第38話 記憶を奪った男が、紅い王冠だけは恐れていました
「セラフィナは地下牢へ連れていかない」
ルシアンの返答は、予想していたよりも早かった。
リディアが使っていた小部屋には、まだ近衛の報告が残した緊張が漂っている。
『八つ目の代価は、セラフィナ嬢がもっとも失いたくない記憶だ』
カシアンの言葉が本当なら、一刻を争う。
だが、彼はかつてルシアンの記憶を奪い、王位を手に入れるため国王を人質にした男でもある。こちらを慌てさせ、牢から出る機会を作ろうとしている可能性は十分にあった。
「カシアンが面会相手に私を指定しています」
セラフィナが言うと、ルシアンは即座に首を振った。
「だからこそだ。あの男は君を利用する。以前もそうだった」
「殿下が一人で話を聞けば、肝心な部分を隠すかもしれません」
「その場合は、隠せなくなるまで尋問する」
「具体的には?」
「知る必要はない」
「その返答をされると、余計に同行したくなります」
「なぜだ」
「殿下があとで後悔するような尋問をしそうだからです」
ルシアンの顔が険しくなった。
「君は、俺よりカシアンの心配をするのか」
「殿下の心配をしています。怒っているときの殿下は、ご自分が傷つくことを数に入れませんから」
「そんなことは――」
「あるでしょう」
ノアが口を挟んだ。
「殿下は他人の傷については過剰なほど気にしますが、ご自分の傷となると、急に計算が雑になります。昔からです」
「お前はどちらの補佐官だ」
「国と殿下の補佐官です。殿下の機嫌を取る係ではありません」
「給金を減らすぞ」
「そういう人間臭い脅しをなさるうちは、まだ大丈夫そうですね」
アウレリアが壁へ書かれた妹の言葉を見つめながら、低い声で言った。
「私も行くわ」
「あなたまで何を言い出す」
「あの男は紅い王冠と、私の妹について知っている。ソルヴェイン第一皇女として話を聞く権利があるでしょう」
「危険だ」
「私は自分の父親を殺したかもしれない女よ。いまさら地下牢くらいで怯えると思う?」
「その理屈は、自分を危険にさらしてよい理由にはならない」
「あなたにだけは言われたくないわね」
ルシアンとアウレリアが睨み合う。
二人とも相手の身を案じているくせに、言葉へ変えると喧嘩になるらしい。
「全員で行きましょう」
セラフィナが間へ入った。
「ただし、安全対策はします。私は婚約指輪を外し、銀箱へ封印する。青い首飾りも直接は持ち込みません。カシアンとは鉄格子と夜星糊の防壁を挟み、誰も一人では近づかない。これでどうですか」
「どうですか、と聞きながら、断られても行く顔をしている」
「殿下に似てきたのかもしれません」
「それは困る」
「私も少し困っています」
ルシアンは長く息を吐いた。
「俺のそばから離れないこと」
「はい」
「カシアンが何を言っても、一人で判断しない」
「はい」
「異変があれば、許可を待たずに抱えて連れ出す」
「そこは――」
「譲らない」
「では、緊急時に限ります」
セラフィナは指から婚約指輪を抜いた。
毎日身につけていたものがなくなると、指一本だけが妙に軽く、心細い。ギデオンが指輪を夜星糊の塗られた布で包み、銀の小箱へ収めた。
ルシアンが箱へ手を伸ばしかけ、途中で止める。
「俺が持つ」
「殿下を通じてつながる可能性があります」
ギデオンが止めた。
「誰も直接持たないほうがいいでしょう。私が封印鞄へ入れます」
「自分で返してくださいね」
セラフィナが念を押すと、ギデオンは苦笑した。
「殿下ではなく、私に言うのか」
「この指輪を修復した職人はギデオン様です。職人は品物へ妙な愛着を持つことがありますから」
「君の父親から、そのような疑い方まで習ったのか」
「父なら、さらに受取証を書かせます」
「では、戻ったら作ろう」
本気で言っているらしい。
地下牢へ下りる階段は、王宮の華やかさから切り離されたように冷たかった。
壁へ埋め込まれた灯石の明かりは弱く、足音が石壁の奥まで響いていく。アウレリアは先ほどまで舞踏会で着ていた赤金のドレスの上から黒い外套を羽織っていた。
「こんな格好で地下牢へ来ることになるとは思わなかったわ」
「お似合いです」
セラフィナが言うと、アウレリアは嫌そうに振り返った。
「褒められている気がしない」
