第36話 殿下を取り合うつもりはないので、二人の婚約者で手を組みます
『明夜の歓迎舞踏会で、青い仮面の侍女を見ても、リディアの名を呼んではならない』
『妹はもう、この王宮の中にいる』
アウレリアの筆跡で記された二つの文章を、誰もすぐには信じなかった。
だからといって、無視することもできない。
ギデオンは記録帳を窓辺へ運び、朝の光に透かした。次に紙の匂いを嗅ぎ、銀製の小刀で乾いたインクの表面をわずかに削る。
「インクは昨夜、殿下が使ったものと同じです。羽根ペンの切り口も一致します」
「なら、やはり私が書いたの?」
「筆圧もよく似ています。ただし、本人の手で書かれた文章だからといって、本人の意思で書かれたとは限りません」
ギデオンは削ったインクの粉を白い皿へ落とした。
「記憶を書き換えられるなら、手を動かすことくらいできても不思議ではない。あるいは筆跡を精巧に真似た者が、昨夜この部屋へ入った可能性もあります」
「部屋の前には近衛を二人置いていました」
ノアが警備記録を確認する。
「交代も含め、異常なし。窓の留め金も内側から閉じられています。ただし、王宮で『誰も入っていない』という報告ほど、信用すると後悔するものはありません」
「あなたたちの王宮は、ずいぶん安全なのね」
アウレリアが皮肉を言う。
「ソルヴェインの皇宮よりは安全だと思っておりましたが、最近は自信がなくなってきました」
「こちらと比べて安心しないで。父が殺され、妹が消え、第一皇女が短剣を握ったまま記憶を失う宮殿よ」
「比較対象としては最低ですね」
「意見が一致したわ」
セラフィナは記録帳へ顔を近づけた。
文字から感情を読むことはできない。まして、これは宝石ではなく紙だ。それでも最後の一行だけは、前の文章より強くペンが押しつけられている。
『妹はもう、この王宮の中にいる』
焦りながら書いたのか。
あるいは、読む者を焦らせるために書かれたのか。
「舞踏会を中止するべきでは?」
セラフィナが尋ねると、ルシアンは腕を組んだ。
「俺もそうしたい」
「では、中止を」
「できれば、と先に言うべきだった。昨夜からすでに、各国の使節と国内の有力貴族が王都へ入っている。今になって中止すれば、アウレリア皇女の身に何かあったと公表するようなものだ」
「それだけなら、別に構わないわ」
アウレリアが言った。
「私を病気にでもしておけばいいでしょう」
「そうすれば、今度はセラフィナが君へ毒を盛ったという噂が流れます」
ノアが嫌になるほど爽やかな笑顔で説明する。
「すでに社交界では、二人の婚約者が殿下を巡って争っていることになっています。アウレリア殿下が欠席すれば、『地味な宝石職人令嬢が異国の皇女を追い払った』という筋書きが完成しますね。反対にセラフィナ嬢が欠席すれば、『身分違いの婚約者が本物の皇女に席を譲った』となります」
「出席しても、二人の女が一人の男を奪い合う見世物になるだけではないの?」
「はい。非常に盛り上がるかと」
「嬉しそうに言わないで」
「私ではなく、噂好きな皆様がです」
ルシアンの眉間に深い皺が刻まれる。
「二人を囮にするつもりはない」
「殿下」
セラフィナは少し考えてから、言葉を選んだ。
「私たちは、すでに囮にされています。出席してもしなくても、誰かが自分に都合のよい話を作るでしょう。それなら、少なくともこちらで見せ方を選びたいです」
「危険だ」
「承知しています」
「また、誰かを助けるためなら自分を差し出しても構わないと思っているのではないか」
「今回は一人で決めていません。相談しています」
ルシアンは不満そうに黙った。
アウレリアが横から口を挟む。
「それに、囮には私もいるわ。セラフィナ一人を危険へ放り込むわけではない。王族として剣術も習っているし、多少の毒なら飲み慣れている」
「毒を飲み慣れていることを誇らないでください」
「異国の宮廷では教養の一つよ」
「ソルヴェインへ行くのが不安になってきました」
「安心して。あなたが来る頃までに、毒を盛る相手は私がだいたい片づけておくから」
「何一つ安心できません」
「ぼくも囮になる」
ラピスが口を大きく開け、鋭い歯を見せた。
