第17話 婚約披露宴に、わたしが二人現れました
「合言葉を決めましょう」
婚約披露宴を数時間後に控えた午後、セラフィナはルシアンの執務室でそう切り出した。
「カシアンがわたしの姿で現れた場合、本物かどうかを確かめるための言葉です。殿下は見ればわかるとおっしゃいましたが、人間は自分だけは騙されないと思っているときが一番危ないんです」
「君と同じ姿をしていても、性格までは真似られないだろう」
「わたしの性格のどこで判断するつもりです?」
「まず、偽物は私へ遠慮なく文句を言わない」
「カシアンが聞いたら、わざと文句を言うようになりますよ」
「では、私が君へ触れようとしたとき、十九項目の契約を持ち出すかどうかで――」
「その契約は、もうラピスが国王陛下の前で話してしまいました」
窓辺で藍玉を齧っていたラピスが顔を上げる。
「ラピス、悪くない。聞かれたから答えた」
「誰も聞いていませんでした」
「王さまが偽って言ったから、説明した」
「余計な説明でした」
「青い石、減らさないで」
「もう食べているではありませんか」
約束していた藍玉七個のうち、すでに三個がラピスの腹へ消えている。
「殿下とセラフィナ様しか知らない話を使うべきでしょうね」
ノアが招待客名簿から顔を上げた。
「その話をここで口にすれば、私やラピスも知ることになります。できれば筆談で決め、紙はすぐに焼いてください」
「筆談なら、カシアンに内容を知られる心配はないんですか」
「完全ではありません。王宮内の鏡や宝石のどれが、盗み聞きの道具へ変えられているかわかりませんので」
「それを聞くと、すべての調度品を窓から捨てたくなるな」
ルシアンが壁に掛けられた鏡を睨む。
「実行なさる前に申し上げますが、王宮の備品を壊した場合は殿下の私費から弁償していただきます」
「私の宮殿だぞ」
「国の財産です」
「王族とは不自由なものだな」
「今、気づかれたんですか?」
セラフィナは小さな紙へ一文を書き、ルシアンだけに見せた。
『三か月後も?』
ルシアンはそれを読むと、返事を書き加える。
『今は、そこまでです』
昨日、誰もいない寝室で交わした言葉だ。
正確には、ラピスも寝ていた。けれど本人に尋ねると、赤い石の腹痛でそれどころではなかったらしく、会話は聞いていないという。
「質問するのは殿下です。わたしがこのように答えれば、本物だと判断してください」
「わかった」
「もし間違った返事をしたら、わたしの姿でも近づけないでください」
「私が君へ剣を向ける可能性もあるのか」
「偽物なら、わたしではありません」
「頭ではわかる」
ルシアンは紙を蝋燭の炎へかざした。
「だが、君と同じ顔をした相手へ剣を向けられるかは、そのときにならなければわからない」
「躊躇している間に刺されないでくださいよ」
「君は、私と同じ姿をした相手を攻撃できるのか」
「殿下と同じ顔で、『偽装婚約なのだから危険を冒す必要はない』などと言われたら、すぐ偽物だとわかります」
「私も、それくらいは言うかもしれない」
「言いませんよ。止めても聞かないとわかっているのに、最後には一緒に危険な場所へ来るでしょう」
ルシアンは燃えていく紙を見つめた。
「君が私を理解しているとわかるのは、悪くない気分だ」
「褒めているわけではありません」
「知っている。それでもだ」
紙が灰になる。
たった二人しか知らない合言葉。
それでもセラフィナの不安は、完全には消えなかった。
◇
婚約披露宴の支度を手伝ってくれたのは、マルタだけではなかった。
「痛くありませんか」
ミレイユがセラフィナの髪へ青い花飾りを挿しながら尋ねる。
「大丈夫です。ミレイユ様こそ、休んでいなくていいんですか」
「侍医から、煙を吸っているので安静にするよう言われました。でも、寝台へ横になっていると、地下工房で天井が崩れた音を思い出してしまって……人と話しているほうが落ち着きます」
「無理はしないでください」
「はい。それに、セラフィナ様へきちんとお話ししたかったんです」
鏡台の前に座っているセラフィナと、背後に立つミレイユの視線が鏡越しに重なった。
「謝罪なら、もう聞きました」
「あれは火事の中で、死ぬのが怖くて口にした言葉です。自分だけ楽になるための謝罪になっていたと思います」
「それを判断するのは、わたしではありませんよ」
「でも、受け取るかどうかを決めるのは、セラフィナ様でしょう?」
ミレイユは花飾りの角度を直し、手を下ろした。
「わたしは、オスカーから婚約はすでに解消されていると聞いていました。けれど、彼があなたの話を避けることには気づいていたんです。手紙を見せてと言っても、今は気持ちの整理をするため距離を置いているからと断られました」
