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『婚約破棄されて返した指輪から、亡き王妃の声が聞こえます ~石の記憶を読む地味令嬢、冷徹皇太子の偽婚約者になりました~』  作者: 極楽鳥


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42/43

第42話 見つけた妹は、「姉上に殺された」と泣いていました

 旧王妃礼拝堂へ向かう前に、セラフィナは血に濡れたドレスを着替えさせられた。


「このまま行きます」


 時間が惜しくてそう主張したが、ルシアンに止められた。


「君の姿を見れば、リディア皇女は自分の偽りの記憶が正しかったと思う。彼女の中では、アウレリア皇女が君を殺したことになっているのだろう」


 言われて初めて、自分の胸元まで血に染まっていることに気づいた。


 すべてアウレリアの血だ。


 だが、事情を知らない者が見れば、セラフィナ自身が刺されたようにしか見えない。


「わかりました。着替えます」


「医師の診察も」


「怪我はありません」


「転んだときに膝を打っている」


「見ていたんですか」


「見ていた。君が歩けなくなったことも」


「それは恐怖で力が抜けただけです」


「診察を受けない理由にはならない」


「リディア殿下を待たせています」


「十分でいい」


「五分です」


「八分」


「六分」


「七分」


「……わかりました」


 廊下にいたノアが、感心したように頷いた。


「殿下は本当に交渉を覚えましたね」


「いま褒められても嬉しくない」


「以前でしたら、問答無用で医師へ運ばせていました」


「俺もそうしたい」


「顔に出ています」


 診察を終えたセラフィナは、装飾のない灰青色のドレスへ着替えた。


 婚約指輪は封印されたまま。髪飾りや耳飾りもすべて外し、宝石を一つも身につけていない。紅涙冠が、どの石を通して記憶へ触れてくるかわからないからだ。


 ルシアンも王家の装身具を外していた。剣の柄にあった小さな宝石まで取り除き、代わりに革を巻いている。


「殿下は、礼拝堂の外でお待ちください」


「断る」


「リディア殿下は、私に話しかけました。大勢で囲めば警戒します」


「君を殺そうとした相手のところへ、一人で行かせると思うか」


「一人で行くとは言っていません。ミレーユ様と、女性の近衛に同行していただきます」


「俺では駄目なのか」


「殿下は大切な婚約者が殺されかけた直後です。ご自分では冷静なつもりでも、リディア殿下が少し動いただけで剣を抜くでしょう」


 ルシアンは反論しなかった。


 否定できないらしい。


「それに私は、もう殿下を愛していません」


「朝から二度目だな」


「事実として必要だから言っています。殿下の感情に引かれて、無理にリディア殿下を庇うことはありません。危険だと判断したら、退きます」


「君は愛情がなくても、他人のために残る」


「それも事実ですね」


「まったく安心できない」


「では、扉の外にいてください。私が助けを求めたら、すぐ入れる距離に」


「最初から、そうするつもりだったのだろう」


「殿下が自分で譲ったと思えるよう、交渉しました」


「ノアとミレーユから、余計なことばかり学んでいるな」


 旧王妃礼拝堂は、王宮の北東にある小さな建物だった。


 現在は使われておらず、祭壇を覆う白布にも、長椅子にも埃が積もっている。かつて壁へは色硝子がはめ込まれていたが、カシアンの鏡術を警戒して取り外され、いまは木板で塞がれていた。


