第29話 皇太子の記憶に入ったら、私に贈るはずだった二つ目の指輪を見つけました
ルシアンの記憶は、整然と並べられた書物ではなかった。
匂いも、痛みも、言えなかった言葉も、互いに押し合いながらセラフィナの中へ流れ込んでくる。
まだ幼いルシアンが王妃の膝で眠っていた。
少し成長した彼は、夜会から抜け出した母親と二人で長椅子の下へ隠れている。王妃は窮屈な靴を脱ぎ、王子である息子へ、誰にも言わないよう念を押しながら焼き菓子を半分渡していた。
『母上。王妃が靴を脱いで床へ座ってよいのですか』
『駄目に決まっているでしょう。だから、あなたも共犯です』
『私は止めました』
『では、このお菓子を返しなさい』
『共犯になります』
過去のルシアンが真面目な顔で焼き菓子を口へ入れる。
「……殿下も、王妃陛下のいかさまを責められませんね」
セラフィナが呟くと、遠くから現在のルシアンの声が聞こえた。
「何が見えている?」
「王妃陛下と夜会を抜け出して、長椅子の下で焼き菓子を食べています」
「覚えていないが、私も共犯だったのか」
「かなり積極的な共犯です」
「母上の評判を守るため、今の話は伏せておいてくれ」
「陛下にはお伝えします」
「なぜだ」
「王妃陛下の欠点を、陛下お一人だけが抱えているのは不公平です」
現実では、セラフィナの身体が星冠へ両手を置いたまま動かなくなっていた。
ルシアンはその肩を支えているらしい。触れられている感覚はあるものの、姿は見えない。
「セラフィナ嬢、聞こえますか!」
ギデオンの声が、荒れる記憶の向こうから響いた。
「記憶を一度に流してはなりません! 七つの記憶石を道標にして、ルシアン殿下のものだけを選び取ってください!」
「簡単におっしゃいますが、どれも殿下の顔をしています!」
「感情の響きを確かめるのです!」
「カシアンは感情まで奪っています!」
「それでも違いはあるはずです!」
「その『あるはず』を、専門的な助言のように言わないでください!」
「私も初めての作業なのです!」
「二人とも、喧嘩は戻ってからにしてください!」
ノアの声まで飛んでくる。
「戻れたら、いくらでも喧嘩をして構いません! 今はリード嬢を戻す方法を!」
「なら、ノア様も殿下を呼んでください! 記憶石に預けたときと同じように、殿下について覚えていることを話してください!」
「今ここでですか?」
「星冠は、私一人の記憶では殿下とカシアンを区別できません! 格好をつけず、できるだけ人に聞かれたくない話をお願いします!」
「注文が難しいですね!」
それでも、ノアはすぐに話し始めた。
「ルシアン殿下は、十五歳の頃、南棟の階段の手すりを壊しました。剣の訓練を抜け出すため、二階から外套を縄代わりに降りようとしたからです」
「ノア、それは今話す必要があるのか?」
「人に聞かれたくない話を指定されましたので。私が止めると、殿下は『王太子が城壁から脱出する可能性も想定した訓練だ』と言い張りました。結局、外套が途中で裂け、植え込みへ落ちました」
「私は、本当にそのようなことを?」
「ええ。助け起こした私へ、最初に『父上には黙っていろ』と命じました」
「王太子としての威厳が次々と失われていくな」
「記憶と一緒に取り戻してください」
ノアの記憶石から緑色の光が伸び、セラフィナの前へ一本の道を作った。
植え込みの中で枝まみれになりながらも、ノアが怪我をしていないか先に確かめる少年のルシアンが見える。
格好が悪く、言い訳が多い。それでも、自分より先に他人の傷を気にする。
カシアンが盗めたのは、その場面と感情までだ。
だが、ノアが今も腹を立てながらルシアンの帰りを待っていることまでは、盗めない。
「次を!」
セラフィナが叫ぶと、七つの記憶石が順番に声を放った。
『陛下の前では冷たい顔をしていますが、食堂で私の焼き菓子をつまみ食いしたことがあります。認めませんでしたけれど、皿に殿下の指の跡がありました』
マルタの記憶だ。
『私の義指を見て、哀れだとは一度も言わなかった。最初に訊いたのは、仕事へ支障があるかどうかだった』
ギデオンの記憶が続く。
『殿下は、雨の中で立たされていた下級兵の私へ、ご自分の外套を投げつけました。そのあと、風邪をひいたことを隠して三日間不機嫌でした』
