第32話 本物の婚約を発表した日に、隣国の皇女が「私も殿下の婚約者です」と現れました
本物の婚約を始めて七日後、セラフィナは王宮の控え室で、自分の紹介文に赤い線を引いていた。
「『未来の王妃として王太子殿下を支える』は削ってください」
「なぜですか」
ノアが疲れた顔で尋ねる。
「私は、まだ王妃になると決めていません」
「しかし、殿下との正式な婚約を発表する場ですよ」
「正式な婚約と結婚は別です。三か月後に話し合うと決めました」
「その事情を公表すれば、明日の新聞には『皇太子、三か月の試用期間を設けられる』と書かれます」
「事実ではありませんか」
「殿下の威厳というものも、少しはお考えください」
「王冠を壊した時点で、かなり失われていると思います」
「それは口に出さなくてもよい事実です」
ノアは紹介文を取り戻し、削られた箇所を確かめた。
「では、『王太子殿下の正式な婚約者として、王家を支える』でいかがです」
「王家だけを支えるつもりもありません。私は宝石修復師です」
「『王室宝飾局に所属する宝石修復師として』を加えますか?」
「所属はしていません。ギデオン先生から仕事は受けていますが、私の工房は独立しています」
「リード嬢」
ノアは羽根ペンを机へ置いた。
「婚約発表まで、あと四十分です。この一文だけで、すでに半刻も話し合っています」
「間違った形で発表すれば、訂正にはもっと時間がかかります」
「殿下と似てきましたね」
「どこがですか」
「一つの文言へこだわり、相手が折れるまで理屈を積み上げるところです」
「似ていません」
「私も似ていないと思う」
背後からルシアンの声がした。
式典用の濃紺の礼服を着ているが、頭に載せる王冠はない。現在、壊れた星冠はギデオンとアルドの共同管理下で修復方針を検討している。
「殿下。入室する前に声をかけてください」
「扉は開いていた」
「着替え中だったかもしれません」
「その場合はノアが外にいるだろう」
「ノア様を、私の着替えを知らせる道具のように扱わないでください」
「私は人間です」
ノアが念を押した。
「今日は朝から、婚約発表の文章、壊れた星冠の賠償問題、カシアン殿下の裁判日程、陛下の退位が有効かどうかについて話し合っています。せめて人間として扱ってください」
「食事は取ったか?」
「問題はそこではありません」
「取っていないのか」
「殿下が王冠を壊したせいです」
「それと食事は別だ。終わったら休め」
「そのお言葉を記録しました。午後の会議は殿下お一人でお願いします」
「それは困る」
「でしたら、今後は王冠を壊す前に相談してください」
「五秒相談した」
「五秒では短いという結論になったでしょう!」
ノアの苛立ちを見かね、セラフィナは机に置かれていた焼き菓子を一つ差し出した。
「食べますか?」
「いただきます」
「私にはないのか」
「殿下は朝食を召し上がったでしょう」
「君がノアにだけ渡したので気になった」
「欲しいなら、欲しいとおっしゃってください」
「欲しい」
「どうぞ」
セラフィナが渡すと、ルシアンは素直に受け取った。
ノアが呆れたように二人を見比べる。
「婚約を発表する前から、この調子で大丈夫でしょうか」
「大丈夫ではないと思います」
セラフィナが答えると、ルシアンも頷いた。
「私もそう思う」
「なぜお二人とも、そこで意見が一致するのですか?」
「大丈夫ではないから、話し合うのだろう」
「そうです。大丈夫なふりをして発表するよりは、よいと思います」
「私は、お二人が似ていると言った発言を撤回しませんからね」
ノアは紹介文へ、大きく修正を書き込んだ。
「『独立した宝石修復師としての仕事を続けながら、王太子殿下との正式な婚約を始める』。これでいかがです」