 礼拝堂の扉は内側から長椅子で塞がれている。


 隙間から、少女の泣き声が聞こえた。


「リディア殿下」


 扉越しに、セラフィナが呼びかける。


「その名前を呼ばないで!」


 中から即座に返事があった。


「承知しました。では、お名前では呼びません」


「近づかないで。姉上がいるのでしょう」


「アウレリア殿下は治療を受けています」


「嘘。さっきまでここにいた。私の胸を刺して、笑っていた」


「あなたの胸に傷はありません」


「見てもいないのに、どうしてわかるの!」


「近衛から報告を受けました。あなたの外傷は左手の切り傷だけです」


「姉上が、傷を消したのよ。いつもそう。自分がしたことを、なかったことにする」


 扉の向こうで、何かが床へ落ちた。


 ルシアンが剣へ手を伸ばす。


 セラフィナは振り返り、首を振った。


「扉を少しだけ開けていただけませんか」


「嫌」


「では、そのままで構いません。私は外へ座ります」


「何をするつもり?」


「話をします」


「私を騙すのでしょう」


「私が何を言っても、すぐに信じる必要はありません」


「信じなくていいの?」


「はい。信じるかどうかは、聞いたあとでご自分で決めてください」


 長い沈黙のあと、内側で長椅子が動く音がした。


 扉が指二本分ほど開く。


 隙間から、赤みを帯びた金色の瞳がこちらを見ていた。


「一人?」


「後ろにミレーユ様と女性の近衛が二人。さらに離れたところにルシアン殿下がいます。隠して近づけることはしません」


「姉上は?」


「いません」


「死んだの?」


「生きています」


「私が殺したの?」


 セラフィナは答えに詰まった。


 問いの形になった言葉へ、紅涙冠が反応する可能性がある。すでにリディアの体内か記憶のどこかに、七つの石とのつながりが残っている。


「あなたが持っていた短剣で、アウレリア殿下は傷を負いました」


「答えていない」


「石に聞かれないよう、質問には答えません。事実だけをお伝えします」


「ずるい」


「そうですね」


「否定しないの?」


「否定したところで、ずるくなくなるわけではありません」


 扉の隙間が、ほんの少し広がった。


 リディアは侍女の服を着たまま、祭壇近くの床へ座り込んでいた。


 左手には布が巻かれている。胸には傷一つない。それでも彼女は右手で胸元を押さえ、息をするたびに痛そうな顔をした。


「入ってもよいですか」


「一人なら」


 セラフィナはルシアンを見る。


「扉は完全には閉めません。異変があれば呼びます」


「十歩以上近づくな」


「努力します」


「約束してくれ」


「状況を見て判断します」


「それは約束ではない」


「できない約束はしないほうがよいと、殿下もおっしゃいました」


 ルシアンは不満そうだったが、最後には頷いた。


「危険だと思ったら、俺の許可を待たずに逃げろ」


「はい」


 セラフィナは一人で礼拝堂へ入った。


 リディアから十歩以上離れた長椅子へ腰を下ろす。扉は腕一本分ほど開けたままにした。


「近くに来ないの?」


「来てほしいですか」


「質問しないで!」


 リディアが耳を塞ぐ。


「申し訳ありません。いまの言葉は取り消します」


「言った言葉が、取り消せるわけないでしょう」


「そうですね。次から気をつけます」


「姉上みたい」


 リディアの声に、強い嫌悪が混じった。


「姉上も、間違えるとすぐ『あなたのためだった』と言うの。謝っているような顔をして、結局は自分が正しかったと言い張る。私を別宮へ閉じ込めたときも、手紙を捨てたときも、全部そう」


「アウレリア殿下は、あなたへ嘘をつきました。選ぶ権利を奪ったこともあります」


「では、姉上が悪いと思う?」


「悪かった部分はあります」


「それなのに、姉上の味方をするの?」


「誰かを助けることと、その人がしたことをすべて正しいと言うことは違います」


「姉上は父上を殺した」


「その可能性は否定できません」


 リディアが顔を上げる。


「否定しないの?」


「アウレリア殿下自身に、その夜の記憶がありません。ただし、殿下が犯人だという証拠もありません。紅い石が見せた映像は、真実ではなく、あなたが恐れていたことから作られた可能性があります」


「私は見たのよ。姉上が短剣を持っていた」


「アウレリア殿下も、目を覚ましたときに短剣を持っていたそうです」


「なら、やはり」


「今日、あなたが握っていたものと同じ短剣です」


 リディアの表情が止まった。


「嘘」


「短剣は太陽獅子の紋章入り。柄には、紅涙冠とつながった小さな石が埋め込まれていました」


「違う。あれは先生が、私を守るためにくれたものよ」


「先生とは、ヴェイロン宰相ですか」


 返事はなかった。


 だがリディアの顔に浮かんだ動揺が、答えを示している。


「その名前を、どこで知ったの」


「アウレリア殿下から聞きました。カシアンも、よく似た人物から記憶石の技術を教えられています」


「先生は私を助けてくれた。姉上から逃がしてくれたのよ」


「あなたを王宮へ入れたのも?」


「わからない」


 リディアは両手で頭を抱えた。


「覚えているの。先生が馬車を用意してくれた。国境を越えて、私が一人でこの国へ来た。でも、侍女として働き始めた日を数えると、そんな時間はない。私が二人いたみたいに、記憶が重なっているの」


