第40話 私を忘れた婚約者へ、殿下は「もう一度好きになってもらう」と言いました
翌朝、セラフィナが目を覚ますと、左手の薬指には何もなかった。
それ自体は昨夜から変わっていない。
婚約指輪は紅涙冠とのつながりを断つため、銀箱へ封印されている。その事情も覚えている。指輪の内側に「二人で決める」と刻んだことも、三か月の婚約期間を設けたことも、事実として知っていた。
ただ、薬指に残る寂しさだけが、自分の感情ではないように思えた。
机の上には三冊の記録帳が並んでいる。
事実の帳簿。
誰にも見せない感情の日記。
そして、自分で決めたことを残す選択の記録。
セラフィナは迷った末、選択の記録を開いた。
『今日の私は、ルシアン・ヴァルハルトを婚約者として選んでいる』
間違いなく自分の筆跡だった。
『彼の不安は命令に変わりやすく、私の善意は自己犠牲に変わりやすい。そのため、互いに一人で決めず、相談することを選んだ』
読み進めるうちに、奇妙な気分になった。
自分が書いたはずなのに、亡くなった誰かから届いた手紙を読んでいるようだった。
最後の頁には、昨夜、記憶を失いながら書いた文章が残っている。
『あなたの中に愛情がないからといって、彼が嘘をついていると決めないでほしい』
『過去の私は、彼の欠点を知らずに愛したのではない。知ったうえで、隣にいることを選んだ』
「ずいぶん面倒な人を選んだのね、私は」
呟いても、返事はない。
寝室の外には近衛がいる。さらにその向こうには、昨夜から一睡もしていない皇太子がいるはずだった。
そのとき、控えめに扉が叩かれた。
「セラフィナ。起きているか」
ルシアンの声だった。
胸は高鳴らない。
だが、警戒する必要もないと頭では理解している。
「起きています」
「入ってもいいか」
「少しお待ちください」
返事をしてから、セラフィナは寝台を整え、上着を羽織った。
以前の自分なら、どの程度身なりを整えて彼を迎えたのだろう。髪が乱れた姿を見せても平気だったのか、それとも婚約者だからこそ気にしたのか。
考えても答えは出ない。
「どうぞ」
扉が開き、ルシアンが入ってきた。
同じ衣服を着たままだ。髪も普段より乱れ、目の下には薄い影がある。
彼は部屋へ一歩入ったところで止まった。
「体調は」
「問題ありません。名前も仕事も、昨日の出来事も覚えています。殿下を愛していないことも」
「朝一番に確認するには、少し重いな」
「曖昧にして期待させるよりよいかと思いました」
「正しい。だが、正しい言葉が痛くないとは限らない」
「申し訳――」
「謝らなくていい。それも昨日言った」
「では、何と言えばよいのでしょう」
「何も言わなくていい」
「それでは会話になりません」
「君は、愛情を失っても君だな」
ルシアンがほんの少し笑った。
「座ってもいいか」
「はい」
彼は寝台からもっとも離れた椅子を選んだ。
以前の距離を当然のように取り戻そうとしない。その気遣いに安心した自分がいて、それを愛情と呼ぶべきなのか、単なる信頼の芽と呼ぶべきなのか、セラフィナにはわからなかった。
「朝食を持ってきた」
廊下で待っていた侍女が、食事を載せた台車を運び入れる。
パンと果物、卵料理。それから、小さな皿に三種類の焼き菓子が置かれていた。
「私の好物ですか」
セラフィナが尋ねると、ルシアンは少し困った顔をした。
「一つはそうだ」
「どれですか」
「言わないことにした」
「なぜ?」
「君が自分で選べるように」
三つの焼き菓子は、蜂蜜を使った丸い菓子、木苺を挟んだ薄い焼き菓子、香草を練り込んだ固焼き菓子だった。
「以前の君が好きだったものを出せば、君はそれを選ばなければならないと思うかもしれない。かといって、まったく違うものだけを出すのも、過去を隠しているようで不誠実だ。だから三つ用意した」
「焼き菓子を選ぶだけで、ずいぶん悩んだんですね」
「夜明け前から厨房と相談した」
