第27話 亡き母の遺言は「皇太子の記憶を王冠へ戻すな」でした
「ラピス!」
呼びかけても、小さな身体は動かなかった。
セラフィナは震える指でラピスの胸元へ触れた。心臓は動いている。息もしていたが、鱗の下では青と琥珀の光が不規則に明滅している。
「私が無理に声を聞いたから……」
「違う」
ルシアンが即座に否定した。
「君が触れる前から、偽石はラピスの中で魔力へ変わり始めていた」
「それでも、刺激を与えました。母の声を聞きたいと思って、必要以上に深く入ったのかもしれません」
「まだそうと決まったわけではない」
「では、なぜ返事をしないのですか!」
声が荒くなった。
ルシアンに怒っても意味はない。そんなことは、セラフィナ自身が一番よくわかっている。
それでも怖かった。
ラピスが石を食べたのは自分を助けるためだ。あの小さな身体に何かあれば、危険だとわかっていながら北塔へ連れてきた自分のせいではないと言い切れない。
「セラフィナ」
「大丈夫だとおっしゃらないでください。殿下は、何もわからないのにすぐ大丈夫だと言います。私を安心させたいのでしょうけれど、根拠のない慰めを言われると、余計に腹が立つのです」
「では、大丈夫とは言わない」
ルシアンは少し間を置いた。
「私も怖い。ラピスに何かあれば、君だけでなく私にも責任があると思っている。ただ、今ここで誰の責任かを決めても、ラピスは目を覚まさない。怖いまま動こう」
優しい言葉ではなかった。
けれど、だからこそセラフィナは息を吸うことができた。
「……はい」
「歩けるか」
「歩けます」
「足を引きずっている」
「気持ちの問題です」
「足首の問題だと思うが」
「今は言い争っている時間がありません」
「それは私が最初に言った」
「殿下は、いちいち言い返さなければ気が済まないのですか?」
「君が少し普段に戻ったので、つい」
セラフィナは腹を立てるべきか、気遣われたことに感謝すべきか迷った。結局どちらも口にせず、ラピスを抱き直した。
ギデオンが簡易担架を用意しようとしたが、セラフィナは断った。ラピスの熱や呼吸の変化を、できるだけ近くで感じていたかった。
一行は北塔を離れ、近衛兵の待つ封鎖線まで戻った。
北塔の鐘は、もう鳴っていなかった。
カシアンの姿もない。
それがかえって不気味だった。
◇
宮殿へ戻ると、ラピスは宝飾局に隣接する修復室へ運ばれた。
魔石を扱う設備がそろっており、窓には鏡晶石を防ぐ夜星糊の封印が施されている。医師と魔術師も呼ばれたが、竜を診察した経験のある者はいなかった。
「この国には、役に立つ人間が一人もいないのですか」
セラフィナが苛立ちを隠さず言うと、医師が気まずそうに眼鏡を直した。
「王都で竜が腹痛を訴えた前例がございませんので……」
「腹痛とはまだ決まっていません」
「では、何と記録すれば」
「記録はあとです!」
「リード嬢、医師を怒鳴っても竜医学には詳しくなりません」
ノアにたしなめられ、セラフィナは唇を噛んだ。
「申し訳ありません」
「いえ。お気持ちはわかります」
医師が安堵したように答えた直後、修復室の扉が乱暴に開いた。
「わかるだけで役に立たないなら、せめて場所を空けなさい」
入ってきたマルタが、医師と魔術師をまとめて押しのけた。
両手には、湯気の立つ椀と蜂蜜の壺を持っている。
「マルタ、何をするつもりですか?」
「腹に悪いものを入れて倒れたなら、温かくして寝かせる。人間でも竜でも、最初にやることは同じでしょう」
「偽石は食べ物ではありません」
「ラピスにとっては食べ物です。あなた方は難しいことを考えすぎて、毛布をかけることさえ忘れているじゃありませんか」
言われてみれば、ラピスは冷たい石の作業台へ寝かされていた。
身体そのものは熱を帯びているが、だからといって固い台の上が心地よいとは限らない。
マルタは作業台へ厚い毛布を敷き、ラピスを包んだ。鼻先へ蜂蜜を近づけると、小さな鼻がわずかに動く。
「反応しました!」
