第33話 二人目の婚約者は、殿下ではなく私と契約したいそうです
「私は……今朝、どうやって王宮へ来ましたか」
「馬車だ。私が迎えに行った」
ルシアンの答えを聞いても、セラフィナには何一つ思い出せなかった。
朝、目を覚ましたところまでは覚えている。次に残っているのは、婚約発表の紹介文をノアと直していた場面だ。その間だけを、鋭い刃物で切り取られたように失っている。
「セラフィナ、私が誰かわかるか」
「ルシアン殿下です」
「婚約を始めたことは?」
「覚えています。三か月間の本物の婚約です。指輪の内側には『二人で決める』と刻みました」
「父親の名前は」
「アルド・リード。母はエリーゼです。ラピスは一日に安全な石を六個まで」
「七個」
足元のラピスが即座に訂正した。
「六個です。そこは忘れていません」
「では、失ったのは今朝の数時間だけか」
「おそらく」
「おそらくでは困る」
ルシアンはセラフィナへ手を伸ばし、途中で止めた。
「触れても?」
「今は構いません」
許可を得た彼が、セラフィナの手首を取る。脈を確かめているのだろうが、その指先は普段より冷たかった。
「医師を呼べ」
「石の呪いを、普通の医師が診察できるのですか?」
「できるかどうかは医師が判断する。君が先に決めるな」
「婚約発表の途中です」
「中止する」
「私一人の記憶が少し消えただけで、国王陛下や各国の使節まで集まった式典を中止するのですか?」
「君の記憶が消えたことを『だけ』と言うな」
「お二人とも」
ノアが間へ入った。
「この場で続ける話ではありません。婚約発表は、隣国の皇女が『私も婚約者だ』と名乗った時点で、すでに予定通りには進みません。ひとまず大広間から出てください」
「私は、まだ説明を受けていない」
アウレリア皇女が不満そうに言った。
「紅い星石に触れたのは、そちらの令嬢の判断でしょう?」
「布越しでも記憶を奪われると、先に説明しなかったのはあなたです」
ルシアンの声が冷たくなる。
「妹君が記憶を失ったとは言ったわ」
「その石に触れた直後に失ったとは、明確に言わなかった」
「言えば、この女は触れなかったでしょう」
「当然です!」
セラフィナは思わず声を上げた。
「聞き方を変えれば、ごまかしてもよいという話ではありません。私は石を読む前に許可を求めます。相手が何をされるのか知らない状態で得た承諾は、許可とは言いません」
「なら、謝るわ」
「ずいぶん簡単ですね」
「ほかにどうしろと言うの? 消えた記憶を返せと言われても、私には返せない。それとも、ここで膝をついて泣けば満足?」
「謝罪を見せ物にしてほしいのではありません!」
「では、何を望んでいるのよ!」
アウレリアの声も大きくなった。
大広間に集まった貴族や外交官たちが、息を潜めてこちらを見ている。
婚約発表の場で、正婚約者と二人目の婚約者が言い争っているのだ。明日の新聞がどのような見出しになるか、考えたくもない。
「ここまでにしなさい」
国王が椅子から立ち上がった。
首の傷がまだ治っていないため、声は以前ほど強くない。それでも、大広間を静めるには十分だった。
「アウレリア皇女とソルヴェイン外交団を賓客として迎える。婚約条約の効力は、両国の担当者が確認するまで保留とする。セラフィナ・リードの婚約発表については、先ほどルシアンが述べた内容を正式な王家の発表とする」
「陛下」
老貴族が何か言いかけたが、国王は手で制した。
「今は、記憶を失った者の治療と、危険な石の封印が先だ。異論は後日聞く。今日はもう疲れた」
最後だけは、国王としてではなく、傷の治っていない一人の人間としての本音だった。
◇
紅い星石は、王室宝飾局の隔離修復室へ運ばれた。
石へ触れずに済むよう、深い黒色の布で包み、その上から夜星糊を施した銀籠へ入れてある。
室内の鏡や磨かれた金属は、カシアンの事件以降、すべて撤去されていた。
参加者は、セラフィナ、ルシアン、アウレリア、ノア、ギデオン。そして、石を食べないよう口へ柔らかな布を巻かれたラピスである。
「ラピス、食べない」
「信用できないので、そのままにしてください」
「赤い石、まずそう」
「青い偽石も、食べたあとでまずいとおっしゃっていました」
「今度は食べる前にわかる。ラピス、成長した」
「偉そうに言うことではありません」
