第30話 父王と王冠を天秤にかけられた皇太子は、迷わず王冠を壊しました
星冠の間へ踏み込んできたカシアンは、もうルシアンの顔をしていなかった。
夜星糊に焼かれた頬には、長年隠していた傷痕が浮かんでいる。左目だけが琥珀色に輝き、その腕には意識を失った国王が抱えられていた。
国王のこめかみから流れた血が、床へ落ちる。
「父上」
ルシアンが一歩踏み出すと、カシアンは国王の喉元へ鏡の刃を押しつけた。
「動くな。記憶を取り戻した途端に、父親を失いたくはないだろう?」
「陛下を放してください」
セラフィナが言うと、カシアンは笑った。
「君は黙って星冠をこちらへ渡せ。正しい石まで戻してくれたことには感謝しているよ。エリーゼの娘が、母親の仕事を完成させてくれるとは思わなかった」
「母の仕事は、あなたへ王冠を渡すことではありません」
「職人は作り、王族は使う。それだけの話だ」
「職人がいなければ、王冠など頭へ載せる金属の輪です」
セラフィナは星冠へ触れたまま、カシアンを見た。
「しかも今の星冠は、八年前の修理不良が残っています。丁寧に扱ったほうがよろしいですよ」
「私を脅しているつもりか」
「商品について、正確にご説明しているだけです」
「セラフィナ、挑発するな」
ルシアンに止められたが、セラフィナは視線をそらさなかった。
国王は生きている。呼吸は浅いものの、胸がわずかに動いている。
問題は、どうやってカシアンから引き離すかだ。
「王冠を渡せ」
カシアンが繰り返した。
「本物の星石をはめたまま、台座から下ろせ。ルシアンとセラフィナだけでこちらへ運べ。ノアとギデオンは壁際へ下がれ」
「渡せば、父上を解放する保証は?」
「私を信じろ」
「あなたが言うと、ずいぶん軽い言葉になるな」
「では王族らしく、血の誓いでも立てようか?」
「父上の血を流しながら?」
ルシアンの声が低くなる。
カシアンが刃へ力を込めると、国王の首筋に新しい血の線が浮かんだ。
「選べ、ルシアン。父親か、王冠か。星冠の間で、君は人を王冠より優先すると誓ったそうだね。あれほど立派な言葉を口にしたのだから、今さら惜しむことはないだろう?」
床へ倒れていた国王の杖が、わずかに動いた。
「……渡すな」
「陛下!」
ノアが声を上げた。
国王が薄く目を開けた。
「ルシアン。王命だ。星冠を……カシアンへ渡してはならん」
「兄上は黙っていろ」
「お前に、王は務まらない」
「あなたがそれを言うのか!」
カシアンの怒声が星冠の間へ響いた。
「私を死んだことにして王座へ座り続けた男が! 弟の葬儀で悲しむふりをしながら、心の中では厄介者が消えたと安堵していた男が!」
「安堵した」
国王は否定しなかった。
カシアンの顔から、怒りが一瞬だけ抜け落ちた。
「……何?」
「お前が死んだと聞いたとき、私は悲しんだ。同時に安堵した。もうお前の野心を疑わなくてよい、弟を処罰する決断をしなくてよいとな。兄として泣きながら、王として都合がよいと思った」
「やはり、私を――」
「だが、お前を愛していなかったわけではない」
国王は苦しそうに息を吸った。
「銀の鏡を捨てられなかった。お前の名を記録から消させたあとも、幼い頃のお前を思い出した。愛していたから疑えず、疑っていたから遠ざけた。その半端な態度が、お前を止める機会を失わせた」
「今さら兄らしい顔をするな」
「許してほしいとは言わん。私がお前へ謝ることと、お前が犯した罪は別だ。私が悪い兄だったからといって、お前が王妃やエリーゼ、ほかの者たちを殺してよい理由にはならない」
「黙れ!」
「謝罪で罪まで消してもらえると思うな。私はお前を愛していた。そして、今のお前を憎んでいる。どちらも本当だ」
カシアンの腕が震えた。
鏡の刃は国王の喉へ向けられたままだが、先ほどまでの余裕は消えている。
「父上。もう話さないでください」
ルシアンが言った。
「息が続いていません」
「なら、早く決めろ。王として命じる。王冠を守れ」
「父上は正式には退位したことになっています。星冠の扉にも、国王として認められなかったでしょう」