「この子が食べ物に反応しなかったら、そのときこそ大騒ぎなさい」
ラピスは目を開けなかったものの、蜂蜜を追うように口を小さく動かした。
『苦い薬は嫌いです』
その口から、王妃の声が漏れた。
マルタは一瞬だけ動きを止めた。
「……王妃様は、相変わらず薬がお嫌いなのですね」
その声はひどく穏やかだった。
王妃がまだ生きていた頃、マルタも何度か身の回りの世話をしたことがあるのだろう。けれど彼女は涙を見せず、蜂蜜を指先へつけてラピスの舌へ塗った。
「これは薬ではありませんよ。蜂蜜です。嫌がらずにおなめなさい」
『陛下には内緒よ』
「ええ。ですが、もう聞かれてしまいました」
修復室の入口には、国王が立っていた。
北塔へ向かった一行が戻ったとの報告を受け、杖をつきながら急いできたらしい。息を切らし、いつも以上に顔色が悪い。
「父上。来るなら、せめて誰かに身体を支えさせてください」
「息子に邪魔だと言われて宮殿へ残ったのだ。報告を聞く権利くらいはある」
「権利の話ではなく、体調の話です」
「戻った途端に父親へ説教か」
「先ほど話の続きをしてくれると約束しました。途中で倒れられると困ります」
国王は言い返そうとしたが、結局、ノアが用意した椅子へ座った。
「カシアンは?」
「逃げました。偽石はラピスの腹の中です」
「……どうしてそうなった」
「説明すると長くなります」
「短くしてくれ」
「カシアンから偽石が外れ、ラピスの前へ落ちました」
「それで食べたのか」
「食べました」
「落ちた物を?」
「食べました」
「なぜ?」
「ラピスなので」
国王はしばらく黙ったあと、疲れたように額を押さえた。
「なるほど。短くしても、まったく理解できんな」
「理解しようとすると余計に疲れます」
マルタが言い、もう一度ラピスの口へ蜂蜜を塗った。
ラピスの身体から、かすかな光が立ち上る。その光の中に、エリーゼの声の欠片が混じっていた。
『星冠へ戻してはいけない――』
「母の声です」
セラフィナは作業台へ近づいた。
「偽石には、母の記憶が残っています。続きが聞ければ、殿下の記憶を戻す方法もわかるかもしれません」
「聞けるのか?」
国王の問いに、セラフィナはすぐには頷かなかった。
「ラピスの意識がない状態で深く記憶を読むのは、したくありません」
「しかし、時間がない」
「わかっています」
「ならば――」
「父上」
ルシアンが国王を制した。
「彼女は、できるかどうかではなく、してよいかを考えているのです」
「命が懸かっていてもか」
「命が懸かっているからでしょう。何でも許されると思い始めれば、カシアンと同じになる」
国王は不満そうに眉を寄せたものの、それ以上は言わなかった。
セラフィナはラピスの小さな前脚へ触れた。
「本人が許可できない緊急時には、命を守るために必要な範囲だけ聞く。工房で父から教わった規則です」
「アルド殿らしい」
ギデオンが懐かしそうに言った。
「ラピスの中へ直接入るのではなく、エリーゼが施した封印と同じ響きを使えば、母君の記憶だけを呼び出せるかもしれません」
「同じ響き……」
セラフィナは、すべての始まりとなった青い指輪を思い浮かべた。
婚約を破棄された日に返され、その石から亡き王妃の声が聞こえた指輪。
エリーゼが夜星糊で封じた、王妃の秘密を宿す青い石だ。
「指輪はどこにありますか」
「王家の保管庫だ」
国王が答えた。
「カシアンの件があってから、私の許可がなければ誰も触れられない場所へ移した」
「すぐに持ってきてください。ただし、鏡は使わないで。運ぶ者は二人以上で、顔ではなく夜星糊の印を確認してください」
ノアが近衛兵を呼び、細かな手順を命じた。
待つ時間が、ひどく長く感じられる。
ルシアンはラピスから少し離れた壁際に立っていた。セラフィナがそちらを見ると、彼は自分の手首へ書かれた名前を確かめている。
「また、何か忘れましたか」
「いや。君の名前も、ノアの名前も覚えている」
「では、なぜそんな顔をしているのです」