近衛兵の声。
『青い砂糖石、くれた。ラピスが三つ食べたら、二つまでって怒った。でも次の日、四つ持ってきた』
ラピスの記憶だけは、少し食べ物へ偏っている。
それぞれの声が光の道となり、押し寄せる記憶を分けていく。
その先に、国王の声があった。
『私が覚えているのは、立派な王太子ではない。母親を失った夜、扉の前に座り込み、私へ一緒にいてくれと言えなかった息子だ。私も、そばにいてやると言えなかった』
記憶の景色が変わった。
八年前の夜。
王妃の部屋の前で、若いルシアンが座っている。拳を握り締め、血がにじむほど爪を食い込ませていた。
廊下の向こうには国王がいる。
父親も息子も互いの存在に気づいているのに、どちらも近づかなかった。
『父上』
ルシアンは一度だけ呼んだ。
けれど国王は足を止めただけで、振り向かなかった。
息子の泣く顔を見ることができなかったのだ。
「見なくていい」
現在のルシアンの声がした。
「セラフィナ、それ以上は見なくていい。母上が殺された夜の記憶だ」
「戻すために必要です」
「君が背負う必要はない」
「背負うつもりはありません」
「では、なぜ」
「殿下へ返す前に、傷んでいる場所を確認するのが職人の仕事です。勝手に修復はしません。ただ、どこが割れているのかも見ずに石を返すことはできません」
「私は宝石ではない」
「宝石より面倒です」
「君は、こういうときまで容赦がないな」
「あとで苦情を聞きます。今は黙っていてください」
セラフィナは王妃が殺害された瞬間から目をそらさなかった。
刃。毒。割れる鏡。冷えていく母親の手。
ルシアンは助けられなかった。
何度記憶を繰り返しても、いつもあと一歩届かない。だから彼は、自分がもっと早く異変に気づいていれば、母は死ななかったと思い続けていた。
「殿下のせいではありません」
「その記憶の私は、そう思っていないだろう」
「ええ。ですから勝手に書き換えません」
セラフィナは痛みごと、ルシアンへ返すための道へ乗せた。
「ただ、戻ったあとで何度でも申し上げます。殿下のせいではありません。納得なさらないでしょうから、何度でも喧嘩をします」
「それは、あまり戻りたくなくなる誘い方だな」
「では、記憶をラピスに消化させますか?」
「戻る。戻るから、竜の胃袋と比較しないでくれ」
ルシアンの答えに少し安心した直後、記憶の景色へ琥珀色の亀裂が走った。
『返す必要などない』
カシアンの声だった。
王妃の部屋が砕け、代わりに無数の鏡が現れる。
鏡の中には、ルシアンの顔をしたカシアンが立っていた。
『彼は、何も知らない今のほうが幸せだ。母親を救えなかった罪悪感も、父親を許せない怒りも、君に拒絶される恐怖もない。なぜ苦しみまで返そうとする?』
「あなたのためではありません」
『私は、ルシアンのために言っている』
「殿下の顔で、殿下のためなどと言わないでください」
『では、君のためだ』
鏡の中のカシアンが手を伸ばした。
『彼が君を愛した記憶だけ、手元へ残せばいい。怒りも悲しみも、私が引き受ける。都合のよいルシアンを作れるのだぞ。君を疑わず、君の言うことだけを聞き、永遠に君を選び続ける男を』
「気持ち悪いですね」
『……何だと?』
「殿下が私の言うことだけを聞くようになったら、一日で別人だと気づきます。それに、私を疑わない殿下など不便です。仕事の確認をしてくださる方がいなくなります」
『愛されたいとは思わないのか』
「思います」
セラフィナは正直に答えた。
「殿下が私を好きだと知れば嬉しいですし、他の方へ同じ顔を向ければ腹も立ちます。ずっと私を選んでほしいとも思います。ですが、私に都合よく削った人から愛されても、それは私が欲しかったものではありません」
『きれいごとだ。人は誰でも、愛する相手を自分に都合のよい形に変えようとする』
「そうでしょうね。私も殿下に、もっと相談してほしい、勝手に危険へ行かないでほしいと思っています。殿下も私に、血を流す仕事をやめろとうるさく言います」
「聞こえているぞ」
遠くから現在のルシアンが抗議した。
「今はカシアンと話しています!」
「私への批判が混ざっていた」
「事実の説明です!」
カシアンは理解できないものを見る顔をした。
