第39話 婚約者を愛していた記憶だけが、消えていきます
「彼女へ思い出させるな!」
カシアンの怒声が地下牢へ響いた。
ルシアンが振り返る。
「何だと?」
「記憶を確かめようとするな。いま思い出せば、その記憶がどこにあるのか紅涙冠へ教えることになる。暗闇の中で灯りをともして、ここに餌があると知らせるようなものだ」
「先ほど、あなたは私へ昨夜のことを尋ねました」
セラフィナはルシアンへ言った。
彼が悪いわけではない。
それでも、口づけの記憶を探そうとした途端、胸の奥から何かが引き抜かれた感覚は、まだ生々しく残っている。
「俺が、消えるのを早めたのか」
ルシアンの顔から血の気が引いた。
「殿下のせいではありません」
「だが、俺が聞かなければ」
「聞かなければ、失ったことに気づくのが少し遅れただけです」
「それで消えずに済んだ可能性もある」
「いま罪の押しつけ合いをするなと言ったのは、あなたでしょう」
セラフィナがカシアンを見ると、彼は鉄格子をつかんだまま、苦い顔をした。
「自分への罪の押しつけも同じだ。私は八つ目の問いが近いと知りながら、説明が間に合わなかった。石を指輪へつないだ職人も、許可した者も、中央石を運んできた皇女も、誰も結果を望んではいない」
「でも、起きたことには原因があるわ」
アウレリアが言った。
「私が紅い石を持ち込まなければ、セラフィナの記憶は奪われなかった」
「それを言うなら、私が石を読まなければよかったんです」
「私があなたを利用したからでしょう」
「利用されるとわかって契約したのは私です」
「二人とも、黙れ!」
ルシアンが声を荒らげた。
全員が彼を見る。
「誰が悪いかはあとで決めろ。いまは、セラフィナからこれ以上奪わせない方法を考えろ」
怒っている。
だが、その怒りの大半は自分へ向けられているように見えた。
ギデオンが封印鞄から銀箱を取り出し、石床へ置いた。蓋の継ぎ目を囲むように夜星糊を厚く塗る。それでも、箱の内側では婚約指輪が小刻みに震え続けていた。
「ここでは設備が足りません。隣の尋問室なら、夜星糊の防壁を作れます」
「移動しろ」
ルシアンはセラフィナへ手を伸ばしかけた。
しかし先ほど、彼女が反射的に避けたことを思い出したのだろう。その手が止まる。
「歩けるか」
「はい」
「支えは?」
セラフィナは少し迷った。
これまでなら、迷うことなどなかったはずだ。
彼の手を取ると安心した。その事実は記録帳に残っている。けれど今、その手は見知らぬ男性のものとまでは思わないにしても、触れれば心が安らぐとは感じられなかった。
「一人で歩けます」
「……わかった」
ルシアンはそれ以上、手を伸ばさなかった。
その一歩分の距離が、ひどく遠い。
セラフィナ自身がそう感じているのか、彼の表情を見て想像しているだけなのか、それすらわからなかった。
隣の尋問室には、中央へ大きな石の机が置かれていた。
ギデオンとノアが銀箱の周囲へ七重の夜星糊を引く。カシアンは独房から出されなかったが、開け放した扉越しに作業を見られる位置へ移された。両手は鉄格子の外へ出せない。
「夜星糊で、どれくらい止められますか」
セラフィナが尋ねる。
「わからない」
ギデオンは正直に答えた。
「指輪とセラフィナ嬢のつながりを一時的に鈍らせることはできるでしょう。ただし、紅涙冠はすでに記憶の場所を見つけている。道へ扉を置けても、道そのものは消せません」
「指輪を壊せば?」
ルシアンの肩が強張った。
ギデオンは銀箱を見つめる。
「壊れた瞬間に、石へ残ったものがすべて流れ出す危険があります。逆に、つながりが完全に切れるかもしれない。試した記録がありません」
「では、壊しましょう」
セラフィナが言うと、ルシアンがこちらを向いた。
「簡単に決めるな」
「指輪と記憶なら、記憶を選びます」
「その指輪も、君が選んだものだ」
「ええ。ですが、私を守るための約束が、私を傷つける道になっているなら、役割を終えています」
「終えていない」
ルシアンの声が掠れた。
「内側に何と刻んだか、覚えているか」
「『二人で決める』です」
「なら、一人で壊すと決めるな」
セラフィナは言葉を失った。
感情は薄れているのに、言われたことが正しいのはわかる。彼と積み重ねた記憶は失われ始めても、二人で決めるという考え方は、まだ自分の中に残っている。
