第26話 皇太子の記憶を食べた小竜が、本人の恋心を全部しゃべり始めました
「おなか、すいた」
ルシアンの記憶が詰まった偽石をのみ込んだ直後、ラピスは王妃の声でそう言った。
その場にいた全員が、すぐには反応できなかった。
「……ひとまず確認します」
最初に我に返ったノアが、こめかみを押さえながらラピスの前へしゃがみ込んだ。
「今の『おなかがすいた』は、王妃陛下が過去におっしゃった言葉ですか。それとも、ラピス自身の発言ですか」
「ラピス。おなか、ぺこぺこ」
今度は国王の声だった。
「内容と声が一致しないので、ひどく落ち着きませんね」
「感想を言っている場合ですか!」
セラフィナはラピスを両手ですくい上げた。
小さな身体は触れられないほど熱くなっている。青い鱗の下を、いくつもの光が声に合わせて駆け回っていた。
「ラピス、吐き出せませんか? いつも食べすぎたときに、石の欠片を出すことがあるでしょう」
「食べすぎじゃない。まだ食べられる」
「そういう問題ではありません」
「セラフィナ、銀線持ってる?」
「まさか食べるつもりですか?」
「ちょっとだけ」
「駄目です!」
セラフィナが作業鞄を背へ隠すと、ラピスは不満そうに頬を膨らませた。
その口から、今度は幼い少年の笑い声が漏れた。直後に誰かが泣く声へ変わり、さらに王妃の子守歌が重なる。
ルシアンから奪われた記憶が、ラピスの中で混ざり合っている。
「ギデオン先生、どうすれば」
「わかりません」
「そんなにはっきり言わないでください!」
「私は王室宝飾局の職人です。魔石の構造はわかりますが、竜の胃袋から記憶を取り出した経験はありません。むしろ、あるように見えますか?」
「見えませんけれど、少しくらい頼りになることを言っていただきたいのです!」
「では、切腹は避けましょう」
「当たり前です!」
「切るの、やだ」
ラピスが自分の腹を両手で抱えた。
「誰も切りません。絶対に切りませんから」
セラフィナが背中を撫でると、ラピスはようやく少しだけ身体の力を抜いた。
ギデオンは床に膝をつき、銀の義指でラピスの腹部へ触れた。光の流れを確かめるうち、その表情が険しくなる。
「偽石は砕けていません。ただし、表面から少しずつ魔力へ変換されている。竜は宝石をそのまま消化するわけではなく、内部の魔力や記憶を一度ほどいて、自分の力に変えるようです」
「どのくらい猶予がありますか」
「石の大きさだけで考えれば半日。しかし偽石は、もともと他人の記憶を吸収するよう調整されています。ラピスの魔力まで取り込み始めれば、もっと早い」
「ラピス、いつも食べた石はどうなっていますか?」
「おなかの奥で歌になって、最後は火になる」
「その歌を、石へ戻せますか」
「知らない。歌は歌。石はごはん」
ラピスなりに答えようとはしているらしいが、まったく要領を得ない。
「ここで悠長に調べるのは危険です」
ノアが砕けた鏡の向こうを警戒しながら言った。
「カシアンが戻るかもしれません。あの男にとって、ラピスは今や王冠より重要な存在です」
「ラピス、王冠より高い?」
「少なくとも今はそうなります」
「じゃあ、お菓子いっぱい買える?」
「売るつもりはありませんし、王冠を買える額のお菓子を食べれば先に腹が破裂します」
「おなか切るの、やだ」
「ですから誰も切りません!」
こんなときだというのに、同じ会話を何度繰り返しているのだろう。
だが、ラピスがいつも通り食い意地を張っていることに、セラフィナは少し救われてもいた。偽石を食べたせいで性格までルシアンになってしまったら、どう接してよいかわからない。
「安全な場所へ移る」
ルシアンが立ち上がった。
