第24話 同じ顔の皇太子が二人、私に「本物を選べ」と言いました
差し出されたルシアンの手を取ったまま、セラフィナは北塔へ向かうつもりでいた。
ところが、星冠の間を出る前に、彼のほうからその手を離した。
「やはり君は残れ」
「……先ほどの、たいへん立派な決意は何だったのですか」
「決意と判断は別だ。カシアンの目的に君が必要だとわかった以上、連れていく理由がない」
「伴侶の印が必要なら、私が行かなければカシアンが諦めるとお思いですか? 宮殿へ取りに来るだけです」
「その場合は、こちらの用意した場所で迎え撃てる」
「殿下の記憶がすべて消えるまで、宮殿で待つのですか」
ルシアンは答えなかった。
セラフィナも引かなかった。
彼が失ったものを取り戻すためなら、怖くない――などと言うつもりはない。怖いものは怖い。北塔が罠であることなど、誰に指摘されなくてもわかっている。
「私は行きたくて行くのではありません」
「なら、残ればいい」
「そういう意味ではありません。足は震えていますし、できることなら自室へ戻って毛布をかぶりたいです。ラピスと一緒に菓子を食べて、全部終わった頃に誰かから知らせてもらいたい。でも、そうして待っているうちに、殿下がまた私の名前を忘れるかもしれないでしょう」
「忘れても、書いてある」
ルシアンは自分の手首を見せた。そこには彼自身が書いたセラフィナの名前が残っている。
「名前を読めることと、私を知っていることは違います」
「それでも君が死ぬよりはいい」
「私は、死にに行くとは申し上げていません」
「危険な場所へ行く人間は、だいたい同じことを言う」
「危険な場所へ向かおうとしている殿下が、それをおっしゃいますか?」
「私は自分の記憶を取り戻しに行く。君は違う」
「違いません。殿下が私を忘れたら、私の記憶も半分ほど行き場をなくします。思い出というのは、一人で持っていれば完全なものではないのです」
それを口にしてから、セラフィナは少し後悔した。
まるで愛の告白のように聞こえる。だが、きれいな意味だけで言ったわけではない。
「殿下に忘れられると、私一人がいろいろ覚えている、ひどく割に合わない状態になります。言われて腹が立ったことも、困らされたことも、こちらだけが覚えているのですよ。そんなのは嫌です。苦情を申し立てても、殿下は『記憶にない』の一言で済ませるのでしょう?」
「私は、そのような卑怯なことをしていたのか」
「まだされていませんが、これからなさる可能性があります」
「起きてもいないことで責められている気がする」
「それだけ殿下には前科が多いのです」
「記憶がない以上、否定しにくいな……」
ルシアンは困ったように黙り込んだ。
自分を守ろうとする気持ちはありがたい。だが彼は、守ろうとするあまり、相手から選ぶ権利を取り上げることがある。
それを指摘すると、過去の彼は不機嫌になった。今の彼も、よく似た顔で不機嫌になっている。
「一つ、約束してください」
セラフィナは言った。
「私を置いて、一人で犠牲になるような真似はしないと」
「それは君も同じ条件だ」
「私はそのような真似をしません」
「君は先ほど、石の記憶を読んで血を流したばかりだ」
「あれは仕事中の事故です」
「そう言えば、無謀な行為が事故になると思っているのか?」
「殿下こそ、王太子の責務と言えば何でも許されると思っていらっしゃいます」
「では、互いに勝手な犠牲は禁止だ」
「状況によっては、相談する時間がないかもしれません」
「最低でも五秒は相談しろ」
「五秒で何を相談するのですか」
「『私は今から馬鹿なことをするが止めるな』と言う時間はある」
「それは相談ではなく宣言です」
「君の場合、先に言うだけでも進歩だ」
「記憶を失っても、私への評価は失礼なままなのですね」
「そこは新しく判断した」
腹が立つのに、少し安心する。
面倒な男は、記憶を失ってもやはり面倒な男だった。
「話はまとまりましたか」
