第14話 偽物と呼ばれた母の弟子は、銀の小指を外しました
「その男は、ギデオンではない」
父アルドの声が、部屋の空気を切り裂いた。
セラフィナは、扉の前に立つ男と父を交互に見た。
王宮宝飾局副長、ギデオン・クロウ。
亡き母エリーゼの弟子であり、ベルモント伯爵邸の地下から見つかった配合帳に、持ち出した者として署名を残していた人物。
八年前に姿を消したときよりも頬は痩せ、目尻には深い皺が刻まれている。それでも母の工房で働いていた男の面影は、セラフィナの記憶にも残っていた。
「お父様。どういうことですか」
「本物のギデオンは、左の小指を失っている。十七のとき、石を切る歯車に巻き込まれたんだ。エリーゼが手当てをしたが、小指だけは助からなかった」
ギデオンの両手には、黒い革手袋が嵌められていた。
指は左右とも、五本ある。
「なるほど」
偽物と呼ばれた男は怒りもせず、自分の左手へ目を落とした。
「師匠が俺を見分けるとすれば、そこだと思っていました」
「その呼び方をするな。誰から聞いた」
「エリーゼ先生からです。それと、あなたは私が失敗すると必ず『ギデオン、宝石は逃げない。焦るのは腹が減っているときだけにしろ』と言った」
「工房にいた者なら知っている」
「奥の戸棚に隠していた安酒のことも?」
「それ以上、余計なことを言うな」
「相変わらずですね。安心しました」
ギデオンは左手の革手袋を外した。
現れた手には、やはり五本の指がある。肌の色も爪の形も自然で、少し離れて見れば作り物には思えなかった。
ところが彼は小指の付け根を摘まみ、半回転させた。
かちり、と小さな金属音がする。
小指が外れた。
残された付け根から覗いていたのは、精巧に組み合わされた銀色の関節だった。
「……義指か」
「銀に肌色の琺瑯を焼きつけてあります。爪は薄く削った乳白石です。王宮では、欠損のある職人は縁起が悪いと嫌う者も多いので」
ギデオンは外した小指をテーブルに置いた。
ラピスが興味を持ち、すぐさま飛びつく。
『食えるか?』
「食べるな」
『まだ何もしておらぬ。味見しようとしただけだ』
「それを人間は食べると言うんだ」
ギデオンは慌てて銀の小指を取り返した。
その仕草を見たアルドの顔から、疑いより先に血の気が引いていった。
「本当に……ギデオンなのか」
「はい」
「生きていたのか」
「見てのとおりです。あまり立派な生き方ではありませんでしたが」
アルドは一歩、彼へ近づいた。
再会を喜ぶのかと思った次の瞬間、その拳がギデオンの頬を殴りつけた。
鈍い音が響く。
「お父様!」
ギデオンは避けなかった。よろめいて壁へ手をついたものの、殴り返すことも、抗議することもしない。
アルドのほうが、殴った手を痛そうに押さえていた。
「八年だぞ」
「はい」
「生きていたなら、なぜ一度も知らせなかった。エリーゼが死んで、セラフィナが毎晩泣いていたとき、お前はどこにいた!」
「王宮です」
「そんなことを聞いているんじゃない!」
「分かっています。ですが、言い訳を立派な理由のように話せば、あなたはもっと怒るでしょう」
「当然だ!」
「ならば、先に謝らせてください。師匠。セラフィナお嬢さん。俺はあなたたちを守るためだけに黙っていたわけではありません。怖かったんです。自分が生きていると知られたら、今度こそ殺されると思った。だから身を隠しました」
ギデオンは殴られた頬を拭った。唇の端が切れ、手の甲に赤い血がつく。
「守るためだったと言い張れば、少しは聞こえがよくなる。けれど、本当は臆病だった。それを八年もかけて認めるような男です」
「皆、同じことを言うのですね」
セラフィナは自分でも驚くほど冷たい声を出していた。
父が振り返る。
「セラフィナ」
「お父様も、この人も。私たちを守りたかった。でも怖かった。だから何も言わなかった。最後には、仕方がなかったと謝る」
「そんなつもりでは――」
「分かっています。悪意がなかったことくらい。むしろ愛情があったから余計に面倒なのです。憎みきれないでしょう。全部許すこともできないのに、嫌いにもなれない。残された私に、そういう面倒な気持ちだけ押しつけて、皆さんは自分で決めてしまう」
目の奥が熱くなったが、泣くのは嫌だった。
泣けば、また誰かが謝る。それで話が終わったような顔をされるのは、もうたくさんだった。
「セラフィナ」
ルシアンが静かに名を呼んだ。
「大丈夫です。今、優しくされると腹が立ちます」
「分かった。では、優しくはしない」
彼はギデオンへ視線を向けた。