ラピスが布越しに何か抗議している間、ギデオンは銀籠の外側を調べていた。
「夜星糊による封印は効いています。少なくとも、この状態なら周囲の記憶を勝手に奪うことはないでしょう」
「勝手に、ということは、何か尋ねれば奪われるのですね」
セラフィナが訊くと、ギデオンは頷いた。
「石へ向けて明確な疑問を抱くだけでも危険です。触れなければ効果は弱いでしょうが、距離を取るべきです」
「では別室へ運べ」
ルシアンが命じた。
「私の見えない場所で、勝手に処分されては困るわ」
アウレリアが反対した。
「処分はしない。だが、セラフィナのそばには置かない」
「私を守るために、話し合いに必要な証拠まで遠ざけないでください」
「君は先ほど、朝の記憶を失ったばかりだ」
「だからこそ調べるのです」
「同じ石へ、もう一度触れるつもりか?」
「触れるとは申し上げていません」
「調べているうちに、必要だから触ると言い出すだろう」
「殿下は私を何だと思っているのですか」
「必要だと思えば、自分の血が出ることまで仕事の一部にする人間だ」
「否定しにくいところを持ち出さないでください」
「事実だろう」
「ですが今度は、一人で判断しません。一分相談すると約束しました」
「相談のあと、結局触るのではないか」
「そのときは止めてください」
「止めれば怒るだろう」
「理由も説明せず止めれば怒ります」
「説明しても怒る」
「納得できなければ当然です」
二人の言い争いを、アウレリアが呆然と見ていた。
「あなたたち、本当に婚約者なの?」
「今日、発表したばかりです」
「こんなに仲が悪いのに?」
「仲が悪いわけではない」
ルシアンが答えた。
「話し合っているだけだ」
「私の国では、それを喧嘩と言うわ」
「この国でも喧嘩と言います」
ノアが静かに補足した。
「殿下だけが話し合いだと思っています」
「セラフィナは?」
「半分は話し合いです」
「残りの半分は?」
「腹が立って言い返しています」
「ほら、喧嘩ではないか」
ルシアンはなぜか納得していなかった。
「今朝のことを、指輪が覚えています」
セラフィナは左手の星蒼玉へ視線を落とした。
「この指輪は、強い感情や声を記録します。私自身の記憶は消えましたが、石に残った響きなら聞けるかもしれません」
「聞けば、記憶を取り戻せるのか」
「出来事を知ることはできます。でも、私自身が思い出すこととは違います」
「それでも、何があったかはわかる」
「はい。ただし、指輪へ触れてもよろしいですか?」
セラフィナはルシアンへ尋ねた。
「なぜ私に訊く」
「殿下との会話が入っています。私の指輪ですが、殿下の私的な言葉まで勝手に聞くことになりますから」
「許可する。今朝の私が、聞かれると困るようなことを言っていなければよいが」
「言っていたのですか?」
「覚えている限りでは、君と護衛の人数について言い争った」
「なぜです?」
「私が近衛兵を十二人連れて迎えに行ったからだ」
「多すぎます」
「やはり同じことを言うのだな」
「工房の前へ十二人も立たせれば、ご近所の方が驚くでしょう」
「実際に君は怒って、半分を帰した。ラピスは馬車へ乗る前に、パン屋の籠から丸パンを盗んだ」
「盗んでない。試食」
口を縛られたラピスが、聞き取りにくい声で抗議した。
「代金は私が払った」
「それなら盗みではありません」
「君も今朝、まったく同じことを言った」
ルシアンは少し寂しそうに笑った。
セラフィナには、覚えがない。
指輪へ触れると、星蒼玉から今朝の会話が流れ出した。
『護衛は四人で十分です』
『十二人必要だ』
『王宮までの道で戦争でも始まるのですか?』
『昨日、工房へ不審な荷物が届いた』
『中身は砂糖菓子でした』
『送り主が不明だった』
『ラピスへの贈り物です』
『毒が入っている可能性もある』
『ラピスが全部食べて元気にしています』
『だからといって、次も安全とは限らない』
確かに、自分とルシアンの声だ。
会話の内容は理解できる。聞けば、自分ならそう言うだろうとも思う。
けれど、馬車の揺れも、朝の風も、隣に座るルシアンの体温も戻ってこなかった。
「これが、記憶を失うということなのですね」
セラフィナが呟くと、ルシアンが険しい顔をした。
「私のときも、君はこう感じていたのか」
「殿下の場合は、もっと多く失っていました」
