第16話 目覚めたら冷徹皇太子に手を握られたままで、婚約披露宴が決まっていました
セラフィナが目を覚ましたとき、最初に感じたのは右手の重みだった。
誰かの手が、自分の手を包み込んでいる。
次に目へ入ったのは、見覚えのない天蓋と、寝台の脇へ置かれた椅子で眠っているルシアンだった。
彼は傷ついた右肩を庇うような姿勢で、左手だけはセラフィナの手を握ったまま、浅い呼吸を繰り返している。
その膝の上では、ラピスが腹を出して眠っていた。
「……どういう状況でしょう」
声を出した途端、ルシアンが目を開けた。
「セラフィナ」
「はい」
「私が誰かわかるか」
「ルシアン皇太子殿下です」
「ここがどこかは?」
「皇太子宮の寝室……だと思います」
「最後に覚えていることは?」
「王妃様の指輪の封印を解いて、王弟カシアン様の姿を見ました。それから殿下に抱き締められて――」
ルシアンが気まずそうに視線を逸らした。
「意識を失いかけていたので、許可を聞く余裕がなかった。すまない」
「そこを謝るんですか」
「契約に反した」
「緊急時の例外に含まれると思います」
「嫌ではなかったか」
あまりに真剣に聞かれ、セラフィナは少し困った。
「嫌ではありませんでした」
「そうか」
「そこで安心した顔をしないでください。次から何も聞かずに抱き締めていいという意味ではありませんよ」
「わかっている。ただ、今の返事は覚えておく」
「殿下もラピスと同じで、自分に都合のいいことだけは忘れないんですね」
「嫌なことも覚えている」
「例えば?」
「君が三か月後に帰ると言ったこと」
「その話を、目覚めてすぐ蒸し返しますか?」
「君が目を覚ましたら言いたいことがいくつもあった。だが、顔を見たら一番どうでもいいことが先に出た」
「どうでもよくはないんでしょう」
「ああ。かなり重要だ」
ルシアンの指へ、わずかに力がこもった。
セラフィナはそこで初めて、彼がずっと手を離さずにいた理由を理解した。
「どれくらい眠っていましたか」
「二時間ほどだ」
「殿下は?」
「眠っていない」
「今、寝ていたでしょう」
「目を閉じていただけだ」
「子供みたいな言い訳をしないでください。肩を怪我しているのに、椅子で二時間も手を握っていたんですか」
「離すと、君が王妃の記憶へ戻ってしまう気がした」
「もう終わりましたよ」
「頭ではわかっている」
ルシアンは、眠ったままのラピスを起こさないよう静かに膝から下ろした。
「母上の最期を見た。君がいなければ、一生知らなかったことだ」
「つらくありませんでしたか」
「つらい。だが、知らないままよりはよかった」
ルシアンは繋いだ手を見下ろす。
「私が母上と最後に話したのは、亡くなる二日前だった。母上は私を子供のころのように抱き締めようとした。私は十九にもなって恥ずかしいと言って、手を振り払った」
「殿下……」
「次に会ったとき、母上は棺の中にいた。私は八年間、最後に抱き締めさせればよかったと考えてきた」
「王妃様は、殿下を責めていませんでした」
「わかっている。母上なら、きっと笑って許した。だから余計に、自分だけが許せなかった」
その気持ちは、セラフィナにもわかった。
母親へ「大嫌い」と言った十三歳の自分を、母なら許してくれただろう。それでも、自分自身が納得できなければ後悔は消えない。
「わたしたちは、似た後悔を持っていたんですね」
「ああ」
「でも、王妃様もお母様も、最後までわたしたちを守ろうとしていました。過去は変えられませんけれど、二人が遺したことを無駄にしないようにはできます」
「そのために、また危険なことをするつもりではないだろうな」
「どうしてそうなるんですか」
「君は話の終わりを、すぐ自分の命を懸ける方向へ持っていく」
「殿下に言われたくありません」
「やはり似ているのかもしれないな」
「嫌なところばかり似ている二人が偽装婚約をすると、周りは大変ですね」
「私はそれほど嫌ではない」
「わたしは少し大変です」
「少しか」
「かなり、とは言いません」
「それも覚えておく」
ルシアンがようやく手を離した。
少し寂しいと感じた自分に気づき、セラフィナは慌てて身体を起こした。
寝台脇の台には、水と軽い食事が用意されている。腹を空かせたラピスに食べられないよう、銀の蓋まで載せられていた。
「わたしの部屋ではないですよね」
「私の寝室だ」
「どうして婚約者の寝室へ運ばなかったんですか」
「ここが一番近かった」
「マルタは何も言わなかったんですか?」
