第31話 婚約破棄から始まった私に、皇太子が二つ目の指輪で求婚しました
セラフィナが父の工房へ帰ったのは、星冠を壊してから三日後のことだった。
「ただいま戻りました」
「お帰り」
作業台に座っていたアルドは、娘の顔を一度見ただけで、すぐに手元の宝石へ視線を戻した。
怒鳴られると思っていたセラフィナは、かえって落ち着かなくなった。
「……何も訊かないのですか」
「訊いてほしいのか?」
「そういうわけではありませんけれど、もう少し驚かれるかと」
「王宮から使いが六回来た。最初はお前が皇太子殿下の記憶を取り戻したという報告で、二度目は王弟カシアンが捕らえられたという報告。三度目は国王陛下が生きているという報告だった」
アルドは研磨布を置き、ようやく娘を見た。
「四度目に、お前と皇太子殿下が星冠を壊したと聞いた」
「正確には、ギデオン先生とノア様も参加しています」
「共犯者を増やしても、お前のしたことは軽くならない」
「壊さなければ陛下が殺されていました」
「わかっている。だから怒鳴らずに済むよう、この三日間で怒鳴りたいことを紙へ書き出した」
アルドが作業台の下から、紙の束を取り出した。
薄い冊子ほどの厚さがある。
「そんなに?」
「最初の二枚は、北塔へ行ったことについてだ。次の三枚は、呪われた石の記憶を一人で受け止めたこと。その次は、竜に危険な石を食べさせたことについて」
「ラピスが勝手に食べたのです」
「連れていったのはお前だろう」
「それは……はい」
「最後の十枚は、何百年も受け継がれた王冠を小さな修復槌で壊したことについてだ」
「壊したのは主に殿下の剣です」
「槌を振る前に、止めるという選択肢はなかったのか?」
「五秒ほど相談しました」
「五秒?」
アルドの眉間に、深い皺が刻まれた。
「お前は人生を変える決断を、五秒で決めたのか」
「緊急時には、最低でも五秒相談するという決まりでしたので」
「その決まりを作った人間を連れてこい」
「今日、こちらへ来る予定です」
アルドは紙の束をもう一つ用意した。
「では、同じものを渡す」
「殿下の分まで書いたのですか?」
「娘一人を叱って、皇太子を許せば不公平だろう」
父は本気だった。
昔からそういう人である。相手が王族だからといって態度を変えない。むしろ権力のある相手ほど、余計に疑ってかかる。
「足を見せなさい」
「もう治っています」
「医師がよいと言うまで工房では働かせない。椅子へ座れ」
有無を言わせない声で命じられ、セラフィナは作業台の脇にある椅子へ座った。
アルドは腫れの残る足首を確かめ、慣れた手つきで包帯を巻き直した。
「指は」
「全部あります」
「目は」
「見えています」
「石の声は」
「聞こえます。ただ……」
セラフィナは言いよどんだ。
「ただ、何だ」
「自分の記憶ではないものが、少し残っています」
アルドの手が止まった。
「ルシアン殿下の記憶が?」
「全部返したつもりです。でも香りや味の好みまで、きれいには分けられなかったようです。今朝も、いつもなら蜂蜜を入れるお茶を、そのまま飲んでしまいました。殿下が甘くないお茶を好むからです」
「ほかには」
「目を閉じると、王妃陛下に髪を撫でられた感覚があります。ノア様が子どもの頃に茶をこぼしたことも、自分で見たように思い出せる。あとは……お父様が殿下と指輪について話したことも」
アルドは露骨に視線をそらした。
「最後の話は、記憶の混入とは関係ない」
「私に黙って、殿下の求婚用の指輪を作ったのですね」
「作り始めただけだ」
「同じことです」
「依頼を受けた職人には守秘義務がある」
「娘に関係する依頼でも?」
「とくに娘に関係するからだ。あの男が自分で話すべきことを、私が先に漏らしてどうする」
「断った場合、一か月は指輪を売らずに保管すると約束したそうですね」
「そこまで見たのか」
「見たくて見たのではありません!」
「なら忘れなさい」
「無理です。石の記憶と同じで、一度聞いたものは都合よく消せません」
父娘は互いに不満そうな顔で黙り込んだ。
先にため息をついたのはアルドだった。
「悪かった」
「何がですか」
「お前の知らないところで、お前の人生に関わる話を進めたことだ。指輪を作ったから受け取れと言うつもりはなかったが、父親としてあの男を試すようなことはした」
「殿下に意地の悪い質問をしていましたね」
