第10話 国王を毒殺しかけた指輪には、元婚約者の家紋が刻まれていました
「父上、目を開けてください」
ルシアンが国王の頬を叩く。返事はなく、呼吸も浅い。
セラフィナは印章指輪をハンカチで包み、工具袋へ入れた。指輪の台座から漂う甘い匂いは弱いが、長期間身につければ身体を蝕む量になるのだろう。
「ここを出ます。陛下をいつもの寝室へ戻してはいけません」
「理由は?」
「毒を盛っている人間が、毎晩陛下のそばへ出入りしています。寝室へ戻せば、今度こそ確実に口を塞がれます」
「だが、侍医に診せなければ――」
「その侍医が味方だという証拠はありますか」
ルシアンの顔が強張った。
セラフィナは言い過ぎたかと思ったが、今は遠慮している場合ではない。
「疑い始めれば、誰も信用できなくなることはわかっています。でも、陛下の食事、薬、衣服、指輪に触れられる人間は限られている。誰か一人だけの犯行ではありません。王宮の中に、毒を運ぶ人、指輪へ細工する人、異変を見逃す人がいるんです」
「では、誰に診せる」
「殿下がご自分の命を預けられる方を。一人だけ選んでください。家柄でも役職でもなく、殿下自身が信用できる方です」
ルシアンは腕の中の父を見下ろした。
「私の侍医を呼ぶ。王宮へ来る前は北方軍にいた男だ。私が十四のころから、何度も傷を診てもらっている」
「秘密を守れますか」
「私が毒を飲まされていたとしても、犯人の前で普段どおり食事を続けろと言うような男だ」
「少し信用の仕方を間違えている気もしますが、今はその方にしましょう」
ルシアンは国王を抱き上げた。
病で痩せているとはいえ、成人男性一人の身体である。腕や肩へ相当な負担がかかっているはずなのに、ルシアンは顔色一つ変えなかった。
「おい、青い鳥」
ラピスが声を上げる。
「何だ」
「ラピスも行く」
「勝手についてこい」
「行けない」
ラピスは入口へ飛ぼうとしたが、見えない壁に鼻先をぶつけて床へ落ちた。
「痛い!」
星冠庫の結界は、王族と正式な婚約者以外を通さない。入るときには北壁に隠れていたため何も起こらなかったが、外へ出ようとすれば竜でも拒まれるらしい。
「置いていかないで」
鼻先を両前足で押さえたラピスが、恨めしそうに見上げてくる。
「八年も待った。もう一人は嫌だ」
先ほどまでの尊大な態度とは違う、心細い声だった。
セラフィナは屈み、手を差し出す。
「ラピス、こちらへ」
「外へ出られない」
「試してみましょう。一緒なら通れるかもしれません」
ラピスが掌へ乗る。思っていたより軽い。鱗に覆われているのに身体は温かく、掌の上で小さな心臓が忙しなく動いていた。
セラフィナが入口へ近づくと、今度は彼女の指輪が熱を持った。
青白い膜がラピスの身体を押し返そうとする。
ルシアンが立ち止まり、王家の紋章へ声を向けた。
「星冠庫の竜ラピスを、王妃殺害事件の証人として皇太子の保護下へ置く。王家の客人として、退出を許可する」
結界の光が一度だけ強く瞬き、消えた。
ラピスは恐る恐る前足を伸ばした。何にもぶつからないことを確かめると、セラフィナの肩へ駆け上がる。
「出た」
「よかったですね」
「青い石を三つくれるって約束した」
「そういうことは忘れないんですね」
「嫌なことと、もらえるものは忘れない。忘れたら人間に損させられる」
「誰に教わったんですか」
「エリーゼ」
母らしい教えではあった。
◇
「これは、どういう状況でしょうか」
星冠庫の外で待っていたノアは、意識のない国王を抱えたルシアン、工具袋を握るセラフィナ、その肩に乗った小さな竜を順番に見た。
「説明すると長い」
「一時間も経っていないのに、どうして陛下の容体が悪化し、存在しないはずの竜が増えているんですか」
「父上は毒を盛られていた。私の侍医を呼べ。表向きは私が剣の稽古で怪我をしたことにしろ」
「陛下をどちらへ?」
「皇太子宮の私の寝室だ」
「殿下の寝室へ国王陛下を運び込み、殿下が怪我をしたことにするのですね。そろそろ私一人の嘘で収めるには無理があると思いますが、努力はします」
「王宮の侍医には知らせないでください」
セラフィナが続ける。
「陛下の印章指輪に、夜星膠を使った細工がありました。毒はそこから入れられた可能性があります」
ノアの顔から、完全に冗談が消えた。
「承知しました。殿下の侍医には、裏口から入ってもらいます。マルタにも知らせましょう」
