第15話 亡き王妃の記憶に残っていた犯人は、十五年前に死んだ王弟でした
「服を持ってこい。評議会へ出る」
毒を抜く処置を受けたばかりの国王は、長椅子から起き上がろうとした。
侍医がその肩を押さえ、容赦なく寝かせ直す。
「陛下は先ほど、御自分の足で厠へ行こうとして床へ倒れたばかりです。評議会まで歩けると、本気でお考えですか」
「担架でも何でも使えばいい」
「国王陛下が寝衣姿で担架に載せられ、廊下を運ばれてきたら、偽の布告より大きな騒ぎになります」
「では車椅子を用意しろ」
「王宮にはありません」
「なぜない」
「陛下が以前、老いた姿を臣下へ見せたくないとおっしゃって処分させたからです」
国王が気まずそうに目を逸らした。
「過去の私は愚かだったな」
「現在もあまり変わっておられません。大人しく横になってください」
国王と侍医が言い争う間にも、七日後の戴冠式を知らせる鐘が王都中で鳴らされている。
窓の外から聞こえる鐘は祝福を告げる明るい音なのに、セラフィナには処刑までの時を数える音にしか思えなかった。
「布告を取り消せないのか」
ルシアンがノアへ尋ねる。
「陛下の印章指輪が回収された以上、新たな偽造命令は出せません。しかし、一度出された布告を取り消すには、陛下御自身が公の場へ姿を見せるか、王家の全権を委ねられた証明書が必要です」
「父上が署名すればいい」
「印章がありません。毒の仕掛けを外すため、セラフィナ様が分解しました」
「壊して構わないと言ったのはおまえだろう」
国王が口を挟んだ。
「父上の命と引き換えなら、今でも正しい判断だったと思っています」
「責めているのではない。新しいものを作ればいい」
「王の印章指輪を作り直すには、星冠庫に保管された原型と照合する必要があります。今、星冠庫を開けば、王冠の術式へ誰が近づいたか犯人側にも知られる可能性があります」
ノアは布告書を机へ置いた。
「こちらから偽造だと訴えれば、陛下の印章が一月も敵の手にあったことを公表しなければなりません。その期間に出された命令や法令まで疑われ、王宮が機能しなくなるでしょう」
「では、黙って戴冠式へ出ろというのか」
「いいえ。表向きは準備を進めながら、七日以内に王冠の術式を解除します。犯人は自分たちの計画が順調に進んでいると思い、戴冠式へ姿を現すはずです」
「息子を餌にするつもりか」
「すでに餌にされています。問題は、針まで飲み込むか、針を外して犯人を釣るかです」
「ノア、おまえは私に対して遠慮がなさすぎる」
「遠慮しているうちに国を奪われるよりは、叱られるほうを選びます」
国王は不満そうだったが、反論はしなかった。
「術式を解除する方法はあるのか」
父がギデオンへ尋ねる。
「王妃陛下の青い指輪、その封印を解くしかない」
「セラに危険があると言っただろう」
「ある。だが、エリーゼの記録には別の方法も残されている」
ギデオンは製法帳を開き、終盤の頁を示した。
細かな文字で、石の記憶を複数の人間へ分ける方法が記されている。
「分響法、と読むんですか」
「ああ。石に残った声そのものを分けることはできない。聞けるのは、セラフィナだけだ。だが、声に付随する恐怖や苦痛を、別の人間へ分けることはできる」
「それなら、危険は減るんですね」
「一人で受け止めるよりは。ただし、誰でもいいわけではない」
ギデオンはルシアンへ視線を向けた。
「石の記憶と強い繋がりを持つ人間でなければならない。今回は、王妃陛下の息子である殿下しかいないでしょう」
「私が受ける」
ルシアンは即答した。
「待ってください」
「君が聞くと言うなら、私も聞く。そこは譲らない」
「王妃様の恐怖や苦痛が流れ込むんですよ。何が起きるかわかりません」
「だから、君一人には任せられないと言っている」
「殿下に何かあったら、戴冠式以前に国が混乱します」
「君に何かあっても、私は戴冠式どころではない」
「またそういうことを……」
「何度でも言うと、先ほど伝えたはずだ」
父が大きく咳払いをした。
「本人たちが勝手に決める前に、安全性を説明しろ」
「完全に安全とは言えない」
ギデオンは淡々と答えた。