「こんなときに制度上の穴を利用するな」
「王命には従えません」
「では、父親として頼む。私を捨てろ」
「それも断ります」
「なぜ、こういうときだけ聞き分けがない」
「あなたの息子だからです」
「そんなところまで似なくてよかった」
「育て方の問題でしょう」
国王は笑おうとして、痛みに顔を歪めた。
カシアンが苛立たしげに刃を動かす。
「親子の会話は終わったか? 次に兄上が口を開けば、今度こそ喉を切る」
「まだ終わっていない」
ルシアンは星冠の前へ戻った。
「父上とは、話していないことが山ほどある。あなたに終わらせる権利はない」
セラフィナは星冠の縁を指先でなぞった。
本物の星石が戻ったことで、王冠全体へ青い魔力が流れている。しかし、八年前に中央石を外した際、七本の支持枠には細かな亀裂が入っていた。
ギデオンなら時間をかけて直せる。
だが今なら、決められた箇所へ衝撃を加えれば壊すこともできる。
セラフィナはルシアンの袖を引いた。
「殿下。五秒、相談してもよろしいですか」
「この状況でか?」
「この状況だからです」
「何だ」
「今から、かなり馬鹿なことをします」
「具体的には?」
「王冠を壊します」
ルシアンは目を見開いた。
一秒。
二秒。
「本物の星石は?」
「私が外します。七つの接合部を同時に壊せば、王家の魔力は記憶石へ逃がせます」
「失敗すれば?」
「星冠の魔力が暴発し、ここにいる全員が吹き飛びます」
「成功すれば?」
「何百年も受け継がれた王冠が壊れ、殿下と私は国家財産を破壊した罪に問われます」
「君の作戦は、毎回成功したあとにも問題が残るな」
「人生とは、そういうものです」
三秒。
四秒。
ルシアンはカシアンに聞こえないほどの声で尋ねた。
「止めてほしいか?」
「いいえ」
「なら、壊そう」
五秒。
「相談、終わりです」
「今のは相談ではなく、ほとんど宣言だったな」
「時間がありませんでしたので」
「あとで条件を見直す必要がある」
「その先は、二人で決めてください」
ノアが頭を抱えた。
「国家の命運が懸かった相談を、本当に五秒で終わらせないでください」
「反対か?」
「反対したところで、もうお二人ともやる顔をしています。でしたら私は、壊したあとの言い訳を考えます」
「修復については私が責任を持ちます」
ギデオンが工具を構えた。
「直せるのですか?」
「同じ王冠には戻りません」
「それでは困るのでは?」
「壊れたものを、なかったことにはできません。それでも、使える形には直せます。人間も王冠も同じです」
「皆、覚悟は決まったようだな」
ルシアンが星冠を持ち上げた。
「カシアン。王冠を渡す」
「台座へ置き、一人で運べ」
「わかった」
「殿下」
セラフィナが星冠を受け取ろうとすると、ルシアンは首を振った。
「君は星石を外すことに集中しろ。重い部分は私が持つ」
「私の仕事へ口を出さないでください」
「分担の相談だ」
「五秒を過ぎています」
「次の五秒だ」
こんなときまで言い争う二人を、カシアンは気味の悪いものを見るように眺めていた。
「お前たちは、死ぬかもしれない状況がわかっているのか」
「わかっています」
セラフィナは工具を握った。
「だから、普段通りにしています。急に立派な人間になろうとすると、手元が狂いますから」
ルシアンとともに、星冠を扉の前へ運ぶ。
カシアンは国王を引きずりながら、一歩ずつ近づいてきた。
「そこへ置け」
ルシアンが床へ星冠を置く。
「二人とも下がれ」
「父上を先に放せ」
「王冠を確認してからだ」
「偽物ではありません」
「それを決めるのは私だ」
カシアンが腕を伸ばした。
その指が星冠へ触れる寸前、セラフィナは中央石を留める爪へ工具を差し込んだ。
「今です!」
本物の星石を外す。
同時にルシアンの剣が、七本の支持枠の一つを断ち切った。
ギデオンの槌が二本目を砕き、ノアが三本目へ夜星糊の楔を打ち込む。
「何をしている!」
カシアンが国王を放り出し、星冠へ飛びついた。
