第35話 もし私が殿下を忘れても、「愛していた」と命令しないでください
『姉上。今度は、あなたが私を忘れる番よ』
「リディア!」
椅子を倒して立ち上がったアウレリアが、銀の檻へ駆け寄ろうとする。
その腕をセラフィナがつかむより早く、ルシアンが進路へ割って入った。皇女は勢いを止めきれず、彼の胸元へ肩からぶつかった。
「退きなさい!」
「退かない」
「あれは妹の声よ! 聞き間違えるはずがないわ!」
「だからこそ、近づかせられない。あの石が人間の感情を利用することは、たった今確かめたばかりだろう」
「リディアがあの中に囚われているかもしれないのよ!」
「妹君が宝石の中に入るほど小さいなら、ぼくが出してあげる」
ラピスが銀の檻へ鼻先を向けたので、ギデオンは小竜の胴を両腕で抱え上げた。
「お前は出す前に食べるだろう」
「食べない。ちょっと舐めるだけ」
「それを人間は食べる前の確認と言うんだ」
黒布の内側では、紅い光がゆっくりと弱まっていた。夜星糊にひび割れはなく、銀線も切れていない。先ほどの声が幻だったのか、石に残されていた過去の残響なのか、それすら判断できなかった。
アウレリアはルシアンの腕を押し退けようとしていたが、やがて力を失った。
「……一度だけでいい。もう一度、声を聞かせて」
今度の言葉は皇女の命令ではなかった。
妹を失った姉の、ひどく弱い願いだった。
「駄目です」
それでも、セラフィナは断った。
アウレリアが振り返る。その顔には怒りよりも、拒絶された痛みが浮かんでいた。
「あなたまで」
「私たちが聞いたものは、リディア殿下の声に似ていました。ですが、妹君が今ここで話した証拠にはなりません。呼びかけに応じれば、石へ新しい問いを差し出すことになります」
「それでも、もし本当にリディアだったら?」
「だから調べます。けれど、殿下が妹君の声に呼ばれるたび、記憶を差し出していては、見つけたときに妹君が誰なのかもわからなくなります」
アウレリアの唇が震えた。
反論は出てこなかった。
自分を忘れるという脅しより、自分が妹を忘れる可能性のほうが、彼女には恐ろしいのだろう。
ギデオンが銀の檻へさらに夜星糊を塗り重ねる。その作業を見届けてから、ルシアンは倒れた椅子を起こした。
「今日から、ここにいる全員の記憶を朝夕二回確認する」
「確認とは、尋問ですか」
セラフィナが尋ねると、ルシアンは口を開きかけて止まった。
「……提案だ」
「いま明らかに命令する顔をしていましたよ」
「先に言葉を直したのだから、成長として評価してくれ」
「努力点は差し上げます」
「満点は?」
「今後に期待します」
ノアが手帳を取り出しながら、わざとらしく感心した。
「婚約してからの殿下は、交渉というものを覚えましたね。以前は『危険だから近づくな』で終わっていたところを、『危険だから近づかないでほしい、これは提案だが断った場合には非常に不機嫌になる』くらいまで説明できるようになりました」
「最後の一文は言っていない」
「顔には書いてあります」
ルシアンは否定しようとしたが、セラフィナを見て諦めたらしい。
「とにかく、記録が必要だ。石は記憶を奪うだけでなく、空白へ偽の記憶を書き込む。本人の自覚だけでは異変に気づけない」
「日記を書けというの?」
アウレリアが嫌そうな顔をした。
「ソルヴェイン第一皇女が、その日に会った人物、交わした密約、誰を疑い、誰を憎んでいるかまで書き残すのよ。盗まれれば、国を一つ滅ぼせるわ」
「殿下の胸の内だけでも、周辺三か国へ甚大な被害が出そうですね」
ノアが頷く。
「人を災害のように言わないで」
「では、取り扱いの難しい軍事機密で」
「悪化したわよ」
セラフィナは新しい紙を三枚並べた。
「一冊へすべてを書く必要はありません。事実、感情、選択を分けましょう」
「どう違うの?」
