第11話 婚約破棄した元婚約者が、「ミレイユを助けてくれ」と頭を下げました
「オスカー・ベルモントを拘束する」
台帳に残された署名を確認したルシアンは、迷わずそう告げた。
「お待ちください」
「なぜ止める。国王を毒殺する仕掛けが施された指輪を、王宮へ運び込んだ男だぞ」
「だからこそです。今すぐ大勢の衛兵をベルモント家へ向かわせれば、本当の犯人にもこちらが気づいたと知られます。オスカーが何も知らないまま指輪を運んだだけなら、拘束する前に話を聞いたほうがいい」
「何も知らなければ、国王暗殺へ手を貸しても罪にならないと?」
「罪を決めるのは話を聞いたあとです。殿下は今、オスカーを捕まえたいのではなく、罰したいのではありませんか」
ルシアンの目が細くなった。
「君を傷つけた男だ。罰したいと思って何が悪い」
「悪いとは言いません。わたしも、少しは痛い目を見ればいいと思っています」
「少しでいいのか」
「そこへ食いつかないでください。わたしが言いたいのは、個人的な感情と国王暗殺の捜査を一緒にしてはいけないということです。オスカーが嫌いだから犯人に違いないと決めつけたら、犯人が別にいた場合、喜ばせるだけでしょう」
「君は随分と冷静だな」
「冷静ではありません」
セラフィナは、自分でも気づかないうちに握り締めていた両手を開いた。爪の跡が掌へ残っている。
「七年間一緒にいた人が、王妃様とお母様の死に関わっているかもしれないんです。婚約破棄をされたことだけでも、まだ気持ちの置き場所が決まっていないのに。怒ればいいのか、信じた自分を恥じればいいのか、それとも、何も知らなかった人であってほしいと願っていいのか……自分でもわかりません」
ルシアンは何かを言いかけたが、口を閉じた。
長椅子に横たわっている国王が、弱々しく手を上げる。
「その娘の言うとおりにしろ、ルシアン」
「父上は眠っていてください」
「寝ていても、おまえの不機嫌な声は聞こえる。私情で捜査を誤るな。もっとも、婚約者を傷つけた男を殴りたい気持ちはわからなくもないが」
「陛下まで話を複雑にしないでください」
セラフィナが注意すると、国王は素直に目を閉じた。
「ノア」
ルシアンは不満そうにしながら側近を呼ぶ。
「オスカー・ベルモントだけを、密かにここへ連れてこい。屋敷の監視はつけるが、まだ踏み込むな」
「承知しました。本人が逃げた場合は?」
「捕らえろ。ただし怪我はさせるな」
「ずいぶん譲歩なさいましたね」
「セラフィナに後から、必要のない怪我までさせたと責められたくない」
「わたしを理由に使わないでください」
「私が我慢している理由は君以外にない」
さらりと言われて、セラフィナは返事に困った。
ルシアンは時々、本人だけがその意味に気づかないまま、受け止める側が困るような言葉を口にする。
「青い鳥、顔が怖い」
マルタの腕から逃げてきたラピスが、寝台の柱へ止まった。
「いつも怖いけど、今はもっと怖い」
「おまえに言われたくない」
「セラフィナは、昔の男が好き?」
あまりに直接的な問いに、部屋の空気が止まった。
「誰にそんな言葉を教わったんですか」
「赤い石。昔、いっぱい聞いた。女が男に泣きながら聞いてた」
「今後、食べる石を選ばなければいけませんね」
ラピスは首を傾げ、ルシアンを見る。
「青い鳥も聞きたい顔」
「聞きたくない」
「嘘。すごく聞きたい匂いがする」
「感情に匂いなどない」
「ある。さっきから酸っぱい」
「ラピス」
セラフィナが声を低くすると、青い竜は翼で口元を隠した。
ルシアンはしばらく黙っていたが、やがてセラフィナへ視線を向ける。
「……答えなくていい」
「聞きたいんですか」
「答えなくていいと言った」
「聞きたいかどうかを聞いています」
「その質問へ答えると、聞きたいと認めることになるだろう」
「面倒な方ですね」
「君にだけは言われたくない」
セラフィナは困って、窓の外へ目を向けた。
「まだ好きなのかは、わかりません。ただ、戻りたいとは思っていません。それだけは、はっきりしています」
「そうか」
「それでいいんですか」
「今は十分だ」
ルシアンの表情はほとんど変わらなかったが、先ほどまで張り詰めていた肩から、わずかに力が抜けた。
「酸っぱい匂い、減った」
「ラピス。約束の藍玉を一つ減らしますよ」
「横暴!」
◇
オスカーが皇太子宮へ連れてこられたのは、それから一時間ほどあとのことだった。
舞踏会で見たときとは、まるで別人のようだった。
髪は乱れ、上着の釦も一つ掛け違えている。右の頬には殴られたような痣があり、唇の端も切れていた。
「その怪我はどうした」
ルシアンが尋ねる。
「父に殴られました」
「なぜだ」
「わかりません」