「料理長が気の毒です」
「俺も途中で、そう思った」
セラフィナは三つを見比べ、木苺の焼き菓子を選んだ。
一口食べると、甘酸っぱい味が広がる。
「おいしいです」
「それは、以前の君が一番好きだったものだ」
ルシアンの顔に、期待が浮かびかけた。
自分でも気づいたらしく、彼はすぐに表情を抑える。
「すまない。同じものを選んだからといって、何かが戻ったわけではないな」
「味の好みまで変わったわけではなさそうです」
「そうだな」
「喜んでもよいと思います。ただし、これを愛情が戻る前触れだとは考えないでください」
「努力する」
「やはり約束はしないんですね」
「期待してしまう自分を、完全には止められない。隠して、あとで君に気づかれるよりは正直にしておきたい」
セラフィナはもう一口、焼き菓子を食べた。
「殿下は、昨夜からずっと起きていたのですか」
「ああ」
「眠ったほうがよいですよ」
「眠っている間に、君から何かが消えるのが怖かった」
「起きていれば止められたのですか」
「止められない」
「では、眠るべきでした」
「その正論は、昨日の君にも言われた気がする」
「記録しておきますか」
「いや。覚えておく」
侍女が茶を注ごうとすると、ルシアンが自分で茶器を取った。
「俺がする」
「殿下がお茶を?」
「以前にも一度、君へ淹れたことがある」
「おいしかったのですか」
「記録には残っていない」
「ずいぶん都合のよい記録ですね」
「君は二杯飲んだ」
「断れなかった可能性は?」
「……あるな」
ルシアンは茶葉の量を慎重に測ったものの、湯を注いだあと、話すことを考えていたのか時間を置きすぎた。
差し出された茶を一口飲み、セラフィナは黙って杯を置く。
「苦いか」
「少し」
「少しという顔ではない」
「殿下が傷つくかと思いまして」
「気を遣わなくていい」
「では正直に言います。薬として出されても、もう少し薄いほうが嬉しいです」
「そこまでか」
「二杯飲んだ過去の私は、かなり殿下を愛していたのですね」
言ってから、失言だったと気づいた。
ルシアンの目が伏せられる。
「すみません」
「謝らなくていい。今のは、少し嬉しかった」
「なぜですか」
「以前の君が我慢して飲んでくれたのかもしれないと考えたら、嬉しいより申し訳ないが」
彼は自分で淹れた茶を飲み、すぐ顔をしかめた。
「本当に苦いな」
「確認せず、私へ先に渡したんですか」
「君に飲んでもらうことで頭がいっぱいだった」
「皇太子として、毒見の手順を学び直してください」
「それも記録しておく」
侍女に新しい茶を淹れ直してもらい、ようやく二人は向かい合った。
会話が途切れる。
以前なら、この沈黙も気まずくなかったのだろうか。
ルシアンは何度か話しかけようとし、そのたびに言葉を飲み込んでいた。
「無理に黙らなくても結構です」
「何を話せば、過去を押しつけることにならないのか考えている」
「では、殿下ご自身のことを話してください。私がどれほど殿下を好きだったかではなく、私がこれから判断するための話を」
「何を知りたい」
「どうして、私を愛したのですか」
ルシアンは、すぐには答えなかった。
「それは、過去の君の話にならないか」
「私を選んだ殿下の話です」
「そうか」
彼は手元の杯へ目を落とす。
「最初は、腹が立った」
「愛情の話をしているのですが」
「わかっている。君は王家の指輪を前にしても、持ち主の許可がなければ記憶を読まないと言った。俺が命じても断った。国の危機だと説明しても、自分の都合のよい答えを石から拾うことはできないと」
「融通の利かない職人ですね」
「そう思った。だが同時に、君なら俺が聞きたい言葉ではなく、聞くべきことを話すとも思った」
「それだけですか」
「それだけなら、信頼できる職人で終わっていた」
ルシアンは少し考え、続けた。
