第37話 行方不明の第二皇女は、十九日前から王宮の侍女をしていました
「セラフィナ!」
灯火が戻ると同時に、ルシアンが人波を押し分けて駆けてきた。
いつもの彼なら、周囲の貴族が転ぼうと、怯えた令嬢が悲鳴を上げようと、もっと冷静に状況を見ていたはずだ。だが今は、セラフィナ以外のものが目に入っていない。
両肩をつかみかけた手が、触れる直前で止まる。
「怪我はないか。触れても?」
「はい。怪我はありません」
許可を得た途端、ルシアンはセラフィナの腕や顔を確かめた。少し乱暴なくらいだったが、止める気にはなれない。震えているのは、セラフィナよりも彼の指のほうだった。
「何があった」
「青い仮面の侍女が近づいてきました。その人が、この首飾りを残して――」
「その女はどこにいるの!」
アウレリアがドレスの裾を持ち上げ、二人の間へ割って入った。
「リディアだったのでしょう? あなた、あの子と話したのね?」
普段の気高さは消えていた。
妹の名を口にする声は上ずり、呼吸も乱れている。ルシアンと踊っていたときの優雅な皇女はもうおらず、そこにいるのは、行方不明の家族をようやく見つけかけた一人の姉だった。
「断定はできません。ただ、瞳の色と声は殿下によく似ていました」
「何を話したの?」
「ご自分は姉上を殺さなければならない。でも、殺したくないと」
「それだけ?」
「私に、アウレリア殿下を助けてほしいとも言いました」
「なぜ捕まえなかったの」
アウレリアの手が、セラフィナの腕を強くつかむ。
「なぜ名前を呼ばなかったの? あの手帳に書かれた警告を信じたから? 誰が書いたかもわからない、あんなものを、私の妹より信じたというの?」
「石が聞いているから、名前も質問も口にしないでほしいと、本人が言ったんです」
「だから従ったの?」
「はい」
「あなたは、あの子を行かせたのよ!」
「はい。止められませんでした」
言い訳をしなかったことで、アウレリアはかえって言葉を失った。
セラフィナにも、別の選択があったのかもしれない。
名前を呼べば、リディアは足を止めたかもしれない。腕をつかみ、近衛へ引き渡すこともできたかもしれない。あの一瞬の判断が正しかったと、胸を張ることはできなかった。
「申し訳ありません。ただ、リディア殿下はご自分の意識と、石から植えつけられた記憶の間で揺れています。無理に追いつめれば、どちらが表へ出るかわからなかった」
「そんな理屈を聞きたいのではないわ!」
「では、何を言えばよいのですか」
「あの子を連れ戻したと!」
「それは言えません」
アウレリアの指へ、さらに力が入る。
ルシアンが二人の間へ手を差し入れようとしたが、セラフィナは首を振った。
これは、他人に止めてもらってはいけない。
「殿下は私を責める権利があります。私はリディア殿下を逃しました。ですが、もう一度同じ状況になったとしても、妹君の記憶を危険にさらして殿下を安心させるかどうかは、その場で考えます」
「また逃すかもしれないということ?」
「そうです」
「本当に、あなたは――」
「お二人とも、喧嘩はあとになさいませ」
ミレーユの声が、二人の間を鋭く断ち切った。
「いま費やしている一分ごとに、その青い仮面の女性は遠ざかっています。怒りは逃げませんが、容疑者は逃げます」
アウレリアが歯を食いしばる。
それでもセラフィナの腕を放した。
「……あとで必ず、続きをするわよ」
「はい」
「逃げないで」
「殿下も」
「誰が逃げるものですか」
「すでに一度、王宮から逃げています」
「あなた、こういうときまで正論を言わなければ死ぬ病気なの?」
「その言葉は感情日記へ書いておいてください」
アウレリアは怒鳴りそうになり、しかし何とか飲み込んだ。
ミレーユがすでに会場の扉を閉鎖させていた。
「恐れ入りますが、身元を確認できるまで、皆様には大広間へ留まっていただきます」
「我々を閉じ込めるつもりか!」
