第41話 私を庇った皇女殿下が、妹の短剣に倒れました
短剣の切っ先がセラフィナの胸へ届くより早く、赤金色の髪が視界を横切った。
鈍い音がした。
人の身体へ刃物が入る音は、芝居で聞くような鋭いものではない。濡れた厚布を、無理やり裂いたような音だった。
「……姉上?」
短剣を握った少女が、呆然と呟いた。
セラフィナと少女の間に割って入ったアウレリアは、胸に突き立った刃を見下ろした。その顔には苦痛より先に、信じられないという感情が浮かんでいる。
「リディア。やっと……顔を見せたわね」
少女の手が震えた。
離宮の侍女ニナとして十九日間も潜伏していた少女。舞踏会へ青い仮面をつけて現れ、セラフィナへ警告を残した少女。
そして、アウレリアが捜し続けていた妹。
リディア・ソルヴェイン第二皇女だった。
「どうしてです」
リディアは短剣から手を放さない。
「どうして、その女を庇うのです。姉上は、その女に記憶を作り替えられたのでしょう? その女が赤冠を直せば、私たちはまた姉上に殺される。だから、その前に止めなければならないのに」
「私が、誰を殺したって?」
「父上を。母上を。そして、私も」
「母上は病で亡くなったわ」
「嘘!」
リディアの瞳の奥で、赤い光が揺れた。
短剣の柄に嵌め込まれた小さな赤い石が、脈打つように明滅している。
「姉上はいつもそう。自分に都合の悪いことは忘れて、何も知らない顔をする。父上を刺した時だって、血まみれの手で『私ではない』と言ったではありませんか!」
「リディア、よく聞いて」
アウレリアは胸に刃を受けたまま、妹へ手を伸ばした。
「あなたの頭の中には、誰かが植えつけた記憶がある。今見えているものだけを信じてはだめ。私を憎んでもいい。けれど、その短剣を握らせた人間まで信じる必要はないのよ」
「私の記憶を偽物にしないで!」
リディアが短剣を引き抜いた。
鮮血がアウレリアのドレスへ広がる。
彼女の身体が傾いた。
「アウレリア殿下!」
セラフィナは倒れかけたアウレリアを抱き留めた。
ルシアンが剣を抜く。磨かれた刃がリディアの喉元へ伸びたが、アウレリアが彼の外套を掴んだ。
「殺さないで」
「その手を放せ。次はセラフィナを刺す」
「それでも、殺さないで。私の……妹なの」
「だから何だ」
ルシアンの声には、普段の冷たさとは違うものが滲んでいた。
怒りだけではない。セラフィナが刺されかけたことへの恐怖が、隠しきれずに混じっている。
「妹なら何をしても許されるのか。この場で斬らなければ、もう一度襲ってくる」
「許せなんて言っていないでしょう! 生きていなければ、誰があの子の記憶を取り戻すのよ!」
その間に、リディアが後ずさる。
「姉上は……もう姉上ではない」
「待ちなさい、リディア」
「来ないで!」
リディアが短剣を振る。
柄の赤い石から眩い光が迸った。
セラフィナの視界が一瞬、真っ赤に染まる。床も壁も、人の顔も見えなくなった。頭の中へ、知らない女の叫び声が流れ込んでくる。
『あなたを傷つけたのは誰?』
『姉上』
『あなたから父を奪ったのは誰?』
『姉上』
『あなたを殺そうとしているのは誰?』
『姉上――アウレリア』
「目を閉じろ!」
ルシアンがセラフィナを外套の中へ庇った。
赤い光が消えた時には、リディアの姿も消えていた。使用人用の扉だけが開き、暗い通路が奥へ続いている。
「ノア!」
「追います。ただし、殿下の命令がない限り殺しません!」
ノアと護衛たちが通路へ飛び込んだ。
ルシアンは追おうとせず、セラフィナの両肩を掴んだ。
「怪我は?」
「私は平気です。それよりアウレリア殿下が――」
「本当に刺されていないな?」
「はい」
「切られたところも?」
「ありません」