「囮は石を食べない」
「食べる囮のほうが強い」
「お前は控室で待機だ」
ルシアンに命じられ、ラピスは床へ腹這いになった。
「りゅう差別……」
「舞踏会の菓子を三皿用意させる」
「四皿なら差別を許す」
「交渉を覚えたな」
舞踏会への出席は決まった。
ただし、セラフィナとアウレリアには近衛を離れた位置からつけ、青い仮面をつけた使用人を見つけても、二人だけで追わない。会場の出入り口には、通常の倍の人員を置く。
問題は、警備だけではなかった。
「殿下の右側にはセラフィナ嬢、左側にはアウレリア殿下に立っていただきます」
ノアが会場への入場順を説明すると、アウレリアが露骨に顔をしかめた。
「処刑台へ連れていかれる罪人みたいね」
「罪人は二人も婚約者を連れて歩きません」
「では、見栄を張って買った装飾品を両手に提げる成金」
「俺は何にたとえられているんだ」
「人間としてたとえてもらえているだけ、ありがたいと思いなさい」
結局、儀礼上の婚約者であるセラフィナがルシアンの右側へ立ち、条約上の保護対象であるアウレリアが左側へ並ぶことになった。
二人の婚約者。
その言葉だけが独り歩きし、王都の仕立屋ではすでに、セラフィナの青とアウレリアの赤のどちらが未来の王妃にふさわしいか、賭けが行われているらしい。
舞踏会当日の夕刻、セラフィナは王宮の支度部屋で、深い青のドレスを着せられていた。
銀糸で星の模様が刺繍されているものの、形そのものは華美ではない。指輪の星青玉が目立つよう、装飾も控えめにしてある。
一方のアウレリアは、赤みを帯びた金色のドレスを選んだ。紅い星石を連想させる赤を避ける案も出たが、本人が拒否したのだ。
「石のせいで、自分の色まで捨てるつもりはないわ」
そう言い切った彼女は、鏡の前で髪を結い上げられながら、セラフィナをじろじろ見ていた。
「何でしょう」
「あなた、もう少し胸元に宝石をつけたら? それでは、職人が間違って舞踏会へ紛れ込んだみたいよ」
「職人なので、間違ってはいません」
「未来の皇太子妃候補でしょう」
「三か月後に続けるか決めます」
「口づけまでしておいて?」
侍女たちの手が一斉に止まった。
セラフィナも固まる。
「なぜ、ご存じなのですか」
「事実の記録帳に書いてあったでしょう。午後十時十二分、両者の同意のもと、口づけを交わした、と。時刻まで正確に」
「あれは、記憶を守るための帳簿です!」
「ええ。だから警備責任者と記録管理官とノアも読んでいたわね」
セラフィナは両手で顔を覆いたくなった。
事実を残すことばかり考え、その帳簿を複数人で共有することを忘れていた。
「殿下は、何も言わなかったのですか」
「ずいぶん満足そうに署名していたわ」
「あとで抗議します」
「次の口づけは何時にするか、先に相談しておくといいわ。記録係も待機させられるでしょうし」
「しません」
「口づけを?」
「記録をです!」
「二度目をすること自体は否定しないのね」
アウレリアが楽しそうに笑った。
昨夜まで父殺しの疑いと妹の失踪に押し潰されそうだった人と同一人物には見えない。だが、忘れたわけではないのだろう。人間は苦しんでいる間、ずっと泣いているわけではない。くだらないことで笑い、その直後にまた沈む。その繰り返しで、どうにか一日を終える。
「皇女殿下。その程度になさってください」
支度部屋へ入ってきた女が、扇を閉じながら言った。
ミレーユ侯爵令嬢。
二十五歳にして王都の社交界を取り仕切り、彼女へ挨拶せずに新しい流行を始めることはできないとまで言われる女性だった。
黒髪を真珠の飾りでまとめ、淡い紫のドレスを着ている。笑みは柔らかいが、その眼差しは相手が隠したいものまで値踏みしていた。
「女性同士の会話を盗み聞きするのは、侯爵家の作法なの?」
アウレリアが尋ねる。
「聞かれて困る会話を、侍女が八人もいる部屋でなさらないのが宮廷の作法です」
「あなた、嫌いではないわ」
「光栄です。ですが、私は好かれるために来たのではありません」
ミレーユはセラフィナのドレスを眺め、それからアウレリアの赤金のドレスへ視線を移した。