「どちらかが偽物だと思いますか」


 また質問をしてしまった。


 セラフィナが口を押さえると、リディアは怯えたように天井を見た。


 何も起きない。


 少なくとも、目に見える変化はなかった。


「わからない」


 リディアは小さく答えた。


「何を信じても、その下から別の記憶が出てくる。姉上に抱かれたことを思い出した次の瞬間、首を絞められたことになっている。父上に菓子を焼いてもらったはずなのに、そんな日はなかったと頭の中で誰かが言う」


「怖いですね」


「同情しないで」


「私も、愛していた人への気持ちを奪われました」


 リディアがセラフィナを見る。


「殿下を?」


「はい。昨日まで愛していたそうですが、今は何も感じません」


「悲しくないの?」


「殿下が傷ついていることは悲しいです。でも、愛情を失ったこと自体を悲しむ気持ちまで、一緒に奪われたのかもしれません」


「では、あなたは平気なの?」


「平気ではありません。周囲の人は昨日までの私を知っているのに、私だけが知らない。何をしても以前と比べられているようで、試験を受けている気分になります」


「同じ」


 リディアが呟いた。


「みんな、以前の私に戻れと言う。姉上を好きだった私、父上を信じていた私、自分の名前を嫌がらなかった私。でも、その私はもういないかもしれないのに」


「戻らなくてもよいと思います」


「嘘よ」


「以前と同じにならなくても、今のあなたが何を選ぶかは決められます。私はいま、殿下を愛していません。それでも、もう一度知るための三か月を自分で選びました」


「また好きにならなかったら?」


「そのとき考えます」


「殿下が怒るかもしれない」


「きっと傷つきます。もしかすると面倒なくらい縋るでしょう。でも、私が嫌だと言えば止まる人だと、今日の私は判断しました」


「姉上は止まらない」


「なら、止まるよう教えなければなりません」


「そんなこと、できるの?」


「アウレリア殿下はかなり頑固なので、時間はかかるでしょう」


 リディアの口元が、ほんの少し動いた。


「姉上を悪く言っているの?」


「事実を言っています」


「本人の前で言ったら怒るわ」


「すでに何度か言いました」


「よく生きているわね」


「先ほどは、殿下に庇っていただきましたから」


 笑いかけたリディアの表情が凍る。


「私が刺したというの?」


「あなたが短剣を突き出し、アウレリア殿下が私の前へ入りました」


「違う。姉上が私を刺した」


 リディアは胸元を強く押さえた。


「ここが痛いの。刃が入って、血があふれた感覚もある。嘘ではないわ!」


「嘘をついているとは思っていません」


「では、信じる?」


「痛みを感じていることは信じます。ですが、その痛みの原因が記憶どおりだとは限りません」


「どうして、そんな言い方をするの」


「宝石に残った記憶も、人間の記憶も、起きたことをそのまま記録しているわけではないからです。感じたことは本物でも、理由が正しいとは限りません」


「私の痛みが偽物だと言うの?」


「本物です。だからこそ、偽りの記憶で作られた痛みなら、原因を取り除きたい」


 セラフィナは布に包んだ青い首飾りを取り出した。


「これは、あなたが私へ託したものです」


「私の首飾り……」


「紅涙冠へ触れる前の記憶が残っています。読むことも、聞くことも強制しません。ここへ置きます」


 セラフィナは自分とリディアの中間にある長椅子へ、首飾りを置いた。


「持ってきて」


「私が近づくと怖いでしょう」


「怖くない」


「手が震えています」


「これは寒いからよ」


「では、無理に近づきません。ご自分で取るか、いまは見ないか、選んでください」


「私を助けたいなら、無理やり聞かせればいいでしょう」


「多くの人が、あなたのためという理由で、あなたから選ぶ権利を奪いました。私まで同じことはしたくありません」


 リディアは首飾りを見つめたまま、動かなかった。


 やがて、床を這うようにして近づき、自分の手で青い石を取った。


「触れても、何も聞こえない」


「私が石の残響を外へ出すことはできます。ただし、あなたの許可が必要です」


「私が嫌だと言ったら?」


「何もしません」


「姉上が死ぬかもしれなくても?」


「それでもです」


 リディアは疑うようにセラフィナを見ていた。


「……聞かせて」


「表面の記憶だけでよいですか」


