第18話 二人の婚約者を前に、冷徹皇太子は迷わず本物を選びました
大広間にいる全員の視線が、二人のセラフィナへ注がれていた。
片方はルシアンの隣に立ち、もう片方は入口で肩を震わせている。ドレスも髪型も、母の月長石さえ同じだった。
「その女から離れてください」
入口に立つセラフィナが、涙を流しながら訴えた。
「わたしは控え室で襲われました。鏡の中から現れた男に、顔と声を奪われたんです。殿下の隣にいる女はカシアンです!」
「違います。わたしは最初から殿下と一緒にいました」
セラフィナは反論したものの、自分の声で自分を偽物だと責められるのは、想像以上に気味が悪かった。
「それこそ嘘です! カシアンは他人の記憶まで石から盗めるんです。三か月の偽装婚約も、十九項目の契約も知っている。殿下が傷を負ったとき、わたしが包帯を巻いたことも……三か月後も帰したくないと言われたことも!」
招待客たちのざわめきが大きくなる。
「偽装婚約ですって?」
「では、この披露宴も芝居なのか?」
「どちらが本物だ……」
混乱が広がる中、ルシアンは剣を抜かなかった。
セラフィナからも、入口の偽物からも同じだけ距離を取り、二人の顔を順番に見た。
「殿下」
偽物が一歩近づく。
「怖いんです。早く助けてください」
「そこから動くな」
「どうしてですか。わたしが本物なのに……」
「確認する」
ルシアンは偽物へ問いかけた。
「三か月後も?」
偽物は一瞬だけ目を見開いた。
けれど、すぐに嬉しそうな笑みを浮かべる。
「もちろん、殿下のおそばにいます。もう偽装ではありません。わたしも殿下を愛していますから」
広間のあちこちから、安堵するような溜息が漏れた。
いかにも婚約披露宴にふさわしい、美しい答えだった。
ルシアンは何も言わず、今度はセラフィナを見る。
「三か月後も?」
セラフィナは小さく息を吸った。
「今は、そこまでです」
招待客たちが困惑する。
婚約者から将来を尋ねられた令嬢の答えとしては、あまりにも素っ気ない。
「昨日も申しましたが、三か月後のことは三か月後に考えます。人前だからといって、勝手に契約を延長しないでください」
「そうだったな」
ルシアンは迷わずセラフィナの隣へ戻った。
剣を抜き、その切っ先をもう一人のセラフィナへ向ける。
「そちらが偽物だ」
「待ってください!」
偽物の顔から笑みが消えた。
「その女が、わたしの答えを盗んだんです。今の質問も合言葉だったのでしょう? わたしが答えたあとで、わざと違うことを言っただけです!」
「違う」
「何を根拠に!」
「君は、私が望む答えを言いすぎた」
ルシアンの声は静かだった。
「本物のセラフィナは、私が困るとわかっていても、自分が納得できないことには同意しない。まして人前だからという理由で、気持ちまで取り繕ったりしない」
「そんなもの、ただの思い込みです!」
「そうかもしれない。だが私は、彼女を選ぶ」
ルシアンはセラフィナの前へ手を差し出した。
「触れても?」
「はい」
セラフィナがその手を取る。
偽物は怒りに顔を歪めた。
「許可を取ったから何だというんです! そんなこと、わたしだってできます!」
「できるだろう。だが本物は、触れられる前に確認されなければ、あとで必ず文句を言う」
「殿下。見分け方が、先ほどから少し失礼です」
「ほらな」
「今のは証明のために言ったわけではありません」
「それも本物らしい」
ルシアンの指が、セラフィナの手を強く握った。
同じ顔や声を持つことはできても、二人の間に積み重なった面倒なやり取りまでは奪えない。
「茶番です!」
偽物が叫んだ。
「たった一日しか一緒にいない女を、本当に理解したつもりですか!」
「理解したとは思っていない」
ルシアンは即答した。
「だから、これから聞く。わかったつもりにならず、何度でも確かめる。偽物のおまえには、必要のないことだ」
偽物のセラフィナが右手を振り上げた。
青い指輪が赤く光る。
「伏せろ!」
ルシアンがセラフィナを抱き寄せた直後、指輪から鋭い鏡の破片が放たれた。
大広間の壁や柱へ破片が突き刺さり、招待客から悲鳴が上がる。近衛兵が偽物を取り囲んだが、本人は喉元から細い短剣を取り出し、自分の胸へ向けた。
「止めてください!」
セラフィナはルシアンの腕から抜け出した。
「近づくな!」
「指輪から声がします。あの人は自分の意志で動いていません!」
偽物の青い指輪から聞こえるのは、カシアンの声ではなかった。
誰かが泣いている。
『やめろ。息子には手を出さないでくれ』
『何でもする。だからオスカーだけは――』
「ベルモント伯です」
「何?」
「あの方の正体は、オスカーのお父様です!」