「『寝台へ運び込むだけなら、既成事実には数えません』と言っていた」
「あとで注意しておきます」
「私は何もしていない」
「殿下を疑っているのではなく、使用人の間で妙な噂が立つのを心配しているんです」
「婚約者を自分の寝台へ運んだ、という噂なら間違ってはいない」
「表現の問題です」
そこへ扉が開き、盆を持ったマルタが入ってきた。
「お目覚めでしたか」
「マルタ。わたしを殿下の寝室へ運んだことは、ほかの使用人には――」
「すでに皇太子宮中が知っております」
「どうしてですか!」
「殿下がセラフィナ様を抱き上げたまま、廊下の中央を歩かれましたので」
セラフィナはルシアンを睨んだ。
「仕方がないだろう。意識がなかったんだ」
「裏の通路を使うとか、布を掛けるとか、何かあったでしょう」
「君が呼吸をしているか確認するので精一杯だった」
「そう言われると、怒れないじゃないですか」
「では、この話は終わりだな」
「都合よく終わらせないでください」
マルタは寝台脇へ食事を置いた。
「ご心配なく。使用人たちは、婚約破棄されたばかりの令嬢を寝室へ運び込むとは、殿下にもようやく人間らしい情熱が芽生えたのだと喜んでおります」
「余計に悪いです」
「噂というものは、否定するほど育ちます。今は好きに言わせておくのがよろしいでしょう。それより国王陛下がお呼びです。お食事を済ませてから、隣の応接室へお越しください」
◇
応接室には国王、父、ギデオン、ノアが集まっていた。
侍医に寝ているよう命じられた国王は、毛布を掛けた長椅子ごと運ばれている。
「車椅子がないなら長椅子を運べばいいと、陛下が使用人へ命じられました」
ノアが説明する。
「合理的だろう」
「廊下を長椅子に載せられた国王が通過する光景は、かなり異様でした」
「担架より威厳がある」
「どちらにも、それほど威厳はありません」
ルシアンと国王は、よく似た不満顔を浮かべた。
「カシアンについて、知っていることを教えてください」
セラフィナが切り出すと、国王はしばらく黙ったあと、口を開いた。
「カシアンは、私より五歳下の異母弟だ。父王と宮廷楽師の間に生まれ、七歳で王宮へ引き取られた」
「王族として育てられたのですか」
「表向きはな。だが、母親の身分が低いことと、左目が琥珀色だったことで、幼いころから周囲に疎まれていた」
「目の色に、何か意味があるんですか」
「ヴァルハルト王家の血が強い者は、灰青色の目で生まれる。迷信に近い話だが、宮廷の老人たちは、カシアンを半端な王子、王家の失敗作と呼んだ」
国王は苦々しく唇を歪めた。
「私は兄として、あの子を守っているつもりだった。陰口を言った貴族を叱り、私と同じ教育を受けさせた。だが、守るたびにカシアンは私を嫌った」
「なぜです?」
「勝者から差し出される同情など、屈辱でしかなかったのだろう。私は王太子として何もかも与えられ、弟へ少し分けてやっているつもりでいた。カシアンが欲しかったのは分け前ではなく、私と同じ場所だった」
「それでも、人を殺していい理由にはなりません」
セラフィナが言うと、国王は頷いた。
「もちろんだ。あの子が苦しんだことと、犯した罪は別の話だ。哀れな過去を持つ人間が、必ず善人になるわけではない」
「カシアン殿下は、宝石魔術に秀でていました」
ギデオンが続ける。
「特に、宝石へ姿や声を記録する鏡晶術の研究では天才でした。他人の顔を数時間だけ纏う技術を作ったのも、彼だと言われています」
「十五年前の事故とは?」
「離宮の地下研究室が爆発した」
国王が答えた。
「中から、カシアンの遺体が見つかった。顔も、身につけていた指輪も確認した。私は弟が死んだと信じたかった」
「信じたかった?」
「王妃は、鏡晶術を使えば遺体へ別人の顔を被せることもできると言った。もう一度調べるべきだと、何度も私へ訴えた。だが私は拒んだ」
「どうしてですか」
「弟が私を恨み、生きているかもしれないと考えるより、事故で亡くなったと思うほうが楽だったからだ」
国王は目を閉じた。
「私は、あの子の死を悲しんでいた。同時に、もう憎まれなくて済むと安堵していた。その安堵を妻に見抜かれるのが怖かった」
「人間の兄弟も面倒」
セラフィナの肩に乗ったラピスが言う。
「おまえには兄弟がいないのか」
「覚えてない」
「では、偉そうに言うな」
「でも面倒なのは本当」
「否定はしない」
国王は小さく笑ったあと、ギデオンへ視線を向けた。
「カシアンが王宮宝飾局へ潜り込んでいる可能性は?」