「クロウ副長。事情をすべて話せ。八年前に配合帳を持ち出したのは、あなたか」
「はい。あそこに残っていた署名は、私のものです」
「母を裏切ったのですか」
セラフィナが尋ねると、ギデオンはすぐには否定しなかった。
「結果だけを見れば、そう思われても仕方ありません。あの配合帳を工房から持ち出したのは、エリーゼ先生の指示でした」
「お母様の?」
「あの頃、先生は《夜星糊》の材料が不自然な量で買い集められていることに気づいていました。あれは宝石に残った声を封じる糊です。普通の工房なら、一年に小瓶一本も使わない。それなのに、王都では十年分以上の材料が消えていた」
「何者かが、大量の宝石の記憶を封じようとしていた?」
「あるいは、強すぎる一つの記憶を、何重にも封じようとしていた」
ギデオンは、テーブルに置かれた王妃の青い指輪を見つめた。
「エリーゼ先生は王妃様から、この指輪を預かっていました。同じ頃、星冠の中央石が修復に出された。記録上は傷を磨いただけになっていますが、戻された石は本物ではなかった」
「偽物だということは、母の月長石から聞きました。ですが、何のためにすり替えたのかまでは」
「偽の石は《鏡晶石》です。自分では光を持たず、触れた相手の魔力や感情を映して蓄える。普通は占具に使う程度ですが、星冠ほど強い王家の宝具へ組み込めば、性質が反転する可能性がある」
「反転?」
「王冠から祝福を受けるのではなく、王冠へすべてを吸い上げられる」
セラフィナは反射的にルシアンを見た。
彼は何も言わなかった。
ただ、先ほど彼女が巻いた右腕の包帯へ、左手を添えている。痛みを確かめているのではない。自分の身体が、まだ自分のものなのか確かめるように見えた。
「星冠を被った者は、どうなる」
ルシアンが尋ねた。
「正確には分かりません。魔力を失うだけで済むのか、命まで奪われるのか。鏡晶石の配合を知る職人は、記録上、全員亡くなっています」
「記録上?」
「死体が確認された者は半数です。残りは失踪。その中には、顔だけ別人となって戻ってきた者もいる」
「顔だけ?」
「家族の名も、住んでいた場所も覚えている。筆跡も本人のもの。しかし、顔だけが違う。反対に、顔は本人なのに記憶も癖も別人だったという記録もある」
『あの夜の男と同じだ』
ラピスが低く唸った。
『王の顔だったが、王の匂いではなかった』
ギデオンの目が見開かれる。
「やはり、完成していたのか……」
「何がです」
「鏡晶石による顔の写し替えです。俺が王宮へ潜ったのは、それを確かめるためでもありました」
八年前、ギデオンは配合帳を持って、材料の流通経路を調べに向かった。
仕入れ先を三つ辿り、最後に行き着いたのがベルモント伯爵家の管理する工房だった。だが、そこで待ち伏せを受け、配合帳を奪われた。
「俺を襲った男は、師匠の顔をしていました」
「私の?」
アルドが掠れた声を上げる。
「顔も声も、あなたそのものだった。けれど、右手で槌を持っていた。師匠は左利きです。それに俺を『クロウ』と呼んだ。あなたは工房で、一度も姓で呼ばなかった」
「それで、偽物だと」
「気づいたときには、腹を刺されていました。運河へ落とされ、気がついたのは二日後です。その朝、エリーゼ先生の工房が焼けたと聞きました」
「なぜ戻らなかった」
アルドの声には、先ほどまでの怒りがなかった。
その代わり、答えを聞くのが怖いという響きがあった。
「戻ろうとしました。ですが、工房の前に俺を襲った男がいた。今度は王宮侍従の顔をしていました。そいつは師匠と、当時十三歳だったセラフィナお嬢さんを見張っていた」
「私たちを守るため、死んだことにしたのですか」
「半分は。残り半分は、さっき話したとおりです。俺は怖くなった。王の顔にも、師匠の顔にもなれる相手を、誰に訴えればいいのか分からなかった」
ギデオンは銀の義指を嵌め直した。
「王妃様が生前に残した密命書を使い、王宮宝飾局へ入りました。敵が星冠を使う日まで、内側で待つつもりでした」
「八年も待って、何が分かったのです」
責める口調になった。
セラフィナ自身、それを止められなかった。
「その間にお母様は死に、お父様は口を閉ざし、私は何も知らずに王妃様の指輪を身につけていた。あなたは王宮で、何をしていたのですか」
「大勢が消されるのを見ました」
ギデオンの答えに、セラフィナは息を詰めた。
「助けられなかった者もいます。証拠を得るために、あえて泳がせた者もいる。その判断が正しかったとは言いません。俺がもう少し勇敢なら、救えた人間もいたでしょう」