「では、殿下はどうしたいですか」
「壊したくない」
「理由は?」
「君が俺を選んだ証だからだ」
「証は記録帳にもあります」
「紙と指輪は違う」
「どう違うんですか」
「うまく説明できない」
ルシアンは苛立たしげに答えた。
「君が自分で選び、指にはめたものだ。俺が用意した高価な装飾品だからではない。『三か月後も、その先も二人で決める』と約束した形だ。そんなものは、壊したあとで同じ品を作っても戻らない」
「でも、残しておけば私の記憶が消えます」
「だから迷っている! 理屈では壊すべきだとわかっている。だが、それで何かを救える保証もないのに、君との約束を俺の手で壊したくないと思うのは、そんなに間違っているのか」
「間違っていません」
セラフィナは静かに答えた。
「私にはもう、その指輪を殿下と選んだときの気持ちが、ほとんど思い出せません。ですから、殿下が残したいとおっしゃるなら、その思いも判断に入れるべきです」
「その言い方はやめてくれ」
「どの言い方ですか」
「まるで、すでに他人の指輪について相談しているような言い方だ」
セラフィナは自分の左手を見た。
何もはめられていない薬指。
そこに指輪があった感覚は残っている。しかし、はめてもらった瞬間の喜びを探そうとすると、頭の奥に白い霧が広がった。
「申し訳ありません」
「謝らないでくれ」
「でも」
「君が俺を愛せなくなったとしても、それは君が選んだことではない。謝られると、俺は許す側へ立たされる。君は何も悪くないのに」
ルシアンは目を伏せた。
「俺がどうしても傷ついた顔をするから、謝りたくなるのだろう。それもわかる。だが、いまだけは俺の顔を気にしないでくれ」
「それは難しいです」
「なぜ」
「殿下が、ひどい顔をしているからです」
「どんな顔だ」
「大切な人を失いかけている顔です」
「失いかけている、ではない」
ルシアンは顔を上げた。
「君はここにいる」
「では、そのような顔をしないでください」
「無理だ」
拒絶は即答だった。
「君がここにいるからこそ苦しい。名前も、仕事も、話し方も変わっていない。俺を気遣うところまで同じなのに、俺を見たときの目だけが違う。そんなものを見て、平気な顔ができるほど立派ではない」
セラフィナは何も返せなかった。
立派ではないと言いながら、彼はセラフィナを責めない。
触れたいはずなのに、許可を求めることすら、いまは負担になると考えて距離を取っている。
それが彼の愛情なのだと、頭では理解できた。
理解できるのに、胸は動かなかった。
「記録帳を持ってきます」
ノアが言った。
「事実を確認するだけなら、記憶を無理に掘り起こすより安全かもしれません」
「待て」
カシアンが独房から声をかけた。
「感情について書かれた部分は読ませるな。書かれた文字から連想すれば、同じことが起きる」
「では、何を残せばいいのですか」
セラフィナが問う。
「いま残っているものを、呼び起こさずに書け。失ったものを探すな。まだ手の中にあるものだけを記録しろ」
「ずいぶん親切ですね」
ルシアンが冷たく言う。
「私のときも、誰かがそう言ってくれればと思っているだけだ」
「お前の後悔を、セラフィナへの親切にすり替えるな」
「後悔から出た言葉は、すべて偽物か?」
カシアンが聞き返す。
「自分が間違えたから、同じ場所で転ぶ者を止めたいと思う。そんな感情まで否定されたら、人間は失敗から何も学べない」
「学んだと言えば、したことが消えると思うな」
「思っていない。消えないから苦しいのだろう」
二人の間に、再び重い沈黙が落ちた。
「喧嘩を続けるなら、別の部屋でお願いします」
セラフィナは椅子へ座った。
「私の記憶が消えている最中に、どちらの後悔が立派かを比べられても困ります」
「……すまない」
ルシアンが先に謝った。
ノアが記録帳と羽根ペンを運んでくる。
セラフィナは白い頁を前にして、自分の中を確かめた。
父アルドの顔は覚えている。
母エリーゼが工房で夜星糊を作っていた姿も、宝石へ触れる前には持ち主へ許可を求めなさいと教えられたことも覚えている。
ギデオンやノア、ラピスについてもわかる。
アウレリアと契約を結んだこと、その理由も残っている。