セラフィナは続けた。
「人は互いを変えようとして、たいてい失敗します。腹を立て、諦めたと思った頃にまた口を出す。その面倒な繰り返しを、最初から思い通りになる人形で済ませたくはありません」
『ならば、彼の愛した記憶も返すのか』
「返します。殿下のものですから」
『見なくてよいのか? 彼が君へ何を隠していたのか』
鏡の一枚が青く光った。
見てはいけないと思ったときには、すでに景色が流れ込んでいた。
◇
そこは、アルド・リードの工房だった。
作業台の前に、記憶を失う前のルシアンが座っている。向かいにはセラフィナの父、アルドがいた。
二人の間には、小さな指輪の見本が並んでいる。
『娘に渡す指輪なら、自分で選べ』
アルドが不機嫌そうに言った。
『そのために来た』
『王太子殿下なら、宝飾局へ命じれば王冠より大きな石でも用意できるでしょう』
『彼女はそのような物を欲しがらない』
『よくわかっていますね、と褒めてほしいのですか』
『あなたは私が嫌いなのか?』
『娘へ十九条もある偽婚約の契約書を渡した男を、好きになる父親がいるとお思いですか』
『十九条すべて、彼女の不利益にならないよう作った』
『十九条も書かなければ守れない時点で、王宮という場所に問題があるとは考えなかったのですか』
記憶の中のルシアンが黙り込む。
父は相手が王太子でも、本当に容赦がない。
『それで、これは命令ですか。それとも、依頼ですか』
『依頼だ』
『婚約を本物にするための?』
『……申し込みをするための指輪が欲しい』
セラフィナの心臓が大きく鳴った。
「殿下」
「何を見ている?」
現在のルシアンが訊いた。
「工房で、お父様と話しています」
「何の話だ」
「指輪です」
しばらく沈黙があった。
「そこは見なくていい」
「私が選んだのではありません!」
「カシアン、今すぐその記憶を閉じろ!」
『私は見せてあげようとしているのに、ずいぶんな言い方だな』
記憶の中で、アルドが一つの石を取り出した。
大きくはない、深い青色の星蒼玉だった。光を当てると、中央へ細い星が浮かぶ。
『娘は仕事中も指輪を外しません。爪を高くすれば工具へ引っかかる。石も大きすぎる。贈り物に自分の財力を見せつけたいなら、他を当たってください』
『彼女の指を傷つけない物にしてほしい』
『王家の紋章は?』
『不要だ』
『では、殿下の名前を内側へ彫りますか』
『それもいらない。受け取るかどうかは彼女が決める。断ったあとで、私の名が入った指輪など残されても困るだろう』
アルドは初めて、ルシアンをまっすぐ見た。
『娘が断ったら、どうします』
『仕事は続けてもらいたい。ただし、私に会いたくないと言われれば、宝飾局との連絡はノアに任せる』
『諦めると?』
『迷惑をかけないよう努力する』
『諦めるとは言わないのですね』
『言えない約束はしない』
アルドは深くため息をついた。
『娘は面倒な男を選びましたね』
『まだ選ばれていない』
『そうでした。ですが、あの子も十分に面倒です。一度断ってから三日後に意見を変えることもあります。断られても、最低一週間は指輪を売らずに置いておきます』
『一週間でよいのか』
『一か月にしましょう。それ以上は保管料をいただきます』
記憶のルシアンが、ほんの少し笑った。
『あなた方は、すぐ金を請求するな』
『王族は金額を決めておかないと、感情を対価に持っていくので』
そこで記憶は途切れた。
セラフィナは何を言えばよいかわからなかった。
「……あの指輪は、今どこにあるのですか」
「工房だ」
現在のルシアンが答えた。
記憶がないはずなのに、声には確信があった。今の光景が、彼の側へも流れ始めているのだろう。
「君に渡す前に、王妃の指輪の事件が起きた。受け取ってもらえる状況ではなくなった」
「では、お父様は何も言わずに」
「父親として、私が自分で言うべきだと思ったのだろう」
『よかったではないか』
カシアンの声が割り込んだ。
『指輪も気持ちも見つかった。これだけ手元へ残せばいい』
「いいえ」
セラフィナは星蒼玉の記憶を、他の記憶と同じ道へ乗せた。
「これも殿下へ返します」
『惜しくないのか』
「惜しいに決まっています。今すぐ工房へ行って実物を見たいです」
「セラフィナ」