「疑わなかったんですか」
「疑いました。でも、疑い続ければ、彼に愛されているという幸せな気分が壊れてしまう。だから信じたのではなく、信じたいほうを選んだんです」
ミレイユは自分の指先を見つめた。
「知らなかったから悪くないとは、もう言えません。あなたへ確かめる勇気がなかったことは、わたしの責任です」
「正直に言えば、まだ少し腹が立っています」
「はい」
「ミレイユ様を憎んでいるわけではありません。でも舞踏会で、わたしが大勢に見られながら婚約を破棄されたとき、あなたがオスカーの隣に立っていたことは、簡単には忘れられないと思います」
「忘れなくていいです」
「そういうふうに言われると、こちらが意地悪をしているようで困ります」
「では、忘れてくださいとは言えません。わたしが楽になるだけですから」
セラフィナは鏡の中のミレイユを見つめ、それから小さく息を吐いた。
「すぐに仲のよい友人になりましょう、とは言えません」
「わたしも、そこまで都合のいいことは望んでいません」
「ただ、今後お会いしたとき、互いに気まずそうに廊下の端へ避けるのはやめませんか。王宮の廊下は広いですが、毎回避けるのも面倒です」
ミレイユの目に涙が浮かんだ。
「それは、許してくださるという意味ですか」
「許す途中へ進んでもいい、という意味です」
「途中……」
「人を許すことは、扉を開けるように一度で終わるものではないでしょう。昨日は腹が立って、今日は少し話してもいいと思い、明日また思い出して嫌になるかもしれない。それでも少しずつ、以前とは違う関係になれるなら、それでいいと思います」
「ありがとうございます」
「それから、オスカーは物ではありません。あなたがわたしから奪ったのではなく、彼が自分で歩いていったんです。すべてをあなたの罪にする必要はありません」
「セラフィナ様は、もう彼を愛していないんですか」
「その質問は、今日だけで二度目です」
「皇太子殿下にも聞かれたんですね」
「殿下ではなく、ラピスにです」
「……あの竜は遠慮がありませんね」
「殿下も聞きたそうな顔はしていました」
二人は顔を見合わせ、初めて少しだけ笑った。
「オスカーへの気持ちは、自分でもまだわかりません。ただ、戻るつもりはありません」
「皇太子殿下のことは?」
「それも、まだわかりません」
「そうですか」
「何です、その顔は」
「いえ。オスカーの話をするときより、殿下のことをわからないと言うときのほうが、少しだけ嬉しそうに見えたので」
「気のせいです」
「そういうことにしておきます」
「ミレイユ様は、オスカーとどうするんですか」
「彼には、わたしが自分で考えて決めるまで待ってもらいます。助けてくれたことと、嘘をついたことは別ですから」
「それがいいと思います」
「でも、今朝から三度も謝罪の手紙が届いています」
「オスカーは昔から、文章なら反省できるんです。対面すると、相手の顔色が怖くなって余計な言い訳を始めます」
「一通目には言い訳が四枚続いていました」
「変わっていませんね」
「二通目からは便箋一枚になりました」
「少し学習したようです」
面倒な男を知る二人のあいだに、奇妙な共感が生まれた。
恋敵という言葉で片づけてしまえば、互いを憎むのは簡単だった。
けれど話してみれば、ミレイユもまた、オスカーの弱さと嘘へ振り回された一人なのだ。
「できました」
ミレイユが一歩下がる。
「とても綺麗です」
セラフィナが身につけているのは、青みを帯びた銀色のドレスだった。華やかだが過度な装飾はなく、宝石職人としての彼女らしさを残した意匠になっている。
右手には、王妃の青い指輪。
左手首には、母の月長石。
その二つが、今夜カシアンを見つけるための武器だった。
◇
王宮大広間には、王都にいる主要な貴族と高官がほとんど集められていた。
七日後に戴冠式が行われるという突然の布告。その翌日に開かれた婚約披露宴。
誰もが事情を知りたがっている。
ルシアンと腕を組んで階段を下りると、数百人分の視線が一斉にセラフィナへ向いた。
「緊張しているか」
「しています。手が冷たいでしょう」
「私も冷たい」
「殿下でも緊張するんですか」
「君と同じだと知られて、偽物に利用されたくない」
「今の理由は、少し無理がありませんか?」
「では訂正する。君が見ている前で、踊りを間違えたくない」
「殿下は踊りで失敗しないでしょう」
「失敗しないよう、昨夜ノアを相手に練習した」
セラフィナは思わず足を止めかけた。
「本当ですか?」
「本当だ」
「ノアは女性役を?」
「身長が近かった」
「あとで詳しく聞かせてください」
「忘れてくれ」
「嬉しかったことは覚えておくと、殿下が言いました」