「わからないわけがないでしょう」
セラフィナが言うと、オスカーはようやく彼女を見た。
「セラフィナ……」
「今は名前を呼ばないでください。昔と同じ呼び方をされると、こちらも昔と同じように話さなければいけない気がして、気分が悪くなります」
「では、何と呼べばいい」
「リード伯爵令嬢で結構です」
「殿下の婚約者だろう」
「それを、あなたが気にする必要はありません」
オスカーは口を閉じた。
以前なら、ここでセラフィナが気まずさに耐えかね、話題を変えていただろう。彼が不機嫌になれば機嫌を取り、彼が言いにくそうにしていれば先回りして言葉を補った。
七年間、そうしてきた。
けれど今は、彼の沈黙まで面倒を見てやる義務はない。
「国王陛下の印章指輪を、ベルモント工房へ持ち込んだ記録がある」
ルシアンが台帳を机へ置いた。
「修理後、王宮へ届けたのはおまえだな」
「はい」
「指輪へ毒を仕込んだか」
「毒?」
オスカーは顔を上げた。
「何の話です。私は父に頼まれて、包みを王宮宝飾局へ運んだだけです。中身が陛下の指輪だということすら知らなかった」
「署名するときに確認しなかったのか」
「ベルモント工房からの納品は昔から何度もしています。父からは、王宮宝飾局へ渡せばわかると言われました。いつものことだと思って……」
「いつものことだと思えば、中身も確認せず署名するのか」
「そうです」
オスカーは自嘲するように笑った。
「私はいつもそうでした。父の言うことを聞いていれば、間違ったときも父のせいにできる。自分で決めたふりをしながら、何も決めていなかった」
「それで、婚約破棄もお父様に言われたからしたんですか」
セラフィナの問いに、オスカーはすぐ答えなかった。
「父は、君との婚約を解消しろと言った。王妃の指輪が表へ出れば、リード家も疑われる。君の母親が王家の宝石を盗み、その声を封じたことにすると脅された」
「お母様を犯罪者にすると?」
「ああ。私がミレイユと婚約すれば、指輪のことは処理すると言われた」
「だから、わたしを守るために婚約破棄をしたとでも言うつもりですか」
「違う」
オスカーは強く否定した。
「そんな立派な話ではない。父に逆らうのが怖かった。ミレイユに心が動いていたのも本当だ。彼女は私を褒めてくれた。何をしても君より劣っていると思わされる家ではなく、私を一番に見てくれる場所へ逃げたかった」
「わたしが、あなたを見下していたと?」
「君は見下していなかった。それが余計につらかった」
オスカーの声が震えた。
「君は何でもできた。工房の帳簿を直し、取引先の機嫌を取り、私が失敗すれば誰にも恥をかかせないよう後始末をした。君は一度も私を馬鹿にしなかった。でも私は、君が何も言わずに片づけるたび、自分が情けない男だと突きつけられている気がした」
「それは、わたしのせいですか」
「違う。私が勝手に劣等感を抱いていただけだ」
「それなら、相談してほしかった」
「できなかった。君に弱いところを見せたら、本当に捨てられると思っていた」
「だから先に捨てたんですか」
「……そうだ」
セラフィナは胸の奥に痛みを感じた。
恋しさではない。憎しみだけでもない。
自分たちは七年間も一緒にいたのに、互いに相手の前で都合のいい人間を演じていたのだ。セラフィナは物わかりのよい婚約者を演じ、オスカーは頼れる男を演じた。
どちらも苦しくなっていたのに、喧嘩をすることすらできなかった。
「舞踏会で、あんなふうに人前で言う必要はありませんでしたよね」
「父は、今日中に婚約破棄を公表しろと言っただけだ。君を皆の前で恥をかかせろとは言っていない」
「では、どうして?」
「格好をつけたかった」
オスカーは両手で顔を覆った。
「自分は父に命令されて婚約者を捨てる臆病者ではなく、真実の愛を選ぶ勇気のある男だと思いたかった。皆に祝福されれば、自分のしたことが正しいことになると思った。ミレイユには、君も婚約解消に同意していると嘘をついた」
「彼女は知らなかったんですね」
「知らなかった。舞踏会のあと、私は彼女に殴られた」
オスカーが右頬の痣へ触れる。
「その痣はミレイユ様が?」
「ああ。『わたしを人の婚約者を奪う女にした』と泣きながら怒られた。もう二度と顔を見たくないとも言われた」
「当然だな」
ルシアンが冷たく言った。
「殿下、今だけは否定できません」
オスカーは力なく頷いた。
「それで今朝、父にすべてを話そうとした。指輪のことも、君の能力のことも、私が知っていることを全部。そうしたら殴られて部屋へ閉じ込められた。窓から逃げてきたんだ」
「ミレイユ様はどこに?」
オスカーの顔から、わずかに残っていた血の気が引いた。
「わからない」
「先ほどから、そればかりですね」