年配の伯爵が声を上げる。
「王家の客人に対して無礼ではないか!」
「暗闇に乗じて不審者が入り込んだ可能性がございます。お帰りになりたいお気持ちは理解いたしますが、不審者を馬車へ同乗させてお屋敷までお連れになりたいのでしたら、お止めはいたしません」
「そのようなことは言っていない!」
「では、安全の確認までお待ちくださいませ。お飲み物を新しく用意させます」
微笑みを崩さず、反論の余地だけをきれいに塞いでいく。
セラフィナは思わず感心した。
「すごいですね」
「自尊心の高い男性には、命令ではなく、自分で賢いほうを選んだと思わせるのが一番です」
近くにルシアンがいることに気づき、ミレーユは付け足した。
「もちろん、殿下に当てはまるとは申しておりません」
「わざわざ言い直したことで、当てはまると思っているとわかった」
「記憶力のよい殿方は苦手ですわ」
近衛が使用人を一人ずつ確認した結果、飲み物を運んでいた侍女が一人、姿を消していることがわかった。
使用人名簿に記されていた名は、ニナ・ラウル。
十九日前、王宮で働く洗濯女の紹介を受け、臨時の給仕係として雇われていた。
「十九日前?」
アウレリアの顔がこわばる。
「私がこの国へ到着したのは、四日前よ」
「妹君は、あなたより十五日も早く王宮へ入り込んでいたことになります」
ルシアンが答えた。
「そんなはずはないわ。リディアがソルヴェインから消えたのは、私が出発する六日前よ。普通に馬車で移動すれば、国境を越えるだけで十二日はかかる」
「普通の経路を使っていないか、失踪する以前から身代わりを置いていたか」
ノアが指を折る。
「あるいは、本人が失踪したと思っている日時そのものが違う可能性もあります」
「私の記憶が間違っていると?」
「殿下に限った話ではありません。紅い星石がどこまで手を伸ばしていたのか、まだ誰にもわかりませんから」
臨時侍女ニナと同室だった少女が、近衛に連れられてきた。
年は十七、八歳ほどだろう。エルサと名乗った少女は青ざめ、エプロンの端を握りしめている。
「申し訳ございません。ニナが悪い人だとは、どうしても思えなくて……」
「その判断はこちらがします」
近衛隊長が厳しく言うと、少女はますます小さくなった。
ミレーユが隊長を手で制する。
「ニナが何をしたかではなく、どのような人だったかを教えてください。失敗したことでも、誰かへ親切にしたことでも構いません」
「盆の持ち方が下手でした。最初の日に、葡萄酒を三杯落として、給仕長にひどく叱られて……でも、文字はとてもきれいでした。わたしが故郷の母へ手紙を書くとき、代わりに書いてくれたんです」
「読み書きができたのね」
アウレリアが呟く。
「外国語も読めました。話せないと言っていたのに、ソルヴェインの使節が置いていった新聞を読んでいたことがあります。尋ねたら、絵を見ていただけだって」
「食事の好みは?」
アウレリアが急に尋ねた。
「え?」
「山羊の乳酪を食べた?」
「いいえ。匂いが苦手だと言って、いつもわたしへくれました」
アウレリアの手が震えた。
「眠るときは?」
「蝋燭を消したがりませんでした。暗いところでは、自分が誰なのかわからなくなるからって。冗談だと思っていましたけど……」
「左手の人差し指に、小さな傷痕がなかった?」
「ありました。子どもの頃に硝子で切ったと言っていました」
アウレリアが目を閉じる。
「六歳のリディアが、母の香水瓶を勝手に持ち出して割ったときの傷よ。怒られるのが怖くて、私の寝台の下に半日隠れていた」
「本人だと?」
ルシアンが確認する。
「間違いないわ」
エルサは自分の知っていたニナが皇女だったと聞き、信じられないように何度も瞬きをした。
「でも、ニナは本当に優しい子だったんです。わたしが鍋で腕を火傷したとき、夜通し冷やしてくれました。給仕長が殴ろうとしたときも、自分が失敗したことにして庇ってくれて」