顔色はまだ悪かったが、足元は先ほどより安定している。偽石がカシアンの手を離れ、記憶を奪う力が弱まったためだろう。
「セラフィナ、ラピスを渡せ」
「殿下も回復したわけではありません」
「君は足首を痛めている」
鏡の蔓に巻きつかれた際、ひねっていたらしい。興奮していたため気づかなかったが、指摘されると急に痛みが増した気がした。
「歩けます」
「歩けることと、ラピスを抱えて走れることは別だ」
「殿下に抱かせた状態でカシアンに襲われたら、剣を使えません」
「ノアに持たせる」
「私ですか?」
突然話を振られたノアが、あからさまに嫌そうな顔をした。
「何だ」
「いえ。殿下が迷いなく私へ押しつけるところに、失われていないものを感じただけです」
「嫌ならギデオンに頼む」
「義手の細かな調整に影響が出ます」
ギデオンが即座に断った。
「ラピスは、セラフィナがいい」
「本人もそう申しておりますので、リード嬢にお願いします」
「ノア、君は先ほど、名前を忘れたことに腹を立てていたはずだが」
「それと重労働を引き受けることは別問題です。人間の感情を簡単に一つへまとめないでいただけますか」
「部下の扱いが難しい」
「十三年かけても理解なさらなかったので、今さら急がなくて結構です」
結局、ラピスはセラフィナが抱くことになった。
一行が広間を出ようとしたとき、ラピスの身体が急に跳ねた。
『ノアを辞めさせるなら、私も家庭教師の授業を受けない』
ルシアンの声だった。
しかも今よりずっと幼い。
ノアが足を止める。
「今のは……」
『茶をこぼした程度で辞めさせるなら、父上は食事中にワインを三度こぼしたから、国王を辞めるべきだ』
「殿下」
ノアはルシアンを振り返った。
「覚えていない」
ルシアンは戸惑った顔でラピスを見た。
「君が茶をこぼした記憶も、辞めさせられそうになった記憶もない」
「私も、今の言葉は知りませんでした。当時は侍従長から、王太子殿下のお慈悲で処分を免れたとしか聞かされていません」
「慈悲ではなかったようだな。父上への嫌味に君を利用しただけだ」
「それでも、私には十分です」
ノアは一度、鼻の奥から息を吸った。
「まったく。覚えていない本人へ礼を言うのも妙ですが……ありがとうございました」
「今の私が受け取ってよい礼なのか?」
「こういうときは、黙って受け取ってください。理屈をつけて返されると、こちらの気持ちの置き場がなくなります」
「……そうか。では、受け取る」
ノアは短く頷くと、先に立って通路の安全を確かめ始めた。
知っているつもりだった相手にも、知らないことはある。長くそばにいたからこそ、聞きそびれたこともある。
記憶とは、持ち主一人のものではないのかもしれない。
そんなことを考えていると、セラフィナの腕の中でラピスが大きくしゃっくりをした。
『セラフィナは、怒ると敬語が丁寧になる』
「え?」
今度は、現在のルシアンの声だった。
『普段から丁寧ではあるが、本気で腹を立てると、一語ずつ妙にはっきり発音する。そういうときは謝るべきだとわかっているが、何が間違っていたのか理解できないまま謝ると、さらに怒らせる』
全員の視線が、ルシアンへ集まった。
「私ではない」
ルシアンが言った。
「声は殿下ですよ」
「ラピスの中にある、過去の私だ。今の私ではない」
『怒っている顔も嫌いではない』
「ラピス、いったん口を閉じましょうか」
セラフィナが口元を押さえようとすると、ラピスは嫌がって首を振った。
『ただ、怒らせたいわけではない。できれば笑っていてほしい。笑うとき、少しだけ右の眉が下がる』
「待ってください。本当に待ってください」
「なぜ止める」