「全部は嫌」


「では、もっとも強く残っている一つだけにします」


 セラフィナは首飾りそのものには触れず、その下の銀布へ指を置いた。


 夜星糊で細い輪を描く。


 青い石から、幼い少女の泣き声が流れた。


『姉上、母上は来ないの?』


『来るわ。だから眠りなさい』


『嘘。母上はもう死んだのでしょう?』


『……ええ』


『姉上は嘘つき』


『そうね。でも、今夜は一人にしない』


 幼いアウレリアの声が消えたあとも、別の音が残っていた。


 小さな声で歌われる、ソルヴェインの子守歌。


 記憶の中の歌が二節目へ入る前に、リディアの唇が動いた。


 石に記録されていないはずの続きを、彼女自身が歌った。


 歌い終えたことに気づき、リディアは青い首飾りを胸へ抱く。


「姉上は、最後の一節をいつも間違えた」


 涙が頬を伝った。


「私が直すと、わざとだと言い張ったの。本当は覚えられなかっただけなのに」


「その記憶は、まだあなたの中にあります」


「でも、姉上が私を刺した記憶もある」


「どちらかを、いま決める必要はありません」


「二つとも本物に感じるのに、どうやって生きればいいの?」


「行動する前に、ほかの記録と照らし合わせます。信頼できる人を一人に絞らず、違う立場の人から話を聞く。そして、わからないときは、わからないまま待つ」


「そんなに面倒なことを、毎回するの?」


「はい。人間は、かなり面倒ですから」


 扉の外から、衣擦れの音が聞こえた。


「今の言葉、私の受け売りでしょう」


 アウレリアの声だった。


 リディアが激しく身を震わせる。


「どうして、ここにいるの」


「治療が終わったからよ」


「嘘。私が刺されたのに」


「刺されたのは私」


「近づかないで!」


「入らないわ。扉の外にいる」


 アウレリアの声は弱い。


 侍医の制止を振り切って来たのだろう。


「リディア。あなたに許してほしいとは言わない。父上が亡くなったことを隠し、あなたを別宮へ閉じ込めた。手紙も捨てたし、護衛を侍女だと偽した。すべて自分が正しいと思っていた」


「私のためだったのでしょう」


「ええ。でも、あなたのためという言葉を、何をしても許される札のように使った。あなたが嫌がる理由を聞かず、危険だからと私が決めた」


「いまさら謝って、何になるの」


「何にもならないかもしれない」


 アウレリアは、すぐに許しを求めなかった。


「過去は変わらない。あなたが私を信じられないのも当然よ。ただ、今日、あなたがセラフィナへ短剣を向けたとき、私は間へ入った。そのことまで、なかったことにされたくない」


「姉上が私を刺した」


「あなたには、そう感じられるのね」


「嘘だと思っているでしょう!」


「いいえ。私も父上の遺体のそばで短剣を握っていた。自分が殺したのかもしれないという記憶の穴を、ずっと抱えている。だから、自分の手でしていないことまで、したように感じる怖さはわかる」


 リディアは首飾りを握りしめた。


「姉上は、私を嫌い?」


「腹は立っている」


 あまりに正直な返事だった。


「胸は痛いし、侍医には当分寝ていろと言われた。せっかくのドレスも血まみれになった。何より、私の話を聞かずに逃げ回ったあなたへ、怒っている」


「なら」


「それでも、愛している。怒っていることと愛していることは、同時に持てるわ」


「私がまた刺したら?」


「次は避ける」


「避けるだけ?」


「必要なら殴る」


「皇女殿下」


 セラフィナが思わず止める。


「殺さない程度によ」


「そういう問題ではありません」


 リディアの喉から、笑いとも泣き声ともつかない音が漏れた。


「姉上らしい」


「今の言葉は、どちらの記憶から出たの?」


「わからない」


「なら、どちらでもいいわ」


 アウレリアは扉の外へ座ったらしい。


「ここにいる。あなたが出てくるまで待つ」


「また、私を連れ戻すつもり?」


「連れ戻さない。保護はするけれど、閉じ込める場所と、会いたくない相手はあなたが選んでいい」


「ヴェイロン先生に会いたいと言ったら?」


 アウレリアは長く黙った。


「……いまは会わせられない」


「やはり、姉上が決めるのね」


「そうよ。あなたへ短剣を渡した可能性がある人間と、二人きりにはできない。でも、なぜ会いたいかは聞く。手紙を出したいなら、内容を一緒に確認する。以前のように、黙って捨てることはしない」