「あれくらいで困る男なら、娘を渡す気はない」
「私はお父様の品物ではありません」
「わかっている。だから、渡すという言い方もよくなかった」
アルドは素直に言い直した。
「お前が誰を選ぶかは、お前が決めることだ。だが父親として、娘を泣かせそうな男には腹が立つ。理屈では止められない」
「殿下が私を泣かせたら、どうするのですか」
「王冠を壊せる娘なのだから、自分で殴るだろう」
「殴りません」
「では、私が殴る」
「それもいけません」
「なら、どうしろと言う」
「話を聞いてください」
「その程度でよいのか」
「聞いたうえで、私が間違っていると思ったら、そう言ってください。ただ、私の代わりに決めないで」
アルドは少し考えた。
「努力する」
「皆、そう答えますね」
「守れるかわからない約束を、簡単にするよりましだ」
ルシアンと同じことを言う。
似てもいない二人なのに、面倒なところだけは妙に近い。
足元では、ラピスが布袋へ頭を突っ込み、くず石を探していた。
「ラピス。何を食べていますか」
「安全な石」
「誰が安全だと言いました?」
「アルド」
「私が選んだ。偽石を吐いたあと、何も食べさせないほうが身体に悪いそうだ」
「一日六個までにしてください」
「七個」
「六個です」
「六個食べてから、もう一個相談する」
「五秒相談しても増えません」
ラピスが不満そうに袋の中へ戻ったところで、工房の扉が叩かれた。
「本日は休業だ」
アルドが扉を開けずに答える。
「予約していた品を受け取りに来た」
扉の向こうから、ルシアンの声がした。
「予約は入っていない」
「一か月保管すると約束したはずだ」
「保管料の支払いが済んでいません」
「いくらだ」
「お父様!」
セラフィナが止める前に、ノアの疲れた声が聞こえた。
「リード殿。保管料、秘密保持料、特急仕上げ料を合わせた請求書を、王宮の財務局へお送りください。殿下の個人資産から支払います」
「ノアまで何を言っている!」
「王冠の破壊について、朝から十七人の官僚に説明してきました。指輪の保管料程度で話が進むなら、安いものです」
アルドはようやく扉を開けた。
ルシアンは王太子の正装ではなく、濃紺の簡素な上着を着ていた。頭に王冠はない。当然である。壊したばかりなのだから。
「失礼する」
「工房へ王族の供は二人までだ」
「私とノアだけだ」
「近衛兵が外に十二人いる」
「外は工房ではない」
「屁理屈は娘だけで足りている」
「お父様」
「私は、彼女ほどではないと思う」
「殿下まで!」
ルシアンは、セラフィナの前まで来ると足を止めた。
手を伸ばしかけ、途中で下ろす。
「足は」
「まだ少し腫れています」
「痛むのか」
「歩けます」
「質問の答えになっていない」
「痛みますが、我慢できる程度です」
「では座っていろ」
「ここは私の工房です」
「君は座っていても、工房の主の娘だろう」
「所有権の話ではありません」
「始まりましたね」
ノアが小声で言った。
「殿下が来て、まだ一分も経っていないぞ」
アルドが呆れる。
「普段からこうなのか?」
「これでも記憶を失う前より、少し会話ができるようになりました」
「記憶を失って改善した部分があるのか」
「本人の前で言わないでください」
「聞こえている」
ルシアンは不満そうだったが、どこか落ち着いても見えた。
記憶を失う前の彼と、失っていた間の彼が、ようやく同じ人間として馴染み始めているのだろう。
「指輪を見せてくれ」
ルシアンがアルドへ言った。
「先に確認する」
「何だ」
「これは王太子としての命令か、客としての依頼か」
「個人としての依頼だ」
「娘が受け取らなくても、代金は払うか」
「当然だ」
「返却された場合は?」
「私が引き取る」
「娘へ保管させないのか」
「断った男の指輪を持たされても困るだろう」
アルドはようやく頷き、作業台の奥にある引き出しから小さな箱を取り出した。
中には、深い青色の星蒼玉を留めた指輪が入っていた。
華美ではない。低い覆輪で石を囲み、工具へ引っかからないよう角が丸く仕上げられている。王家の紋章も、ルシアンの名前も入っていない。
「まだ内側の刻印を入れていない」
アルドが言った。
「何を刻むかは、受け取る人間が決めればいい」
ルシアンは指輪を手に取った。
しかし、すぐにセラフィナへ差し出そうとはしなかった。
「リード殿。少し、二人で話したい」