「一つ目は事実の帳簿です。誰と会ったか、どこへ行ったか、何を見たか。できるだけ複数の人間が署名し、警備記録や書類とも照合します。二つ目は誰にも見せない感情の日記。石が利用するのは、むしろこちらでしょうから、書いた本人だけが封を開ける」
「三つ目は?」
「自分で決めたことの記録です。ただし、『この人を信じろ』『この人を愛せ』とは書かない。『今日の私は、この人と協力すると決めた』『今日の私は、この人を婚約者として選んだ』と書きます」
ルシアンが紙へ向けていた視線を上げた。
「なぜ、現在形ではいけない」
「未来の自分へ命令することになるからです」
「過去の自分が決めたことを、未来の自分が引き継ぐのは普通だろう」
「国政や契約であれば、そうかもしれません。でも、信頼や愛情まで同じにしてはいけません。記憶を失った私に、『以前のあなたは俺を愛していたのだから、今も愛さなければならない』と言ったら、それは愛情ではなく債務です」
ルシアンは何も答えなかった。
拒絶されたわけでもないのに、青い瞳がわずかに傷ついている。
セラフィナの胸も痛んだ。それでも、ここで曖昧にすれば、いざ記憶を失ったときに彼をもっと傷つける。
アウレリアが二人を見比べ、机に肘をついた。
「あなたたち、私の妹を捜す相談をしながら、ずいぶん先回りした痴話喧嘩を始めるのね」
「重要な安全対策です」
「真面目な顔で言えば痴話喧嘩でなくなると思っている?」
「俺も同じ疑問を抱いている」
「殿下はどちらの味方なんですか」
「できれば、俺を愛せという記録を残したい側だ」
「正直すぎます」
「正直にしろと言ったのは君だ」
ルシアンは不機嫌さを隠さず、椅子へ深く座り直した。
「その話はあとでする。今は記録方法を決めよう」
「逃げましたね」
「延期だ。君がいつも使う手だろう」
「人の悪いところばかり覚えるんですね」
「良いところも覚えている。多すぎて、今ここでは話しきれないだけだ」
あまりに自然に返されたため、セラフィナは次の言葉を失った。
アウレリアが片手で目元を覆う。
「お願いだから、私の前でだけは、もう少し冷え切った政略婚約者でいてくれない? 国から婚約相手を押しつけられた私が、惨めになるでしょう」
「私たちはまだ三か月の試用期間です」
「その説明で慰められると思ったのなら、あなたは他人の感情を学び直したほうがいいわ」
安全対策は、それから一刻ほどかけて決められた。
事実の帳簿には、日時、場所、同席者、重要な発言を書く。必ず二人以上が署名し、警備記録とも照らし合わせる。
感情の日記は暗号化し、本人以外は読まない。石に奪われた記憶を確認する目的であっても、他人が勝手に開封することは禁止した。
選択の記録には、決断と、その理由を書く。ただし未来の自分へ服従を求める文言は使わない。
紅い星石がある部屋へは一人で入らない。口に出すかどうかにかかわらず、石の近くで問いを形にしない。紙に書いた質問も持ち込まない。
さらに、朝と夜に簡単な記憶確認を行うことになった。
「好きな食べ物、嫌いな食べ物、子どもの頃に飼っていた動物など、本人しか知らないことをいくつか決めておきます」
「私は子どもの頃、動物を飼っていないわ」
アウレリアが言った。
「父が、私には世話ができないと言って許さなかったから」
「では、飼いたかった動物は?」
「犬。白くて大きな犬よ。いざというとき、私を背中に乗せて逃げられるくらいの」
「それは犬というより、かなり小型の馬では?」
「子どもの頃の夢に現実性を求めないで」
ラピスが勢いよく前足を上げる。
「ぼくの質問は、今日食べたお菓子の数がいい」
「お前は数をごまかすだろう」
「ぼくがごまかしたんじゃなくて、数えられたお菓子が少ないだけ」
「その理屈は、どこで覚えたんだ」
「王宮」
誰もそれ以上追及しなかった。
夕刻には、三種類の記録帳が用意された。
アウレリアは感情の日記の最初の頁へ何を書けばよいかわからず、しばらく羽根ペンを握ったまま固まっていた。