「私はよいと思います」
「私も異論はない」
「ようやく決まりましたね」
「ただし――」
セラフィナが口を開くと、ノアが羽根ペンを机へ投げ出した。
「まだ何かあるのですか!」
「『王家の許可を得て仕事を続ける』とは書かないでください」
「書いていません!」
「でしたら結構です」
「先回りして苦情を言わないでください!」
控え室の隅では、ラピスが式典用の青いリボンを首へ巻かれていた。
「ラピス、きれい?」
「ええ。似合っています」
「お菓子、もらえる?」
「式典中に静かにしていれば」
「ずっと?」
「少なくとも、陛下のお話が終わるまでは」
「長い?」
「陛下次第ですね」
「兄上は話が長い」
いつの間に来たのか、国王が杖をついて入口に立っていた。
首筋にはまだ包帯が巻かれている。
「陛下、医務室から出てよいと許可を得たのですか?」
ノアが尋ねると、国王は目をそらした。
「国王が息子の婚約発表へ出席するのに、医師の許可が必要か?」
「必要です」
「父上。今すぐ戻ってください」
「私が欠席すれば、王家が婚約へ反対していると噂される」
「では椅子へ座り、発言は短くしてください」
「息子から式典で話す長さまで指定されるとは思わなかった」
「倒れて式典を中断するよりましです」
「ルシアン、お前は記憶を取り戻してから、以前より私に厳しくなっていないか」
「失っていた間に、言うべきことを言わないと伝わらないと学びました」
国王は反論できず、用意された椅子へ腰を下ろした。
「紹介文は決まったのか」
「ようやく」
ノアが修正済みの紙を差し出す。
国王は一読し、眉を上げた。
「王妃になるとは書かないのか」
「まだ決めておりません」
セラフィナが答えた。
「三か月後に二人で決めます」
「王太子の婚約に試用期間を設ける令嬢は、王国史上初めてだろうな」
「その言い方はおやめください」
「だがルシアンは納得したのだろう?」
「ああ」
「なら、私が口を出すことではない。私が妻との間でできなかったことを、お前たちはやろうとしているだけだ」
国王は、指輪をはめたセラフィナの左手を見た。
「ただし、三か月であれ何年であれ、王家が君の仕事を奪うことはないと、今日の場で私からも明言する。エリーゼにも、その約束をするのが遅すぎた」
「ありがとうございます」
「礼を言われるような話ではない。本来、最初からそうあるべきだった」
国王は立ち上がろうとして、痛みに顔をしかめた。
「だから座っていてください」
「式典会場へ行かねばならん」
「車椅子を用意します」
「嫌だ」
「では担架にします」
「もっと嫌だ」
「選んでください」
「歩く」
「選択肢にありません」
親子が言い争っていると、控え室へ一人の近衛兵が入ってきた。
「殿下。オスカー・ベルモントが、式典前にリード嬢へお目通りを願っております」
部屋の空気が、わずかに変わった。
ルシアンはすぐにセラフィナを見た。
「会いたくなければ断れ」
「会います」
「私も同席する」
「必要ありません」
「だが――」
「私とオスカー様の間の話です。殿下が隣にいれば、彼は殿下へ向けた謝罪を始めます」
「五分後に様子を見に来る」
「一分相談の決まりを、監視の約束に変えないでください」
「では十分」
「来なくて結構です」
セラフィナは隣の小部屋へ移った。
そこにはオスカーとミレイユが待っていた。
オスカーは以前より痩せて見えた。父であるベルモント伯の罪が明らかになり、本人も爵位継承権を返上して、裁判で証言することが決まっている。
「久しぶりだね、セラフィナ」
「一週間ほどです」
「そうだった。いろいろありすぎて、ずいぶん前のように感じる」
「私もです」
気まずい沈黙が落ちた。
オスカーは何度か口を開きかけ、結局、用意していたらしい紙を取り出した。
