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『婚約破棄されて返した指輪から、亡き王妃の声が聞こえます ~石の記憶を読む地味令嬢、冷徹皇太子の偽婚約者になりました~』  作者: 極楽鳥


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第13話 傷だらけの皇太子に、「三か月後も君を帰したくない」と言われました

 皇太子宮へ戻った途端、セラフィナたちは揃ってマルタに叱られた。


「国王陛下を毒殺からお救いしたと思えば、今度は火事場へ飛び込んで帰ってくる。殿下は一日一回、命を危険へ晒さなければ眠れない病気にでもかかっているのですか」


「セラフィナが行くと言った」


「婚約者へ責任を押しつけるのはおやめください。殿下が止めても聞かないことくらい、昨日の時点でわかっていたでしょう」


「止めても聞かないなら、私にどうしろと?」


「殿下ご自身も一緒になって飛び込まず、もう少し賢い方法をお考えください」


「時間がなかった」


「時間がないときほど、人間は普段の賢さが出るものです」


「それは私が普段から賢くないと言っているのか」


「さあ、どうでしょう」


 マルタは答えず、傷を確認するためルシアンの上着を脱がせた。


 右肩には梁の角がかすった切り傷があり、血でシャツが肌へ貼りついている。骨に異常はないようだが、傷口には煤や細かな木片が入り込んでいた。


「侍医はまだ陛下の治療中です。セラフィナ様、傷の洗浄をお願いできますか。わたくしはミレイユ様を着替えさせてまいります」


「わたしでよければ」


「待て。なぜセラフィナがする」


「工具で指を切ることもあるので、簡単な手当てには慣れています」


「そういう問題ではない」


「では、どういう問題です?」


 ルシアンが口を閉じる。


 すでにシャツを半分脱がされていることを気にしているらしい。


「恥ずかしいんですか」


「恥ずかしくはない」


「では、構いませんね」


「君は、私がほかの女性に傷の手当てをされても平気なのか」


「どうして話がそちらへ行くんですか」


「比較しなければ、私だけが気にしているようで不公平だ」


「殿下は時々、負けず嫌いになる場所を間違えますよね」


 マルタが呆れたように息を吐いた。


「この程度のやり取りができるなら、死ぬ心配はなさそうですね。セラフィナ様、あとはお願いいたします」


 マルタが部屋を出ると、急に静かになった。


 長椅子の端ではラピスが毛布に包まれ、食べた赤い術式石を消化しようと唸っている。国王は隣の部屋で侍医の治療を受け、ミレイユとオスカーも別室へ移されていた。


 つい先ほどまで大勢に囲まれていたのに、この部屋にいる人間は二人だけだ。


「腕を上げてください」


 セラフィナは湯を張った盆へ布を浸した。


「自分でできる」


「背中側の傷が見えるんですか」


「鏡を使えばいい」


「鏡を見ながら、利き手と逆の手で傷口の木片を取るつもりですか。できると言い張るのは自由ですが、失敗した場合、後始末をするのはわたしです」


「君はオスカーにも、同じように手当てをしたのか」


「ありますよ。乗馬中に落ちて肘を擦りむいたときや、工房の棚へ頭をぶつけたときに」


 ルシアンの表情が不機嫌になる。


「今、聞いたことを後悔した」


「自分から聞いたんでしょう」


「七年という時間は長いな」


「そうですね。なかったことにはできません」


 セラフィナはルシアンの背後へ回り、傷口へ濡らした布を当てた。


 彼の肩がわずかに動く。


「痛いですか」


「問題ない」


「問題があるかどうかを決めるのは、手当てをしているわたしです。痛いなら痛いと言ってください」


「少し痛い」


「それでいいんです」


「よくはないだろう」


「我慢して傷を悪化させるよりは、ずっといいです」


 煤を拭い、傷へ入り込んだ木片を一つずつ取り除く。火傷になっている部分へ薬を塗ると、ルシアンが小さく息を吸った。


「やはり痛いんですね」


「少しだ」


「殿下の少しは信用できません」


「君が地下工房で怪我をしていないと言ったときも、信用できなかった」


「実際、怪我はありませんでした」


「私が庇ったからだ」


「その結果、殿下が怪我をしています」


「それでいい」


 セラフィナの手が止まった。


「よくありません」


「君と私のどちらかが怪我をしなければならないなら、私のほうがいいと言っている」


「どうして、二人とも怪我をしないという選択肢を考えないんですか」


「落ちてくる梁と相談する暇はなかった」


「そういう話ではありません」


 セラフィナは新しい布を取り、少し強めに傷口へ押し当てた。


「痛い」


「少しでしょう」


「君は怒っているのか」


「怒っています」


「助けられたことに?」


「助けられたことではありません。殿下が、ご自分の身体なら傷ついても構わないと思っていることにです。国王陛下も同じでした。自分を罰すれば、それで周りへ責任を果たしたつもりになる。殿下までそうなったら、わたしは親子二人分の面倒を見なければならないんですよ」