「これは私にとって嫌なことだ」
「わたしには面白いことです」
ルシアンはわずかに眉を寄せたが、緊張が少し薄れたようだった。
二人が広間の中央へ進むと、年配の侯爵夫人が扇を口元へ当てながら声をかけてきた。
「リード伯爵令嬢。先日はベルモント子息との婚約を解消され、今日は皇太子殿下の婚約者ですか。若い方は気持ちの切り替えが早くて、羨ましいことですわ」
周囲の貴族たちが、聞こえないふりをしながら耳を傾けている。
「わたしも、人生で一番慌ただしい一日だったと思っております」
セラフィナは微笑んだ。
「ですが、婚約破棄された側がいつまで悲しむべきかを決めた法律は、まだこの国にはなかったと記憶しております」
「まあ。わたくしはただ、皇太子殿下ほどの方が、ずいぶん急な決断をなさったと思っただけですの」
「急いだのは私だ」
ルシアンが口を挟んだ。
「彼女は一度断った。それでも必要だと頼み、条件を提示され、私がすべて受け入れた。何か不満があるなら、セラフィナではなく私へ言え」
侯爵夫人の笑みが引きつった。
「不満など、とんでもございません。お似合いのお二人ですわ」
「ならば結構だ」
夫人が去ると、セラフィナは小声で言った。
「少し怖かったですよ」
「彼女が?」
「殿下がです。あの方、二度とわたしへ話しかけてくださらないかもしれません」
「困るのか」
「社交界では、敵を増やしすぎないことも大切です」
「君を傷つける者と、無理に付き合う必要はない」
「殿下は、嫌いな相手を無視しても国が動く立場だから言えるんです。普通の人間は、嫌いな相手とも挨拶をし、機嫌が悪いとわかっていても仕事を頼まなければならないんですよ」
「王族も似たようなものだ。嫌いな相手ほど、笑顔で食事へ招く」
「それはそれで怖い世界ですね」
楽団が最初の曲を奏で始めた。
ルシアンが手を差し出す。
「踊っても?」
「はい」
彼の手が腰へ触れる。
人前でも律儀に許可を求める姿を見て、一部の令嬢が驚いたように目を見開いていた。
「練習の成果を見せてください」
「ノアよりは踊りやすいはずだ」
「比べられても嬉しくありません」
二人は広間の中央で踊り始めた。
ルシアンの動きは正確だったが、わずかに右肩を庇っている。セラフィナが歩幅を狭めると、彼はすぐに気づいた。
「合わせなくていい」
「殿下こそ、怪我をしているのに無理をしないでください」
「周囲へ知られる」
「婚約者の前でだけ格好をつけるという選択肢はないんですか」
「君の前では、もうかなり格好の悪いところを見せた」
「そのおかげで、少し話しやすくなりました」
「ならば悪くない」
回転したとき、青い指輪が熱を持った。
セラフィナは息を呑む。
「反応したのか」
「少しだけ。ですが、どこからかはわかりません」
周囲には何百人もの人間がいる。誰がカシアンなのか、指輪の熱だけでは特定できない。
さらに、広間中の宝石がざわめき始めた。
喜び、嫉妬、打算、退屈。
大勢の感情が石から滲み、セラフィナの耳へ押し寄せる。
「顔色が悪い」
「まだ大丈夫です」
「その言葉は信用しないと決めている」
ルシアンは曲が終わると、セラフィナを広間の端へ連れていった。
柱の陰ではラピスが卓上の果物籠に隠れ、招待客の匂いを嗅いでいる。
「黒い匂い、いる」
「誰かわかりますか」
「動くから混ざる。甘い匂いも、お酒も、香水も多い。人間、宴のとき臭い」
「もう少し上品に言えませんか」
「臭いものは臭い」
そのとき、大広間の扉が開いた。
遅れてきた客かと思い、誰もが入口へ目を向ける。
そこに立っていたのは、銀青色のドレスを着た一人の令嬢だった。
髪型も、花飾りも、首から下げた月長石も同じ。
右手には、王妃の青い指輪まで嵌められている。
セラフィナ自身と、まったく同じ姿だった。
「殿下、その女から離れてください!」
もう一人のセラフィナが叫んだ。
「わたしが本物です! その女は控え室でわたしを襲い、姿を奪ったカシアンです!」
広間が騒然となる。
「違います!」
セラフィナが声を上げた。
「殿下、わたしが本物です!」
「騙されないでください! 偽物は、わたしの記憶まで盗んでいます!」
入口に立つセラフィナは、目に涙を浮かべた。
「三か月の偽装婚約。十九項目の契約。接触するときは許可を取ること。殿下が昨日、三か月後もわたしを帰したくないと言ったことまで、あの女は知っているんです!」
公開していないはずの情報が、次々と偽物の口から語られていく。
ルシアンがセラフィナの前へ立ち、剣の柄へ手を掛けた。
けれどその剣先が、どちらへ向くのかはまだわからない。
同じ顔。
同じ声。
同じ指輪。
そして二人とも、ルシアンだけを見つめていた。