「断る」
「お父様」
「偽婚約のときに十九条も書いた男が、今度は口だけで娘を丸め込まない保証は?」
「では、扉を開けたまま隣の部屋へ行ってくれ」
「会話は聞く」
「聞こえない距離へ行ってください!」
結局、アルドとノアは隣の作業室へ移った。
扉は半分だけ開いている。二人とも聞く気なのだろうが、これ以上争うと日が暮れる。
ラピスは残った。
「ラピスも向こうへ」
「ラピス、証人」
「誰が頼んだのですか」
「ラピス」
「自分で頼んでも証人にはなりません」
「いてもいい」
ルシアンが言った。
「なぜですか」
「君が断ったあと、私が無理に指輪を押しつけなかったと証言する者が必要だ」
「断られることを前提にしているのですか」
「その可能性はある」
ルシアンは椅子を引き、セラフィナと同じ高さになるよう腰を下ろした。
立ったまま求婚すれば、座っている彼女を見下ろす形になる。それを避けたのだろう。
「記憶の中で、私が言おうとしていた言葉を君は見た」
「はい」
「あれをそのまま繰り返すのは、違うと思う。あのときの私は、君が私の記憶を見ることも、一度婚約を解消することも知らなかった」
「では、今の殿下は何をおっしゃるのですか」
「記憶を失う前の私は、君を愛していた」
ルシアンは、目をそらさなかった。
「記憶を失った私は、その感情を知らないまま君を選んだ。そして記憶を取り戻した今の私は、その両方を覚えている」
「はい」
「運命だと言うつもりはない。同じ人間が二度同じ間違いをしただけかもしれない」
「私を選んだことは、間違いなのですか?」
「言い方を誤った」
「大切なところで誤らないでください」
「緊張している」
思いがけない答えだった。
「殿下が?」
「私でも緊張する。記憶の中では、もう少しうまく言えると思っていた」
「実際には?」
「今すぐ逃げたい」
「逃げてもよいですよ」
「それは嫌だ」
「どちらですか」
「逃げたいが、逃げたくない。感情とはそういうものだろう」
「面倒ですね」
「君にだけは言われたくない」
二人で少し笑ったあと、ルシアンは指輪を掌へ載せた。
「私は君を愛している。結婚してほしい」
セラフィナの胸が大きく鳴った。
予想していた言葉なのに、実際に聞くと何も答えられない。
「ただし、今すぐ答えなくていい」
「……それは、断られるのが怖いからですか」
「そうだ」
ルシアンはあっさり認めた。
「君のために待つ、とだけ言えば聞こえはいい。だが本当は、今断られればかなり傷つく。おそらく数日は君へ会いたくなくなるし、王室宝飾局との連絡をノアへ任せるだろう」
「記憶で見た通りですね」
「それでも、仕事を奪ったり、家へ圧力をかけたりはしない。君が別の男を選べば、すぐに祝福できる自信もない。相手の身元は徹底的に調べると思う」
「それは嫌がらせでは?」
「安全確認だ」
「殿下」
「善良な男なら何もしない」
「善良かどうかを殿下が決めるのですか?」
「……そこは、ノアと相談する」
立派なことだけを言われるより、信用できる気がした。
愛しているから何でも受け入れると言う人より、傷つけば不機嫌になると認める人のほうが、人間らしい。
「私からも、条件があります」
「聞く」
「結婚したとしても、宝石修復師の仕事を続けます。王宮の石を勝手に読ませることも認めません。王妃という肩書きを理由に、無償で働かせることも禁止です」
「当然だ」
「国王や王太子からの依頼でも、断る権利を残します」
「法にする」
「そこまで大げさにしなくても」
「君一人の例外にすれば、次の王が取り消せる。石の記憶を読む者すべてに、拒否する権利が必要だ」
セラフィナは一度、言葉を止めた。
「もう一つ。私を守るという理由で、何も説明せず閉じ込めないでください」
「努力する」
「そこは約束してください」
「状況によっては、危険から遠ざける必要がある」
「では最低五秒、相談してください」
「五秒では足りないと学んだばかりだ」
「それなら一分にします」
「長いな」
「命が懸かっているのですから、長くありません」
「わかった。一分だ」
「その間、私の意見を聞いてください」
「君も私の意見を聞くこと」
「はい」
「一人で石の記憶へ入らない」
「必要な場合は――」
「相談する」
「……はい」
「食事を忘れない」
「それは結婚の条件に関係ありますか?」
「私には重要だ」