「血痕がついても目立たない色です」
「まったく褒めていないわね」
最下層の独房では、カシアンが寝台へ座って待っていた。
以前より痩せ、伸びた髪が頬へかかっている。王族らしい衣服は取り上げられ、灰色の囚人服を着ていたが、背筋だけは不自然なほどまっすぐだった。
「ようやく来たか」
カシアンは最初にセラフィナを見た。
次にルシアン、アウレリアへ視線を移し、皮肉そうに口元を歪める。
「婚約者と、もう一人の婚約者を連れて地下牢へ面会か。王太子というのは、ずいぶん景気のいい身分だな」
「その話をするために来たのではない」
ルシアンの声が冷たくなる。
「リディア皇女と八つ目の質問について、知っていることをすべて話せ」
「その前に、一つだけ聞きたい」
「お前が質問する立場だと思うな」
「兄上は生きているか」
ルシアンの顔から、わずかに感情が消えた。
カシアンは鉄格子の向こうで、返事を待っている。
国王を人質に取り、深い傷を負わせた本人が、兄の安否を尋ねている。自分勝手だと切り捨てることは簡単だった。
「生きている」
しばらくして、ルシアンは答えた。
「傷も回復している。だが、お前には会いたがっていない」
「そうか」
カシアンは目を閉じた。
安堵したようにも、苦痛をこらえたようにも見えた。
「殺すつもりはなかった、と言えば、余計に腹が立つだろうな」
「殺すつもりがない人間は、兄の喉へ刃を当てない」
「その通りだ。私はいつも、最後には止められると思っていた。自分が踏み越えたところだけは数えずにな」
「懺悔なら司祭を呼ぶ」
「懺悔をするほど善良ではない。事実を言っただけだ」
セラフィナは二人の間へ流れるものを見つめた。
憎しみだけではない。
血のつながった者にしか持てない期待と失望が、何層にも重なっている。だから縁を切れば終わるというほど、単純ではないのだろう。
「紅涙冠について教えてください」
セラフィナが尋ねた。
カシアンの視線が彼女へ戻る。
「石を持ってきたか」
「持ち込んでいません」
「なら、青い首飾りは?」
「別の部屋に封印しています」
その答えを聞いても、カシアンは安心しなかった。
「赤い石も青い石も、同じ廊下へ置くな。壁を一枚挟んだ程度では意味がない。あれは距離ではなく、記憶のつながりを道にする」
「なぜ、そこまで知っているの?」
アウレリアが鉄格子の前へ出た。
「あなたがリディアへ地図を渡したの?」
「会ったこともない」
「では、なぜ妹があなたの顔を描けたのよ」
「おそらく、鏡を通して見たのだろう」
「あなたの王冠は壊されたはずです」
セラフィナが言うと、カシアンは乾いた笑いを漏らした。
「私が使った鏡石は壊れた。だが、私が鏡を通る方法を最初に考えたわけではない。技術を借りただけだ」
「誰から」
問いかけた途端、カシアンの表情が変わった。
虚勢が消える。
彼は無意識に後ずさり、独房の石壁へ背をつけた。
「その問いを、ここで口にするな」
「紅い星石は持ち込んでいません」
「石がなくても、問いは残る。問いを道にするのが紅涙冠だ」
「王冠は、いま銀の檻に封じています」
「違う」
カシアンが低く言った。
「お前たちが檻へ入れたのは、王冠の一部にすぎない。人間でいえば、歯か爪だ。紅涙冠の本体は一つの宝石ではない」
彼は床へ膝をつき、指先で八つの円を描いた。
外側に七つ。
中央に一つ。
「もとは八つの石で作られた。七つの石が問いを受け、記憶を食らう。中央の石が、それらの記憶を使って答えを作る。王冠の形を失っても、一度つながった石同士は互いを探す」
「私たちのところにあるのは?」
「中央石だろう。だから答える。ほかの七つがどこにあるかは知らない。指輪、首飾り、短剣の柄、印章――宝石に加工できるものなら、何にでも姿を変える」
アウレリアが息を呑んだ。
「リディアが七つの質問をするたび、別の石が起きたということ?」
「そうだ。そして七つの問いで、その人間を支えている記憶を削る。家族、信頼、故郷、自分の名前。空洞になった人間へ、八つ目の問いで命令を書き込む」
「八つ目は、何を奪うんですか」
セラフィナの問いに、カシアンはすぐには答えなかった。
代わりに、ギデオンが持つ封印鞄を見た。
「その中に何がある」
「セラフィナ嬢の婚約指輪です」