「そんな言い方をされたら、責めにくくなるではありませんか」
「責めてください。俺は責められるためにも戻りました」
「そういう殊勝な態度も腹が立ちます」
「エリーゼ先生にも、よく同じことを言われました」
ギデオンは、寂しそうに笑った。
母を知る人の笑い方だった。
それが何よりずるいと、セラフィナは思った。
「一つ、確認したい」
ルシアンが口を挟んだ。
「あなたは長年、王宮宝飾局にいた。それでも、星冠の偽石を外せなかったのか」
「外せませんでした。星冠は保管庫へ戻されてから、王族と正式な伴侶以外の接触を拒んでいます。外から無理に壊せば、王家の血と繋がる可能性がある」
「では、今なら私とセラフィナが入れる」
「可能です。ただし、先に王妃様の指輪へ残された記憶を、すべて確認する必要があります」
ギデオンは青い指輪を示した。
「この指輪は、星冠の偽石を見破る鍵であると同時に、偽石と対になる封印です。エリーゼ先生は《夜星糊》で、王妃様の最後の記憶を閉じ込めた。そこには、星冠をすり替えた者の正体が残っているはずです」
「私が読みます」
「一人では駄目です」
「なぜですか」
「封印の下にあるのは、人が死ぬ直前の記憶です。恐怖も痛みも、そのまま残っている。聞くというより、体験させられる。お嬢さん一人では、記憶から戻れなくなるかもしれない」
「ならば、私が共に聞く」
ルシアンが迷いなく言った。
「殿下」
「分けられるのだろう」
「《分響法》を使えば、二人で記憶を分けて受け止めることはできます。ですが、痛みも分かれます。王妃様が最期に感じたものを、殿下も直接受けることになる」
「母が受けたものなら、私が知らずに済ませてよい理由はない」
セラフィナは彼の横顔を見た。
母親の死を八年間も隠されてきた人だ。止めても、もう知らないままでいることには耐えられないだろう。
「私も同じです」
「セラフィナ」
「止めても無駄ですよ。殿下がご自分だけで聞くと言うなら、契約書に『婚約者を危険から排除するため、説明なく単独行動をしてはならない』と追記します」
「今から条項を増やすつもりか」
「必要なら二十条でも、二十一条でも」
「契約期間は三か月だったはずだが」
「三か月後の話は、今はしません」
先ほど、彼から言われた言葉が蘇る。
――三か月後も、君を帰したくない。
今その意味を問い返せば、きっと二人とも後戻りできなくなる。だからこそセラフィナは、わざと指輪へ視線を落とした。
ルシアンも何かを言いかけたが、そのとき、廊下から激しい足音が聞こえた。
ノアが扉を開ける。
いつも整っている髪が乱れ、手には一通の勅書が握られていた。
「殿下、大変です」
「今度は何だ」
「陛下の名で、退位の勅書が出されました」
部屋にいた全員が凍りついた。
「父上は退位など決めていない」
「存じています。しかし王家の印章は本物です。すでに大聖堂と議会、各貴族家へ写しが届けられました」
国王の指輪は、つい先日まで毒を仕込まれたまま、その指に嵌められていた。
犯人が毒を仕込めたのなら、王璽の印影を盗むこともできたのだ。
ルシアンは勅書を受け取り、最後まで目を通した。
「戴冠式の日付は」
ノアが唇を引き結ぶ。
「七日後です」
ラピスの喉から、獣らしい唸り声が漏れた。
『急いだほうがよいぞ。偽の星が、目を覚まし始めておる』
「分かるのか」
『さっきから、腹の底で呼ばれておる。食え、食えとな。あれは宝石ではない。腹を空かせた穴だ』
ギデオンの顔から血の気が引いた。
「犯人は待つのをやめたのです。陛下を殺せなかったため、偽の勅書で殿下を王位へ押し上げるつもりだ」
「戴冠式を中止させればよいのでは?」
「勅書を否定しても、王国中へ届いた印影までは消せません。陛下が毒で判断力を失ったという噂も、すでに広められているでしょう。こちらが中止を宣言すれば、今度は殿下が王位を拒んだと騒がれる」
「つまり、七日以内に真犯人と偽の星冠、両方の証拠を揃える必要がある」
ルシアンが青い指輪へ手を伸ばす。
だが触れる直前で止め、セラフィナを見た。
「触れてもいいか」
こんな状況でも、彼は許可を求めた。
それが少しおかしくて、少しだけ悲しかった。
「はい。ただし、一人では触れないでください」
「君もだ」
「分かっています」
二人の指が、同時に青い石へ近づいていく。
八年間封じられていた王妃の最期。
その中にいるのは、国王の顔を盗み、王冠へ偽の星を嵌めた者だった。
戴冠式まで、あと七日。
そして王妃の指輪は、まるで二人を待っていたかのように、青い涙を流し始めた。