「昨夜、彼女から手紙が届いたんだ。舞踏会のあと、私の父へ話を聞きに行ったらしい。そこで、父が誰かと話しているのを聞いたと書かれていた」
オスカーは胸元から、何度も折り直された紙を取り出した。
そこには震えた文字が並んでいる。
『あなたのお父様は、王様が長くても半月で亡くなると話していました。王冠を皇太子殿下に被せれば、八年前の続きを始められる、とも。わたしは何も知らなかった。セラフィナ様に謝らなければいけません』
文章は途中で途切れていた。
「この手紙を最後に、ミレイユはいなくなった」
「ご実家は?」
「戻っていない。父は知らないと言った。けれど、父の書斎に彼女の髪飾りが落ちていた」
オスカーは椅子を離れると、セラフィナの前で膝をついた。
「頼む。ミレイユを助けてくれ」
セラフィナは、すぐに返事をしなかった。
「よく、わたしに頼めますね」
「わかっている」
「わかっていません。あなたはわたしを皆の前で捨て、その直後に選んだ女性を助けるため、捨てた相手へ頭を下げているんですよ」
「ほかに頼れる人がいない」
「それも昔から変わりませんね。自分でどうにもできなくなると、最後はわたしが片づけてくれると思っている」
「……そうだ」
オスカーは床へ額がつきそうなほど頭を下げた。
「君が優しいからではない。君が、嫌いな相手でも見殺しにはできない人間だと知っているからだ。そこにつけ込んでいる。卑怯だと思う。でも、私はもう、ミレイユまで失いたくない」
「わたしを失ったとは思ってくれるんですね」
「失ってからわかった」
「そういう言葉は、もっと早く聞きたかったです」
「すまない」
「今の謝罪は受け取りません。受け取ったら、許さなければならない気がするので」
「それでもいい」
ラピスが突然、オスカーの肩へ飛びかかった。
「黒い!」
「何だ、こいつは!」
「動かないでください!」
ラピスは上着の裾へ噛みつき、布を引き裂いた。縫い目の内側から、小さな黒い石が床へ転がり落ちる。
「これは……私のものではない」
「お父様に殴られたとき、上着をつかまれませんでしたか」
「つかまれた。部屋へ押し込まれるときに」
「その際に縫い込まれたのでしょう。居場所を追うためか、会話を聞くための石かもしれません」
セラフィナはオスカーを見る。
「触れてもいいですか」
「何が聞こえても構わない。頼む」
手袋を外し、黒い石へ指先を触れた。
聞こえてきたのは、扉を閉める音だった。
『あの娘は聞きすぎた。地下工房へ入れておけ』
オスカーの父親と思われる男の声が続く。
『昼の鐘が鳴ったら、製法帳も娘もまとめて燃やせ。エリーゼ・リードのときと同じようにな』
セラフィナは石から手を離した。
「ミレイユ様は、ベルモント家の地下工房にいます」
オスカーが立ち上がる。
「昼の鐘まで、もう時間がない。地下工房は外から鍵を掛けられたら、中からは開かないんだ」
「秘密の入口は?」
ルシアンが尋ねた。
「温室の貯水槽から、研磨用の水路へ入れます。ただし、家の人間しか知らない」
「案内しろ」
「殿下、私も行きます」
セラフィナが言うと、ルシアンは即座に首を横へ振った。
「駄目だ」
「地下工房には、お母様の製法帳があります。石に残った声を確かめられるのはわたしだけです」
「犯人は君を殺そうとしている」
「ここにいれば安全だという保証もありません。それに、ミレイユ様はわたしへ謝ろうとして捕まったんです。自分だけ安全なところで待てません」
「君はいつもそうやって、自分が行かなければならない理由を見つける」
「殿下も人のことは言えません」
「だから困っている。止めても聞かない人間が二人になった」
ルシアンは苛立ったように髪をかき上げた。
「私のそばから離れるな。それが条件だ」
「わかりました」
「今度は本当に離れるな」
「殿下も一人で格好をつけないでください」
「わかっている」
「ラピスも行く」
「おまえは残れ」
「黒い石、たくさんある。青い石もあるかもしれない」
「完全に食べ物目当てではありませんか」
「ミレイユも助ける。ついでに」
「順番が逆です」
そのとき、王宮の遠くで正午を告げる鐘が鳴り始めた。
一度。
二度。
まだ昼ではない。最初の鐘は、正午まで半刻を知らせる予鈴だった。
それでも、残された時間はあまりに短い。
ルシアンが剣を取り、ノアへ命じる。
「国王陛下を頼む。私たちはベルモント邸へ向かう」
皇太子宮を出たところで、オスカーが足を止めた。
王都の西側に、一本の黒い煙が昇っている。
その方角にあるのは、ベルモント家の屋敷だった。
「父は、昼の鐘を待たなかった……」
元婚約者の家から立ち昇る煙を見つめながら、オスカーは掠れた声で呟いた。