「まさか、その指輪を中央石へつないだのか」
ギデオンの顔が強張った。
「性質を確かめるため、外部記憶を代価として使った」
「馬鹿なことをしたな」
「あなたに言われる筋合いはない」
「その通りだ。私はお前たちより、もっと愚かなことをした。だからわかる」
カシアンは鉄格子へ近づいた。
「紅涙冠は、一度口にした石を忘れない。その指輪に刻まれた記憶を食ったのなら、持ち主のどこに同じ感情があるか、もう知っている」
ルシアンの手が剣の柄へかかった。
「何を奪う」
「石に残っていた記憶は何だ」
「今朝の記憶です。私が殿下と話したことや、迎えに来た護衛の人数が記録されていました」
「それだけか?」
カシアンがセラフィナの顔を凝視する。
「婚約指輪なのだろう。その石には、ほかにも感情が残っている。信頼、執着、恐れ、それから――」
「言え」
ルシアンの声が地下牢へ響いた。
カシアンは彼を見た。
「愛情だ」
誰も言葉を発しなかった。
「八つ目の問いは、質問者だけから代価を取るとは限らない。七つの問いで空洞になった者は、もう十分な記憶を持っていないからだ。そこで、問いに答えようとした者、記憶を読んだ者、もっとも強くつながった者から取る」
「だから、セラフィナなの?」
アウレリアが掠れた声で尋ねる。
「彼女は中央石へ触れ、皇女の首飾りも読んだ。二つの石の間をつないだ。紅涙冠から見れば、立派な橋だ」
「それでは、私が妹を連れてきたせいで――」
「いま罪の押しつけ合いを始めても、王冠は待ってくれない」
カシアンが切り捨てる。
「誰が石を持ち込んだ、誰が実験を提案した、誰が許可した。あとで好きなだけ争え。だが八つ目が口にされれば、まず石読みの娘から、婚約者を愛した記憶が狙われる」
ルシアンがセラフィナの前へ立った。
鉄格子からも、封印鞄からも隠すように。
「止める方法を話せ」
「リディア皇女を見つけ、八つ目の問いをさせないこと。それが確実だ」
「見つからない場合は?」
「七つの石のつながりを切る。どこにあるかわからない以上、時間が足りない」
「あなたなら、場所を探せるの?」
セラフィナが尋ねると、カシアンは口元を歪めた。
「鏡石の欠片があれば、残った道を辿れるかもしれない」
「見返りは何だ」
ルシアンが問う。
「兄上に一度だけ会わせろ」
「断る」
「即答か」
「父上を再びお前の前へ出すつもりはない」
「私は鉄格子の中でいい。鎖も外さなくていい。言葉を一つ交わしたいだけだ」
「何を言うつもりだ」
「それをお前に聞かせたくないから、本人へ会いたいんだ」
ルシアンの目に怒りが浮かぶ。
「取引している時間はありません」
セラフィナは二人を見比べた。
「国王陛下へ、会うかどうかを選んでいただきましょう。カシアンの頼みを聞くためではありません。ご本人の意思を、殿下が先回りして決めないためです」
「父上を危険にさらせと?」
「陛下には断る権利もあります」
「君はまた――」
「殿下」
セラフィナは彼の言葉を遮った。
「怖いのはわかります。ですが、守ることと選択を奪うことは違うと、殿下ご自身が教えてくださったでしょう」
ルシアンは拳を固く握った。
長い沈黙のあと、ようやく言う。
「……父上へ確認する。会うかどうかは父上が決める。ただし、リディア皇女を見つけることが先だ」
「十分だ」
カシアンはそう答えたものの、勝ち誇った様子はなかった。
ノアが鏡石の欠片を取りに向かおうとしたとき、アウレリアがカシアンへ尋ねた。
「あなたへ鏡石の技術を教えた人物は、ソルヴェインの人間なの?」
「名は知らない。ヴェイルと名乗っていたが、偽名だろう。十四年前、国境の天文塔で会った」
「どんな男?」
「黒い手袋をつけ、右脚をわずかに引きずっていた。年齢は、当時五十に届くかどうか。赤い石を見せ、私に最初の質問をさせた」
「あなたも、紅涙冠へ質問したのですか」
セラフィナが驚いて尋ねる。
「ああ」
「何を聞いたの?」
カシアンは笑った。
子どもの頃から隠し続けてきた傷を、無理に見せるような笑いだった。
「母は一度でも、私を愛していたか、と」
ルシアンの表情がわずかに揺れる。
「石は『一度も愛していない』と答えた。その代わりに、私は母の顔を忘れた」