「偽石を戻してはならないという話が、気になっている。もし、記憶を戻す方法がなかったら――」
「戻します」
「根拠は?」
「ありません」
「君は、根拠のない大丈夫は腹が立つと言った」
「大丈夫とは言っていません。戻すと言ったのです」
「同じではないのか」
「大丈夫は慰めですが、戻すは今から私がする仕事です」
セラフィナが言うと、ルシアンはかすかに笑った。
「君は、自分の仕事にすると強いな」
「強くありません。今も怖いです」
「怖いと言いながら進める人間を、強いと言うのだと思っていた」
「では、殿下も強いのでしょう」
「私は、怖いかどうかさえよくわからない」
ルシアンは胸元の記憶留めへ触れた。
「失う前の自分を取り戻したいとは思う。だが、記憶が戻れば、今の私は消えるのだろうか」
セラフィナは答えられなかった。
「忘れていた母上を思い出し、君に抱いていた感情も戻る。そのとき、星冠の間で君を選んだ今の私は、過去の私にのみ込まれるのではないか。そんなことを考える」
「記憶を戻すのが怖いのですか」
「おかしいか?」
「いいえ」
セラフィナは首を振った。
「私たちは、戻せばすべて解決するように話していました。でも殿下にとっては、自分の中へ知らない人間が一度に入ってくるようなものなのですね」
「皆は、その知らない人間のほうを私だと思っている」
「私も、記憶を失う前の殿下を知っています」
「だから、君がどちらを望んでいるのか気になる」
「私は選びません」
ルシアンの眉が動いた。
「また、どちらも選ばないのか」
「過去の殿下と今の殿下は、争っている別人ではありません。私が勝手に片方を本物と決めることではないでしょう」
「ずいぶん簡単に言う」
「簡単ではありません。記憶が戻った殿下が、今よりさらに面倒になる可能性も考えています」
「そこか」
「大切な問題です」
「では、記憶が戻ったあとも君が腹を立てられるよう、今の話を記録しておこう」
「そうしてください」
「記憶が戻った私が、今の私を忘れたら?」
「私が覚えています」
セラフィナは、今度こそ迷わず答えた。
「殿下が忘れたことは、私たちが一時的に預かります。殿下のお母様のことを陛下がお話しくださったように、ノア様が昔の殿下のことを覚えていたように。ですから今の殿下のことも、私が覚えています」
「返せと言っても、返さないのだろうな」
「思い出は返却できません。苦情も受けつけません」
「職人として、それは問題ではないか?」
「今回は私物ですから」
ルシアンは何かを言いかけ、やめた。
代わりに、セラフィナの手へ触れようとする。
けれど直前で手を止めた。
「触れても?」
星冠の間で結んだ伴侶の誓いは、もう消えている。
婚約も、セラフィナ自身が終わらせた。
だからこそ彼は、改めて許可を求めたのだろう。
「……今は、手だけなら」
「条件が細かいな」
「殿下が十九条もある契約書を作ったのが始まりです」
「それは私に責任がある」
「珍しく素直ですね」
ルシアンの手が、セラフィナの指先を包んだ。
過去の彼が覚えていた通り、セラフィナの指は冷たかった。
◇
青い指輪は、二重に封印された黒い箱へ入れられて運ばれてきた。
箱を開けると、青い宝石が修復室の灯を受けて輝いた。かつて王妃の声を宿し、セラフィナを王宮の陰謀へ導いた石だ。
ギデオンが指輪を銀の台へ固定する。
その隣へラピスを寝かせると、二つの石の間に青い光の糸が伸びた。
「同じ夜星糊が、互いを認識しています」
「始めます」
セラフィナは片手を指輪へ、もう片方をラピスの背へ置いた。
冷たさと熱さが、同時に身体へ流れ込んでくる。
耳の奥で、エリーゼの声がした。
『セラフィナ。あなたがこの声を聞かずに済むことを願っています』
「お母様……」
『これは、あなたに託すために残した言葉ではありません。親が子どもへ危険な仕事を残し、“あなたならできると信じている”などと言うのは、卑怯なことだと思うから』
セラフィナの喉が詰まった。
エリーゼらしい言葉だった。
