第25話 本物を選ぶため二人とも拒絶したら、小竜が殿下の記憶を食べました
「本物を選べ、セラフィナ」
二人のルシアンが、同じ声でそう告げた。
片方は巨大な鏡の前に立ち、もう片方はセラフィナが入ってきた通路を背にしている。
顔も、背格好も、額に流れる血の位置まで同じだった。手首には夜星糊で描かれた七つの星があり、そのすぐ横には、忘れないために書いたセラフィナの名前まである。
ラピスの鼻も、伴侶の印も二人を見分けられない。
どちらかが本物で、どちらかがカシアンだ。
間違えれば、偽物へ星冠を完成させるための力を渡すことになる。
「質問をします」
セラフィナが言うと、鏡の前にいるルシアンが頷いた。
「何でも聞け」
「ただし、過去の出来事についてではありません。カシアンは殿下の記憶を持っていますから、合言葉や思い出では判断できません」
「賢明だ」
通路側のルシアンが答えた。
声の調子まで同じで、胸の奥が冷えていく。
セラフィナは二人を交互に見た。
「もし、私が間違えたらどうしますか」
「間違えさせない」
鏡の前のルシアンが即答した。
「私を信じろ。君が私へ抱いている感情は、カシアンがいくら記憶を盗んでも奪えない」
「そんな言い方で追い詰めるな」
通路側のルシアンが口を挟んだ。
「セラフィナ、今すぐ選ぶ必要はない。ラピスと一緒に下がれ。私たち二人を塔の外へ出さないよう、ノアたちに伝えるんだ」
「逃げる時間を与えるふりをして、この場へ残るつもりか」
「少なくとも、彼女に責任を押しつけるよりはいい」
「もっともらしいことを。伴侶の印がなければ、カシアンを止められないとわかっているはずだ」
二人が睨み合う。
言葉を交わせば交わすほど、わからなくなる。カシアンはルシアンの記憶を持っているだけでなく、考え方や話し方まで盗み始めている。
宝石の記憶を聞けばよいのではないか。
一瞬そう考え、すぐに捨てた。
カシアンが身につけている偽石には、ルシアンから奪った感情が詰まっている。触れたところで、本物と同じ記憶が聞こえるだけだ。そもそも、石に残る声は客観的な真実ではない。誰かがそう感じたという、偏った欠片でしかない。
「セラフィナ、迷うな」
鏡の前にいるルシアンが、もう一度手を差し出した。
「君は星冠の間で私を選んだ。王冠ではなく、面倒な男である私自身を選ぶと言っただろう」
「ええ。申し上げました」
「ならば、その気持ちを信じろ」
正しい言葉だった。
とても正しく、だからこそセラフィナは違和感を覚えた。
あのときのルシアンは、自分を選べとは言わなかった。むしろ記憶を失った状態で誓いを求めることが、セラフィナの意思を利用する行為にならないかと悩んでいた。
彼は冷たい人ではない。
優しい人でもない。
相手を守ろうとして勝手なことをするし、自分が正しいと思えば人の意見を聞かない。けれど相手が明確に嫌だと言ったとき、その嫌だという言葉を踏み越えてまで従わせる人ではなかった。
少なくとも、セラフィナが知るルシアンは。
「決めました」
二人の表情が同時に緊張した。
セラフィナは差し出された手を取らず、自分の掌にある伴侶の印を胸元へ引き寄せた。
「私は、どちらも選びません」
青い星の光が揺らいだ。
「何を言っている」
鏡の前にいるルシアンが眉を寄せた。
「偽の婚約は、これで終わりにします。正式な婚約についても撤回します。私は王家の伴侶ではありませんし、王冠を完成させるための鍵にもなりません」
「待て。君は意味を理解していない」
「理解しています。私は王冠より殿下を選びました。ですが、それは王冠のために殿下を選ばなければならないという意味ではありません。今ここで選択を強要されるなら、私は自分自身を選びます」
伴侶の印から、青い光が消え始めた。
セラフィナは二人へ向けて、はっきりと命じた。
「どちらも、近づかないでください」
鏡の前のルシアンが一歩踏み出した。
通路側のルシアンも反射的に手を伸ばしかけたが、セラフィナの言葉を思い出したように、その場で動きを止めた。
「わかった」
通路側のルシアンは、苦しそうに答えた。
「それが君の選択なら、受け入れる。ただし、ここは危険だ。婚約者でなくなったとしても、君を一人で歩かせるつもりはない。ラピスと出口へ向かえ。私は――」
「ふざけるな!」
鏡の前のルシアンが怒鳴った。
整った顔が初めて激しく歪んだ。
「あと少しで完成するのだぞ! お前の印が消えれば、星冠は――」
言葉の途中で、彼自身も気づいたらしい。
セラフィナは袖の中に隠していた小瓶を取り出し、男の顔へ投げつけた。
夜星糊が頬から首へ飛び散る。
男の顔に、黒い亀裂が走った。
銀色だった髪が焦げるように色を失い、片方の青い瞳が琥珀色へ変わる。皮膚の下から、別人の顔が浮かび上がった。