短剣が胸へ突き刺さる寸前、ラピスが飛びかかった。
「偽物の青!」
ラピスは指輪へ噛みつき、そのまま石ごと引き抜く。
「返せ!」
「まずい!」
「食べないでください!」
「少し噛んだ。すごくまずい!」
ラピスが指輪を吐き出すと、偽物の身体を覆っていた銀色の光が剥がれ始めた。
セラフィナの顔が歪む。
銀青色のドレスが、煤に汚れた男物の上着へ変わる。
床へ膝をついたのは、五十歳前後の痩せた男だった。火事で顔の一部を焼き、左腕にも血の滲んだ包帯が巻かれている。
「ベルモント伯……」
セラフィナは、七年間の婚約中に何度も顔を合わせた男を見下ろした。
「あなたが、わたしのお母様の工房へ火をつけたんですね」
ベルモント伯は否定しなかった。
ただ、床へ両手をついたまま震えている。
「最初は、指輪を預かるだけだった」
掠れた声が漏れた。
「王家から流れてきた品を、しばらく保管する。そう頼まれただけだ。ベルモント家を王室御用達にしてやると言われた。あのころの我が家は借金だらけで、このままでは爵位も屋敷も失うところだった」
「だから、盗まれた王妃様の指輪を受け取ったんですか」
「一度だけのつもりだった」
「人は皆、そう言いますね」
セラフィナは自分の声が震えないよう、両手を強く握った。
「最初から、人を殺すつもりだったわけではない。一度だけ。家族を守るため。少し黙っているだけ。そうやって小さな卑怯を選び続けた結果が、今なんでしょう」
「エリーゼが工房にいるとは知らなかった」
「火をつけたことは否定しないんですね」
「帳面を燃やせと言われた。夜なら誰もいないはずだった。裏口へ鍵を掛け、火をつけて……中から、誰かが扉を叩く音がした」
胸の奥で、何かが切れた。
「それでも、開けなかったんですか」
「怖かった」
「お母様は、もっと怖かったでしょうね」
「わかっている」
「わかっていません。扉の外にいた人が、扉の中で亡くなった人の気持ちを、わかったように言わないでください」
ベルモント伯が床へ額をつけた。
「すまない」
「謝らないでください」
セラフィナは唇を噛んだ。
「今、謝られたら、わたしはどうすればいいんです。許さなければ残酷な娘になりますか? 殴れば気が済むんですか? あなたが泣いて反省したら、お母様は戻ってくるんですか?」
「戻らない」
「なら、わたしを楽にするような顔で謝らないでください。あなたの謝罪を受け取るかどうかは、今のわたしには決められません」
ルシアンが隣へ立った。
触れず、ただそこにいる。
その距離が、今はありがたかった。
「なぜカシアンに従って、ここへ来た」
ルシアンが尋ねる。
「断れば、オスカーを殺すと言われた。ミレイユ嬢を逃がしたのも、私がすべて話す可能性を疑われたからだ。鏡晶を嵌められ、命令へ逆らえなくされた」
「おまえは息子を守っているつもりか」
「そんな資格がないことは、わかっている」
「資格の話ではない。オスカーが何を望んでいるか尋ねたのか。自分の父親が人を殺し、自分を理由にさらに罪を重ねることを、彼が喜ぶと思ったのか」
「思わない」
「ならば守っていたのは息子ではない。息子を失った自分を見たくなかっただけだ」
ベルモント伯は、何も言えなかった。
ルシアン自身も、父親の「守る」という沈黙へ傷つけられてきた。だからこそ、その言葉が誰のために使われているのかを見抜けるのだろう。
「カシアンはどこにいる」
ルシアンが重ねて問う。
「この広間だ」
ベルモント伯は顔を上げ、周囲を見回した。
「私をセラフィナ嬢の姿で入らせ、自分は誰にも疑われない顔で現れると言っていた」
「誰の顔だ」
「この国で、皇太子殿下へ剣を下ろせと命じられる人間は一人しかいない」
その言葉が終わるのと同時に、大広間の正面扉が開いた。
「剣を収めよ、ルシアン」
杖をつき、国王が入ってきた。
病にやつれた顔。
白いものが混じった髪。
息子と同じ灰青色の瞳。
背後には王室宝飾局の職人と、国王付きの近衛兵を従えている。
「父上……?」
招待客たちが一斉に頭を下げる。
「国王陛下!」
「御病状が回復されたのか!」
だが本物の国王は今、皇太子宮の一室で侍医の監視下にいる。
セラフィナの青い指輪が、火傷しそうなほど熱くなった。
肩の上でラピスが翼を逆立てる。
「王さまの顔」
小さな竜は、国王と同じ姿をした男へ牙を剥いた。
「でも、王さまじゃない」
偽の国王――死んだはずの王弟カシアンは、兄と同じ顔で笑った。
「皇太子ルシアンは、偽物の婚約者に操られている。両名を国家反逆罪で拘束せよ」
今度はセラフィナではなく、ルシアンが偽物にされようとしていた。