「本当に、誰も読まないのね」
「ご本人が許可しない限りは」
「では、『今日はセラフィナ・リードの正論が腹立たしく、三度ほど窓から投げ捨てたくなった』と書いても?」
「構いません」
「四度だったかもしれない」
「そこは正確にお願いします」
「あなた、意外と根に持つわね」
「私も感情日記に書いておきます。『皇女殿下は反省したふりをして、意外と反省していない』と」
「ふりではないわ。反省しながら腹を立てているのよ。人間は二つくらい同時にできるでしょう」
「それは、よくわかります」
アウレリアはようやく、最初の一文を書き始めた。
夜になり、セラフィナはルシアンとともに小さな記録室へ移った。
今朝の記憶を指輪からも失った以上、事実の帳簿を作り直さなければならない。机を挟んで向かい合うと、ルシアンはノアがまとめた警備記録を読み上げた。
「午前七時四十分、リード工房へ近衛十二名とともに到着」
「やはり多すぎます」
「記憶がなくても同じことを言うのか」
「十二人と聞けば、誰でもそう言います」
「最初は十六人の予定だった」
セラフィナはペンを止めた。
「今、何と?」
「ノアに止められて十二人へ減らした」
「今朝の私は、よく半数を帰すだけで我慢しましたね」
「かなり怒っていた。俺を見るなり、『殿下は私を迎えに来たのですか、それとも工房を制圧しに来たのですか』と言った」
「その言い方は、少し私らしい気がします」
「髪を整える途中だったらしく、右側だけ留め具が外れていた」
「そこは記録しなくて結構です」
「俺にとっては重要だ」
「なぜですか」
「可愛かったからだ」
羽根ペンの先から、インクが一滴落ちた。
「……殿下が事実と主観を混ぜるので、帳簿が汚れました」
「感情日記へ書くべきだったか」
「どちらにも書かなくて結構です」
「未来の君が知りたがるかもしれない」
「知ったら、未来の私も困ります」
「では、その反応まで記録しておこう」
「真面目にしてください」
「俺は真面目だ」
ルシアンは本当に真面目な顔をしていた。
セラフィナが根負けして視線を落とすと、握られた羽根ペンの軸がわずかに軋んだ。
「そのあと、どうしたのですか」
「君が朝食を取っていないと聞いたから、パンを出してもらった。ラピスが三つ盗んだ」
「二つ!」
机の下から声がした。
「なぜそこにいるんですか」
覗き込むと、ラピスは丸くなって籠の中へ収まっていた。
「記憶の確認。ぼくは三つじゃなくて、二つと半分しか食べてない」
「半分を二つ食べれば一つです」
「人間の算術、竜に厳しい」
ルシアンがラピスごと籠を廊下へ出し、扉を閉める。
「それから君は、俺に十二人を連れてきた理由を聞いた」
「何と答えたのですか」
「君がまた俺の知らないところで記憶を奪われるのが怖かった、と」
今度は冗談を挟まなかった。
「俺は一度、君との時間を失った。取り戻せたからといって、平気になったわけではない。むしろ、失うことがどれほど恐ろしいかを具体的に知ってしまった。だから十二人連れていった」
「十六人です」
「最初の予定はな」
「それは、護衛ではなく軍勢です」
「自覚はある」
「減らす努力をしてください」
「して十二人だ」
「努力の方向が足りません」
セラフィナは事実の帳簿へ記した。
『ルシアン殿下は、セラフィナの身を案じ、予定していた十六名の護衛を十二名へ減らして工房を訪れた。セラフィナは多すぎると抗議し、六名を帰した』
そこまで書いてから、その下へ一文を加える。
『以上は本人の記憶ではなく、ルシアン殿下、ノア補佐官、門衛記録から再構成した事実である』
「俺の話を信用していないのか」
「信用と検証は別です。殿下だって、ご自分に都合よく覚えているかもしれないでしょう」
「髪が乱れていた君が可愛かったことは、客観的事実だ」
「それは殿下の主観です」