「途中で手を離せば、行き場を失った記憶が一人へ集中する可能性がある。意識を失っても、封印が解けるまで繋がりを切ってはいけない」
「どれくらいかかる」
「数分か、一時間か。石がどれほど抵抗するかによる」
「抵抗するんですか?」
「石に意志があるわけではない。だが、エリーゼは娘を守るために封じた。封印へ込められた思いが強ければ、それだけ解除には時間がかかる」
セラフィナは青い指輪を見つめた。
母は、この石を聞く日が来ることを予想していた。
それでも簡単には聞けないよう封じたのだ。
「母は、わたしに聞いてほしかったんでしょうか。それとも、聞いてほしくなかったんでしょうか」
「両方だと思う」
父が答えた。
「真相を知ってほしい。だが、傷ついてほしくない。エリーゼは、どちらか一つを選べるほど器用な人間ではなかった」
「親というものは、皆そうなんでしょうか」
「知らん。私は、自分が器用でないことしかわからない」
国王が長椅子の上で苦笑した。
「私も同じだ。子供へ王冠を残さなければならないのに、その王冠へ近づいてほしくないと思っている」
「人間の親、面倒」
毛布からラピスが言った。
「子供はもっと面倒だ」
「ラピスは子供じゃない」
「赤い石を食べて腹を壊し、マルタに薬を飲ませてもらった竜が何を言う」
「苦い薬、嫌い」
「ほら見ろ」
国王とラピスが睨み合う。
八年前にも、王妃を挟んで似たようなやり取りをしていたのかもしれない。
「ラピスにも手伝ってもらう」
ギデオンが言った。
「嫌」
「まだ何も説明していない」
「人間が『手伝って』と言うときは、大抵ろくなことがない」
「封印から溢れた記憶を、空の藍玉へ移す。その藍玉を、おまえに食べてもらう」
「青い石?」
「ああ」
「何個?」
「一個だ」
「小さい?」
「親指ほどある」
ラピスは少し考えた。
「手伝う」
「判断が早いですね」
セラフィナが呆れる。
「ただし、記憶と一緒に苦痛まで食べる可能性がある。先ほどの赤い石よりつらいかもしれない」
「……青い石、二個」
「交渉するな」
「危険手当」
「誰にそんな言葉を教わったんですか」
「ノア」
「私ですか?」
「廊下で兵士に言ってた。危険な仕事には手当をつけるって」
ノアはしばらく考えたあと、真面目な顔で頷いた。
「筋は通っています。二個にしましょう」
「ノアまで甘やかさないでください」
「命を懸けて働く者へ正当な報酬を支払うのは、組織として当然です」
「話が大きくなっていませんか?」
わずかな笑いが生まれた。
それでも、誰も本当に緊張を解いてはいなかった。
◇
分響法の準備には三時間かかった。
ギデオンと父は、青い指輪と母の月長石を細い銀線で繋ぎ、その途中へ記憶を逃がすための藍玉を取りつけた。
セラフィナとルシアンは向かい合って座り、二人の間へ青い指輪を置く。
「直接手を重ねてください」
ギデオンに言われ、ルシアンが手を差し出した。
「触れてもいいか」
「この状況でも確認するんですね」
「十九項目を覚えていると言っただろう」
「はい。お願いします」
セラフィナは彼の手へ自分の手を重ねた。
火事場で握ったときよりも、彼の手は冷たかった。
「緊張していますか」
「していないと言えば嘘になる」
「殿下でも怖いんですね」
「君は私を何だと思っている」
「何も怖がらない方だと思っていました」
「怖がらないのではない。怖いと言っても状況が変わらないときは、言わないだけだ」
「今は言っていいんですよ」
「では、怖い」
ルシアンの指が、セラフィナの手を握る。
「母上が死んだとき、私は間に合わなかった。今度も君を守れなかったらと思うと、逃げ出したいほど怖い」
「逃げますか」
「逃げない」
「わたしもです」
「君は何が怖い」
セラフィナは迷った。
石の封印を解くこと。王妃の死を追体験すること。母が命を懸けて隠した真実を知ること。
怖いものは、いくらでもあった。
「殿下の言葉を、信じてしまうことです」
「私の?」