「痛む場所は」
「ないと言っています! 今は私ではなく、アウレリア殿下を見てください!」
ルシアンの手に力がこもる。
「俺にとっては、君も同じくらい重要だ」
言い切ったあと、彼は苦しそうに唇を結んだ。
セラフィナは、その言葉にどう返せばよいのかわからなかった。
ほんの数日前までなら、胸が苦しくなるほど嬉しかったはずだ。今も嬉しい。嬉しいと思うのに、それが愛情なのか、皇太子から大切にされたことへの安堵なのか、自分では区別できない。
赤冠に奪われた記憶の空白が、二人の間へ冷たい風を通している。
「あとで、もう一度聞かせてください」
セラフィナは言った。
「何を」
「私が重要だという言葉を。今は、きちんと受け取る余裕がありません」
ルシアンは一瞬だけ目を見開き、頷いた。
「何度でも言う。だから君も、勝手に死ぬな」
「それはアウレリア殿下へ言ってください」
「二人ともだ」
床へ横たえられたアウレリアは、胸元を押さえていた。指の間から血が溢れ、白いドレスを濃い赤に染めていく。
セラフィナが傷口へ手を伸ばす。
「触れます。よろしいですか」
「今、それを聞くの?」
「意識があり、ご自分で答えられるのなら聞きます」
「本当に面倒な女ね」
「嫌でしたら、別の方を呼びます」
「嫌だとは言っていないでしょう。早く押さえて。痛くて、あなたを罵る言葉も考えられないわ」
「罵らなくて結構です」
「黙っていれば退屈でしょう」
「出血している時まで、話題を提供しなくてよいのです」
セラフィナは自分の上衣を脱ぎ、折り畳んで傷へ当てた。
アウレリアが息を呑む。
「痛みますか」
「痛いに決まっているでしょう。人を刺した経験はあっても、刺された経験は初めてなのよ」
「人を刺した経験があるのですか」
「今、その質問をする?」
「ご自分からおっしゃったので」
「父上を刺したかもしれない。覚えていないけれど」
アウレリアの視線が、床へ落ちた短剣へ向いた。
赤い石の光は消えていた。血に濡れた刀身の根元には、翼を広げた太陽鳥の紋章が刻まれている。
その紋章を見た途端、アウレリアの顔色が変わった。
「触らないで」
短剣を拾おうとしたルシアンの側近へ、鋭い声が飛ぶ。
「それは父上を殺した短剣よ」
室内の空気が凍った。
ルシアンが床へ視線を落とす。
「間違いないのか」
「忘れるはずがないわ。あの太陽鳥は、父上の即位式に合わせて作られたもの。左右の翼の長さが違うでしょう。職人の失敗ではなく、父上が『完全なものは神々の嫉妬を招く』と言って、わざと片方を短くさせたのよ」
「先帝殺害後、その短剣はどうなった」
「証拠品として封印されたはずだった。でも私が幽閉されている間に、紛失したと聞かされたわ」
「それを、なぜリディアが持っている」
「私に聞かないで」
アウレリアの声が震えた。
「あの夜、父上の部屋で目を覚ました時、これが私の手にあった。父上は倒れていて、私の服も手も血だらけだった。誰に何を尋ねても、私が刺したと言った。私自身も、刺したような気がした」
「石に記憶を植えつけられていた可能性があります」
セラフィナは短剣の柄を見つめた。
赤い石は、宝飾品として嵌め込まれたものではない。柄の金属を無理に削り、薄い欠片を押し込んでいる。その周囲には黒銀色の粉が付着していた。
「夜星糊……?」
「違う」
部屋へ駆け込んできたギデオンが答えた。
医師と治癒術師を伴っている。彼はアウレリアの傷を一目確認すると、短剣の前へ膝をついた。
「似せてあるが、これは夜星糊を裏返したものだ。記憶を封じるためではなく、同じ記憶を何度も石から漏らすために使われている」
「同じ記憶とは?」
「アウレリアが先帝を殺した、という答えだろう」