「ノアも見ていた」
「ノア様の署名を取るのはやめてください」
事実の帳簿を書き終えると、次は選択の記録が残った。
セラフィナは新しい頁を開いたものの、なかなか最初の一文を書けなかった。
「さっきの続きを話そう」
ルシアンが静かに言った。
「俺を忘れた君に、過去の愛情を押しつけるなという話だ」
「怒っていますか」
「怒っている。傷ついてもいる」
あまりに率直な返事だった。
「君は正しい。記憶を失った君には、もう一度選ぶ権利がある。理解はできる。だが理解したからといって、笑って受け入れられるわけではない」
「笑ってほしいとは思っていません」
「なら、俺が見苦しく縋っても許せ」
「縋ることと、命令することは違います」
「君が以前どんな顔で俺を見ていたか、どんな言葉をくれたか、それくらいは話す。婚約指輪の内側に『二人で決める』と刻んだことも、俺が何度君を失うのを怖がったかも、全部だ」
「はい」
「それで君が困っても、俺はおそらく黙れない」
「それも、はい」
「それでも君が俺を選ばなかったら――」
ルシアンはそこで言葉を切った。
視線が机の上の指輪へ落ちる。
「受け入れるよう努力する。ただし、潔く身を引くとは約束できない」
「殿下らしいですね」
「もう一度、君に好きになってもらう。以前の君を盾にはしないが、未来の君を口説くことまでは諦めない」
「きっと、かなり面倒ですよ」
「君にだけは言われたくない」
セラフィナは小さく笑い、選択の記録へ書き始めた。
『今日の私は、ルシアン・ヴァルハルトを婚約者として選んでいる。彼の不安は命令に変わりやすく、私の善意は自己犠牲に変わりやすい。そのため、互いに一人で決めず、相談することを選んだ』
続けて、もう一行。
『この記録は未来の私へ選択を命じるものではない。過去の私が、自分の意思で彼の隣にいたという証明である』
ルシアンは文面を読み、しばらく黙っていた。
「今の君は」
「はい?」
「今の君は、俺に触れられるのも嫌なのか」
セラフィナは彼を見た。
質問の形をしているが、その奥には、拒絶されることを恐れる男の顔があった。冷徹皇太子と呼ばれる人が、たった一人の返事を待ち、身動きもせずにいる。
「いいえ」
「触れても?」
「はい」
ルシアンは席を立ち、机を回ってセラフィナの前へ来た。
頬へ触れた手は温かかった。彼はすぐには顔を近づけず、もう一度、目だけで許可を求める。
セラフィナが目を閉じると、唇へ短い口づけが落ちた。
あまりに慎重で、触れたかどうか確かめる暇もないほど短かった。
ルシアンが離れる。
「……これも記録しますか」
セラフィナが尋ねると、彼は耳を赤くしながら答えた。
「事実として残したい」
「主観は?」
「もう一度したい」
「それは感情日記へ書いてください」
「本人へ伝えてはいけない規則はなかったはずだ」
「今、作ります」
結局、事実の帳簿にはこう残した。
『午後十時十二分、両者の同意のもと、口づけを交わした』
その下には、二人分の署名。
さらに頁の余白へ、ルシアンが一文を書き加えた。
『記録は選択の材料であり、命令ではない』
翌朝、最初の記憶確認が行われた。
セラフィナもルシアンも前夜の出来事を覚えており、ラピスはパンを二つ半食べたという主張を曲げなかった。
最後に、アウレリアが自分の記録帳を開く。
彼女は頁をめくる途中で手を止めた。
「どうしました?」
「この文章……私は書いていない」
昨夜、アウレリア自身が署名した頁。その下に、同じ筆跡で新しい一文が加えられていた。
インクも、彼女が使ったものと同じだった。
『明夜の歓迎舞踏会で、青い仮面の侍女を見ても、リディアの名を呼んではならない』
その下には、さらに小さな文字が続いている。
『妹はもう、この王宮の中にいる』
アウレリアは、確かに自分の筆跡だと認めた。
けれど彼女には、その文章を書いた記憶がなかった。