「答えが嘘だと、いつわかったんですか」
「兄上が母の手紙を見つけた。死ぬ直前まで、私の体調を気遣い、好きだった菓子を尋ねていた。だが、顔も声も失った私には、手紙の女が自分の母だとは思えなかった」
「それで、王冠を使うのをやめた?」
「いいや。腹を立てた私は、さらに真実を知ろうとした」
カシアンは自嘲する。
「人間は、自分が騙されたと認めるより、次の答えで前の答えを正そうとする。リディア皇女と同じだ。二つ目の問いを口にしかけたとき、ヴェイルが笑った。その顔を見て、ようやく気づいた。あの男は真実になど興味がない。人間が自分から壊れていく様子を見たかっただけだ」
「その男が、鏡石を教えたの?」
「ああ。紅涙冠を拒んだ私へ、『では、自分で止められる玩具を与えよう』と言った。私は、記憶を奪っても戻せる鏡石なら安全だと思った」
「安全?」
ルシアンが低く聞き返す。
「あなたが私から何を奪ったか、忘れたとは言わせない」
「忘れていない。忘れられれば、もっと楽だっただろう」
アウレリアが壁に手をついた。
「ヴェイルは、何か口癖を持っていなかった?」
「真実は、優しさを抜いた慈悲だ」
カシアンが答えた瞬間、アウレリアの顔色が変わった。
「それを、ヴェイロンも言うのか」
「私とリディアが子どもの頃、何度も聞かされた言葉よ」
「ほかには?」
「右脚を引きずっている。黒い手袋も、公式行事では必ずつける。若い頃、天文塔の火災で手を傷めたと言っていた」
アウレリアは認めたくないように首を振った。
「でも、そんなものは証拠にならない。同じ言葉を師から習ったのかもしれない。怪我をした者だって、ヴェイロンだけではないわ」
「そうですね」
セラフィナが頷いた。
「疑う理由にはなりますが、犯人だと決めるには足りません」
「あなたなら、すぐ疑うと思った」
「殿下が信頼していた人だから疑わない、というのも違います。疑わしい特徴が一致したから犯人だと決めるのも違う。それだけです」
「どこまでも、欲しい言葉をくれないのね」
「紅い王冠のようになりたくありませんから」
そのとき、ギデオンの持つ封印鞄から、硬いものが震える音がした。
一度。
二度。
銀箱の中で、婚約指輪が蓋を叩いている。
「箱を床へ!」
カシアンが叫んだ。
ギデオンが封印鞄を下ろす。銀箱の継ぎ目から、夜星糊を透かして紅い光が漏れた。
遠く離れた場所から、少女の声が響く。
『教えて』
リディアの声だった。
『どうすれば私は、姉上を殺さずに、私のままでいられるの?』
「八つ目だ!」
カシアンが鉄格子をつかむ。
「答えるな! 誰も、その問いを考えるな!」
セラフィナは何も言っていない。
それでも、胸の奥から何かが強く引かれた。
ルシアンと初めて出会った日の冷たい眼差し。
工房で交わした言葉。
手をつなぐ前に、触れてよいかと尋ねた声。
三か月の婚約を選び、指輪の内側へ「二人で決める」と刻んだ瞬間。
昨夜、許可を求めたあとで触れた唇。
それらが一度に浮かび、紅い糸で縛られたように引きずられていく。
「セラフィナ!」
ルシアンが手を伸ばす。
セラフィナは反射的に、その手から一歩離れていた。
自分でも、なぜ避けたのかわからない。
「どうした」
「……何でもありません」
「俺を見てくれ」
言われるまま顔を上げる。
ルシアン・ヴァルハルト。
ヴァルハルト王国の皇太子で、自分の婚約者。昨夜、口づけを交わした相手。
事実はすべて知っている。
けれど、その顔を見たときに胸へ広がっていたはずの温かさだけが、どこにもなかった。
「昨夜のことを覚えているか」
「はい。記録帳に書きました。午後十時十二分、両者の同意のもと――」
「記録ではない。君自身の記憶だ」
セラフィナは答えようとした。
唇が動かない。
口づけをした事実は知っている。
けれど、そのとき何を感じたのか、なぜ自分が目を閉じたのか、どうして彼に触れてほしいと思ったのかが思い出せない。
カシアンが鉄格子の向こうで、目を伏せた。
「遅かった」
銀箱の中で、青い婚約指輪が紅く染まっていく。
「紅涙冠は、もう彼女から代価を取り始めている」
セラフィナはルシアンの名も、立場も、交わした約束も覚えていた。
ただ――彼を愛していた記憶だけが、端から静かに消え始めていた。