ギデオンは素手で触れず、銀の鋏で短剣を挟んだ。
「赤い欠片は、赤冠の一部だ。おそらく七つの石のうち、質問を刻むために使われていた石。これを持った人間へ何度も同じ問いを聞かせ、望んだ答えを本人の記憶にしてしまう」
「では、リディア殿下は……」
「姉が父親を殺し、次は自分を殺しに来ると信じ込まされている。あの子にとっては嘘ではない。本当に思い出せるのだからな」
治癒術師がセラフィナの隣へ膝をつく。
「代わります。傷の状態を確認しますので、ゆっくり手を離してください」
「わかりました」
「殿下、聞こえますか」
「聞こえているわ」
「刃は心臓を外れています。肋骨に当たって向きが逸れたようです。ただし出血が多い。これから治癒術をかけますが、眠っていただきます」
「眠ったら、また記憶を奪われそうで嫌ね」
「ここにいる者が見張ります」
ルシアンが言った。
「ヴァルハルト皇太子の名において、誰にもあなたの身体と記憶を触れさせない」
「セラフィナとの契約があるから、私を死なせたくないだけでしょう」
「それもある」
「否定しないのね」
「それだけではない。あなたが死ねば、リディアは自分の手で姉を殺したという記憶まで背負うことになる」
アウレリアが目を閉じる。
「私は、セラフィナを庇ったのではないの」
「アウレリア殿下?」
「あの子を庇ったのよ。目が覚めた時、知らない女を殺していたら、リディアは自分を許せない。だから止めたかった」
「そのために、代わりに刺されたのですか」
「姉を刺したのなら、まだ怒鳴り合えるでしょう」
「本気でおっしゃっていますか」
「半分くらいは」
「残りの半分は?」
アウレリアは薄く目を開け、セラフィナを見た。
「あなたに死なれると困ると思った。それだけよ。感謝されるほど立派な理由ではないわ」
「十分です」
「簡単に許さないで。私は最初、あなたを利用するつもりだったのよ」
「私も、あなたから情報を得るために契約しました」
「そういうところが嫌い」
「同じ言葉を先ほども聞きました」
「リディアも、よく私に言っていた」
アウレリアの唇が、わずかに笑みの形を作る。
「見つけて。あの子が、自分のしたことを忘れてしまう前に」
「忘れるのではありません」
セラフィナは答えた。
「本当の記憶を、偽の答えで覆われようとしています。必ず、その下から見つけます」
「必ずなんて、簡単に言わないで」
「では、可能な限り努力します」
「今は、嘘でも必ずと言ってほしかったわ」
「人間同士の会話は難しいですね」
「ええ。本当に面倒」
治癒術師の光がアウレリアを包む。
彼女の瞼が、ゆっくりと閉じていった。
その時、追跡へ出ていたノアが戻ってきた。息を切らし、片手には青い石のペンダントを持っている。
「リディア殿下が身につけていたものです。西棟へ続く階段に落ちていました」
青い石には、真ん中から大きな亀裂が入っていた。
セラフィナが近づくと、触れていないのに少女の声が流れ込んでくる。
『忘れないで。姉上は、私を助けてくれた』
それがリディア自身の、本当の記憶だった。
しかし直後、赤冠の冷たい声が上から重なる。
『あなたを刺したのは誰?』
『姉上』
『あなたを殺そうとしたのは誰?』
『姉上』
「殿下は見つかったのですか」
ルシアンが尋ねる。
「西の旧礼拝堂で、護衛が発見しました。ただ……」
ノアは眠らされたアウレリアを見てから、言いにくそうに続けた。
「リディア殿下は、自分がアウレリア殿下に刺されたと訴えています。胸に傷があると言い張っていますが、実際には傷一つありません」
セラフィナは、亀裂の入った青い石を握り締めた。
アウレリアの胸へ短剣を突き立てた少女は、すでに自分こそが姉に刺されたのだと記憶していた。