「侍女長に何ができる」
「陛下の血を見て大騒ぎしない人間が必要です。少なくともマルタなら、国王が絨毯へ血を吐いても、先に絨毯の染みを心配します」
「それはそれで問題があるのでは?」
「騒がれるよりはましです」
彼らは人目を避け、使用人用の通路を通って皇太子宮へ戻った。
ルシアンの寝室へ入ると、ノアの予想どおり、マルタは国王の姿を見ても叫ばなかった。
「そちらの長椅子へ。寝台は駄目です」
「なぜだ」
「殿下は昨日からほとんど眠っていないでしょう。陛下に寝台を占領されたら、また椅子で寝るつもりですか。病人は長椅子で十分です」
「国王だぞ」
「毒は身分を見て効き方を変えたりしません。こちらでございます、陛下」
意識のない国王へまで丁寧に声をかけながら、マルタは枕と毛布を整えた。
「水と清潔な布を。それから牛乳、卵の白身、木炭を砕いたものを用意してください」
セラフィナが頼むと、マルタは理由を尋ねず動いた。
遅れて駆けつけたルシアンの侍医は、小柄で白髪交じりの男だった。国王の瞼を上げ、脈を取り、指先と舌の色を確かめる。
「ずいぶん長く盛られておりますな」
「助かるのか」
「私が診る前から助からないと決めつけないでいただきたい。殿下は昔から、患者の横で最悪の質問をする癖がある」
「可能性を聞いている」
「今夜を越えれば。ただし、何の毒かわからなければ処置を間違える可能性があります。指輪に仕掛けがあったと?」
「こちらです」
セラフィナはハンカチに包んだ印章指輪を机へ置いた。
「毒物が残っているかもしれません。素手では触れないでください」
「あなたは調べられるか」
「宝飾品としてなら。ただ、分解すれば元に戻せない可能性があります」
ルシアンは迷わなかった。
「壊して構わない」
「ですが、王位を示す印章指輪ですよ」
「父上の命より大切な指輪などない。必要なら新しく作る」
「……わかりました」
セラフィナは工具袋から小さな固定台を取り出した。
指輪を挟み、拡大鏡を目へ当てる。赤い石を留める爪は一見すると正常だったが、一つだけ角度が違っていた。
「ここが開閉口です。石を外すための爪ではなく、内部へ薬を入れるための蓋になっています」
「指輪へ毒を入れ、どうやって陛下の身体に?」
「内側を見ます」
細い針を爪の隙間へ差し込み、ゆっくり持ち上げる。
黒い夜星膠が粘りながら裂け、赤い石が台座から外れた。その下には小さな空洞があり、底へ乳白色の液体が残っている。
さらに、指輪の内側へ向かって髪の毛ほどの細い管が伸びていた。
「見てください。台座の裏に針があります」
「指へ刺していたのか」
「普段は台座の中へ引っ込んでいます。でも体温で金属が膨張すると、先端だけが出る仕組みです。夜のあいだ指輪へ薬を入れ、朝になって陛下が身につける。身体が温まるたび、少しずつ毒が皮膚から入る」
侍医が指輪に残った液体を細い硝子棒で採り、匂いを確かめた。
「灰銀毒ですな。銀鉱石を精製するときに出る有毒な泥から作られる。大量なら一日で死にますが、ごく少量なら食欲不振、咳、手足の痺れ。少しずつ身体を弱らせれば、確かに長患いに見えるでしょう」
「解毒できますか」
「すべてを取り除くことはできません。しかし、これ以上入れなければ回復は望めます。リード嬢が仕掛けを見つけなければ、あと半月も保たなかったでしょうな」
あと半月。
三か月後に予定されていた戴冠式が、何事もなく繰り上がるには十分な時期だった。
侍医が処置を始める横で、セラフィナは外した赤い石を布へ置いた。
「それ、食べていい?」
ラピスが机の端から顔を出す。
「駄目です。毒があります」
「赤いのは嫌い。でも中に言葉がある。たくさん入ってる」
「だから証拠なんです。食べたら怒りますよ」
「一口だけ」
「一口でも駄目です」
「半口」
「量の問題ではありません」
「ラピス、八年も一人で、お腹が空いて――」
「可哀想な顔をしても駄目です。あとで約束の青い石を渡します」
ラピスは頬を膨らませ、ルシアンを振り返った。
「青い鳥からも言って」
「証拠を食べるな」
「けちが二人。似てきた」
ルシアンとセラフィナは同時に顔を見合わせた。
「似ていません」
「似ていない」
「同時に言った」
「ラピス、あちらへ行きましょうね」