四本目。
五本目。
セラフィナは小さな修復用の槌を、母が残した亀裂へ振り下ろした。
「やめろ! それは私の王冠だ!」
「違います」
六本目の支持枠が折れる。
「誰のものでもありません!」
ルシアンが最後の一本へ剣を突き立てた。
「王冠のために人がいるのではない。人のために王冠がある。それを忘れた物なら、壊して作り直す!」
七本目が折れた。
星冠が、青い光に包まれる。
金の輪は中央から裂け、何百年も蓄えてきた王家の魔力が星冠の間へあふれ出した。
「伏せろ!」
ルシアンがセラフィナを抱え、床へ倒れ込む。
青い衝撃が部屋中を駆け抜けた。
壁を覆っていた鏡が一斉に砕け、カシアンの偽りの通路が消えていく。王宮に広がっていた鏡晶石も、根元から光を失った。
カシアンが国王から手を離す。
「陛下!」
ノアが駆け寄り、国王の身体を引きずって扉の内側へ運んだ。
「もう少し丁寧に扱え……」
意識を取り戻した国王が呻く。
「生きている人間は重いのです。あとで肩の痛みについては謝ります」
「今謝れ」
「陛下もご無事ですね」
「話をそらすな」
国王に文句を言う力が残っている。
ひとまず命に関わる傷ではなさそうだ。
「私の王冠……」
カシアンは床へ散らばった金の欠片を見つめていた。
「私が、あれほどの年月をかけて……兄上にも、ルシアンにもないものを手に入れるために……」
「王冠をかぶっても、あなたにはなれません」
セラフィナは本物の星石を胸元へ抱いたまま言った。
「私に何がわかる!」
「わかりません。あなたがどれほど兄を羨み、憎んだのか。誰かに選ばれたいと願ったのか、私にはすべてわかるとは言えません」
「なら、口を出すな!」
「わからないからといって、殺される人が黙っていなければならない理由にはなりません」
カシアンの琥珀色の瞳が、強く輝いた。
砕けた鏡の欠片が床から浮かび上がり、無数の刃となってセラフィナへ向かう。
ルシアンがその前へ立った。
「今度は背へ隠すなと怒らないのか」
「今は特別に許します!」
「それはありがたい」
剣で鏡の刃を弾きながら、ルシアンがカシアンへ踏み込んだ。
二人の刃がぶつかる。
だが、記憶を取り戻したルシアンと、星冠の魔力を失ったカシアンでは、もう力に差があった。
「私には、お前の剣の記憶がある!」
「記憶だけだ」
ルシアンはカシアンの刃を受け流した。
「痛みも迷いもなく、成功した動きだけを盗んだからわからない。私は何度も失敗し、ノアに笑われ、父上に叱られながらこの剣を覚えた」
「失敗など、ないほうがいい!」
「そうかもしれない。だが、失敗した私を覚えている者たちがいる」
ルシアンの剣が、カシアンの手から鏡の刃を弾き飛ばした。
カシアンは素手になっても諦めず、セラフィナが持つ星石へ手を伸ばす。
「それを渡せ!」
「嫌です!」
「それがあれば、まだ――」
「悪い石、返す!」
黒い布を食い破ったラピスが、ノアの腕から飛び出した。
「ラピス、待ちなさい!」
「もう食べたくない!」
ラピスは空中で大きく咳き込み、腹の中の偽石を吐き出した。
半分ほど溶けた偽石が、勢いよくカシアンの顔へ飛ぶ。
「ぐっ!」
偽石が琥珀色の左目へぶつかり、砕けた。
カシアンの鏡魔法と偽石の魔力が逆流する。左目から琥珀色の光があふれ、彼は両手で顔を覆って倒れた。
「今です、先生!」
ギデオンから夜星糊を受け取ったセラフィナは、カシアンの左目へ七つの星を描いた。
「やめろ! 私の顔を、私の力を奪うな!」
「借りていた顔を返していただくだけです」
「私は誰になる! ルシアンになれず、王にもなれないなら、私は何者だ!」
「カシアンです」
答えたのは国王だった。
ノアに支えられ、壁へ背を預けている。
「私の弟で、王妃とエリーゼを殺し、大勢の人生を奪った罪人だ」
「兄上……」
「お前がどれほど別の顔をかぶろうと、その名で裁きを受けてもらう」
「私を、また見捨てるのか」
「見捨てない」
国王はカシアンを見つめた。
「だから、生きて裁かれろ。死んで自分の罪から逃げることは許さん」