「カシアン」
セラフィナが名を呼ぶと、男は憎悪を隠そうともしなかった。
「こんな子ども騙しで、私を試したつもりか」
「いいえ。殿下を試しました」
セラフィナは通路側に立つ、本物のルシアンへ目を向けた。
「私が嫌だと言ったときに、それでも自分を選べと迫る人ではありません。守るために閉じ込めようとはしますし、勝手に危険から遠ざけようともしますが、最後には嫌がっていることを理解しようとする人です」
「それは褒めているのか?」
ルシアンが訊いた。
「事実を申し上げています」
「欠点しか聞こえなかった」
「殿下の長所は、欠点の裏側へ面倒な形でついているのです」
「そうか。戻ったら、そのあたりをもう少し丁寧に説明してほしい」
「帳簿にして提出します」
「ノアの悪影響を受けていないか?」
記憶を失っても、こうして言い返してくる。
その面倒さに、セラフィナは泣きたいほど安堵した。
「ずいぶん満足そうだな」
カシアンの声が、低く響いた。
顔の半分はルシアンのまま、もう半分は琥珀の瞳を持つ本来の姿へ戻っている。偽石の力と夜星糊がせめぎ合い、その境目が絶えず揺れていた。
「拒絶されて喜ぶとは、ルシアンも変わったものだ」
「喜んではいない」
ルシアンは剣を構えながら答えた。
「あとで二百枚を請求される可能性がある」
「婚約を一方的に解消した場合の慰謝料です。今回は私から解消したので請求しません」
「そうなのか」
「少し残念そうになさらないでください」
「記憶にない契約とはいえ、君に払うべきものを払わないのは落ち着かない」
「その律儀さを、もっと別のところへお使いください」
「いつまでくだらない話をしている!」
カシアンが手を振り上げると、周囲の鏡から無数の銀色の刃が飛び出した。
ルシアンがセラフィナを抱えて床へ転がる。
刃は二人の頭上を通り過ぎ、背後の石壁へ突き刺さった。
「今のは近づかないでくださいという命令に反します」
ルシアンの胸へ押しつぶされながら、セラフィナが言った。
「婚約は解消されたのだろう。命令に従う契約も失効した」
「そういうときだけ都合よく解釈しないでください!」
「苦情はあとで聞く」
「あとで、忘れていなければよいのですが」
「それなら何度でも言ってくれ」
ルシアンはセラフィナを立たせ、自分はカシアンとの間へ入った。
「君に言われることなら、何度でも覚え直す」
「そういうことを、戦っている最中におっしゃらないでください」
「なぜだ」
「集中できません!」
「二人とも、今それやる?」
床へ伏せていたラピスが、呆れた顔で見上げていた。
カシアンは笑わなかった。
「なぜだ」
彼の口から漏れたのは、怒りというよりも、理解できないものを前にした子どものような声だった。
「なぜ拒絶した女を守る。あれはお前を選ばなかった。伴侶の印を消し、王冠を捨てた。お前が生き残る道まで閉ざしたのだぞ」
「彼女には、その権利がある」
「そんなものを認めて、何が残る」
「私が残る」
「そのお前は、もうほとんど空ではないか!」
カシアンは自分の胸元にある偽石をつかんだ。
「母の顔も、声も、友人と過ごした時間も、愛した女へ抱いた気持ちも、すべてここにある。今のお前に何が残っている。名前を手首へ書かなければ、目の前の女さえ覚えていられない男が!」
ルシアンは答えなかった。
答えられないのではない。
カシアンの言葉が事実であると、認めているのだ。
「それでも、殿下です」
セラフィナが代わりに答えた。
「記憶が人を作ることは否定しません。でも、それだけではありません。奪われたあとに何を選ぶかも、その人を作ります」
「きれいごとだ」
「そうかもしれません。私は学者ではありませんし、人間の魂が何でできているかなど知りません。ただ、あなたが欲しいのは殿下の記憶ではありません」
カシアンの琥珀色の瞳が細くなった。
「何だと?」
「あなたは、誰かに自分を選んでほしいのです。カシアンとして選ばれなかったから、ルシアン殿下になれば選ばれると思っている。私に殿下だと認めさせれば、王家も魔法も、あなたを本物にしてくれると考えた」
「黙れ」
「あなたが必要としているのは、私ではありません。石の声を聞く私が『この人は本物です』と証言することです。あなたは私に愛されたいのではなく、鑑定書を書いてほしいだけです」
「黙れ!」
鏡が一斉に砕けた。
飛び散る破片の中を、カシアンが剣を抜いて踏み込んでくる。ルシアンがその刃を受け、甲高い金属音が広間へ響いた。
二人の顔はまだ半分ほど同じだった。
同じ足運びで斬り結び、互いの癖を知り尽くしたように刃をかわす。カシアンにはルシアンの剣の記憶があり、ルシアンの身体には長年身につけた動きが残っている。