「今夜、お二人を争わせたい者が大勢います。セラフィナ様には『皇女に身分で負けている』と囁き、アウレリア殿下には『職人令嬢に男を奪われた』と囁くでしょう。お二人が一度でも不快そうな顔で互いを見れば、明日の朝には決闘したことになっています」
「では、一晩中、仲良しのふりをしろと?」
「ふりである必要はありません。ただ、敵の選び方を間違えなければよいのです」
ミレーユは二人の間へ立った。
「男性たちは、二人の女性を向かい合わせて、自分が選ぶ側へ座りたがります。ですが女性が横に並ぶと、驚くほど困るものです」
「殿下を取り合うつもりは、最初からないわ」
アウレリアが即答する。
「その言い方は、少し殿下に失礼ではありませんか」
「セラフィナ、あなたはどちらの味方なの?」
「取り合わないという点には賛成ですが、本人の前ではもう少し柔らかく言ってあげたいです」
「優しいのね」
「あとで不機嫌になられると面倒なんです」
ミレーユが扇で口元を隠した。笑ったらしい。
「よろしいでしょう。私の持つ侍女、仕立屋、令嬢たちの情報網をお貸しします。今夜、名簿にない青い仮面の侍女が現れれば、必ず見つけます」
「見返りは?」
アウレリアが尋ねた。
「新しい王冠の管理機関に、女性の監査役を置いてください。家名のある飾り物ではなく、帳簿を読み、職人へ直接質問できる席です。できれば私が座りたい」
「ご自分で言うんですね」
セラフィナが目を瞬く。
「善意だけを主張する者より、欲しいものを明かす者のほうが信用できるでしょう?」
「少なくとも、私は嫌いではありません」
「では、交渉成立ですね」
セラフィナ、アウレリア、ミレーユ。
立場も性格も違う三人は、握手の代わりに互いの杯を軽く触れ合わせた。
舞踏会の開始を告げる鐘が鳴った。
大広間の扉が開く。
ルシアンの右側には、青いドレスのセラフィナ。
左側には、赤金のドレスのアウレリア。
三人が並んで足を踏み入れた瞬間、華やかな音楽が霞むほどのざわめきが広がった。
「本当に二人を連れてきたわ」
「どちらが正妃になるの?」
「皇女殿下に決まっているでしょう」
「でも、指輪をしているのはリード嬢よ」
声を潜めたつもりの囁きが、四方から届く。
セラフィナは背筋を伸ばした。隣を見ると、アウレリアは顎を上げている。堂々として見えるが、扇を持つ指に必要以上の力が入っていた。
「大丈夫ですか」
小声で尋ねる。
「大丈夫に見えるでしょう」
「見えます」
「なら、大丈夫よ。王族なんて、そういうものだもの」
「あとで感情日記には、正直に書いてくださいね」
「あなたもね。私と殿下が踊っているところを見て、少しでも腹が立ったら記録するのよ」
「腹は立ちません」
「今のうちに断言しないほうがいいわ。人間の感情は、本人の品性に相談せず勝手に動くから」
最初の曲は、ルシアンとセラフィナが踊ることになっていた。
「手を」
差し出された手へ、自分の手を重ねる。
「触れてよいか聞かないんですか」
「大勢の前で踊りを申し込んだあとに聞くのは、ずるい気がした」
「成長しましたね」
「今夜こそ満点をもらえるか」
「踊り終えてから決めます」
ルシアンの腕が腰へ添えられ、二人は音楽に合わせて動き始めた。
周囲の視線が痛いほど集まっている。
「昨夜のことを、事実の記録帳へ書いた件ですが」
セラフィナが切り出すと、ルシアンは視線を逸らした。
「間違ったことは書いていない」
「共有される帳簿です」
「記憶を失ったとき、事実として残っていたほうがいいと思った」
「時刻まで必要でしたか」
「正確な記録が必要だと君が言った」
「では次からは、私的な記録へ書きます」
「次があるのか」
ルシアンの足取りが、ほんのわずかに乱れた。
「踊りに集中してください」
「今の発言について確認したい」
「記録する必要はありません」
「俺の記憶だけで大切にする」
「それも少し困ります」
「難しいな」
言葉とは反対に、彼は嬉しそうだった。
曲の終わりが近づく。
「今日の君は、自分の意思でここにいるのか」
ルシアンが静かに尋ねた。
「記録帳に書かれていたからではなく?」
「はい。今日の私は、自分で殿下の隣を選びました」