「君の名前を読んでも、君を知っている気がしなかった。今なら、少しだけわかる」
「わかっていただかなくてもよい経験でした」
「本当に悪かったわ」
アウレリアが言った。
先ほどより小さな声だった。
「許してほしいとは言わない。私は、あなたが記憶を失う可能性を知りながら、石を差し出した」
「なぜですか」
「ほかに誰も読んでくれなかったからよ」
「それは理由であって、正当化にはなりません」
「わかっている」
アウレリアは苛立つように髪をかき上げた。
「でも、正直にすべて話して断られたら、私はどうすればよかったの? 妹は消えた。父は殺された。皇国へ戻れば、私も同じように消される。誰も石へ触れたがらず、皆が『危険だから諦めろ』と言う。諦めた人間だけが安全な場所で、正しいことを言うのよ」
「だから、私なら一つくらい記憶を失ってもよいと?」
「よいとは思っていない!」
「では、私が今朝の記憶を失うと知っていて、どう思いました?」
アウレリアは答えなかった。
「言ってください」
「……あなたを利用した」
絞り出すような声だった。
「聞いたこともない、石の記憶を読める令嬢。一つくらい失っても、妹を取り戻す手掛かりが得られるなら仕方がないと思った。妹のためなら、他人の記憶を使ってもよいと考えた」
ルシアンが立ち上がりかけたが、セラフィナは手で止めた。
「最後まで聞きます」
「セラフィナ」
「一分相談する前に、話を聞かせてください」
アウレリアは自分の両手を見つめた。爪の周りは荒れ、皮膚が小さく裂けている。式典で見たときは長い手袋に隠されていた。
「怖かったのよ」
彼女は言った。
「眠れば殺される気がして、もう四日まともに寝ていない。食事を出されても毒を疑う。侍女が妹の名前を口にするだけで、その女が妹を連れ去ったのではないかと思ってしまう。そんな状態で、正しい判断などできなかった」
「ですが、間違った判断をしたことは認めるのですね」
「認める。あなたが私を嫌っても、協力を断っても仕方がない」
「ずいぶん勝手ね」
セラフィナは腹を立てていた。
母との工房で過ごした朝だったかもしれない。ルシアンと馬車で交わした、どうでもよい会話だったかもしれない。
どうでもよいかどうかを決める権利まで、アウレリアに奪われたのだ。
「ええ。私は勝手よ」
アウレリアは顔を上げた。
「自分でもわかっている。だから、あなたと契約したい」
「今の話のあとで、よくその言葉を続けられますね」
「続けなければ、妹を捜せないからよ」
「契約なら私と結ぶべきだ」
ルシアンが言った。
「婚約条約の当事者は、私とあなたになっている」
「あなたとは結婚したくないと言ったでしょう」
「私も同じ意見だ」
「同意しているのに、なぜ不機嫌なの?」
「私の正式な婚約者から記憶を奪い、その相手へさらに契約を求めているからだ」
「恋人を取られるとでも思っているの?」
「思っていない。だが、これ以上利用されるのは認めない」
「殿下」
セラフィナが呼ぶと、ルシアンは口を閉じた。
「契約するかどうかは、私が決めます」
「わかっている」
「顔には、わかっていないと書いてあります」
「理解と感情は別だ」
「それは私も知っています」
アウレリアが言った。
「安心なさい。私が欲しいのはルシアン殿下ではなく、あなたよ。王族の命令を受けても、石へ触れる前に許可を求める職人。危険だからやめろと言われても、自分で判断しようとする人。今の私を止められるのは、あなたのような人だと思う」
「先ほどは、止められないよう説明を隠したではありませんか」
「それで失敗したから、次は契約するのよ」
「失敗を一度で学ぶ人なのですね」
「二度目までは同じことをするかもしれない」
「正直に言えばよいわけではありません」
「わかっている。でも私は、急に善良な皇女にはなれない。妹の命が懸かれば、また誰かを利用しようとする。だから先に権限を渡す。私が紅い星石へ触れようとしたら、あなたが止めて」
それは信頼というより、自分への拘束を求める言葉だった。
セラフィナはしばらく考え、ノアへ顔を向けた。
「婚約条約を使わず、アウレリア殿下を王国で保護する方法はありますか」
「条文を精査する必要がありますが、可能性はあります」
ノアが契約書を広げた。