「殿下は黙っていてください!」
「私が用意した指輪だぞ」
「だから今は話しかけないでください!」
恥ずかしさで何を言っているのか、自分でもわからなくなってきた。
それでも、これはルシアンの記憶だ。
彼が忘れたままなら、指輪を渡すかどうかを決める権利までセラフィナが奪うことになる。
「私は、殿下の愛情を保管する石箱ではありません。ご自分でお持ちください」
セラフィナは、すべての青い光をルシアンへ向けた。
その瞬間、琥珀色の記憶だけが逆らった。
カシアンの怒り、嫉妬、兄への執着。偽石へ混ぜられていた彼自身の記憶が、ルシアンの中へ紛れ込もうとしている。
『私もルシアンだ!』
カシアンが叫んだ。
『同じ記憶を持ち、同じ顔を持ち、同じ王家の血を引いている! 私を切り捨てれば、ルシアンの一部まで失うぞ!』
「あなたは、あなたです」
『私を選ばないのか』
「選びません。ただし、なかったことにもしません」
セラフィナは琥珀色の記憶へ夜星糊を流した。
「あなたの記憶は、あなたへ返します。殿下の中にも、ラピスのお腹にも残しません。罪を犯したカシアンとして、ご自分で持ってください」
琥珀色の光が一つの塊となり、星冠の外へ弾き出される。
現実のどこかで、男の絶叫が響いた。
カシアンから盗んだ顔が剥がれ、同時に彼自身の記憶が戻ったのだろう。
残った青い記憶が、ルシアンへ流れ込む。
「殿下!」
セラフィナは遠くにいる彼の名を呼んだ。
「私の声が聞こえますか!」
「聞こえる」
「三か月後も?」
問いかけたあと、返事が来るまでの時間が永遠のように長く感じられた。
もし以前の記憶だけが戻り、北塔から今までのルシアンが消えてしまったなら、答えは盗まれた古い言葉へ戻るかもしれない。
やがて、ルシアンの声がした。
「その先は、二人で決める」
今の彼は消えていない。
過去にのみ込まれず、忘れていた時間まで自分の一部として受け入れている。
「では、全部お返しします!」
最後の光を押し出した。
その反動で、セラフィナの意識が星冠から弾き飛ばされた。
◇
目を開けると、床へ倒れた自分をルシアンが抱き起こしていた。
「セラフィナ」
その声には、忘れる前と、忘れたあとの両方の彼がいた。
「私が誰かわかりますか」
「セラフィナ・リード。二十一歳。宝石修復師。石の記憶を聞く力を持つ。気が強く、仕事中は食事を忘れ、怒ると敬語が不自然に丁寧になる」
「最後の二つは不要です」
「偽婚約の契約書へ、勝手に三つ条件を追加した」
「二つです」
「私が君の手を握ったまま六時間眠り、起きたあとで言い訳をした」
「それも覚えているのですね」
「ああ」
ルシアンの目が潤んだ。
「母上の声も、顔も覚えている。父上へ腹を立てていたことも、ノアに何度も助けられたことも、全部だ」
「今の殿下は?」
「星冠の前で君を選び、婚約を解消され、求婚するなら記憶を戻したあとにしろと言われた男だ」
「……よかった」
セラフィナの目からも涙が落ちた。
ルシアンが手を伸ばし、途中で止める。
「触れても?」
「今さらですか?」
「今の私が、君へ尋ねることを覚えた」
「では、手だけなら」
彼は約束通り、セラフィナの手だけを握った。
「それから、指輪の記憶は忘れてくれ」
「無理です」
「石の記憶を聞く者なら、聞かなかったことにできないのか」
「修復師へ不正を求めないでください」
「アルド殿にも黙っていてくれ」
「お父様は最初からご存じです!」
「そうだった」
「本当に、格好のつかない方ですね」
「それも含めて戻った」
星冠の間に、ノアの安堵した笑いが響いた。
だが、その時間は長く続かなかった。
扉の外から、重い物が叩きつけられる音がした。
「殿下!」
封印を支えていたギデオンが叫ぶ。
「誰かが王家の血を使い、扉をこじ開けようとしています!」
夜星糊の七つ星が、一つずつ琥珀色へ染まっていく。
扉の隙間から、血のついた杖が転がり込んだ。
国王が使っていた杖だった。
『兄上の血は、よく扉を開ける』
カシアンの声がした。
『記憶は返してもらった。次は、王冠と命を交換しようか』
扉の向こうには、本来の琥珀色の瞳へ戻ったカシアンが立っていた。
その腕には、血を流して意識を失った国王が抱えられていた。




