第12話 炎上する元婚約者の屋敷で、恋敵だった令嬢を助けに行きました
ベルモント邸へ向かう馬車の中で、オスカーは一言も話さなかった。
窓の外へ見える黒煙は、馬車が進むにつれて太くなっている。火の勢いが増している証拠だ。
「そんな顔をしていても、火は消えませんよ」
セラフィナが言うと、オスカーは膝の上で握っていた拳をさらに強くした。
「私のせいだ」
「今は誰のせいかを決める時間ではありません」
「私がミレイユを巻き込んだ。あの舞踏会で婚約破棄をしなければ、彼女は父のところへ行かなかった」
「わたしと婚約したままミレイユ様と付き合い続ければ、もっと面倒なことになっていました」
「付き合っていたわけでは――」
「そこを今、訂正するんですか?」
「……すまない」
「謝罪も反省も、ミレイユ様を助けたあとにしてください。自分を責めるのは、何かをした気分になれるので楽なんです。でも、責めているあいだは手が動かない。助けたいなら、役に立ってください」
「君は、いつも正しいな」
「そういう言い方は嫌いです」
セラフィナは即座に言い返した。
「正しい人間と間違った人間に分ければ、間違った側は考えなくて済みますものね。わたしだって怖いし、腹が立っています。あなたが本当に何も知らなかったのか、まだ完全には信じていません。それでも今は、あなたしか知らない道が必要だから一緒にいる。それだけです」
「そうだな」
「そこで傷ついた顔をされても困ります。わたしは今、あなたを慰める余裕がありません」
向かいに座るルシアンが、わずかに口元を緩めた。
「何がおかしいんですか」
「いや。君は私に対してだけ厳しいわけではないのだなと思った」
「殿下はご自分だけが特別に叱られていると思っていたんですか?」
「少し」
「妙なところで前向きですね」
ラピスがセラフィナの膝の上から顔を出した。
「青い鳥、嬉しい匂い」
「嬉しくない」
「セラフィナが昔の男を叱ると、嬉しい」
「黙れ」
「図星」
ルシアンがラピスの口を手で塞ごうとすると、竜はその指へ噛みついた。
「痛い」
「殿下、竜と本気で喧嘩をしないでください」
「喧嘩を売ったのはこいつだ」
「ラピスは本当のこと言っただけ」
「それを余計なことと言うんです」
緊張していたはずなのに、ほんの一瞬だけ空気が緩んだ。
けれど次の瞬間、馬車が大きく揺れて停止した。
「殿下、これ以上は近づけません!」
御者の声が飛ぶ。
窓の外には、ベルモント邸から逃げてきた使用人や近隣住民が溢れていた。水桶を抱えた者たちが行き交い、怒鳴り声と泣き声が重なっている。
燃えているのは本邸ではない。
屋敷の西側に建つ宝飾工房だった。
「地下工房は、あの建物の下です」
馬車を降りたオスカーの顔が青ざめる。
「正面の階段から入れば、火に囲まれる。温室へ回ってください」
ルシアンは同行した近衛兵へ指示を出した。
「消火を手伝え。ただしベルモント伯が見つかっても、この場で騒ぐな。逃げようとした場合のみ拘束しろ」
「御意!」
「セラフィナ、私のそばに」
「わかっています」
「本当にわかっているか?」
「三回目ですよ」
「君は三回言っても聞かないことがある」
「殿下もです」
「また始まった」
ラピスが呆れたように呟いた。
四人は人混みを避け、屋敷裏手の温室へ向かった。
◇
温室の中にも煙が入り込んでいた。
熱で硝子の一部が割れ、育てられていた花々が萎れている。オスカーは中央の貯水槽へ駆け寄ると、石造りの縁へ手を入れた。
「ここに仕掛けがあります。子供のころ、父の説教から逃げるために見つけました」
「見つけたのに、お父様へ報告しなかったんですか」
「報告したら逃げ道に使えないだろう」
「昔から、逃げ道を見つけることだけは得意だったんですね」
「……今は否定できない」
石板が横へずれ、貯水槽の下に人一人が通れる穴が現れた。冷たい水が足首ほどの深さで流れている。
「この水路は地下工房の研磨台へ繋がっています」
「先に私が行く」