「謝罪を考えてきた」
「読み上げるのですか?」
「そのつもりだったけれど……おかしいかな」
「ご自分の言葉で話せないなら、今日はお帰りください」
「セラフィナ」
「きれいな謝罪を聞いて、私が感動して許せば、オスカー様は楽になれるのでしょう。でも私は、そのためにここへ来たのではありません」
オスカーは紙を見つめ、やがて二つに折った。
「君を婚約破棄したのは、父に言われたからだけではない。ミレイユが好きだったからだけでもない。君なら怒らず、最後には受け入れてくれると思っていた。僕は君の我慢へ甘えた」
「はい」
「……否定しないのだね」
「否定してほしかったのですか?」
「少しくらいは」
オスカーは困ったように笑った。
「僕は、最後まで自分を悪人だと思いたくないらしい」
「完全な悪人ではないと思います」
セラフィナが言うと、彼の顔にわずかな安堵が浮かんだ。
「ですが、私にしたことが軽くなるわけではありません」
その安堵はすぐに消えた。
「そうだね」
「私はオスカー様を許すと約束しません。憎み続けるとも約束しません。あなたが不幸になることを、毎日願うほど暇ではありませんから」
「厳しいな」
「これでも控えています」
「知っている。婚約していた頃、君はもっと言わない人だった」
「言わなかったのではありません。言っても聞いていただけないと思っていました」
オスカーは俯いた。
隣にいたミレイユが、彼の腕をつつく。
「そこで『僕はそんなつもりでは』と言ったら、今度こそ置いて帰るわよ」
「言わない」
「顔には書いてあったけれど」
「君まで厳しくなったな」
「セラフィナに甘えていた人が、今度は私へ甘えてよいわけではないでしょう?」
オスカーは二人を交互に見て、深く息を吐いた。
「わかった。すぐに許してもらおうとはしない。裁判では知っていることをすべて話す。父の罪を、父親だからという理由で隠さない」
「それでよいと思います」
「婚約、おめでとう」
今度の言葉には、自分を許してほしいという響きがなかった。
「ありがとうございます」
セラフィナは素直に受け取った。
かつての婚約者とは、それだけで別れた。
◇
婚約発表は、王宮の大広間で行われた。
壊れた星冠はない。
国王は椅子へ座り、ルシアンも王冠をかぶらずに立っている。王族が権威の象徴を身につけない式典へ、不安そうな顔をする貴族も少なくなかった。
「星冠は壊れた」
ルシアンは隠そうとしなかった。
「カシアンの陰謀を止め、国王陛下の命を守るため、私とセラフィナ・リードの判断で破壊した。その責任から逃れるつもりはない」
広間がざわめく。
「だが、同じ王冠をそのまま作り直すつもりもない。血と顔だけで王を決める仕組みが、今回の事件を招いた。新たな星冠は、王家だけでなく、この国に生きる者たちの記憶と意思によって王を認めるものとする」
「平民の意思で王を決めるとおっしゃるのですか!」
老貴族の一人が声を上げた。
「王家の権威を捨てるおつもりか!」
「人に認められなければ保てない権威なら、最初からその程度のものだ」
「殿下!」
「制度の詳細は議会で決める。私一人の言葉で決めれば、それこそ以前の王冠と同じだ」
ルシアンは反論を押し切らず、議論する場を残した。
以前の彼なら、正しいと判断したことを命令で進めていただろう。失った記憶を取り戻しただけでなく、失っていた間に作った自分も残っている。
「そして、もう一つ報告する」
ルシアンがセラフィナへ手を伸ばし、途中で止めた。
「触れても?」
貴族たちの前で尋ねられ、セラフィナは少し恥ずかしくなった。
「手だけなら」
答えると、広間のあちこちで戸惑いの声が上がった。
ルシアンは気にせず、セラフィナの手を取った。
