽織った青年が、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。胸元に輝く銀の紋章を見た途端、オスカーの顔から血の気が引いた。
セラフィナも、肖像画でしか見たことのないその顔を知っていた。
冷徹皇太子、ルシアン・ヴァルハルト。
彼はオスカーには目もくれず、セラフィナの手の中にある指輪を見つめていた。普段は氷のようだと噂される青い瞳が、今は隠しきれない動揺に揺れている。
「殿下、これは、その……ベルモント家の品でして」
オスカーが震える声で弁明する。
ルシアンは静かに彼を見た。
「その指輪がベルモント家のものだと、誰から聞いた」
「父です。代々、我が家に伝わる婚約指輪だと」
「そうか。ならば、君の父親には王宮で詳しく話を聞く必要がある」
「な、なぜでしょうか」
「その青玉は、八年前に王家の宝物庫から失われたものだ」
広間が騒然となった。
ルシアンはセラフィナの前まで来ると、指輪ではなく、彼女の顔を真っすぐに見つめた。
近くで見る彼は、肖像画よりずっと疲れて見えた。目の下にはわずかな影があり、固く結ばれた唇は、何かを恐れているようにも見える。
「セラフィナ・リード」
初めて呼ばれた自分の名前が、なぜか叱責より重く響いた。
「今の言葉を、どこで聞いた」
セラフィナは指輪を握りしめた。
青い石の奥で、亡き王妃の泣き声が、もう一度かすかに震えた。




