第42話 見つけた妹は、「姉上に殺された」と泣いていました
旧王妃礼拝堂へ向かう前に、セラフィナは血に濡れたドレスを着替えさせられた。
「このまま行きます」
時間が惜しくてそう主張したが、ルシアンに止められた。
「君の姿を見れば、リディア皇女は自分の偽りの記憶が正しかったと思う。彼女の中では、アウレリア皇女が君を殺したことになっているのだろう」
言われて初めて、自分の胸元まで血に染まっていることに気づいた。
すべてアウレリアの血だ。
だが、事情を知らない者が見れば、セラフィナ自身が刺されたようにしか見えない。
「わかりました。着替えます」
「医師の診察も」
「怪我はありません」
「転んだときに膝を打っている」
「見ていたんですか」
「見ていた。君が歩けなくなったことも」
「それは恐怖で力が抜けただけです」
「診察を受けない理由にはならない」
「リディア殿下を待たせています」
「十分でいい」
「五分です」
「八分」
「六分」
「七分」
「……わかりました」
廊下にいたノアが、感心したように頷いた。
「殿下は本当に交渉を覚えましたね」
「いま褒められても嬉しくない」
「以前でしたら、問答無用で医師へ運ばせていました」
「俺もそうしたい」
「顔に出ています」
診察を終えたセラフィナは、装飾のない灰青色のドレスへ着替えた。
婚約指輪は封印されたまま。髪飾りや耳飾りもすべて外し、宝石を一つも身につけていない。紅涙冠が、どの石を通して記憶へ触れてくるかわからないからだ。
ルシアンも王家の装身具を外していた。剣の柄にあった小さな宝石まで取り除き、代わりに革を巻いている。
「殿下は、礼拝堂の外でお待ちください」
「断る」
「リディア殿下は、私に話しかけました。大勢で囲めば警戒します」
「君を殺そうとした相手のところへ、一人で行かせると思うか」
「一人で行くとは言っていません。ミレーユ様と、女性の近衛に同行していただきます」
「俺では駄目なのか」
「殿下は大切な婚約者が殺されかけた直後です。ご自分では冷静なつもりでも、リディア殿下が少し動いただけで剣を抜くでしょう」
ルシアンは反論しなかった。
否定できないらしい。
「それに私は、もう殿下を愛していません」
「朝から二度目だな」
「事実として必要だから言っています。殿下の感情に引かれて、無理にリディア殿下を庇うことはありません。危険だと判断したら、退きます」
「君は愛情がなくても、他人のために残る」
「それも事実ですね」
「まったく安心できない」
「では、扉の外にいてください。私が助けを求めたら、すぐ入れる距離に」
「最初から、そうするつもりだったのだろう」
「殿下が自分で譲ったと思えるよう、交渉しました」
「ノアとミレーユから、余計なことばかり学んでいるな」
旧王妃礼拝堂は、王宮の北東にある小さな建物だった。
現在は使われておらず、祭壇を覆う白布にも、長椅子にも埃が積もっている。かつて壁へは色硝子がはめ込まれていたが、カシアンの鏡術を警戒して取り外され、いまは木板で塞がれていた。
礼拝堂の扉は内側から長椅子で塞がれている。
隙間から、少女の泣き声が聞こえた。
「リディア殿下」
扉越しに、セラフィナが呼びかける。
「その名前を呼ばないで!」
中から即座に返事があった。
「承知しました。では、お名前では呼びません」
「近づかないで。姉上がいるのでしょう」
「アウレリア殿下は治療を受けています」
「嘘。さっきまでここにいた。私の胸を刺して、笑っていた」
「あなたの胸に傷はありません」
「見てもいないのに、どうしてわかるの!」
「近衛から報告を受けました。あなたの外傷は左手の切り傷だけです」
「姉上が、傷を消したのよ。いつもそう。自分がしたことを、なかったことにする」
扉の向こうで、何かが床へ落ちた。
ルシアンが剣へ手を伸ばす。
セラフィナは振り返り、首を振った。
「扉を少しだけ開けていただけませんか」
「嫌」
「では、そのままで構いません。私は外へ座ります」
「何をするつもり?」
「話をします」
「私を騙すのでしょう」