優しいだけの母ではなかった。失敗すれば腹を立て、仕事道具を片づけなければ何日でも口をきかず、それでも夜には黙って温かいミルクを置いていく人だった。
『私は怖かった。王妃様を救えなかったことも、カシアンに気づかれたことも、あなたを残して死ぬことも、全部怖かった。それでも、うまく説明する時間がなかった。ごめんなさい』
「謝るくらいなら……」
セラフィナの目から、涙が落ちた。
「謝るくらいなら、帰ってきてください。何年も声だけ残して、今さら謝らないで……」
記憶の声は答えない。
わかっていても、言わずにはいられなかった。
『王妃様は、星冠の中央石が偽物へ替えられていることに気づいていました。あの偽石は記憶を蓄える器ではありません。奪った記憶を、カシアンの琥珀の瞳へ送り込むための道です』
国王が身を乗り出した。
『偽石を星冠へ戻せば、王冠に残る王家の魔力が道を完成させます。ルシアン殿下の記憶はすべてカシアンへ移り、戻るための道は焼き切れるでしょう。だから、決して戻してはいけません』
「では、どうすれば」
録音された声に問いかけても返事はない。
それでも、エリーゼの言葉は続いた。
『本物の中央石は、王妃様と私で星冠から外しました。誰にも気づかれないよう形を変え、青い指輪へ移しています』
全員の視線が、銀の台に固定された指輪へ集まった。
『本物の石を星冠へ戻せば、偽石から記憶を呼び戻せます。ただし、星冠はもう、顔や血筋だけではルシアン殿下とカシアンを区別できません』
セラフィナの胸元にある記憶留めが、かすかに光った。
『七つの記憶を集めてください。誰かに命じられた言葉ではなく、自分の意思でルシアン殿下を覚えている者たちの記憶を。王冠が人を選ぶのではありません。人が選び、その選択を王冠に認めさせるのです』
そこでエリーゼの声は弱くなった。
『そしてセラフィナ。伴侶である必要はありません。王妃になる必要もない。あなたが誰かを選ぶとき、肩書きや魔法に選ばされたと思わないで。あなたの人生は、王冠を救うための道具ではないのだから』
セラフィナは唇を噛み、声にならない返事をした。
国王は顔を伏せている。
「王妃は、私に何も話さなかった」
「陛下を守ろうとしたのかもしれません」
ギデオンが言うと、国王は首を振った。
「そうやって美しい話にするな。あれは私を信じられなかったのだ。私が弟を疑いきれないと知っていたから、エリーゼに頼った」
「陛下」
「信じてもらえなかったことには、信じてもらえなかった側の理由もある。私はそれを、妻の優しさだったことにして逃げたくない」
その言葉は、誰より国王自身へ向けられたものだった。
エリーゼの声が完全に消える。
セラフィナは涙を拭い、指輪を固定した爪へ工具を差し込んだ。
「青い石を外します」
「手が震えている」
ルシアンが言った。
「母の最後の仕事です。傷つけたくありません」
「手伝えることは?」
「灯りを持ってください。それから、今は話しかけないでください」
「わかった」
ルシアンは余計な励ましをせず、作業灯を持った。
セラフィナは何度も息を整えながら、石を支える爪を一つずつ起こしていく。
最後の爪が外れた。
青い宝石を持ち上げると、その裏側に七つの星を結んだ紋様が現れた。
本物の星冠中央石。
八年前から、婚約破棄によって返された指輪の中に隠されていた石だ。
その青い光が、ラピスの腹へ伸びる。
ラピスが目を開いた。
「セラフィナ」
今度は、ラピス自身の声だった。
「おなか、熱い」
直後、修復室にあったすべての鏡が黒く染まった。
窓硝子、銀盆、磨かれた工具。光を反射する物の表面へ、琥珀色の目が一斉に浮かぶ。
『見つけたな』
カシアンの声が、部屋中から響いた。
『ありがとう、セラフィナ。これで本物の星石がどこにあるのか、私にもわかった』
宮殿の外から、鏡の割れる音が聞こえた。
一枚ではない。
無数の鏡が、内側から同時に破られていく音だった。
偽石を失ったカシアンが、本物の星石を奪うため、王宮へ入り込もうとしていた。