「なぜ、先ほどの確認で彼女がいないと申し出なかったの?」
アウレリアの問いに、エルサは俯いた。
「逃げなければならない理由があると言っていたんです。偉い家の人に見つかったら、無理やり連れ戻されるって。わたしも家で父に殴られて、逃げて王都へ来たから……ニナも同じだと思ってしまって」
アウレリアの表情が歪んだ。
自分こそが、妹を無理やり連れ戻す「偉い家の人」だと言われたように感じたのだろう。
だが、エルサに悪意はない。
自分の経験に重ね、友人を守ろうとしただけだ。
「あなたは悪くありません」
セラフィナが言うと、アウレリアがこちらを見る。
「ですが、今度ニナを見かけたら、私たちへ教えてください。捕らえて罰するためではなく、石に奪われた記憶を取り戻すためです」
「ニナを、痛い目に遭わせませんか」
「約束はできません」
エルサの顔に怯えが戻る。
「私たちは彼女を傷つけません。しかし、今の彼女が誰かを傷つけようとすれば、止めなければならない。何もかも大丈夫だと約束してしまうのは、あなたを安心させるための嘘になります」
「そんな言い方をしたら、協力してもらえないかもしれないわ」
アウレリアが小声で言った。
「嘘をついて協力させますか?」
「……いいえ。もう、妹のためという理由で嘘を増やしたくない」
エルサはしばらく迷ったあと、震えながらも頷いた。
「わかりました。ニナを見つけたら、お知らせします。でも、お願いです。あの子の話も聞いてください」
「ええ。必ず」
リディアが使用していた部屋は、王宮の北棟にある使用人用の小部屋だった。
寝台と粗末な机、衣装箱が一つ。皇女が暮らしていたとは思えないほど狭い。しかし、アウレリアは室内へ入るなり、足を止めた。
「ここに、あの子がいたのね」
寝台の毛布はきれいに畳まれている。窓辺には、食堂から持ち帰ったらしい欠けた茶碗が置かれ、中では小さな白い花が咲いていた。
机の前の壁に、炭で文章が書かれている。
『私の名前は、リディア・ソルヴェイン』
『アウレリアは私の姉。私の主人ではない』
『私は姉が父上を殺すところを見た。この記憶は偽物かもしれない』
『私は姉を愛している。この気持ちも、必ず確かめること』
『紅い石の近くで質問をしてはいけない』
『青い首飾りには、王冠へ触れる前の私が残っている』
最後の一文だけは、何度もなぞられていた。
『青い指輪の女を見つけたら、首飾りを渡す』
セラフィナは自分の婚約指輪へ目を落とした。
「リディア殿下は、私が石の記憶を読めると知っていた」
「誰から聞いたの」
アウレリアの問いに、答えられる者はいなかった。
セラフィナは舞踏会で受け取った青い首飾りを布の上へ置いた。
「この石には、紅涙冠へ触れる前の記憶が保存されているようです。リディア殿下は、私に読ませるため意図的に残しました」
「なら、早く聞いて」
「持ち主本人の許可を得ていません」
「今さら何を言っているの? あの子があなたへ渡したのでしょう」
「読むためだという推測はできます。ただ、どこまで読んでよいかはわかりません」
「妹が自分を失いかけているのよ。礼儀を守って、手遅れにするつもり?」
セラフィナは返事に詰まった。
記憶は、その人自身だ。
たとえ救うためでも、勝手に覗けば傷つける。だが、何もしなければ、リディアは偽りの記憶に飲み込まれるかもしれない。
「表面の、もっとも新しい残響だけを読みます」
やがてセラフィナは決めた。
「奥へは入りません。この首飾りを私へ渡したとき、殿下が伝えようとしたことだけを聞きます」
「それでいいわ」
「アウレリア殿下の許可で決めたわけではありません。これは私の判断です。間違っていた場合、責任も私が負います」
「あなたは、いちいち面倒ね」
「知っています」
青い石へ、指先で触れる。
最初に流れ込んできたのは、幼い姉妹の記憶だった。
『姉上、母上は来ないの?』
『来るわ。だから眠りなさい』
『嘘。母上はもう死んだのでしょう?』