「殿下も眠らずに仕事をしないでください」
「努力する」
「約束してください」
「君も同じ条件なら」
「わかりました」
条件は、次々と増えていった。
十九条の偽婚約を笑えない。放っておけば、本物の婚約契約は三十条を超えそうだった。
「結局、また契約書になりますね」
「私は、言葉だけでは不安なのだと思う」
ルシアンが言った。
「母上とのことも、父上とのことも、言わなくてもわかると思って失敗した。書けばすべて守れるわけではないが、少なくとも何を約束したかは確認できる」
「殿下らしいですね」
「嫌か?」
「面倒です」
「そこは否定しないのだな」
「でも、嫌ではありません」
言葉にすると、自分の気持ちが少しずつ形になった。
「私は殿下の記憶を通りました。殿下が私を愛していた感情まで見ています。ですから今、自分が嬉しいのは、私自身の気持ちなのか、殿下の感情が残っているだけなのか、わからないのです」
「なら、答えは待つ」
「殿下」
「一年でも待つ」
「それは長すぎます」
「では半年」
「勝手に短くしないでください」
「君が長いと言った」
「そういう意味ではありません」
また話がずれていく。
セラフィナは目を閉じ、自分の記憶だけを探した。
婚約破棄された夜、返された指輪を握って歩いたこと。
初めてルシアンに会い、冷たい人だと思ったこと。
勝手に手を取られて腹を立て、許可を求められて少し嬉しかったこと。
彼が名前を忘れたとき、胸の中へ穴が開いたように感じたこと。
それらはルシアンから流れ込んだ記憶ではない。
セラフィナ自身が、彼と過ごして作ったものだ。
「殿下」
「何だ」
「今すぐ結婚するとは言えません」
ルシアンの顔が、わずかに強張った。
「ですが、本物の婚約を始めることならできます」
「本当に?」
「三か月だけ」
「また三か月か」
「嫌なら、断ってくださって結構です」
「嫌ではない。ただ、以前と同じ終わり方にならないか不安だ」
「以前は偽物でした。今度は、三か月後を二人で決めるための本物です」
「婚約を試用期間のように扱うのか」
「十九条の偽婚約を作った方に言われたくありません」
「それもそうだな」
ルシアンは指輪を持ち上げた。
「受け取ってくれるか」
「条件があります」
「まだあるのか?」
「指輪の内側へ、名前ではなく言葉を刻んでください」
「何と?」
「『二人で決める』と」
ルシアンの目元が、柔らかくなる。
「わかった」
「それから、刻印が終わるまでは正式に受け取りません」
「今日ではないのか」
「職人として、未完成品を身につけるわけにはいきません」
「今ここで刻めないのか?」
ルシアンがアルドのいる隣室へ視線を向ける。
半開きの扉の向こうで、何かが倒れる音がした。父もノアも、やはり聞き耳を立てていたらしい。
「お父様」
「聞いていない」
扉の向こうから返事が来た。
「まだ何も訊いていません」
「……刻印なら、すぐできる」
アルドが気まずそうな顔で戻ってきた。
「聞いていたのですね」
「工房内で起きたことを把握するのは、責任者の仕事だ」
「ノア様もですか?」
「私は止めました」
「一緒に扉へ耳を当てていましたよね?」
「殿下の代理人として、契約条件を確認していました」
「皆、言い訳ばかりですね」
「人間、言い訳しないと生きられない」
ラピスだけが得意そうに言った。
「ラピスが一番、言い訳をしています」
「ラピス、竜。人間じゃない」
「都合のよいときだけ竜にならないでください」
アルドは指輪を受け取り、内側へ細い文字を刻んだ。
――二人で決める。
仕上がった指輪を、ルシアンがもう一度手に取る。
「セラフィナ・リード。私と、本物の婚約をしてほしい」
「三か月間です」
「その先も望んでいる」
「答えは?」
ルシアンは微笑んだ。
「その先は、二人で決める」
セラフィナは左手を差し出した。
ルシアンが薬指へ指輪を通す。低く留められた星蒼玉は、職人の指へ邪魔にならず、最初からそこへあるべきだったように収まった。
石の奥に、新しい光が灯る。
『私は君を愛している』
『今は、三か月だけです』
『わかった。三か月後に、もう一度言う』
星蒼玉が、たった今交わされた声を記憶した。
最初の指輪は婚約破棄によって返され、亡き王妃の声をセラフィナへ届けた。
二つ目の指輪には、まだ生きている二人が、自分たちで選んだ未来の声を残していた。