「君は自分が傷つくことには鈍いのに、他人が選ぶ権利を奪われると怒った。俺が君を守るために勝手なことをすると、王太子相手でも容赦なく不機嫌になった。俺が何をしても喜ぶ女ではなかった」
「ずいぶん扱いにくい女性ですね」
「扱おうとしたから、うまくいかなかったんだ。君は俺のものになるためにいるのではない。そう気づいてから、もっとそばにいてほしくなった」
「矛盾しています」
「人間の感情は、本人の品性に相談せず動くそうだ」
「アウレリア殿下の言葉ですね」
「よく覚えているな」
「殿下以外の記憶は、残っていますから」
再び、彼を傷つけた。
今度は謝らなかった。謝らないことが、彼の望みでもある。
「私の能力が必要だったから、愛情と錯覚した可能性は?」
「利用したいと思ったことはある」
正直な返答だった。
「君の力があれば、母上の死も、王冠の秘密も明らかにできる。俺のそばへ置けば便利だと考えた。君を危険から守るという名目で、王宮から出さないほうがよいと思ったこともある」
「ひどいですね」
「ああ。君にも言われた」
「それでも、私が殿下を選んだ理由がわかりません」
「俺も、今でも不思議に思うことがある」
「そこは自信を持ってください」
「君はそうやって、俺を突き放すだけでは終わらなかった。間違いを指摘し、それでも変わる時間をくれた。だから俺も変わろうと思った」
「殿下は、過去の私を美化していませんか」
「している部分はあるだろう」
これも、迷わず認めた。
「君は頑固だ。危険を隠す。他人のためなら、自分が払う代償を軽く考える。疲れていても大丈夫だと言い張るし、腹が立っているのに平静なふりをして、あとから一人で泣くこともある」
「そこまで言われると腹が立ちます」
「安心した。そこも同じだ」
「同じであることを、いちいち喜ばないでください。私が試験を受けているような気分になります」
ルシアンが息を止めた。
「すまない」
「殿下が喜ぶこと自体を責めているのではありません。ただ、私の言動を過去の私と照らし合わせて、合格か不合格かを決められているように感じるんです」
「そんなつもりはない」
「つもりがなくても、そう見えます」
「……気をつける」
「すぐに直せとは言いません。殿下にとっても、昨日まで愛していた相手が目の前にいるのですから」
「君は、俺が比べてしまうことを許すのか」
「許すという言い方は違います。比べるなと言っても、きっと比べるでしょう。なら、比べたときに隠さず教えてください。私も嫌なら嫌だと言います」
「面倒だな」
「記録によれば、私たちは以前も面倒だったようです」
「それなら、同じか」
「同じと決めるのはまだ早いです」
「厳しい」
それでも、ルシアンの表情は少しだけ和らいでいた。
彼は懐から一枚の書類を取り出す。
「これは?」
「婚約を一時停止するための書類だ。君が署名すれば、王家に対する義務も、三か月の約束も停止できる。公には安全のため婚約者として扱うが、私的には何も求めない」
「殿下は、署名してほしいのですか」
「してほしくない」
即答だった。
「だが、俺が望んでいないという理由で、選択肢を隠すことはしたくない」
「署名しなかった場合は?」
「婚約は続く。ただし、昨日までと同じ関係だとは考えない。君が許すところから始める」
「どこから始めるつもりですか」
ルシアンは居住まいを正した。
「まず、自己紹介から」
「自己紹介?」
「君は俺を事実として知っている。だが、愛していた俺は忘れた。なら、もう一度知ってもらうしかない」
彼は、まるで正式な謁見のように頭を下げた。
「ルシアン・ヴァルハルト。二十七歳。王太子を務めている。人へ命令する癖があり、心配すると護衛を増やしすぎる。嫉妬深く、諦めも悪い。茶を淹れるのは下手らしい」
「長所はないのですか」
「君に好きになってもらいたいと思っている」
「それは長所でしょうか」
「少なくとも、俺にとっては嘘ではない」
