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『婚約破棄されて返した指輪から、亡き王妃の声が聞こえます ~石の記憶を読む地味令嬢、冷徹皇太子の偽婚約者になりました~』  作者: 極楽鳥


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第34話 答えを一つ聞くたび、大切な思い出を一つ失う王冠

「私は、父を殺していないとは誓えない」


 アウレリアがそう言い切ったあと、隔離工房から音が消えた。


 銀の檻を覆う黒布の向こうで、紅い星石だけが息を潜めている。周囲に塗り重ねられた夜星糊は乾ききっておらず、灯火を受けた銀粉が、凍った星屑のように鈍く光っていた。


 ルシアンはアウレリアを見つめていたが、剣に手をかけることも、慰めることもしなかった。


 その横でラピスが小さく口を開く。


「でも、それ、殺したって意味じゃ――」


「ラピス」


 セラフィナが名を呼ぶと、小竜は言葉を飲み込み、居心地悪そうに尻尾を前足へ巻きつけた。


 優しい言葉は、いつでも正しいとは限らない。


 慰められた側が、その言葉に縋ってしまうこともある。何の根拠もない「あなたは悪くない」は、ときに呪いと同じくらい重い。


「アウレリア殿下」


 セラフィナは机の向こうに座る皇女へ問いかけた。


「それは告白ですか。それとも、記憶がないという意味ですか」


「後者よ。告白なら、もっと王族らしく見栄えよくするわ。遺書も用意して、国益になる相手を三人ほど道連れにしてからね」


「冗談としては笑いにくいですね」


「笑わせようとはしていないもの」


 相変わらず口が悪い。しかし、机の下に隠された両手は固く組まれ、指の関節が白くなっていた。


 ルシアンが椅子を引いた。


「覚えている最後の場面から話してくれ。記憶のない時間ではなく、その周囲を知りたい」


「簡単に言ってくれるわね。思い出せない人間にとっては、穴そのものより、その縁をなぞるほうが怖いのよ。指を滑らせたら、中へ落ちそうになるから」


「わかっているとは言わない。だが、俺も自分の記憶を奪われた。穴の縁に、奪った者の指跡が残ることは知っている」


 アウレリアは皮肉を返そうとして、やめたらしい。長く息を吐き、椅子の背に体重を預けた。


「父が殺されたのは、冬至祭の前夜だった。晩餐には私もリディアも出席していたわ。父は最初から機嫌が悪くて、肉料理には手をつけず、葡萄酒も一杯しか飲まなかった。宰相ヴェイロンが国境関税の報告を始めたところで、父は席を立った」


「ヴェイロンというのは?」


「ソルヴェインの宰相よ。父の代から仕え、私が子どもの頃には盤上遊戯の相手もしてくれた。母の葬儀では、泣けなかった私の隣に一晩中立っていた人でもある」


「ずいぶん信頼しているんですね」


 セラフィナが言うと、アウレリアは眉を寄せた。


「疑わしい人物の名が出た瞬間、それまでの三十年まで嘘になるわけではないでしょう。あの人を疑っていないとは言わない。でも、疑うために恩までなかったことにするのは卑怯だわ。人間はそんなに都合よく、善人と悪人に分けられない」


「ええ。だから聞きました」


 反論されなかったことが意外だったのか、アウレリアはわずかに目を伏せた。


「晩餐のあと、私は父を追った。執務室の前で、誰かと争う声が聞こえたから。相手は男だったと思うけれど、扉越しで確信はない。父は『二つ目の王冠を国境の外へ出す気はない』と言っていた。そのあと、私の名も聞こえたわ。『アウレリアには触れさせない』と」


「部屋には入ったのか」


「いいえ。少なくとも、そこまでは覚えていない。その直後、給仕に香辛料入りの温葡萄酒を渡された。祭の前夜にはいつも飲むものだから、不審には思わなかった。口をつけた。それから――次の記憶では、私は父の執務室に跪いていた」


 アウレリアの声から、刃のような強さが少しずつ失われていく。


「父は床に倒れていた。胸に刺し傷があって、私の左袖は血に濡れていた。手には短剣を握っていたわ。私が十六歳で軍籍に入った日に父から贈られた、太陽獅子の紋章入りの短剣よ。誰が見ても私の物だとわかる」