ルシアンが穴へ足を掛ける。
「殿下が先頭では、道を知らないでしょう」
「オスカーを先に行かせ、罠があったらどうする」
「私が罠を仕掛けると思っているんですか」
「まだ完全には信用していない。セラフィナも同じことを言ったはずだ」
オスカーは一瞬だけ顔を歪めたが、反論しなかった。
「では私が先頭、その後ろに殿下、セラフィナ、オスカーの順で行く」
ラピスが穴の中へ飛び込む。
「どうしておまえが仕切る」
「竜は暗いところ見える。人間より役に立つ」
「勝手に遠くへ行かないでくださいよ」
「青い石があったら?」
「拾わずに報告してください」
「難しい命令」
水路は狭く、腰を屈めなければ進めなかった。
足元を流れる水は次第に温くなり、天井からは細かい煤が落ちてくる。奥へ進むほど煙が濃くなり、濡らした布で口元を覆っていても喉が痛んだ。
「もうすぐです」
最後尾のオスカーが言う。
「この先に鉄格子があります。その向こうが地下工房です」
「鍵は?」
「昔はありませんでした」
「今もないといいですね」
だが、願いは届かなかった。
水路の出口には頑丈な鉄格子が下ろされ、中央に赤い石のついた錠が嵌められていた。向こう側では炎が壁を這い、棚や木箱を次々と燃やしている。
「ミレイユ!」
オスカーが格子をつかんで叫んだ。
「いるなら返事をしてくれ!」
炎の音に紛れ、かすかな咳が聞こえた。
「……オスカー?」
「ミレイユ!」
「どうして来たの……」
「助けに来た。今、ここを開ける」
「無理よ。お父様が鍵を持っていったわ。早く逃げて。天井も、もう保たない」
「君を置いて逃げられるわけがないだろう!」
「そういう格好のいいことを言うのは、皆の前でセラフィナ様を傷つける前にしてほしかったわ!」
火事の最中とは思えないほど強い声が返ってきた。
「それは、本当にすまなかった!」
「今、謝るの?」
「いつ謝っても遅いと言われるんだから、もう今しかないだろう!」
「そういうところよ! あなたはいつも、謝った自分が許された気分になって、相手が何を感じているかを待たないの!」
オスカーが鉄格子へ額を押しつけた。
「わかっている。いや、本当はまだ、全部はわかっていないのかもしれない。助けたから許してくれとも言わない。婚約してくれとも言わない。ただ、君が生きて外へ出て、そのあと好きなだけ私を嫌ってくれればいい!」
「……馬鹿」
ミレイユの声が、わずかに震えた。
「わたしは、あなたを嫌いになりきれないから怒っているのよ」
セラフィナは錠へ手を伸ばしかけ、止めた。
これは聞いてはいけない会話だったのかもしれない。しかし逃げ場のない水路では、聞こえないふりをするにも限界がある。
「お二人とも、続きは外でお願いします」
「セラフィナ様?」
「はい。助けに来ました」
「どうして……」
「それは外へ出てからお話しします。今から錠を調べますので、ミレイユ様はなるべく姿勢を低くして、口元を布で覆ってください」
「待ってください。わたしを助けるために、セラフィナ様まで危険な場所へ来る必要はありません。わたしは知らなかったとはいえ、あなたの婚約者を――」
「謝罪も言い訳も、死にかけているときにしないでください」
セラフィナは自分でも驚くほど強い声を出していた。
「亡くなる前に謝れば、自分だけは少し楽になれるでしょう。でも残された側は、返事もできないまま一生抱えることになるんです。わたしはそういう謝罪を、もう母一人分抱えています。ミレイユ様の分まで持たされるのは嫌です。話したいことがあるなら、生きて出てきてください」
格子の向こうから、すすり泣く音が聞こえた。
「……はい」
「いいお返事です。では、少し待ってください」
セラフィナは錠の赤い石を観察した。炎を反射しているのではない。石そのものの内側で、赤い光が脈を打っている。
「これは、火を強める術式石です。無理に壊すと爆発する可能性があります」
「解除できるか」