「私が何を言っても、すぐに信じる必要はありません」
「信じなくていいの?」
「はい。信じるかどうかは、聞いたあとでご自分で決めてください」
長い沈黙のあと、内側で長椅子が動く音がした。
扉が指二本分ほど開く。
隙間から、赤みを帯びた金色の瞳がこちらを見ていた。
「一人?」
「後ろにミレーユ様と女性の近衛が二人。さらに離れたところにルシアン殿下がいます。隠して近づけることはしません」
「姉上は?」
「いません」
「死んだの?」
「生きています」
「私が殺したの?」
セラフィナは答えに詰まった。
問いの形になった言葉へ、紅涙冠が反応する可能性がある。すでにリディアの体内か記憶のどこかに、七つの石とのつながりが残っている。
「あなたが持っていた短剣で、アウレリア殿下は傷を負いました」
「答えていない」
「石に聞かれないよう、質問には答えません。事実だけをお伝えします」
「ずるい」
「そうですね」
「否定しないの?」
「否定したところで、ずるくなくなるわけではありません」
扉の隙間が、ほんの少し広がった。
リディアは侍女の服を着たまま、祭壇近くの床へ座り込んでいた。
左手には布が巻かれている。胸には傷一つない。それでも彼女は右手で胸元を押さえ、息をするたびに痛そうな顔をした。
「入ってもよいですか」
「一人なら」
セラフィナはルシアンを見る。
「扉は完全には閉めません。異変があれば呼びます」
「十歩以上近づくな」
「努力します」
「約束してくれ」
「状況を見て判断します」
「それは約束ではない」
「できない約束はしないほうがよいと、殿下もおっしゃいました」
ルシアンは不満そうだったが、最後には頷いた。
「危険だと思ったら、俺の許可を待たずに逃げろ」
「はい」
セラフィナは一人で礼拝堂へ入った。
リディアから十歩以上離れた長椅子へ腰を下ろす。扉は腕一本分ほど開けたままにした。
「近くに来ないの?」
「来てほしいですか」
「質問しないで!」
リディアが耳を塞ぐ。
「申し訳ありません。いまの言葉は取り消します」
「言った言葉が、取り消せるわけないでしょう」
「そうですね。次から気をつけます」
「姉上みたい」
リディアの声に、強い嫌悪が混じった。
「姉上も、間違えるとすぐ『あなたのためだった』と言うの。謝っているような顔をして、結局は自分が正しかったと言い張る。私を別宮へ閉じ込めたときも、手紙を捨てたときも、全部そう」
「アウレリア殿下は、あなたへ嘘をつきました。選ぶ権利を奪ったこともあります」
「では、姉上が悪いと思う?」
「悪かった部分はあります」
「それなのに、姉上の味方をするの?」
「誰かを助けることと、その人がしたことをすべて正しいと言うことは違います」
「姉上は父上を殺した」
「その可能性は否定できません」
リディアが顔を上げる。
「否定しないの?」
「アウレリア殿下自身に、その夜の記憶がありません。ただし、殿下が犯人だという証拠もありません。紅い石が見せた映像は、真実ではなく、あなたが恐れていたことから作られた可能性があります」
「私は見たのよ。姉上が短剣を持っていた」
「アウレリア殿下も、目を覚ましたときに短剣を持っていたそうです」
「なら、やはり」
「今日、あなたが握っていたものと同じ短剣です」
リディアの表情が止まった。
「嘘」
「短剣は太陽獅子の紋章入り。柄には、紅涙冠とつながった小さな石が埋め込まれていました」
「違う。あれは先生が、私を守るためにくれたものよ」
「先生とは、ヴェイロン宰相ですか」
返事はなかった。
だがリディアの顔に浮かんだ動揺が、答えを示している。
「その名前を、どこで知ったの」
「アウレリア殿下から聞きました。カシアンも、よく似た人物から記憶石の技術を教えられています」
「先生は私を助けてくれた。姉上から逃がしてくれたのよ」
「あなたを王宮へ入れたのも?」
「わからない」
リディアは両手で頭を抱えた。
「覚えているの。先生が馬車を用意してくれた。国境を越えて、私が一人でこの国へ来た。でも、侍女として働き始めた日を数えると、そんな時間はない。私が二人いたみたいに、記憶が重なっているの」