失われているのは、ルシアンへ向けた感情と、それが強く刻まれた記憶だった。
「最初に殿下と会った日のことは、覚えています」
セラフィナは、過去を探りすぎないよう、慎重に言葉を選んだ。
「冷たい人だと思いました。人へ命令することに慣れ、断られることには慣れていなかった」
「間違っていない」
「私の話を聞かず、勝手に危険から遠ざけようとしたこともありました」
「あった」
「腹が立ったことは覚えています」
「それは残っているのか」
ルシアンは苦笑した。
「紅涙冠は、俺に都合よく奪ってはくれないらしい」
「殿下が変わろうとしたことも、事実として覚えています。触れる前に許可を求めるようになった。命令ではなく、怖いからそばにいてほしいと頼めるようになった」
「それを聞いて、君はどう感じた」
口にした直後、ルシアン自身が息を呑んだ。
「答えなくていい。いまのは忘れてくれ」
「もう、思い出せません」
セラフィナは正直に答えた。
「嬉しかったのでしょう。だから、婚約を受け入れた。でも、その嬉しさが、私の中にはありません」
羽根ペンを握ったまま、少し考える。
「それでも、残しておきたいことがあります」
『未来の私へ』
書き出してから、一度手を止めた。
『あなたは、ルシアン・ヴァルハルトを愛さなくてもよい。過去の私が選んだことを、借金のように返す必要はない』
ルシアンが文字を追っている。
傷ついているだろう。
それでも、読むなとは言わなかった。
『ただし、あなたの中に愛情がないからといって、彼が嘘をついていると決めないでほしい』
『彼は不安になると人へ命令し、守ろうとして相手の選択を奪う。謝るのも下手で、護衛の人数を決める感覚はおかしい』
「そこまで書く必要があるか」
ルシアンが口を挟む。
「重要な注意事項です」
「せめて長所を先に書いてくれ」
「未来の私へ正確に伝えたいので」
セラフィナは続きを書く。
『しかし彼は、間違いを指摘されると、すぐではなくても考える。怖いことを怖いと言えるようになった。私が嫌だと言えば、傷ついても手を止める』
『過去の私は、彼の欠点を知らずに愛したのではない。知ったうえで、隣にいることを選んだ』
最後に、日付と署名を入れた。
「これを、未来の君へ見せてもいいのか」
ルシアンが尋ねる。
「はい。ただし、読ませて愛情を求めないでください」
「努力する」
「約束ではないんですね」
「約束したい。だが、そのときの俺がどれほど傷つき、どれほど必死なのか、今でもわかる。絶対に縋らないと誓って、守れなければ、君に二度失望させる」
「正直ですね」
「君に教えられた」
セラフィナは羽根ペンを置いた。
記憶の奥で、また何かが崩れる。
ルシアンが星の王冠を壊し、自分を選んだ場面。
偽りではない婚約を申し込み、三か月だけでもよいと言った声。
それらの場面から、色だけが抜け落ちていく。
「殿下」
「何だ」
「いまなら、まだ殿下へ触れたいと思えます」
ルシアンは息を止めた。
「それは、過去の君に言わされているのではなく?」
「今の私が決めました。あとで気持ちが消えるとしても、今は、一人でいたくありません」
「触れてもいいか」
「はい」
ルシアンが近づき、セラフィナを抱きしめた。
腕の力は強い。それでも、逃げようと思えば逃げられる余地を残している。
胸元へ頬を寄せると、鼓動が速かった。
「俺は、君に忘れられるのが怖い」
頭上から声が落ちてくる。
「また好きになってもらえばいいと、簡単には言えない。君が俺を愛するまでに、どれほど傷つき、迷ったかを知っている。もう一度それをさせることが、君のためなのかもわからない」
「では、諦めますか」
「諦めない」
抱く腕が少し強くなった。
「君が嫌だと言えば離れる。婚約を終えたいと言われれば、話し合う。だが、俺が君を愛することまでやめろと言われても、それは断る」
「身勝手ですね」
「ああ。聖人ではないからな」
「よかったです」
「何が」
「殿下が何も求めず、ただ私の幸せだけを願うと言い出したら、別人になったのかと疑うところでした」
ルシアンが小さく笑う。
その笑い声を聞いたとき、胸にかすかな温かさが生まれた。
しかし、それは次の瞬間には薄れ、指の間からこぼれる砂のように消えていった。
「殿下」
「どうした」