「あなた自身に怪我は?」


 ギデオンが尋ねた。


「なかった。手にも、腕にもね」


「そのあと、すぐ人を呼びましたか」


 その問いに、アウレリアは答えなかった。


 沈黙が長引くほど、彼女の顎が上がっていく。傲慢に見える姿勢は、おそらく崩れないための支えだった。


「……逃げたわ」


 やがて出てきた声は、ひどく低かった。


「廊下へ出て、十二歩か十三歩ほど走った。鏡の前で自分の袖が赤いことに気づいて、洗わなければと思った。何を洗うつもりだったのかは、自分でもわからない。血か、疑いか、それとも、父に触れた感触だったのか」


 アウレリアは口元だけで笑った。


「最初に考えたのは、リディアに見せてはいけない、だった。二番目は、逃げれば犯人に見える、だったわ。そして三番目に気づいたの。私はもう逃げている、と。情けないでしょう? いつも妹には正しくあれと言っていた姉が、父の死体を置き去りにして、自分の評判を心配しながら廊下を走ったのよ」


「情けなくはありますね」


 セラフィナが答えると、ルシアンとノアが同時に彼女を見た。


 アウレリアも目を見開いたが、すぐに険しい顔へ戻る。


「ずいぶん正直なのね」


「正直であってほしいと契約したのは殿下です。ですから、こちらも正直にします。立派な行動ではありません。ただ、人間が恐慌状態で取る行動として、不自然とも思いません」


「慰めているの?」


「いいえ。逃げた事実と、殺したかどうかは別だと言っています」


 アウレリアはしばらくセラフィナを睨み、それから肩の力を抜いた。


「七分ほどで戻ったと思う。呼び鈴を鳴らして、父の侍医と近衛を呼んだ。最初に来たのはヴェイロンだった。彼は布越しに短剣を拾い、証拠として自分が預かると言ったわ」


「なぜ宰相が最初に?」


 ルシアンの問いに、アウレリアは露骨に顔をしかめた。


「執務室の二つ隣で、いつも遅くまで仕事をしていたから。もちろん、今になれば都合がよすぎると思う。でも、当時の私には、あの人へ渡す以外に何ができたの? 父の血がついた短剣を抱えて、城中を走り回ればよかった?」


「責めているのではない」


「あなたはそうでしょうね。でも私は、あの夜からずっと自分を責めている。だから他人の質問まで責め言葉に聞こえるのよ。面倒な女でしょう」


「面倒ではある」


 ルシアンは淡々と認めた。


「だが、面倒でない人間を探すほうが難しい。少なくとも俺は、ここにいる者の中でその条件を満たす者を一人も知らない」


「殿下。さりげなく私どもまで巻き込まないでいただけますか」


 ノアが不満そうに言ったが、ラピスは「ぼく、面倒じゃない」と胸を張った。


 誰も同意しなかった。


 アウレリアはほんの一瞬、笑いそうになった。その唇はすぐに引き結ばれたものの、張りつめていた空気がわずかに緩む。


「私はリディアに、すぐには真実を話さなかった。父は急病で倒れたと説明し、別宮へ移したの。犯人がわからない城に置いておけないと思ったからよ」


「また、妹君のために」


「そうよ。私はいつも、あの子のためという言葉を使った。母の病状が悪化したときも、治るから心配するなと嘘をついた。リディアに届いた求婚者の手紙を、相手に借金があるという理由で勝手に捨てた。護衛だと知れば嫌がるから、侍女だと偽って剣士をそばにつけたこともある」


「それは保護だったのですか。それとも、妹君があなたの言うことを聞かないのが怖かったのですか」


 アウレリアの目に怒りが浮かんだ。


「言い方というものがあるでしょう」


「では、言い方を変えます。どちらの気持ちもあったのではありませんか」


「……あったわよ」


 返事は投げつけるようだった。


「危険から守りたかった。それと同じくらい、私の手の届かない場所へ行かれるのが怖かった。母が死んで、父まで国政にかかりきりになって、私があの子を育てたようなものだったから。だからきっと私は、姉であることと、所有することを混同したのね」


 セラフィナは何も言わなかった。


 気の利いた肯定を差し挟めば、アウレリアは楽になるかもしれない。しかし、それは彼女がようやく口にした醜さを、急いで綺麗なものへ塗り替える行為にも思えた。


 アウレリアは携えていた革鞄から、薄い手帳を取り出した。


「これが、リディアが紅涙冠の主石へ尋ねた七つの質問よ。最初の一つは、私の目の前で聞いた」


 最初の頁には、震えのない端正な文字が並んでいた。


『父上を殺したのは誰?』


 答えは、血まみれの短剣を持つアウレリアの姿。


 その直後、リディアは父と過ごした最後の誕生日を忘れた。皇帝が厨房を追い出されながら作った、形の悪い蜂蜜菓子のことも、その焦げた菓子を姉妹で奪い合ったことも、きれいに失われていたという。