ルシアンが、ひどく真面目な顔で訊いた。
「殿下は平気なのですか?」
「平気ではない。私の声で、覚えのない話をされている。だが、私の失った記憶なら聞いておくべきだろう」
「私についての話でも?」
「だからこそ聞きたい」
「私は聞きたくありません!」
「君は石の記憶を聞く仕事をしているのに、自分に都合の悪い声だけ避けるのか」
「これは仕事ではありません。それに、殿下ご自身が口になさらなかったことなら、聞かないほうがよい場合もあります」
「私は許可する」
「今の殿下と、記憶の中の殿下は別人だと、つい先ほどご自分でおっしゃったでしょう」
ルシアンは黙った。
セラフィナも黙り込む。
他人の秘密を守るための倫理を、本人同士が違う方向から主張している。何が正しいのか、もうわからない。
『三か月にしたのは、それ以上だと警戒されると思ったからだ』
ラピスは二人の事情などお構いなしに続けた。
『三か月なら、彼女は仕事として引き受ける。契約を終える頃には、王宮にいることにも、私がそばにいることにも慣れているかもしれない』
「殿下」
「私ではない」
「声は殿下です!」
「だから私も困っている!」
ルシアンが珍しく声を荒らげた。
「私は、そんな不誠実な計画を立てていたのか。契約が終わる頃に慣れているだろうなどと、相手の習慣につけ込んでいるではないか」
「……そこまで悪質ではなかったと思います」
「庇うのか?」
「庇ってはいません。ただ、昔の殿下も、そんなにうまくはいっていませんでした。私が慣れるより先に、殿下のほうが予定を狂わせてばかりでしたから」
『初めて手を握った夜は、眠れなかった』
「ラピス!」
セラフィナが慌てて小さな口を両手で塞いだ。
しかし、今度はラピスの腹から声が響いた。
『手袋越しだったのに、ひどく落ち着かなかった。翌朝、ノアに体調が悪いのかと訊かれた』
「殿下、あの日の寝不足はそれだったのですか」
ノアが振り返った。
「今の私に訊くな!」
「私はてっきり、陛下の毒殺未遂について調べていたのだと」
「私も、できればそちらであってほしかった!」
『彼女の指は冷たかった。温めたいと思ったが、そう言えば嫌がる気がしたので言わなかった』
「……昔の殿下は、もう少し黙っているべきです」
セラフィナが呟くと、ルシアンは複雑そうな顔をした。
「私の知らない私が、君をよく知っている」
「同じ殿下です」
「そう言われても、今の私には他人のようにしか思えない。その男が君の怒り方も、笑うときの眉も、手の冷たさまで知っている。それが腹立たしい」
「ご自分に嫉妬なさっているのですか?」
「そうなるらしい」
「面倒ですね」
「君は私を面倒な男だと言った」
「記憶がなくても、そこは変わりません」
ルシアンはしばらく考え込み、やがて声を落とした。
「先ほど、婚約を終わらせると言ったことは、本心だったのか」
セラフィナはすぐに答えられなかった。
カシアンを見破るための策だったと言えば、簡単だった。
けれど伴侶の印が消えたということは、少なくともあの瞬間、セラフィナは本気でどちらも選ばなかったのだ。
「半分は、カシアンを見分けるためです」
「残りの半分は?」
「私は、殿下を選ぶことと、星冠に殿下の伴侶だと認められることを、同じにしたくありません」
セラフィナはラピスを抱き直した。
「記憶が戻ったから、契約も婚約も元通り。王冠が私を認めたから、私は未来の王妃になる。そうやって先に決められるのは嫌です。殿下の記憶が戻ったあとで、互いにまだ一緒にいたいと思えるのか、きちんと話したいのです」
「では、完全な拒絶ではない」
「今は答えません」
「それは以前の合言葉と同じだな」