「面倒を見てくれるのか」


「そこだけ拾わないでください」


「だが、今、そう言った」


「言葉の綾です」


「取り消すのか」


 問いかける声が、思いのほか真剣だった。


 セラフィナは返事に困り、包帯を巻く作業へ戻った。


 ルシアンの胸元から肩へ布を回す。距離が近くなり、煤と血の匂いに混じって、彼が普段使っている石鹸の香りがした。


「取り消しません。でも、面倒を見ることと、何をしても許すことは別です」


「わかっている」


「本当に?」


「君は、許していない相手にも手を差し出す人間だ。今日、それを見た」


「ミレイユ様のことですか」


「ああ。君は彼女を憎んでいてもおかしくなかった。それでも助けた」


「憎むほど、彼女のことを知りませんでしたから。それに、オスカーから婚約解消済みだと聞かされていたのでしょう。全部を知らない相手へ、勝手に悪役の役を押しつけるのは嫌です」


「では、オスカーは?」


「まだ怒っています」


「それを聞くと安心する」


「正直すぎませんか?」


「君には、できる限り嘘をつかないと契約に書いた」


「そんな条項はありません」


「次の更新で加えよう」


「更新するつもりなんですか」


 包帯を結んでいた指が止まった。


 三か月の偽装婚約。


 契約書へ署名したときには、長いように思えた。けれど婚約破棄から一日も経っていないのに、王妃の死、母の死、国王暗殺、王冠へ仕掛けられた術式と、あまりにも多くのことが起きている。


「王冠の件が解決すれば、三か月を待たずに契約を終えることもできます」


「君は終えたいのか」


「それは……」


 セラフィナは言葉を選んだ。


「最初は、殿下と三か月も婚約者を演じられるのか不安でした。今も不安ですけれど、少なくとも、殿下がわたしの能力だけを見ているわけではないとわかってきました」


「それなら――」


「でも、今のわたしは婚約を破棄されたばかりです。寂しさや悔しさで判断を間違えたくありません。オスカーに捨てられた翌日に皇太子殿下から必要とされて、それを恋だと思い込んだら……あとで、きっと自分が嫌になります」


 ルシアンは振り返らなかった。


 セラフィナも、彼の顔が見えないほうが話しやすかった。


「わたしは誰かに選ばれたから価値があるのではなく、自分一人でも立てると確かめたいんです。殿下への気持ちを考えるのは、そのあとにしたい」


「君らしいな」


「面倒だと思いますか」


「思う」


 即答され、セラフィナは眉を寄せた。


「そこは普通、思わないと言うところでは?」


「君は嘘をつかれるのが嫌なのだろう。自分の足で立ちたい君と、その前に隣へ立ちたい私は、おそらくこれから何度も揉める」


「それなら、やはり三か月で――」


「だが、三か月後も君を帰したくない」


 セラフィナは息を止めた。


 ルシアンがゆっくりと振り返る。いつもの無表情ではなかった。困っているような、腹を括れずにいる自分へ苛立っているような顔だった。


「君の力が必要だからではない。君がいれば、私は間違ったときに止めてもらえる。父上とも、八年ぶりに話せた。ラピスまで連れて帰ってきた。君がいない皇太子宮へ戻ることを想像すると、以前と同じはずなのに、ひどく静かに思える」


「殿下、それは……」


「恋かどうかは、私にもわからない」


「そこまで言っておいて、わからないんですか」


「誰かを愛した経験がない。母上を失ってから、失ったときに困る相手を作らないようにしてきた。だから、君に感じているものが恋なのか、信頼なのか、それとも助けられたことへの依存なのか、私には区別できない」