「セラフィナ・リードと、正式な婚約を始めた。彼女は今後も独立した宝石修復師として仕事を続ける。王家の命令によって、本人の許可なく石の記憶を聞かせることはない」
星蒼玉の指輪が光る。
「彼女は私の所有物でも、王冠を完成させるための道具でもない。私たちの未来は、私たち自身で決める」
今度のざわめきには、驚きだけでなく拍手が混じった。
最初は少なかった拍手が、少しずつ大広間へ広がっていく。
その最中、正面の大扉が開いた。
「ソルヴェイン皇国第一皇女、アウレリア殿下のご到着です!」
予定にない名を告げられ、拍手が止まった。
赤金色の髪を高く結い上げた女性が、深紅の外套を翻しながら入ってくる。彼女の後ろには、異国の騎士と外交官が並んでいた。
アウレリア皇女はルシアンの前で立ち止まり、セラフィナの左手にある指輪を見た。
「間に合わなかったようね」
「何の話だ」
ルシアンが警戒を隠さず尋ねる。
皇女は従者から一枚の古い契約書を受け取った。
「十六年前、ヴァルハルト王国とソルヴェイン皇国の間で結ばれた婚約条約よ。両国いずれかの星冠が失われた場合、王位継承者同士の婚約を成立させ、王統を相互に守る」
「そのような条約は知らない」
「私も昨日まで知らなかったわ」
アウレリアは契約書を広げた。
末尾には、亡き王妃の署名と青い封印が残っている。
「条約に従えば、私もあなたの正式な婚約者になるそうよ、ルシアン殿下」
大広間が、今度こそ静まり返った。
ルシアンは頭痛をこらえるように眉間を押さえた。
「断る」
「安心して。私もあなたと結婚するつもりはないわ」
「では、なぜ来た」
「この婚約条約がなければ、私は三日以内に殺されるからよ」
アウレリアは契約書へ留められた深紅の宝石を外し、セラフィナへ差し出した。
「石の記憶を聞けるのでしょう? この紅い星石が本物なのか、確かめてほしいの」
「聞かせていただいてもよろしいのですか?」
「そのために来たのよ。ただし、先に言っておくわ。この石へ触れた妹は、自分の名前まで忘れて消えた」
「それを先に、もっと強くおっしゃってください!」
「強く言えば、触れないでしょう?」
「当然です!」
「だから皇女殿下。ここにいる人間は、なぜ危険な物へ簡単に触ろうとするのですか」
ノアの疲れ切った声が聞こえた。
セラフィナは直接触れず、布越しに紅い星石を確かめた。
それだけで、石の内側から誰かが爪を立てるような感覚が伝わってくる。
「この石は、記憶を保存するものではありません」
「では、何なの?」
「触れた人の記憶を奪い、その代わりに質問への答えを返す石です」
紅い光が布を通り抜け、セラフィナの指先へ絡みついた。
『セラフィナ』
聞こえたのは、亡き母エリーゼの声だった。
『紅涙冠へ質問してはいけない。あれは答えの代わりに、あなたの大切な記憶を一つ奪う』
「お母様……?」
セラフィナは急いで手を離した。
直前まで何をしていたのか、一瞬だけわからなくなる。
「セラフィナ?」
ルシアンが名を呼んだ。
「私は……今朝、どうやって王宮へ来ましたか」
「馬車だ。私が迎えに行った」
「覚えていません」
たった一度、布越しに触れただけで、今朝の記憶が消えていた。
アウレリア皇女は唇を噛んだ。
「妹は、その石へ七つの質問をした。その夜、宮殿から姿を消したわ」
「何を尋ねたのですか」
「一つ目は、誰が父を殺したのか。最後の質問は、自分が何者なのか」
アウレリアはルシアンではなく、セラフィナへ向き直った。
「婚約者の座など欲しくない。妹を取り戻し、私を殺そうとしている者の正体を知りたい。あなたの力を貸して」
本物の婚約を発表した、その日のことだった。
ルシアンとセラフィナの三か月へ、二人目の婚約者と、記憶を食べる紅い王冠が入り込んできた。