「覚えていないのに、都合のよいところだけ理解なさらないでください」
「今の私は、君に改めて求婚する権利があるのか?」
「まず記憶を取り戻してください。あと、北塔から生きて出てください。話はそれからです」
「条件を満たせば、申し込むこと自体は許される?」
「殿下!」
「確認しただけだ」
彼は真面目だった。
冗談で逃げるよりも、よほど性質が悪い。
そのとき、塔の奥から大きな鐘の音が響いた。
一度、二度、三度。
鳴らないはずの四つ目の鐘まで、低く轟いた。
周囲の鏡へ再び光が宿り、通路の形が変わり始める。
「カシアンです。塔ごと閉じるつもりでしょう」
ギデオンが夜星糊を壁へ塗りつけた。
黒い亀裂が走り、その奥から細い階段が現れる。
「こちらへ。古い使用人用の階段です!」
一行は狭い階段を駆け下りた。
セラフィナは痛む足をかばいながら、ラピスを抱いて走る。ルシアンが何度も振り返るため、追われているのはこちらなのに、セラフィナのほうが置いていかれないか心配されている気分になった。
「前を見てください!」
「君が転びそうだ」
「殿下が振り返りながら転ぶほうが困ります!」
「二人とも、走りながら喧嘩するのをやめてください!」
前を走るノアの怒声が反響した。
背後で鏡が砕ける音が迫る。
ラピスの腹から、幼いルシアンの泣き声や、王妃の歌が絶え間なく漏れていた。その中に、ときおりカシアンの笑い声まで混じる。
ようやく北塔の外へ転がり出ると、ギデオンが扉へ夜星糊を叩きつけた。
七つの銀星が浮かび、追ってきた鏡の蔓を封じ込める。
「長くはもちません。宮殿へ戻り、偽石を取り出す方法を考えます」
「星冠の台座へ戻せば、記憶も元へ戻るのではありませんか」
ノアの問いに、ギデオンは首を振った。
「可能性はあります。しかし、伴侶の印が消えた今、星冠がセラフィナ嬢を受け入れるかどうか。それに、偽石がどんな仕掛けを残しているかもわからない」
「ラピスの中にある間なら、私が聞けるかもしれません」
セラフィナは腕の中の小竜へ目を落とした。
「ラピス。おなかの声を聞かせてもらってもいいですか?」
「お菓子三つ」
「わかりました」
「宝石のお菓子」
「普通のお菓子です」
「じゃあ五つ」
「四つで」
「四つ。約束」
こんな状況でも値段をつり上げる程度には、ラピスはラピスだった。
セラフィナは小さな腹へ、そっと指先を触れた。
熱とともに、数え切れないほどの感情が流れ込んでくる。
母を失った痛み。
父へ向けた怒り。
ノアへの信頼。
王冠を背負う孤独。
そしてセラフィナへ抱いた、言葉にしなかった感情。
そのあまりの量に指を離そうとした瞬間、すべての声の底から、一つだけ異質な響きが浮かび上がった。
ルシアンの記憶ではない。
王妃の声でも、カシアンの声でもなかった。
『――セラフィナ』
息が止まった。
忘れるはずがない。
幼い頃、眠れない夜に名を呼んでくれた声だった。
「お母様……?」
ラピスが大きく咳き込んだ。
その口から、八年前に亡くなったエリーゼの声が流れ出す。
『もしあなたがこの声を聞いているなら、偽石は星冠から外れたのでしょう』
セラフィナの指が震えた。
『よく聞いて。ルシアン殿下の記憶を戻すために、その石を星冠へ戻してはいけません』
全員が息をのんだ。
『偽石を台座へ戻せば、奪われた記憶は殿下ではなく――』
そこで声が途切れた。
ラピスの腹の光が消え、小さな身体がぐったりとセラフィナの腕へ沈む。
「ラピス!」
返事はなかった。
残されたのは、母が命を懸けて偽石へ封じた警告だけだった。
ルシアンの記憶を取り戻すはずの方法が、彼を完全に消すための最後の罠だったのである。