マルタが木炭の入った盆を置き、ラピスの胴をつかんだ。
「何をする! 離せ!」
「病人の部屋で騒ぐ子は外です」
「ラピスは竜! 子供じゃない!」
「食べ物の好き嫌いを言い、思いどおりにならなければ騒ぐのは子供です」
ラピスは反論できず、マルタに抱えられていった。
「……あの女は竜の扱いに慣れているのか」
「人間の子供と同じ扱いをしているだけだと思います」
国王が低く呻いた。
ルシアンがすぐそばへ膝をつく。
「父上、聞こえますか」
「近くで大声を出すな。頭に響く」
「意識を失っていた人間の第一声が文句ですか」
「おまえが子供のころ、熱を出して起きたときも最初に私の手が冷たいと文句を言った。似たようなものだろう」
「覚えていません」
「私も、今まで忘れていた」
国王は薄く目を開け、息子の顔をしばらく見ていた。
「大きくなったな」
「今さらですか」
「おまえが大きくなるところを見ないようにしていた。あの人に似ていくのが、つらかった」
ルシアンの表情が止まった。
「それを、息子本人へ言いますか」
「毒を抜かれているせいか、余計なことまで口から出る」
「毒のせいにしないでください」
「そうだな。私が悪い」
「何でも認めればいいと思っていませんか?」
「では、今のは取り消す」
「取り消さなくて結構です」
面倒な親子である。
だが、八年間まともに口を利かなかった二人には、こうして不満をぶつけ合う時間が必要なのかもしれない。
「王冠を被るな」
国王がルシアンの袖をつかんだ。
「私が死んでも、あの王冠だけは被るな。王位を捨てても構わない」
「父上が死ぬことを前提に話さないでください」
「万一の話だ」
「その万一を遺言のように口にして、自分だけ安心するのはやめてください。言いたいことがあるなら、生きて回復してから何度でも言えばいい」
「おまえは昔から、私の言うことを聞かない」
「聞かないように育てたのは父上です」
国王は言い返そうとしたが、侍医に苦い薬を口へ流し込まれ、激しく咳き込んだ。
「話はあとです。陛下まで患者の自覚がないとは、親子というものは嫌なところばかり似る」
侍医に叱られ、国王とルシアンがそろって黙る。
セラフィナは少し笑いながら、分解した印章指輪へ目を戻した。
空洞の底には、まだ夜星膠が残っている。綺麗に剥がして証拠袋へ入れようとしたとき、黒い樹脂の下から小さな刻印が現れた。
釣鐘形の花を囲む、二本の蔓。
セラフィナの手が止まった。
「どうした」
ルシアンが尋ねる。
「この印を知っています」
「王宮宝飾局のものか?」
「いいえ。ベルモント家の工房印です」
かつて何度も通った、元婚約者の実家。
セラフィナ自身のために作られた婚約指輪にも、同じ印が刻まれていた。
「ベルモント家が、父上の指輪を細工したというのか」
「まだ断定はできません。工房印を真似た可能性もありますし、職人が知らないうちに指輪だけ持ち出されたのかもしれない。わたしはオスカーを庇いたいわけではありませんが、嫌いになった相手なら証拠もなく犯人にしていい、ということにはならないでしょう」
「まだ彼を嫌いになりきれていないのか」
ルシアンの声に、わずかな棘があった。
「七年も婚約していたんですよ。一晩で綺麗に嫌いになれたら、わたしだってそのほうが楽です。ただ、未練が残っていることと、無実だと決めつけることは別です」
「……余計なことを聞いた」
「本当に余計です」
「すまない」
「すぐ謝れば済むというものでもありません」
そう言いながらも、セラフィナは少しだけ彼の袖をつかんだ。
ルシアンはその指を見たが、何も言わなかった。
扉が開き、修理記録を調べていたノアが入ってきた。手には一冊の台帳を抱えている。
「残念ながら、工房印を真似た可能性は低くなりました」
「何がわかった」
「国王陛下の印章指輪は一月前、王宮宝飾局からベルモント工房へ修理に出されています。王家への納品記録には、修理後の指輪を持ち帰った人物の署名も残っていました」
ノアは台帳を開き、一つの名前を指で示した。
「オスカー・ベルモント。セラフィナ様との婚約を破棄した、あの方です」
青い指輪を王宮から持ち出した家。
王妃の声を封じる製法帳が盗まれたのと同じ時期に、国王の指輪を預かった家。
そして、毒の仕掛けられた指輪を王宮へ届けたのは、ほかでもないセラフィナの元婚約者だった。