「私は、最初から選ばれなかった!」
剣を押しつけながら、カシアンが叫んだ。
「母は兄上を王にしたがり、臣下はルシアンを次代の王と呼んだ。私が死んだとされたとき、国は安堵した。兄上でさえ、私の鏡を引き出しへ隠し、弟など存在しなかった顔で王座に座り続けた!」
「だから他人の人生を奪うのですか」
「他人ではない。王家の血も、魔力も、私にある。私は最初から、少し立つ場所を間違えただけだ!」
「その少しのために、何人殺したのです」
「数えていない」
「それでは誰にも選ばれません」
セラフィナの言葉に、カシアンの剣が鈍った。
ルシアンがその隙を逃さず、相手の手首を蹴り上げる。
剣が床を滑った。
だがカシアンは、胸元の偽石を強く握り締めた。石から青い光があふれ、ルシアンの首にある記憶留めが引かれるように浮かび上がる。
「ぐっ……!」
ルシアンが片膝をついた。
「殿下!」
「来るな!」
彼の顔から血の気が引いていく。
記憶留めに収められた七人分の声が、偽石へ吸い寄せられていた。
「その首飾りで、いつまで耐えられると思った?」
カシアンがルシアンの髪をつかみ、顔を上げさせた。
「今度こそ空にしてやる。名前も、役目も、女を守ろうとした今の気持ちも、すべて私が引き受ける。心配するな。お前より上手に使ってやる」
「やめなさい!」
セラフィナは月長石を握り、王妃の子守歌を響かせた。
『眠れ、眠れ、青い鳥――』
偽石が激しく明滅した。
母の歌へ反応し、偽石の中で何かが暴れている。ルシアンから奪った記憶が、歌声を聞いて元の持ち主へ戻ろうとしているのだ。
「何をした!」
「記憶は、あなたの所有物ではありません!」
カシアンが偽石を押さえるため、ルシアンから手を離した。
その隙にセラフィナは駆け寄ろうとしたが、床から伸びた鏡の蔓が足首へ巻きついた。
転倒したセラフィナの手から、月長石が落ちる。
「セラフィナ!」
ルシアンが立ち上がろうとするものの、身体に力が入らない。
カシアンの手が、セラフィナへ伸びた。
「印が消えたなら、もう一度選ばせればいい。お前が私をルシアンと呼び、伴侶として選べば――」
「セラフィナに、さわるな!」
青い影が飛んだ。
ラピスがカシアンの手へ噛みついたのである。
「この、獣が!」
振り払われたラピスの小さな身体が、床を転がる。それでもすぐに起き上がり、今度はカシアンの胸へ飛びついた。
「悪い石! みんな泣いてる!」
「やめろ!」
ラピスが偽石を留めていた銀鎖へ牙を立てた。
鎖が切れる。
青と琥珀の光を放つ偽石が宙へ飛び、床へ落ちる前に、ラピスが大きく口を開けた。
「ラピス、待って! それは食べてはいけません!」
制止は一瞬遅かった。
偽石が、小竜の口へ入る。
ごくり、と喉が動いた。
全員が動きを止めた。
「……食べた」
ラピスは自分でも信じられないように、両手で腹を押さえた。
「ラピス!」
「だって、石、落ちたから。ラピス、石は落ちる前に食べる」
「その習慣を今すぐ改めなさい!」
「腹の中から、いっぱい喋る。うるさい」
ラピスの鱗の下で、青い光が明滅した。
小さな身体が宙へ浮き上がる。口から王妃の子守歌、ノアの笑い声、国王の叱責、そしてセラフィナ自身の声が、ばらばらに漏れ始めた。
「吐け!」
血相を変えたカシアンが、ラピスへ手を伸ばした。
「その石を今すぐ吐き出せ! それは私の――」
「あなたの物ではありません!」
セラフィナがカシアンの腕へしがみついた。
直後、広間を隔てていた鏡の壁が黒く染まり、外側から砕け散った。
「殿下!」
夜星糊をつけた槌を手にしたギデオンと、剣を抜いたノアが飛び込んでくる。
「ずいぶん捜しましたよ。あと、記憶をなくしたからといって、勝手に先へ行かないでいただけますか!」
「ノア」
床へ片膝をついたまま、ルシアンがその名を呼んだ。
「今のところ、銀貨は不要です」
「それは何よりです!」
カシアンは砕けた鏡の中へ飛び込み、姿を消した。
ノアが追おうとしたが、ギデオンが止める。
「今は竜を! 偽石が体内で砕けたら、記憶を取り出せなくなる!」
ラピスがふらつきながら床へ降りた。
「セラフィナ」
小さな口から聞こえたのは、ラピスの幼い声ではなかった。
ルシアンの声だった。
「三か月後も?」
セラフィナは息をのんだ。
目の前には、記憶を失った本物のルシアンがいる。
その一方で、小さな竜の腹の中には、彼が失った過去がすべて入っている。
「ラピス、それを吐き出せますか」
「わかんない」
今度は王妃の声で、小竜が答えた。
「でも、おなか、すいた」
最悪の答えだった。
ラピスは宝石を食べる。
そして食べた宝石は、時間をかけて魔力へ変えてしまう。
ルシアンの記憶は今、食いしん坊の小竜に消化されようとしていた。