「どちらかが偽物だと思いますか」
また質問をしてしまった。
セラフィナが口を押さえると、リディアは怯えたように天井を見た。
何も起きない。
少なくとも、目に見える変化はなかった。
「わからない」
リディアは小さく答えた。
「何を信じても、その下から別の記憶が出てくる。姉上に抱かれたことを思い出した次の瞬間、首を絞められたことになっている。父上に菓子を焼いてもらったはずなのに、そんな日はなかったと頭の中で誰かが言う」
「怖いですね」
「同情しないで」
「私も、愛していた人への気持ちを奪われました」
リディアがセラフィナを見る。
「殿下を?」
「はい。昨日まで愛していたそうですが、今は何も感じません」
「悲しくないの?」
「殿下が傷ついていることは悲しいです。でも、愛情を失ったこと自体を悲しむ気持ちまで、一緒に奪われたのかもしれません」
「では、あなたは平気なの?」
「平気ではありません。周囲の人は昨日までの私を知っているのに、私だけが知らない。何をしても以前と比べられているようで、試験を受けている気分になります」
「同じ」
リディアが呟いた。
「みんな、以前の私に戻れと言う。姉上を好きだった私、父上を信じていた私、自分の名前を嫌がらなかった私。でも、その私はもういないかもしれないのに」
「戻らなくてもよいと思います」
「嘘よ」
「以前と同じにならなくても、今のあなたが何を選ぶかは決められます。私はいま、殿下を愛していません。それでも、もう一度知るための三か月を自分で選びました」
「また好きにならなかったら?」
「そのとき考えます」
「殿下が怒るかもしれない」
「きっと傷つきます。もしかすると面倒なくらい縋るでしょう。でも、私が嫌だと言えば止まる人だと、今日の私は判断しました」
「姉上は止まらない」
「なら、止まるよう教えなければなりません」
「そんなこと、できるの?」
「アウレリア殿下はかなり頑固なので、時間はかかるでしょう」
リディアの口元が、ほんの少し動いた。
「姉上を悪く言っているの?」
「事実を言っています」
「本人の前で言ったら怒るわ」
「すでに何度か言いました」
「よく生きているわね」
「先ほどは、殿下に庇っていただきましたから」
笑いかけたリディアの表情が凍る。
「私が刺したというの?」
「あなたが短剣を突き出し、アウレリア殿下が私の前へ入りました」
「違う。姉上が私を刺した」
リディアは胸元を強く押さえた。
「ここが痛いの。刃が入って、血があふれた感覚もある。嘘ではないわ!」
「嘘をついているとは思っていません」
「では、信じる?」
「痛みを感じていることは信じます。ですが、その痛みの原因が記憶どおりだとは限りません」
「どうして、そんな言い方をするの」
「宝石に残った記憶も、人間の記憶も、起きたことをそのまま記録しているわけではないからです。感じたことは本物でも、理由が正しいとは限りません」
「私の痛みが偽物だと言うの?」
「本物です。だからこそ、偽りの記憶で作られた痛みなら、原因を取り除きたい」
セラフィナは布に包んだ青い首飾りを取り出した。
「これは、あなたが私へ託したものです」
「私の首飾り……」
「紅涙冠へ触れる前の記憶が残っています。読むことも、聞くことも強制しません。ここへ置きます」
セラフィナは自分とリディアの中間にある長椅子へ、首飾りを置いた。
「持ってきて」
「私が近づくと怖いでしょう」
「怖くない」
「手が震えています」
「これは寒いからよ」
「では、無理に近づきません。ご自分で取るか、いまは見ないか、選んでください」
「私を助けたいなら、無理やり聞かせればいいでしょう」
「多くの人が、あなたのためという理由で、あなたから選ぶ権利を奪いました。私まで同じことはしたくありません」
リディアは首飾りを見つめたまま、動かなかった。
やがて、床を這うようにして近づき、自分の手で青い石を取った。
「触れても、何も聞こえない」
「私が石の残響を外へ出すことはできます。ただし、あなたの許可が必要です」
「私が嫌だと言ったら?」