「そこでやめさせるべきだった」


 アウレリアが手帳の角を強くつまんだ。


「でも私は、二つ目の質問を許した。次の答えで誤りだと証明できると思ったのよ。愚かでしょう。一度傷つけられた人間は、傷を治すために同じ刃をもう一度握ろうとする」


 二つ目の問いは、『姉上は、あの夜のことを私に嘘をついている?』。


 石は、『あの女は生涯、お前に嘘をつき続けてきた』と答えた。


 代わりにリディアは、母の葬儀の夜、幼い自分を抱いて嵐の中を歩き続けたアウレリアの記憶を失った。


 三つ目は、『父上を殺した証拠はどこ?』。


 答えは、『紅の塔』。


 だが、紅の塔は皇帝が殺される十一年も前に取り壊されていた。リディアは石の答えを疑うどころか、「塔が壊されたという記録のほうが偽造だ」と言い出した。その代償として、彼女は幼い頃から暮らした宮殿の道順を忘れ、自室から食堂へも一人で行けなくなった。


 四つ目は、『誰を信じればいい?』。


 石は、『宰相ヴェイロンだけを信じよ』と答えた。


 リディアはその答えと引き換えに、十年仕えてくれた乳母の名前と顔を失った。


 五つ目は、『母上はなぜ死んだの?』。


『アウレリアが見捨てたからだ』


 母の最期の日、アウレリアが医師を呼ぶため裸足で雪の中を走ったことも、姉妹の手を握った母が「二人で助け合って」と言い残したことも、リディアの中から消えた。


 六つ目は、『姉上から逃げるにはどうすればいい?』。


『最初の嘘が生まれた場所へ帰れ』


 その問いのあと、リディアは城を見ても、自分の家だと感じなくなった。


 そして七つ目。


 頁の上で、その問いだけが乱れた文字で記されている。


『私は、誰?』


「石は何と答えたのですか」


 セラフィナが尋ねると、アウレリアは手帳を閉じかけた。しかし逃げるように動いた指を、自分で押しとどめる。


「『お前は姉を殺すために残された、第二皇女という名の刃だ』と」


 その問いで何を失ったのかは、最初わからなかった。


 ただ翌朝、侍女が「リディア殿下」と呼んでも、彼女は振り返らなかったという。


 その日の夜に、第二皇女は姿を消した。


「質問と、奪われた記憶が近すぎます」


 セラフィナはもう一度手帳を開いた。


「父親の死を問えば、父親との幸福な記憶を奪う。姉を信じてよいかと問えば、姉に守られた記憶を奪う。誰を信じるべきか尋ねれば、それまで信じていた人の顔を奪う。偶然ではありません」


 ギデオンが銀の檻へ目を向けた。


「通常の石は、感情を受けて記憶を蓄える。だがこいつは逆だ。先に記憶を引き剥がし、その感情を材料にして答えを加工しているのかもしれない」


「つまり、嘘をつく石ということですか?」


 ノアが尋ねる。


「嘘より性質が悪いですね」


 セラフィナは首を振った。


「ただ嘘を言うのではありません。問いかけた人が、心のどこかで恐れている答えを選ぶ。そして、その答えに抵抗できる記憶を先に奪うんです。『姉はずっと嘘をついていた』と信じさせたいなら、姉が自分を守ってくれた記憶は邪魔になりますから」


「原本を盗んでから、都合のいい写しを渡す偽造屋ですか。なるほど。宝石のくせに、宮廷官僚の悪いところをよく学んでいる」


「ノア」


「空気が重すぎますので、少し持ち上げようかと」


「持ち上がっていない」


 ルシアンが切り捨てたあと、セラフィナを見た。


「君がこの石へ触れたときは、質問を口にしていなかったはずだ」


「ええ。でも、考えてはいました」


 セラフィナの背中を冷たいものが這った。


 黒布越しに紅い星石へ触れた、あの瞬間。


 アウレリアは本当に助けを求めているのか。


 この石は何なのか。


 そして何より――この人の話を信じてよいのか。


「言葉にしなくても、問いとして形になれば届くのかもしれません。石から母の声が聞こえたのも、石の記憶ではなかったのでしょう。私の中にある母の記憶を拾い上げ、警告の形へ加工した。そうすれば私は、その答えを信じます」