「もう、離してください」
腕の力が止まる。
ほんの一瞬、ルシアンが躊躇したのがわかった。
それでも彼は、すぐにセラフィナを解放した。
「わかった」
責めることも、理由を聞くこともしなかった。
セラフィナは椅子へ戻る。
先ほどまで彼に抱かれたいと感じていたはずなのに、その感情を思い出せない。
「代わりに私の記憶を使えないの?」
アウレリアがカシアンへ尋ねた。
「何でもいい。妹との記憶でも、父との記憶でも差し出すわ。もともと私たちが持ち込んだ問題でしょう」
「記憶の行き先は、もう王冠が決めている」
「なら、私も石へ触れればいい」
「駄目です」
セラフィナが止めた。
「どうして? あなたばかりが失う理由はないわ」
「殿下が記憶を差し出しても、私の記憶が戻る保証はありません。失う人間が一人増えるだけです」
「何もせず見ていろというの?」
「リディア殿下を捜してください」
「あなたは、どうなるのよ」
「ここには殿下とギデオン様がいます。アウレリア殿下にしかわからない、妹君の癖や行きそうな場所があるでしょう」
「また、自分より他人を優先するのね」
「違います」
セラフィナはアウレリアを見た。
「私の記憶を守りたいなら、原因を止めてくださいと言っています。殿下にしかできないことを頼んでいるんです」
「……本当に、そう思っている?」
「はい」
アウレリアは迷い続けていたが、やがて外套を翻した。
「必ず連れ戻すわ」
「無理に捕まえようとしないでください」
「わかっている。名前も呼ばない。質問もしない。あの子の話を先に聞く」
「お願いします」
「それから、セラフィナ」
扉の前で、アウレリアが振り返る。
「私が戻ったとき、あなたが殿下を愛していなくても、私はあなたを責めない。責めたくなっても、少なくとも口に出す前に一度は考える」
「一度だけですか」
「二度考えれば、何も言えなくなりそうだもの」
「十分です」
アウレリアはノアと近衛を連れ、地下牢を出ていった。
ギデオンが銀箱へ新しい夜星糊を塗る。
青い光と紅い光がせめぎ合い、やがて指輪の震えが弱くなっていく。
「止まったのですか」
ルシアンが尋ねる。
「いいえ。つながりが細くなっただけです。セラフィナ嬢、記憶を確かめます。無理に思い出そうとせず、答えられる範囲で」
「はい」
「お名前は?」
「セラフィナ・リード」
「お父上は?」
「アルド・リード。王都で宝石工房を営んでいます」
「お母上は?」
「エリーゼ。夜星糊を研究していました。すでに亡くなっています」
「お仕事は?」
「宝石修復師です。石へ残った感情や言葉を聞くことができます」
ギデオンは一度言葉を止め、ルシアンを見る。
「目の前にいる方は?」
「ルシアン・ヴァルハルト殿下。皇太子です」
「あなたとの関係は?」
「婚約者です。三か月の期限を設け、その先は二人で決めると約束しました」
「なぜ婚約したのですか」
セラフィナは答えようとした。
理由は記録帳に書いてある。
彼が変わろうとしたから。
彼の孤独を知ったから。
隣で悩み続けたいと思ったから。
だが、それらは文章として並んでいるだけで、自分の選択として感じられなかった。
「……覚えていません」
ルシアンが目を閉じた。
「では、最後に一つだけ」
ギデオンの声も震えていた。
「殿下を、どう思っていますか」
セラフィナはルシアンを見た。
整った顔立ちの、疲れ切った男性。
自分を守ろうとし、怖いと正直に言い、拒絶されても手を止められる人。信頼できるかもしれない。少なくとも、嫌いではない。
けれど、愛してはいなかった。
「申し訳ありません」
「謝らなくていい」
ルシアンが先に言う。
「ですが、正直に伝えるべきだと思います」
「ああ」
セラフィナは空になった薬指を握りしめた。
「私は、あなたを愛していたそうです。記録も、周囲の証言も、そのことを示しています」
「わかっている」
「でも、今の私には、その気持ちが一つも残っていません」
ルシアンは何も言わなかった。
怒らず、縋らず、セラフィナへ触れようともしない。
ただ、彼女が自分を愛していないという言葉を、逃げずに受け取った。
その夜、セラフィナの中から恋だけが消えた。
そして愛されていた男だけが、誰にも見えないその葬儀へ、たった一人で立ち会っていた。