「何もしません」
「姉上が死ぬかもしれなくても?」
「それでもです」
リディアは疑うようにセラフィナを見ていた。
「……聞かせて」
「表面の記憶だけでよいですか」
「全部は嫌」
「では、もっとも強く残っている一つだけにします」
セラフィナは首飾りそのものには触れず、その下の銀布へ指を置いた。
夜星糊で細い輪を描く。
青い石から、幼い少女の泣き声が流れた。
『姉上、母上は来ないの?』
『来るわ。だから眠りなさい』
『嘘。母上はもう死んだのでしょう?』
『……ええ』
『姉上は嘘つき』
『そうね。でも、今夜は一人にしない』
幼いアウレリアの声が消えたあとも、別の音が残っていた。
小さな声で歌われる、ソルヴェインの子守歌。
記憶の中の歌が二節目へ入る前に、リディアの唇が動いた。
石に記録されていないはずの続きを、彼女自身が歌った。
歌い終えたことに気づき、リディアは青い首飾りを胸へ抱く。
「姉上は、最後の一節をいつも間違えた」
涙が頬を伝った。
「私が直すと、わざとだと言い張ったの。本当は覚えられなかっただけなのに」
「その記憶は、まだあなたの中にあります」
「でも、姉上が私を刺した記憶もある」
「どちらかを、いま決める必要はありません」
「二つとも本物に感じるのに、どうやって生きればいいの?」
「行動する前に、ほかの記録と照らし合わせます。信頼できる人を一人に絞らず、違う立場の人から話を聞く。そして、わからないときは、わからないまま待つ」
「そんなに面倒なことを、毎回するの?」
「はい。人間は、かなり面倒ですから」
扉の外から、衣擦れの音が聞こえた。
「今の言葉、私の受け売りでしょう」
アウレリアの声だった。
リディアが激しく身を震わせる。
「どうして、ここにいるの」
「治療が終わったからよ」
「嘘。私が刺されたのに」
「刺されたのは私」
「近づかないで!」
「入らないわ。扉の外にいる」
アウレリアの声は弱い。
侍医の制止を振り切って来たのだろう。
「リディア。あなたに許してほしいとは言わない。父上が亡くなったことを隠し、あなたを別宮へ閉じ込めた。手紙も捨てたし、護衛を侍女だと偽した。すべて自分が正しいと思っていた」
「私のためだったのでしょう」
「ええ。でも、あなたのためという言葉を、何をしても許される札のように使った。あなたが嫌がる理由を聞かず、危険だからと私が決めた」
「いまさら謝って、何になるの」
「何にもならないかもしれない」
アウレリアは、すぐに許しを求めなかった。
「過去は変わらない。あなたが私を信じられないのも当然よ。ただ、今日、あなたがセラフィナへ短剣を向けたとき、私は間へ入った。そのことまで、なかったことにされたくない」
「姉上が私を刺した」
「あなたには、そう感じられるのね」
「嘘だと思っているでしょう!」
「いいえ。私も父上の遺体のそばで短剣を握っていた。自分が殺したのかもしれないという記憶の穴を、ずっと抱えている。だから、自分の手でしていないことまで、したように感じる怖さはわかる」
リディアは首飾りを握りしめた。
「姉上は、私を嫌い?」
「腹は立っている」
あまりに正直な返事だった。
「胸は痛いし、侍医には当分寝ていろと言われた。せっかくのドレスも血まみれになった。何より、私の話を聞かずに逃げ回ったあなたへ、怒っている」
「なら」
「それでも、愛している。怒っていることと愛していることは、同時に持てるわ」
「私がまた刺したら?」
「次は避ける」
「避けるだけ?」
「必要なら殴る」
「皇女殿下」
セラフィナが思わず止める。
「殺さない程度によ」
「そういう問題ではありません」
リディアの喉から、笑いとも泣き声ともつかない音が漏れた。
「姉上らしい」
「今の言葉は、どちらの記憶から出たの?」
「わからない」
「なら、どちらでもいいわ」
アウレリアは扉の外へ座ったらしい。
「ここにいる。あなたが出てくるまで待つ」
「また、私を連れ戻すつもり?」
「連れ戻さない。保護はするけれど、閉じ込める場所と、会いたくない相手はあなたが選んでいい」
「ヴェイロン先生に会いたいと言ったら?」