「極めて高いでしょう。十五年前、カシアン殿下が亡くなったとされた半年後、オルフェン・グラウスという男が王室宝飾局長へ就任しています」
「その男がカシアン?」
「確証はありません。人前で食事をせず、顔へ触れられるのを極端に嫌う。鏡晶術の研究記録を、国家機密として次々封印したのも彼です。ただし――」
「ただし?」
「今朝から行方がわかりません。執務室も私室も空でした」
ルシアンが眉を寄せる。
「すでに別の顔へ変えたか」
「その可能性があります。王宮にいる誰であってもおかしくない」
「ノアも?」
ラピスが尋ねる。
「なぜ私を見ながら聞くんですか」
「何でもノアだから。実は悪い人でも驚かない」
「私は毎日、殿下が処理しきれなかった書類と戦っています。王位を奪う時間などありません」
「理由が悲しい」
「そうですね。私も自分で言っていて悲しくなりました」
「カシアンを見分ける方法はないんですか」
セラフィナが尋ねると、ギデオンは完全に封印の解けた青い指輪を指した。
「鏡晶術で顔を変えても、術者が石へ残した感情までは変えられない。その指輪は、カシアンの魔力と悪意を八年前に記憶している。近づけば反応する可能性があります」
「どれくらい近づけば?」
「同じ部屋にいれば、石が熱を持つはずだ」
「王宮中の人間を、一人ずつ同じ部屋へ呼ぶわけにはいきませんね」
「だから宴を開く」
国王が言った。
セラフィナは嫌な予感を覚えた。
「何の宴でしょうか」
「ルシアンとそなたの婚約披露宴だ。明日の夜、王宮大広間へ主要な貴族と高官を集める」
「明日ですか?」
「戴冠式が七日後なら、その前に婚約者を正式に国民へ示す必要がある。理由としては不自然ではない。カシアンは青い指輪を必要としている。そなたが指輪を身につけて公の場へ出れば、必ず動く」
「偽の婚約なのに、宴する?」
ラピスの一言で、部屋が静まり返った。
国王がゆっくりとルシアンを見る。
「偽?」
「ラピス」
「三か月だけって言ってた」
「藍玉を一つ減らす」
「横暴!」
「ルシアン」
国王の声が低くなる。
「説明しろ」
「事件を解決するまでの、期限つきの婚約です。双方の権利と義務について、十九項目の契約を交わしています」
「十九項目?」
「セラフィナが作った」
「殿下も同意したでしょう」
「職業の継続、能力使用の拒否権、秘密保持、接触時の許可、別室の確保、報酬、解消後の保護などです」
国王はしばらく二人を見比べた。
「思っていたより、まともな契約だな」
「怒らないんですか」
「王族の結婚など、もともと国と家同士の契約だ。愛し合っているふりをして条件を隠すより、最初から書いてあるだけ誠実だろう」
「父上、納得するのが早すぎませんか」
「ただし、そなたを餌にする以上、契約の追加が必要だ」
国王はセラフィナへ向き直った。
「明日の宴へ出るかどうかは、そなた自身が決めろ。王命で強制はしない」
「出ます」
「即答するな」
父とルシアンが同時に言った。
「決めるのはわたしだと、今おっしゃったでしょう」
「少しは考えろ」
父が額を押さえる。
「考えています。カシアンはわたしの顔と指輪を手に入れれば、正式な婚約者として星冠庫へ入れるかもしれません。逃げても追われます。それなら、人の多い場所へ引き出したほうがいい」
「私が必ずそばにいる」
ルシアンが言った。
「離れませんか」
「離れない」
「誰かがわたしの顔をして現れても、見分けられますか」
「見分ける」
「根拠は?」
「君と同じ顔をしただけの人間が、私へこれほど遠慮なく文句を言えるとは思えない」
「判断基準が失礼です」
「だが、確実だ」
その日の夕方、婚約披露宴の招待状が王都中へ送られた。
そして夜。
セラフィナ宛てに、一つの小包が届いた。
差出人の名はない。中には銀の手鏡だけが入っている。
「触れないでください」
ノアが止めたが、セラフィナが近づくより先に、鏡の中の像が動いた。
映っているのは、セラフィナ自身の顔だった。
けれど鏡の中のセラフィナは、本人が動いていないのに笑っている。
左目だけが、琥珀色に染まった。
『明日の夜、青い指輪を返してもらう』
鏡から男の声がした。
『返さなければ、今度は君の顔でルシアンを殺そう』
鏡の中の偽物は、セラフィナと同じ唇で楽しそうに笑う。
『青い鳥は、本物の婚約者を見分けられるかな』
明日の婚約披露宴。
そこへ現れるのは、死んだはずの王弟だけではない。
セラフィナ自身の顔をした殺人者もまた、招待客に紛れ込もうとしていた。