「道具が足りません。工房にある研磨器具を使えれば可能ですが、格子の向こうです」
「ラピスが食べる」
青い竜が赤い石へ鼻を近づけた。
「赤い石は嫌いだと言っていたでしょう」
「嫌い。でも食べられる」
「術式が入っています。何が起きるかわかりませんよ」
「食べたら格子、開く?」
「おそらく。ただし、身体に悪いかもしれません」
ラピスは赤い石を見つめ、それから格子の向こうのミレイユを見た。
「青い石、何個?」
「今、交渉するんですか」
「嫌いなもの食べる。ご褒美いる」
「五個です」
「十個」
「六個」
「八個」
「七個。それ以上は出せません」
「大きいの」
「傷物ですよ」
「約束」
「約束します」
ラピスは満足そうに頷くと、錠へ噛みついた。
赤い石にひびが入り、炎のような光がラピスの口から漏れ出す。竜の身体が一瞬膨らみ、両目まで真っ赤に光った。
「辛い!」
「吐いてください!」
「吐いたら石も出る! もったいない!」
「命と石のどちらが大切なんですか!」
「石!」
「馬鹿が増えた」
ルシアンがラピスの胴をつかみ、格子から引き離した。
赤い石が砕けた途端、炎の勢いが弱まった。鉄格子を閉じていた仕掛けから重い音がして、扉がわずかに開く。
「通れる」
ルシアンが隙間へ肩を入れ、力任せに押し広げた。
「私がミレイユを連れてくる。二人はここで待て」
「わたしも行きます」
「聞いていなかったのか」
「製法帳を探さなければ」
「命と帳面のどちらが大切だ」
「どちらも大切です。製法帳がなければ、次は誰が毒を盛られるかわかりません」
「君はラピスを馬鹿と言えないな」
「言ってません。殿下が言ったんです」
ルシアンは何か言いたそうだったが、天井から燃えた木片が落ちてきたため、諦めて格子をくぐった。
「絶対に私から離れるな」
「はい」
地下工房の奥で、ミレイユは作業台の脚へ鎖で繋がれていた。
ドレスの裾は焦げ、顔は煤で汚れている。オスカーが駆け寄ると、彼女は泣きながらも、差し出された手をすぐには取らなかった。
「助けに来てくれたことには感謝するわ。でも、これで全部許されたと思わないで」
「思わない」
「セラフィナ様へしたことも、わたしへ嘘をついていたことも、きちんと話し合うから」
「ああ」
「途中で逃げないで」
「逃げない」
「今の返事、覚えておくからね」
「何度でも言ってくれ」
オスカーが鎖の錠へ手を伸ばす。しかし鍵穴には火で熱せられた金属が詰め込まれ、素手では触れられない。
「退け」
ルシアンが剣を振り下ろした。
一度では切れなかった鎖が、二度目で弾ける。
「立てますか」
セラフィナが手を貸すと、ミレイユはその手を見つめた。
「わたしは、あなたの婚約がすでに解消されていると、本当にそう聞いていました」
「オスカーからですね」
「はい。でも、信じたいと思ったのもわたしです。確かめようと思えば、あなたへ手紙を送ることもできた。知らなかったから何も悪くないとは、言えません」
「そうですね。わたしも、何も知らなかったあなたを一方的に憎むところでした」
「憎んで当然です」
「当然だと言われると困ります。わたしはあなたを憎みたいのか、謝ってほしいのか、自分でもまだわかりません」
セラフィナはミレイユの手を強く握った。
「だから、生きて帰ってから、面倒な話をしましょう」
「……はい」
ミレイユは泣きながら頷いた。
「製法帳は?」
「ここです」
彼女は胸元から、煤けた革張りの帳面を取り出した。
「ベルモント伯が、火をつける前に燃やそうとしていました。隙を見て奪って、水桶の中へ隠したんです」
「よく無事でしたね」
「無事ではありません。何度も見つかりそうになって、死ぬほど怖かったです。物語の令嬢なら、もう少し勇敢に振る舞えるのでしょうけれど……わたし、怖くて、ずっと泣いていました」
「泣きながらでも、帳面を守ったのでしょう。それは十分、勇敢です」
そのとき、天井から大きな音がした。
燃えた梁が落ちてくる。
「伏せろ!」