アウレリアは長く黙った。
「……いまは会わせられない」
「やはり、姉上が決めるのね」
「そうよ。あなたへ短剣を渡した可能性がある人間と、二人きりにはできない。でも、なぜ会いたいかは聞く。手紙を出したいなら、内容を一緒に確認する。以前のように、黙って捨てることはしない」
「私は、姉上を信じられない」
「いまは、それでいい」
「触らないで」
「触らない」
「勝手に部屋へ入らないで」
「先に許可を求める」
「……本当に?」
「努力する」
「約束して」
「約束する」
リディアはしばらく扉を見つめていた。
やがて長椅子を動かし、自分の手で扉を開ける。
外には、胸へ厚い包帯を巻いたアウレリアが壁にもたれて座っていた。顔色は悪く、唇も白い。それでも妹を見て、無理に立とうとはしなかった。
「近づいてもいい?」
アウレリアが尋ねる。
リディアは首を振る。
「嫌」
「わかった」
その返事は、傷ついていた。
それでもアウレリアは動かなかった。
「でも、そこにいて」
「ええ」
「私が眠るまで」
「朝まででもいるわ」
「傷が開きますよ」
セラフィナが言うと、アウレリアは嫌そうな顔をした。
「いま、少し良い場面だったでしょう」
「良い場面で傷口が塞がるなら、侍医は必要ありません」
「本当に、情緒がないわね」
「あります。だから心配しています」
リディアは青い首飾りを握ったまま、近衛の保護を受け入れた。
牢へは入れない。
窓と鏡を塞いだ客室を本人に選ばせ、扉の外に女性の近衛を置く。入室するときは必ず許可を求める。アウレリアも、リディアが望むまで中へは入らない。
完全な解決ではない。
リディアは依然として、自分が姉に刺されたと信じている。父親を殺した犯人も姉だと思っている。
しかし少なくとも、二つの記憶を抱えたまま、すぐにどちらかを選ばずに待つことはできた。
その日の夜、隔離工房には三つの石が並べられた。
銀の檻に入れた紅涙冠の中央石。
短剣の柄から外された、七つのうちの一石。
そして、リディアの青い首飾り。
ギデオンとカシアンが夜星糊の線を引き、三つの石の反応を調べる。
「つながりを逆に辿れる」
カシアンが言った。
「紅涙冠が奪った記憶は、完全に消滅したわけではない。中央石の中で、答えを作る材料として残っている」
「では、セラフィナの記憶も戻せるのですか」
ルシアンが身を乗り出す。
「可能性はある。リディア皇女から奪われた記憶も、アウレリア皇女の失われた夜もな」
「どうすればいいの?」
包帯を巻いたまま椅子へ座るアウレリアが尋ねた。
侍医には寝台から動くなと言われたはずだが、誰も彼女を止めきれなかったらしい。
「王冠を修復する」
ギデオンが答えた。
「壊せば、内部に残る記憶も散ってしまいます。八つの石を完全につなぎ直す必要はありません。中央石の亀裂を夜星糊で塞ぎ、流れを一時的に元へ戻せば、奪われた記憶を持ち主へ返せるはずです」
「なら、すぐに直してください」
「普通の夜星糊では足りません」
「何が必要なの?」
ギデオンは答えにくそうにセラフィナを見た。
代わりに、カシアンが口を開く。
「記憶だ」
「また、誰かの記憶を奪うの?」
「奪うのではない。自分の意思で差し出す必要がある。紅涙冠は、失われた記憶でできた亀裂を、同じものでなければ塞げない」
「どのような記憶でもよいのですか」
セラフィナの問いに、カシアンは首を振った。
「どうでもいい記憶では、王冠は受け取らない。忘れても構わないと思っているものにも価値はない」
「では、何を」
「差し出す者が、ほかのすべてを失っても、これだけは失いたくないと思う記憶だ」
工房から、誰の声もなくなった。
セラフィナの愛情を取り戻すことも、リディアの偽りの記憶を正すこともできる。
アウレリアが父親を殺したのか、その夜の真実を取り戻せる可能性もある。
ただし、そのためには誰かが、自分にとってもっとも大切な記憶を、自ら王冠へ差し出さなければならない。
奪われた記憶を取り戻すために。
まだ奪われていない一つの幸福を、今度はこちらから捨てなければならなかった。