「その代わりに、今朝の記憶を奪った」


「おそらく」


 ルシアンの表情が険しくなる。


「今後、君はあれに近づくな」


「命令ですか?」


 聞き返すと、ルシアンは唇を結んだ。


 以前なら、そのまま命令だと言っただろう。守るためならば嫌われても構わないと、自分だけで決めていた人だ。


「……違う」


 彼は言い直した。


「俺が怖い。だから、近づかないでほしいと頼んでいる」


 その不器用な言葉に、胸の奥がゆっくりと温まった。


「わかりました。少なくとも、勝手には触れません」


「勝手でなければ触れる余地を残したな」


「契約には相談すると書きましたから」


「その契約文を書かせた過去の自分を殴りたい」


「現在の殿下が成長した証拠ですね」


「その成長はまったく嬉しくない」


「では、私が試すわ」


 アウレリアが立ち上がった。


「父を殺したか、と聞けばいい。私の記憶を代価にして」


「却下します」


「私の記憶よ。何を代価にするかは私が決める」


「昨日結んだ契約には、紅い星石への質問は全員の同意を得るとあります」


「その契約を、私を縛る鎖に使うつもり?」


「殿下が絶望しているときに、ご自分の一部を切り売りするのを止めるためなら使います」


「絶望していれば、自分のことも決められないと?」


 アウレリアの声が鋭くなった。


「可哀想な皇女だから、判断力が戻るまで椅子に座らせておこうというわけ。ずいぶん親切ね。そうやって私から選ぶ権利を取り上げれば、あなたも私の父やヴェイロンと同じよ」


 痛いところを突かれ、セラフィナはすぐには答えられなかった。


「……その通りです。絶望しているというだけで、殿下の意思を無効にはできません」


「なら」


「ですが、殿下は今、ご自分が父親を殺したのではないかという罪悪感から、罰を求めています。真実を知るためだけではない。何か大切なものを失えば、少し楽になれると思っている」


「知ったようなことを言わないで」


「知らないから、二十四時間待ってほしいと言っているんです。殿下の意思を奪うのではなく、明日の殿下にも同じことを選ぶ機会を残してください」


 アウレリアは反論しようと口を開き、閉じた。


 代わりに、机の端へ両手をつく。


「あなた、本当に面倒な女ね」


「先ほど殿下もおっしゃったでしょう。面倒でない人間を探すほうが難しいそうです」


「それを婚約者へ言う男も大概だわ」


「俺まで責められるのか」


「むしろ、なぜ自分は責められないと思ったの?」


 呆れたルシアンの足元で、ラピスが大きく頷いていた。


 ギデオンが咳払いをする。


「生きた人間の記憶を使わずに、石の性質を試す方法ならあるかもしれません」


 彼の視線は、セラフィナの左手へ注がれていた。


 青い星を宿した婚約指輪。


 そこには、セラフィナ自身が失った今朝の記憶が、石の残響として残されている。


「外部に保存された記憶を、代価の代わりに差し出すんですか」


「紅い石が受け取るかはわからない。ただ、夜星糊で流れを限定し、銀線で二つの石だけを結べば、持ち主まで遡られる危険は減らせる」


「駄目だ」


 ルシアンの拒絶は早かった。


「それは彼女が失った朝を残す、唯一の記録だ」


「私の指輪です」


「俺との朝でもある」


 思いがけず感情のこもった声だった。


 ルシアンは一度言葉を止め、押し殺すように続ける。


「君は、失ったものを簡単に差し出しすぎる。誰かを助けられるなら構わないと考える。だが、その朝を残しておきたいと思う俺は、身勝手なのか」


「いいえ」


「なら、残してほしい」


 セラフィナは指輪へ目を落とした。


 石に耳を澄ませれば、今朝の自分とルシアンのやり取りを、もう一度聞くことができる。けれど、それは自分の記憶ではない。知らない女が自分の声で笑っているような、妙な寂しさが残るだけだった。