「明日は?」
「明日の私が決めます」
「毎日、聞いてもいいか」
「毎日答えるのは面倒ですね」
「断るのか」
「いいえ。面倒でも答えます」
曲が終わり、ルシアンはセラフィナの手の甲へ唇を寄せた。
次の曲では、条約上の儀礼としてアウレリアと踊らなければならない。
二人が広間の中央へ出ていく姿を見送りながら、セラフィナは胸の奥に小さな棘が刺さるのを感じた。
「腹は立ちませんでしたか?」
いつの間にか隣へ来ていたミレーユが尋ねる。
「立っていません。ただ、少し落ち着かないだけです」
「世間では、それを嫉妬と呼びます」
「政略上、必要なことだと理解しています」
「感情は、理解したから消えるものではありませんよ。嫉妬した自分を醜いと責め始めると、余計にこじれます」
「ミレーユ様にも、そういう経験が?」
「もちろん。私は自分より美しい女性にも、先に結婚した友人にも、妹のほうを可愛がった父にも嫉妬しました。そのたびに笑顔でお茶を飲み、家へ帰って枕へ悪口を吐きました」
「意外です」
「上品な女性は悪口を言わないのではありません。聞かれて困る場所で言わないだけです」
セラフィナは思わず笑った。
「感情日記へ書いておきます」
「ぜひ。『皇女殿下が婚約者と踊っているのを見て、ほんの少し嫉妬した。しかし皇女殿下本人を嫌いになったわけではない』と。人間の感情には、矛盾した二つを同時に持つくらいの広さがあります」
「……はい」
そのとき、ミレーユの目つきが変わった。
「セラフィナ様。振り返らず、左手の柱をご覧ください」
磨き上げられた大理石の柱に、広間の様子がぼんやり映っている。
飲み物を運ぶ侍女たちの中に、一人だけ青い仮面をつけた女がいた。
侍女は銀の盆を持ったまま、こちらを見ていた。
「名簿には?」
「いません。私の者が確認しました」
「近衛を呼びます」
「お待ちを。今騒げば、客を巻き込んで逃げるでしょう」
青い仮面の侍女が歩き出す。
逃げるのではなく、まっすぐセラフィナへ近づいてきた。
ミレーユが扇を閉じる。それを合図に、周囲へいた彼女の侍女たちがさりげなく退路を塞いだ。
「果実酒はいかがですか」
青い仮面の女が盆を差し出す。
「結構です」
セラフィナが断っても、女は動かなかった。
首元には、小さな青い石のついた銀の飾りを下げている。その石から、ひどく混乱した感情が流れ込んできた。
会いたい。
見つけないで。
姉を守りたい。
姉を殺さなければならない。
互いに矛盾する思いが絡まり合い、一つの石の中で悲鳴を上げている。
青い仮面の女が、盆を持ったまま身を寄せた。
「その名を呼ばないで」
昨夜、紅い星石から聞こえたものと同じ声だった。
「石が聞いているから」
セラフィナは喉まで出かかった名前を飲み込んだ。
「あなたは、誰ですか」
「それも聞かないで。質問にすると、また何かを持っていかれる」
「では、どうすれば助けられますか」
「私ではなく、姉上を助けて」
女の声が震えた。
「姉上は父上を殺した。私はそれを覚えている。だから、姉上を殺さなければならない。でも――」
仮面の奥から、一滴の涙が落ちた。
「私は、姉上を殺したくない」
女がわずかに顔を上げる。
仮面の奥に見えた瞳は、アウレリアと同じ赤みを帯びた金色だった。
「次に会ったときの私は、もうそう思っていないかもしれない。だから、その前に見つけて」
広間の照明が一斉に消えた。
悲鳴が上がり、人々が動く。セラフィナは伸ばした手で女の袖をつかんだが、布だけが指の間をすり抜けた。
数秒後、灯火が戻る。
青い仮面の侍女は消えていた。
床には、小さな青い石の首飾りだけが落ちている。
舞踏会の中央では、ルシアンがアウレリアを庇いながら、こちらを見ていた。
「セラフィナ!」
呼ばれても、すぐには答えられなかった。
セラフィナの掌にある青い石から、幼い少女の声が聞こえていたからだ。
『姉上、大好きよ。だから私が、姉上を殺してあげる』
行方不明になった第二皇女リディアは、国外へ逃げたのではない。
姉を愛し、姉を殺すという偽りの記憶を抱えたまま、すでにこの王宮の中へ入り込んでいた。