「婚約条約の目的は、星冠が失われた際に王統を相互保護することです。婚姻そのものが目的ではありません。ヴァルハルト側がアウレリア殿下を『王位継承者に準ずる保護対象』として認めれば、ソルヴェイン側が強制送還する根拠を一時的に失います」
「期間は?」
「まず三十日。その間に条約の署名と紅い星石を調査します」
「また、三か月や三十日なのですね」
ルシアンが呟く。
「期限を決めなければ、話が終わりませんから」
「その点は私も賛成です」
「ノア様は殿下の婚約にも期限を設けたかったのですか?」
「私は殿下の愚痴を聞く期限を設けたいです」
「それは認めない」
「殿下に決定権はありません」
セラフィナはアウレリアへ向き直った。
「条件があります」
「聞くわ」
「今後、紅い星石について知っていることを隠さないでください。私だけでなく、調査へ参加する者全員の許可なく、石へ質問することも禁止です」
「わかった」
「私へ皇女として命令しないこと。私とルシアン殿下の婚約を、政治的な盾以上に利用しないこと」
「あなたたちの仲を壊すつもりはないわ」
「意図の話ではありません。社交界では、私たちが殿下を奪い合っているように見られます。その噂を利用する場合にも、先に相談してください」
「利用してもよいのね?」
「先に相談すれば、です」
「一分?」
「内容によります」
「ずいぶん細かいわね」
「あなたが説明を省いた結果、私の記憶が消えましたから」
「……反論できないわ」
「私からも条件があります」
アウレリアが言った。
「私を哀れな被害者として扱わないで。父が殺され、妹が消えたからといって、私の判断がすべて正しいと思わないでほしい。それから、妹を見つけた場合、あの子の意思も聞いて」
「もちろんです」
「もしリディアが、私のもとへ戻りたくないと言ったら?」
「理由を聞きます。脅されているのか、自分の意思なのかを確かめます」
「それでも戻りたくないと言ったら」
「無理に連れ戻しません」
「本当に?」
「妹だからという理由で、姉が人生を決めてよいとは思いません」
アウレリアは少し傷ついた顔をした。
妹を助けたい一方で、自分のところへ帰ってきてほしいのだ。危険から救うことと、以前と同じ姉妹へ戻ることを、彼女自身も混同している。
「厳しいのね」
「あなたが求めたのでしょう」
「そうだったわ」
ノアが二人の条件をまとめ、三十日間の相互協力契約書を作成した。
ルシアンは最後まで不満そうだった。
「私の署名欄がない」
「これは私とアウレリア殿下の契約です」
「警護責任者として確認する欄くらいは必要だろう」
「でしたら末尾に、『内容を読みました』とだけ書いてください」
「異議を申し立てる権利は?」
「ありません」
「私は王太子だぞ」
「今は、婚約者の仕事へ口を出したがっている面倒な男性です」
アウレリアが初めて小さく笑った。
「あなたたち、本当に不思議な関係ね」
「よく言われます」
「私は納得していない」
「殿下だけです」
セラフィナとアウレリアが契約書へ署名する。
これでアウレリアは、ルシアンの二人目の婚約者ではなく、セラフィナの依頼人兼協力者となった。
「すべて話していただきます」
「わかっている」
「妹君が紅い星石へした七つの質問も」
「記録を持ってきているわ」
「一つ目は、誰が皇帝陛下を殺したのか。最後は、自分が何者なのか、でしたね」
「ええ」
アウレリアは署名したばかりの契約書へ手を置いた。
「ただ、その前に話しておかなければならないことがある」
「何ですか」
「リディアが最初の質問をしたとき、紅い星石は一人の女を映した」
「皇帝陛下を殺した犯人ですか?」
「私だった」
セラフィナは言葉を失った。
「妹は、石の中で私が血のついた短剣を持っている姿を見た。その夜、私の寝室へ来て、私を刺そうとしたわ」
「事実なのですか」
「わからない」
「わからない?」
「父が殺された夜の記憶を、私も失っているのよ」
アウレリアは強く拳を握った。
「目を覚ましたとき、私は父の血がついた短剣を持っていた。リディアは私が殺したと信じている。私自身にも、違うと言い切れる記憶がない」
彼女は妹を救うために来たのではない。
妹が見た父殺しの真相を確かめるため、セラフィナへ近づいたのだ。
そしてセラフィナが契約を結んだ相手は、本当に父親を殺したかもしれない皇女だった。