「愛していたと言いながら、私を牢へ入れるのか」
「愛していたことと、許すことは違う」
「そんなものは、愛ではない!」
「そうかもしれん。私には、最後まで正しい兄になれなかった。だが王として、お前の罪をなかったことにはできない」
カシアンは笑った。
笑いながら、琥珀の光を失った左目から涙を流していた。
「兄上は、いつも遅い」
「ああ」
「私が欲しかったときには、何もくれなかった」
「ああ」
「今さら名を呼ぶな」
「それでも、お前はカシアンだ」
国王の声に、カシアンはもう答えなかった。
駆けつけた近衛兵が、その両手へ夜星糊を施した拘束具をはめる。
鏡の魔術師カシアンは、借りた顔ではなく、自分自身の顔で捕らえられた。
◇
戦いが終わった星冠の間には、壊れた王冠だけが残った。
ノアが床へ散った金の欠片を拾いながら、深いため息をつく。
「これを見た宰相と財務官が、どのような顔をするか想像したくありません」
「修復費は、王太子の個人資産から出させる」
国王が即座に言った。
「父上。壊すことに同意したのはセラフィナです」
「彼女にも請求しろと言うのか?」
「そうは言っていません」
「では、お前が払え」
「陛下、それは少々不公平では」
セラフィナが口を挟むと、国王は壊れた王冠を指した。
「王家の男を二人とも助けたうえ、何百年もの王冠まで壊したのだ。これ以上、君に責任を負わせれば、アルド殿が本当に王宮へ殴り込んでくる」
「お父様は、そのようなことを……」
「なさらないと言い切れるか?」
セラフィナは黙った。
指輪を用意していたことまで黙っていた父である。王宮の門へ工具を持って現れても、不思議ではない。
ルシアンは床から、曲がった王冠の輪を拾い上げた。
「同じ形へ戻す必要はない」
「殿下?」
「この王冠は、正しい血筋の一人だけを選ぶよう作られていた。だからカシアンは、私一人になれば王になれると考えた。次は、一人の顔や血だけで王を決める物にはしない」
彼は七つの記憶石を見た。
「人が王冠に従うのではなく、人が王を選び、その選択を王冠に認めさせる。母上とエリーゼが残した仕組みを、正式な形にしたい」
「それには、王国の制度から作り直す必要があります」
ノアが言った。
「議会も貴族院も巻き込む、たいへん面倒な仕事になりますよ」
「わかっている」
「何年かかるかわかりません」
「それでもやる」
「財務官は泣きます」
「泣かせておけ」
「私が宥めるのですが」
「手当を出す」
「でしたら反対はしません」
ノアの判断は早かった。
セラフィナは、手の中にある本物の星石を見つめた。
王冠は壊れた。
それでもルシアンの記憶は戻り、国王は生きている。ラピスも偽石を吐き出したあと、蜂蜜の残った椀へ顔を突っ込んでいた。
「セラフィナ」
ルシアンに呼ばれ、顔を上げる。
「はい」
「記憶を戻した」
「そうですね」
「北塔からも生きて帰った」
「王冠は壊しましたけれど」
「それは条件に入っていなかった」
ルシアンは真剣な顔で続けた。
「工房に預けた指輪を、受け取りに行ってもよいだろうか」
「今ですか?」
「今からではない。父上を医務室へ運び、カシアンを牢へ入れ、壊した王冠について関係者へ説明したあとだ」
「それだけでも数日はかかります」
「では数日後に」
「殿下。私はまだ、受け取るとは申し上げていません」
「知っている。断る権利も君にある」
「断られたら?」
「最低一か月は保管する。アルド殿とそう決めた」
「お父様との約束を、私より優先なさるのですか?」
「君が三日後に意見を変える可能性があるとも聞いた」
「お父様は、いったい私のことを何だと……」
「面倒な娘だと思っているらしい」
「誰のせいで面倒になったと思っているのですか」
「私と出会う前からではないか?」
「殿下!」
星冠の間に、国王とノアの笑い声が響いた。
カシアンは捕らえられ、偽りの王冠も壊れた。
けれど、ルシアンとセラフィナの三か月後だけは、まだ誰にも決められていなかった。