「三か月後も帰したくないと言ってくださったでしょう。あれを嬉しいと思いました。でも、その嬉しさへ頼ってしまったら、自分一人で立てなくなる気がして怖い。殿下の気持ちが事件のあとで消えたら、わたしはまた、誰かに選ばれなかった自分には価値がないと思ってしまうかもしれません」
「消えないとは、今は約束しない」
セラフィナは少し傷つき、同時に安堵した。
「正直ですね」
「気持ちは、命令で永遠にできるものではない。だが、消えないよう努力することは約束できる。君へ言いたいことを黙らない。君が何を考えているか、わかったつもりにならずに聞く」
「面倒ですよ」
「知っている。それでもいい」
「わたしも、すぐには逃げないよう努力します」
「三か月後も?」
「今は、そこまでです」
「十分だ」
ギデオンが銀線の位置を確認する。
「始めます。何が見えても、それは王妃陛下の記憶であり、現在ではない。互いの声を聞き続けてください」
父がセラフィナの肩へ手を置いた。
「戻ってこい」
「はい」
「絶対に、とは言わない。エリーゼも、そういう約束を嫌った。だが、できる限り戻ってこい」
「お父様も、ここで待っていてください」
「ああ」
セラフィナは手袋を外し、青い石へ触れた。
世界が崩れた。
◇
星冠庫。
八年前の王冠。
国王と同じ顔をした男が、中央の青い石を外している。
王妃が扉を開け、息を呑んだ。
『あなた……何をしているの』
男が振り返る。
顔は国王だった。
けれど笑い方が違う。目の奥に、長く飢えていた者の色がある。
『やっと来たか。待っていたよ』
『その顔を使わないで』
王妃の声が震える。
『その声も。わたしの夫を盗まないで』
男は頬へ手を当てた。
皮膚の表面を、鏡のような光が走る。国王の顔が歪み、その下から別の男の顔が現れた。
国王より若い。
ルシアンに似ている。
右目は灰青色だが、左目だけが琥珀色だった。
『久しぶりだね、義姉上』
王妃の恐怖が、一気に流れ込んだ。
セラフィナの喉から悲鳴が漏れる。
「セラフィナ、私の声を聞け!」
遠くでルシアンが叫んでいる。
「ここにいる。君は星冠庫にはいない。私の手を握っている!」
セラフィナは必死に指を動かした。
ルシアンの手がある。
今の温度がある。
王妃の記憶の中で、男は偽物の中央石を王冠へ嵌め込んだ。
『あなたは死んだはずよ』
『死んだとも。王家の都合でね』
『カシアン……』
その名を聞いた瞬間、ルシアンの手が大きく震えた。
『王冠は、あなたを選ばなかった。王家の魔力が足りないあなたには扱えないわ』
『だからルシアンを使う』
男――カシアンは、穏やかに笑った。
『あの子が王冠を被れば、石が血と魔力と記憶を吸い上げる。私はそのすべてを受け取り、ルシアンとして王になる』
『させない』
『君に何ができる』
『母親よ』
王妃がカシアンへ飛びかかった。
白い手が、偽物の中央石をつかむ。カシアンが何かを振り下ろし、強い痛みが王妃の胸を貫いた。
セラフィナの身体まで引き裂かれるように痛んだ。
「セラフィナ!」
ルシアンの声。
彼の手も震えている。
「離さない。何があっても離さない!」
藍玉が激しく光り、ラピスが噛みついた。
王妃の恐怖と痛みが分かれ、ほんのわずかに薄くなる。
最後に見えたのは、王妃が青い指輪を握り締める姿だった。
『ルシアン、ごめんなさい』
涙が石の上へ落ちる。
『わたしの小さな青い鳥。王冠より遠くへ逃げて』
◇
セラフィナは現実へ引き戻された。
床へ倒れかけた身体を、ルシアンの腕が受け止める。
彼も呼吸を乱し、頬を涙で濡らしていた。
「殿下……」
「ここにいる」
ルシアンはセラフィナを抱き締めた。
「君も、私も、ここにいる」
誰も、その抱擁を止めなかった。
父も、ギデオンも、国王さえも黙っていた。
やがて国王が、掠れた声で尋ねる。
「王妃は、犯人の名を呼んだのか」
ルシアンが父を見た。
「カシアン、と」
国王の顔が、紙のように白くなる。
「カシアンは、私の弟だ」
「王弟殿下が?」
「十五年前、離宮の実験事故で死んだ。遺体も、私が確認した」
死んだはずの王弟カシアン。
彼は十五年前から他人の顔を使い、王宮の中で生き続けている。
そして七日後、今度はルシアンの顔と人生、そのすべてを奪おうとしていた。