「私は、姉上を信じられない」


「いまは、それでいい」


「触らないで」


「触らない」


「勝手に部屋へ入らないで」


「先に許可を求める」


「……本当に?」


「努力する」


「約束して」


「約束する」


 リディアはしばらく扉を見つめていた。


 やがて長椅子を動かし、自分の手で扉を開ける。


 外には、胸へ厚い包帯を巻いたアウレリアが壁にもたれて座っていた。顔色は悪く、唇も白い。それでも妹を見て、無理に立とうとはしなかった。


「近づいてもいい?」


 アウレリアが尋ねる。


 リディアは首を振る。


「嫌」


「わかった」


 その返事は、傷ついていた。


 それでもアウレリアは動かなかった。


「でも、そこにいて」


「ええ」


「私が眠るまで」


「朝まででもいるわ」


「傷が開きますよ」


 セラフィナが言うと、アウレリアは嫌そうな顔をした。


「いま、少し良い場面だったでしょう」


「良い場面で傷口が塞がるなら、侍医は必要ありません」


「本当に、情緒がないわね」


「あります。だから心配しています」


 リディアは青い首飾りを握ったまま、近衛の保護を受け入れた。


 牢へは入れない。


 窓と鏡を塞いだ客室を本人に選ばせ、扉の外に女性の近衛を置く。入室するときは必ず許可を求める。アウレリアも、リディアが望むまで中へは入らない。


 完全な解決ではない。


 リディアは依然として、自分が姉に刺されたと信じている。父親を殺した犯人も姉だと思っている。


 しかし少なくとも、二つの記憶を抱えたまま、すぐにどちらかを選ばずに待つことはできた。


 その日の夜、隔離工房には三つの石が並べられた。


 銀の檻に入れた紅涙冠の中央石。


 短剣の柄から外された、七つのうちの一石。


 そして、リディアの青い首飾り。


 ギデオンとカシアンが夜星糊の線を引き、三つの石の反応を調べる。


「つながりを逆に辿れる」


 カシアンが言った。


「紅涙冠が奪った記憶は、完全に消滅したわけではない。中央石の中で、答えを作る材料として残っている」


「では、セラフィナの記憶も戻せるのですか」


 ルシアンが身を乗り出す。


「可能性はある。リディア皇女から奪われた記憶も、アウレリア皇女の失われた夜もな」


「どうすればいいの?」


 包帯を巻いたまま椅子へ座るアウレリアが尋ねた。


 侍医には寝台から動くなと言われたはずだが、誰も彼女を止めきれなかったらしい。


「王冠を修復する」


 ギデオンが答えた。


「壊せば、内部に残る記憶も散ってしまいます。八つの石を完全につなぎ直す必要はありません。中央石の亀裂を夜星糊で塞ぎ、流れを一時的に元へ戻せば、奪われた記憶を持ち主へ返せるはずです」


「なら、すぐに直してください」


「普通の夜星糊では足りません」


「何が必要なの?」


 ギデオンは答えにくそうにセラフィナを見た。


 代わりに、カシアンが口を開く。


「記憶だ」


「また、誰かの記憶を奪うの?」


「奪うのではない。自分の意思で差し出す必要がある。紅涙冠は、失われた記憶でできた亀裂を、同じものでなければ塞げない」


「どのような記憶でもよいのですか」


 セラフィナの問いに、カシアンは首を振った。


「どうでもいい記憶では、王冠は受け取らない。忘れても構わないと思っているものにも価値はない」


「では、何を」


「差し出す者が、ほかのすべてを失っても、これだけは失いたくないと思う記憶だ」


 工房から、誰の声もなくなった。


 セラフィナの愛情を取り戻すことも、リディアの偽りの記憶を正すこともできる。


 アウレリアが父親を殺したのか、その夜の真実を取り戻せる可能性もある。


 ただし、そのためには誰かが、自分にとってもっとも大切な記憶を、自ら王冠へ差し出さなければならない。


 奪われた記憶を取り戻すために。


 まだ奪われていない一つの幸福を、今度はこちらから捨てなければならなかった。


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