「殿下は、私にやめろと命じたいですか」


「命じたくはない。だが、嫌だとは言いたい」


「では、嫌だと言ってください。私に決定を押しつけず、不機嫌になってください」


「……嫌だ。ひどく不愉快だし、できればやめてほしい」


「ありがとうございます。それでも私は、使いたいです」


「そう言うと思った」


 ルシアンは苦い顔をしたまま、セラフィナの手を取ろうとして、途中で止めた。


「触れても?」


「はい」


 指輪のない右手を差し出すと、彼はその手を強く握った。


「せめて、俺が嫌がったことは覚えていてくれ」


「それは忘れません。殿下が朝から護衛を十二人も連れてきたことは忘れましたけれど」


「やはり十二人は必要だった」


「そういうところです」


 客観的な答えがわかっている問いを、一つ用意した。


『本日の朝、リード工房の門をくぐった近衛は何人か』


 正解は十二人。


 ルシアンもノアも覚えており、門衛の記録にも残っている。セラフィナは多すぎると怒り、四人で十分だと主張した結果、途中で半数を帰していた。


 ギデオンが細い銀線で二つの石を結び、その周囲へ七つの星を描くように夜星糊を置いた。質問を刻んだ銀板を檻の下へ差し込む。


 誰も石には触れていない。


 それでも、黒布の下で紅い光が灯った。


 左手の指輪が急速に冷える。


 セラフィナは息を呑み、ルシアンの手を握り返した。


 黒布の向こうから聞こえたのは、セラフィナ自身の声だった。


『四人』


 直後、銀線が弾けた。


 ギデオンが夜星糊を上から叩きつける。紅い光は檻の中へ押し戻され、工房には荒い呼吸だけが残った。


「四人、と言ったな」


 ルシアンの声が震えていた。


「実際に門をくぐったのは十二人です」


 ノアが門衛記録を確認する。


「殿下と私の記憶も一致しています。セラフィナ嬢が望んだ人数は、四人でした」


 セラフィナは婚約指輪へ意識を沈めた。


 今朝の記憶は消えていた。


 十二人の近衛を連れてきたルシアンへ文句を言う自分の声も、パンを盗んだラピスを叱る声も、何一つ残っていない。


 代わりに、存在しなかった場面が聞こえた。


『四人なら目立ちませんね』


『最初から四人しか連れてきていない』


 ルシアンの声に似ているが、彼の記憶ではない。


 石が作り出した、偽物の朝だった。


「消しただけではありません」


 セラフィナは指輪から意識を引き離した。


「空いた場所へ、答えを記憶として書き込んでいます」


 アウレリアの喉から、小さな笑いが漏れた。


 それは安堵の笑いにも、泣き声にも聞こえた。


「では、リディアが見た私も……間違いだったかもしれないのね」


「かもしれません」


「どうして、そこで『あなたは父親を殺していない』と言ってくれないの?」


「言われたいですか」


「言われたいわよ!」


 アウレリアが机を叩いた。


「たとえ根拠がなくても、今だけは言われたい! 私は父を殺していない、妹にも憎まれていない、何もかも石のせいだったと、誰かに言い切ってほしいわ。ほんの一息くらい、楽になったっていいでしょう!」


「ええ。だから、一息だけなら休んでください」


 セラフィナはアウレリアをまっすぐ見た。


「ただし、その一息を判決にはしません。石が嘘を見せた可能性があることと、殿下が無実であることは別です。私は殿下を楽にするために、次の嘘を渡したくありません」


「……あなたが嫌いだわ」


「契約書に、好かれることは含めませんでした」


「入れておけばよかった」


「署名しませんでしたよ」


 アウレリアは唇を噛み、やがて両手で顔を覆った。


 泣いているのかもしれない。しかし誰も確かめようとはしなかった。人は、ときに見られないことでしか守れないものを持っている。


 しばらくして、彼女は顔を上げた。


「七つ目の質問のあと、リディアは妙なことを言ったの。『やっと思い出した』と。自分は私を殺すために生まれたのだと、ずっと前から知っていた気がする、と」


「そのような記憶が実際にあった可能性は?」


「ない。少なくとも、私が知る限りは。でも、あの子は確かに『思い出した』と言った。答えを聞いた、ではなく」


 セラフィナは、偽物の朝を宿した指輪を見つめた。


 紅涙冠は、記憶と引き換えに真実を教える王冠ではない。


 問いかけた者から、答えに抵抗できる大切な記憶を奪う。そして生まれた空白へ、その者がもっとも恐れ、もっとも信じやすい偽りを書き込む。


「リディア殿下は、石の答えを信じて逃げたのではありません」


 セラフィナがそう告げた瞬間、銀の檻を覆う黒布が、風もないのにわずかに膨らんだ。


 その内側から、若い娘の声がした。


『姉上。今度は、あなたが私を忘れる番よ』


 アウレリアの顔から、すべての色が消えた。


 紅い星石は、奪った記憶の空白へ妹の恐怖を書き込み――今もなお、その続きを語ろうとしていた。


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