ルシアンは顔を上げる。
「婚約者としてではなく、一人の男として、もう一度君へ近づく許可がほしい」
「私が以前のように殿下を好きになる保証はありません」
「わかっている」
「途中で、やめてほしいと言うかもしれません」
「そのときは、やめてほしいことを聞く。会うことなのか、触れることなのか、求婚そのものなのか。何も聞かずにすべて諦めるとは約束しないが、君の嫌だという言葉を無視はしない」
「ずいぶん食い下がるつもりですね」
「愛情だけを奪った王冠に、君との未来まで渡す気はない」
「それは、私のためですか。それとも殿下のため?」
「両方だと言えば、格好が悪いか」
「いいえ。自分のためでもあると認める人のほうが、私は信用できます」
「では、返事は」
セラフィナは婚約停止の書類と、目の前の男を見比べた。
愛してはいない。
けれど、彼の話をもう少し聞きたいとは思った。
過去の自分が残した記録に従うためではなく、いまの自分が、この不器用な人を知りたいと思っている。
「三か月の期限は、いったん止めましょう」
「婚約を終えるのか」
「いいえ。記憶を奪われた期間まで、私の判断時間に含めるのは不公平です。期限を今日から数え直します」
ルシアンの目がわずかに見開かれた。
「つまり」
「三か月間、もう一度殿下を知ります。その先は――」
言いかけて、セラフィナは止まった。
答えを求めるように、ルシアンを見る。
彼は嬉しさを隠しきれない顔で、それでも先回りせず待っていた。
「その先は、二人で決めます」
「ああ」
「ただし、まだ触れるのは待ってください」
「わかった」
「今夜は眠ってください」
「努力する」
「それから、次にお茶を淹れるときは、ご自分で先に味見をしてください」
「それも努力する」
「そこは約束してください」
扉が勢いよく開いた。
「セラフィナ!」
アウレリアが外套姿のまま入ってくる。夜通し王宮を捜索していたらしく、髪は乱れ、頬には古い通路の埃がついていた。
「リディアは見つかりませんでしたか」
「旧礼拝堂の近くまで追ったけれど、また逃げられた。代わりに、これが落ちていたわ」
アウレリアは血のついた布を机へ置いた。
「リディアのものですか」
「わからない。血は少量よ。近くに争った跡もなかった。ただ、布にこれが包まれていた」
中から出てきたのは、折り畳まれた紙だった。
アウレリアが広げる。
『石読みの女を、昼の鐘までに旧礼拝堂へ連れてこい』
その下には、同じ筆跡で別の文章が書かれている。
『来ないで。次に会ったとき、私は彼女を殺す』
「リディアの字です」
アウレリアが言った。
「どちらも、あの子の字なのよ」
「二つの意思が、交互に出ているのでしょうか」
「わからない。でも、昼の鐘まではあと半刻しかない」
「セラフィナは行かせない」
ルシアンが立ち上がった。
「でも、私が行かなければ、リディア殿下を救う機会を失います」
「行くなら俺も行く」
「もちろんです。一人で決めないという約束でしょう」
ルシアンは、わずかに目を見開いた。
「覚えているのか」
「今日、決めたことですから」
その返事に、彼は初めて、過去と比べるためではない笑みを浮かべた。
廊下で待機していた侍女が、新しい湯を運んで部屋へ入ってくる。
セラフィナは何気なく、その侍女へ目を向けた。
栗色の髪。
伏せられた顔。
盆を持つ左手の人差し指に、小さな傷痕がある。
アウレリアも気づいた。
「リディア」
名を呼ばれた侍女が、顔を上げる。
赤みを帯びた金色の瞳が、涙に濡れていた。
「呼ばないでと言ったのに、姉上」
盆が床へ落ちる。
陶器の割れる音へ重なるように、侍女の袖から短剣が滑り出した。
「逃げて!」
リディアの口がそう叫んだ。
しかし彼女の手は、言葉とは反対に短剣を構える。
刃先が向いた先は、アウレリアではない。
紅涙冠の記憶を読んだ、セラフィナの胸だった。