 あまりにも不器用で、あまりにも正直な言葉だった。


「ですが、帰したくないという気持ちだけは本当だ。君が三か月後に出ていくと言うなら、契約どおり止めない。止めないが、嫌だとは言う。何度でも言うと思う」


「それは、かなり面倒ですね」


「先ほど君も、私の面倒を見ると言った」


「言葉の一部分だけを都合よく覚えないでください」


「無理だ。嬉しかったことは忘れない。ラピスがそう言っていた」


「竜を恋愛の先生にしないでください」


 セラフィナは困りながらも、ルシアンの包帯を結び直した。


「三か月後のことは、三か月後に考えます」


「今はそれでいい」


「先に契約を延長したことにしないでくださいね」


「しない。君の同意が必要だ」


「覚えていたんですね」


「十九項目すべて覚えている」


 その言葉が、妙に嬉しかった。


 セラフィナはそれを顔へ出さないよう、使った布を片づけた。


「セラ、いるか」


 扉の外から父の声がした。


「どうぞ」


 入ってきた父は、シャツを半分脱いだルシアンと、そのすぐそばにいるセラフィナを見て足を止めた。


「……邪魔をしたようだな」


「傷の手当てをしていただけです」


「そうか。私もエリーゼに、同じことを何度か言われた」


「お母様と一緒にしないでください」


「まだ何も言っていない」


「顔に出ています」


 父はルシアンの肩へ巻かれた包帯を確認すると、少しだけ表情を和らげた。


「娘を庇ってくださったそうですね。礼を申し上げます」


「当然のことをしただけです」


「当然だと思っているところが心配です。娘も同じですので、二人でいるといつか揃って死にかねない」


「お父様までマルタと同じことを言わないでください」


「複数の人間から同じ注意を受けた場合、自分に原因があると考えたほうがいい」


 セラフィナは反論できず、製法帳を父へ渡した。


「この署名を見てください」


 父の顔から、からかうような色が消えた。


「ギデオン・クロウ……」


「お母様の元弟子ですね」


「ああ。腕はよかった。若いころから、自分より技術の劣る人間を露骨に見下す嫌な男だったが、エリーゼのことだけは尊敬していた」


「どうして工房を辞めたんですか」


「王妃陛下から依頼された仕事を、自分にも教えろと迫った。エリーゼが断ると、隠れて記録を調べようとしたため追い出した」


「火事の一週間前に?」


「そうだ」


「では、お父様はギデオンを疑わなかったんですか」


「疑った。だが、火事が起きた夜、彼は王宮宝飾局の宿舎にいたという証言があった」


「また黙っていたんですね」


 父は目を伏せた。


「おまえが会いに行くと思った」


「今朝も聞きました、その理由」


「今日一日で、八年分の隠し事が全部なくなるとは思わないでくれ」


「開き直らないでください」


「開き直ってはいない。自分でも、どこから話せばいいのかわからないだけだ。黙っていた時間が長すぎると、秘密と日常の境目がわからなくなる」


 それは言い訳だったが、まったく理解できないわけでもなかった。


「これから思い出したことは、全部話してください」


「努力する」


「努力ではなく約束してください」


「……約束する」


 毛布の中から、ラピスが苦しそうに呻いた。


「赤いの、やっぱりまずい」


「吐いてください」


「石は吐かない。でも、声が上がってくる」


「声?」


 ラピスが大きくしゃっくりをした。


 次に開いた口から出てきたのは、竜の声ではなかった。


『話が違うぞ、ギデオン!』


 中年の男の声。


 セラフィナはベルモント伯の声をほとんど知らないが、オスカーなら判別できるだろう。


『王妃を始末するとは聞いていた。だが、エリーゼまで殺せとは言われていない! あの女の工房へ火をつけたせいで、こちらまで疑われた!』


 続いて、冷静な男の声が響く。


『名前を呼ぶな。おまえは指輪を運び、命じられた石を用意すればいい。王冠が完成すれば、ベルモント家の望みは叶う』


 そこでラピスは咳き込み、小さな赤い石の欠片を吐き出した。


「今の声は、地下工房の術式石に残っていたものです」


 セラフィナが父を見る。


「二人目がギデオンですね?」


「いや」


 父は即座に首を横へ振った。


「声が違う。ギデオンはもっと高く、早口で喋る男だった。八年で声が変わったとしても、これは別人だ」


「では、ベルモント伯は別人をギデオンだと思っていた?」


「王の顔をした偽物がいたのなら、ギデオンの顔をした人間がいてもおかしくない」


 ルシアンがシャツを着直し、立ち上がった。


「ノアへ王室宝飾局を調べさせる。ギデオンを逃がすな」


 命じるより早く、廊下から足音が近づいてきた。


 扉が開き、ノアが二人の近衛兵とともに入ってくる。その間には、細身の中年男性が立っていた。


「お話に出ているギデオン・クロウ副局長です。逃げる様子もなく、同行を求めると自分から応じました」


「アルド」


 中年男性は、懐かしそうに父を見た。


「久しぶりだな。エリーゼの娘も、随分大きくなった」


 父は何も答えなかった。


 男の顔ではなく、両手を見ている。


「どうしました、お父様」


「誰だ、おまえは」


 父の声が低くなった。


「本物のギデオンは、十六歳のときに研磨機へ巻き込まれ、左の小指を第一関節から失っている」


 近衛兵に挟まれた男の左手には、五本の指が揃っていた。


 八年前から王宮宝飾局で働いていたギデオン・クロウは、最初から別人だった。

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