ルシアンがセラフィナを抱き寄せ、床へ倒れ込んだ。直後、二人が立っていた場所へ太い梁が落下する。
「殿下!」
「怪我はない」
「肩から血が出ています!」
「かすっただけだ。それより出口へ戻る」
煙が急速に濃くなっていた。弱まったとはいえ、火そのものが消えたわけではない。
オスカーがミレイユを背負い、先に水路へ入る。セラフィナも続こうとしたが、ルシアンの歩みが遅いことに気づいた。
「殿下、腕を」
「必要ない」
「必要です。わたしの肩を使ってください」
「君に私の体重をかければ、二人とも動けなくなる」
「そうやって、すぐ自分だけ我慢するのをやめてください。支えられる側にも役割をください」
ルシアンは悔しそうに眉を寄せたあと、セラフィナの肩へ腕を回した。
「重ければ言え」
「かなり重いです」
「……少しは遠慮しろ」
「嘘をついて、殿下が全部預けてきたら潰れます。重いけれど、歩けます。一緒に行きましょう」
「ああ」
二人は互いの身体を支えながら、鉄格子を越えた。
最後にラピスが飛び込んだ直後、地下工房の天井が崩れ落ちる。熱風が水路へ流れ込み、四人は咳き込みながら出口を目指した。
◇
温室から外へ出たとき、セラフィナは初めて、自分の足が震えていることに気づいた。
近衛兵が駆け寄り、ミレイユと負傷したルシアンを引き受ける。
オスカーは地面へ膝をついたまま、背負っていたミレイユの手を離せずにいた。
「オスカー」
「何だ」
「わたしは、あなたとすぐに婚約するつもりはないわ」
「ああ」
「もしかしたら、二度としないかもしれない」
「それでもいい」
「よくないでしょう」
「よくはない。でも、私が嫌だと言える立場でもない。君が生きていてくれれば、今はそれでいい」
「今だけ立派なことを言っても、あとで忘れたら許さないから」
「紙に書いておく」
「自分で覚えていて」
ミレイユは泣きながら、オスカーの肩へ額をつけた。
許したわけではない。
それでも完全に突き放すこともできない。
人の感情は、火事のあとの帳簿のように、燃えたものと残ったものを簡単に分けられないのだろう。
「セラフィナ」
ルシアンが呼んだ。
負傷した肩へ布を当てられているのに、彼はセラフィナの姿を確認するまで落ち着かないようだった。
「ここにいます」
「怪我は?」
「ありません。殿下が庇ってくれましたから」
「そうか」
「でも、今後はご自分の怪我も数に入れてください」
「努力する」
「努力では困ります」
セラフィナは彼のそばへ座り、煤で汚れた手を握った。
今度は許可を尋ねなかったのは、セラフィナのほうだった。
ルシアンは少し驚いた顔をしたものの、その手を握り返した。
「ラピス、少し気持ち悪い」
赤い石を食べた竜が、セラフィナの膝へ落ちてきた。
「だから吐きなさいと言ったでしょう」
「吐かない。七個もらう」
「きちんと診てもらってからです」
「竜を診られる医者、いる?」
「ノアに探してもらいましょう」
「何でもノア」
「気の毒な男だな」
ルシアンの言葉に、セラフィナは初めて声を出して笑った。
だが、その笑いは長く続かなかった。
ミレイユから受け取った製法帳の間から、一枚の紙が滑り落ちたからだ。
火で縁が焦げているものの、中央の文字は読める。
夜星膠の改良記録。その末尾に、製法帳を持ち出した者の署名が残されていた。
「ギデオン・クロウ……」
セラフィナは、その名前を知っていた。
八年前まで、母エリーゼのもとで働いていた職人。
火事の一週間前に工房を辞め、現在は王室宝飾局の副局長を務めている男だった。
「この方が、お母様の製法帳を?」
「いいえ。この署名は八年前のものです」
セラフィナの指先が震える。
「お母様が亡くなる前に、ギデオンはすでに夜星膠の改良を依頼されていた。つまり彼は、最近盗まれた製法帳で作り方を知ったのではありません」
父が唯一の生存者だと思っていた、夜星膠の製法。
それを知る人間は、もう一人いた。
王妃と母が殺された八年前から、ずっと王宮の中に。