『……ええ』
『姉上は嘘つき』
『そうね。でも、今夜は一人にしない』
幼いアウレリアが、泣いている妹の手を握っている。
母親は来ないと知りながら、朝まで扉を見つめていた。
次の記憶では、成長したリディアが鏡へ向かって話していた。
『もし私が首飾りを手放したなら、青い指輪の女性へ渡せたということ。彼女なら、ここにある本当の姉上を見つけてくれる』
声が一度途切れる。
鏡の奥に、誰かの影が立っていた。
男の声がする。
『お前は刃だ。姉を殺すために残された』
『違う』
『何が違う? 王冠は真実を教えた』
『違う。姉上は、私を一人にしなかった』
記憶の中で、リディアは首飾りを強く握っている。
『この石に残っている。私は忘れても、石は忘れていない』
男の声が低く笑った。
『ならば、その石を捨てろ』
『嫌よ』
『いずれ自分から手放すことになる。姉を守りたければな』
残響はそこで途切れた。
セラフィナが指を離すと、アウレリアが息を詰めていた。
「リディアは、この首飾りの記憶を使って、紅い石へ抵抗していたんです」
「それを、私を守るために手放したの?」
「捨てたのではありません。私たちへ託したんです」
「同じよ。あの子はいま、姉を愛していた記憶を確かめるものを持っていない」
アウレリアの声が震え始める。
「私が、すぐに見つけていればよかった。私があの子へ嘘ばかりつかなければ、石の答えより先に私を信じてくれたかもしれない」
「それはわかりません」
「こういうときくらい、否定してくれてもいいでしょう!」
「わからないものを、わかるとは言えません。ただ、リディア殿下は最後まで殿下を守ろうとしています。そこまで失われたわけではありません」
アウレリアは唇を強く噛んだ。
「さっきは、あなたを責めて悪かったわ」
「無理に謝らなくて結構です」
「謝っている人間にまで正論を返さないで」
「まだ私を責めたいのではありませんか」
「……責めたいわよ。あなたがもっと上手に腕をつかんでいれば、とも思っている。自分が見つけられなかったくせにね」
「私も、自分を責めています。ですから、少しずつ分けましょう」
「何を?」
「殿下が私を責める分と、私が自分を責める分です。どちらか一人で全部持つと、動けなくなります」
「そんなものを分け合って、どうするの」
「動けるうちに、妹君を捜します」
アウレリアは泣きそうな顔で笑った。
「やはり、あなたが嫌いだわ」
「知っています」
「でも、少しだけ好きよ」
「それは感情日記へ」
「絶対に書かない」
室内を調べていたノアが、寝台の下から紙の束を見つけた。
王宮の使用人通路を描いた地図だ。
秘密の階段や、古い貯水路まで記されており、王宮で十九日働いただけの臨時侍女が作れるものではない。誰かが、リディアへ渡したのだろう。
地図の一か所に、赤い丸がつけられている。
「地下牢ですね」
ルシアンが言った。
「そこには誰がいるの?」
アウレリアが尋ねる。
「カシアンだ」
第一王弟を名乗り、星の王冠を使ってルシアンの記憶を奪った男。
地図の裏側には、彼の横顔が描かれていた。
その下に、リディアの文字で一文だけ記されている。
『鏡の男は、紅い王冠を知っている』
廊下から慌ただしい足音が聞こえた。
地下牢を守る近衛が、息を切らして部屋へ入ってくる。
「殿下、カシアンが面会を求めております。舞踏会の灯火が消えた時刻から、扉を叩き続けておりまして」
「誰との面会だ」
「セラフィナ・リード嬢です」
ルシアンの表情が険しくなる。
「何と言っている」
近衛は一度、セラフィナを見た。
「『行方不明の皇女はすでに七つの問いを終えた。八つ目を口にする前に、石読みの娘を連れてこい』と」
「八つ目の代価は、リディア殿下の記憶ではないそうです」
近衛は青ざめたまま、残りの言葉を伝えた。
「次に奪われるのは――セラフィナ嬢が、もっとも失いたくない記憶だと」