二人の言い合いが途切れたところで、ノアが北塔周辺の古い見取り図を広げた。
「少人数で行くべきです。北塔の内部は鏡晶石を使った通路が多く、兵を増やすほど、誰が本物かわからなくなる危険が高まります。私とギデオン殿、それからラピス。国王陛下には宮殿に残っていただき、外側を近衛隊で封鎖してもらいます」
「わかった。ノ――」
ルシアンの声が、不自然に止まった。
ノアは見取り図から顔を上げた。
「どうなさいました?」
「……すまない。名前が出てこない」
一瞬だけ、ノアの表情から何もかもが消えた。
いつもの軽口も、呆れたような笑みもない。彼はただ、長く仕えてきた主の顔を見つめていた。
「ノアです」
「ああ」
「殿下が十三歳の頃から仕えています。初めてお会いした日に、私は緊張のあまり殿下の靴へ茶をこぼしました。殿下はその場では気にするなとおっしゃったのに、三日間、私を見るたびに足を引かれました」
「私は、ずいぶん性格が悪かったらしい」
「過去形にするのは早いかと」
いつものノアらしい答えだった。
だが、声には隠しきれない固さがあった。
「申し訳ない」
「それも困ります」
「謝罪も許されないのか」
「記憶がないからといって、初対面の部下へするような顔で謝られるのは腹が立ちます。殿下のせいではないと理解していますし、殿下を責めるつもりもありません。それでも、私が十三年かけて積み上げたものを、カシアンが勝手に持っていったことまで『仕方がない』と笑って済ませられるほど、私は出来た人間ではありません」
ノアは息をつき、指先で見取り図の端を押さえ直した。
「私は今、かなり怒っています。殿下にではなく、カシアンにです。ただ、殿下の顔を見ると腹が立つので、少し殿下にも怒っている気がします。理不尽なのは承知していますが、感情は帳簿のようにきれいに仕分けられません」
「なら、怒っていてくれ」
ルシアンは静かに答えた。
「戻ったあとで、私が忘れたことを教えてほしい。よいことだけでなく、君が腹を立てたことも含めて」
「それはたいへん長くなります」
「そうなのか」
「帳簿が三冊あります」
「本当に帳簿をつけているのか?」
「まさか」
ノアはそこで少し間を置いた。
「五冊です」
「ノア」
「はい」
ルシアンは、確かめるように彼の名を呼んだ。
「今は覚えた」
「忘れたら、その都度教えます。ただし、六度目からは一回につき銀貨一枚いただきます」
「高くないか?」
「大切な名前ですから」
冗談の形を借りなければ言えない言葉もある。
ルシアンはそれ以上謝らず、ノアも笑って許したふりをしなかった。それでよいのだと、セラフィナは思った。
ギデオンが一行の手首へ、夜星糊で七つの小さな星を描いた。鏡晶石による変身を完全に防げるわけではないが、借り物の顔を固定しにくくする効果があるという。
最後にルシアンの手首へ筆を当てたとき、彼の肩がわずかに揺れた。
「痛むのですか?」
「いや」
「ギデオン先生」
「かなり痛みます。熱した針を押しつける程度には」
「先生」
「私は職人ですので、品物の効能を大げさにも小さくも申し上げません」
セラフィナが睨むと、ルシアンは何でもないように袖を戻した。
「君も先ほど、大丈夫だと言っただろう」
「痛みに痛みを返すのは、子どもの喧嘩です」
「私には子どもの頃の記憶がない。今から経験しておいたほうがいい」
「そういう経験は不要です」
「二人とも、出発前から疲れること言う」
ラピスが銀線を噛みながら呟いた。
「あと、それ食べるな!」
「まずい。返す」
「口から出して返さないで!」
緊張していたノアが、とうとう吹き出した。国王まで口元を押さえている。
笑いが収まると、国王は杖を支えに立ち上がった。
「私も行く」
「父上は残ってください」
「カシアンは私の弟だ。私が終わらせるべきだろう」
「八年前にも同じことを言って、毒を盛られたのではありませんか」
「記憶がないわりに、嫌な事実はよく覚えているな」
「国王としての記録は残っていますから」
「私に宮殿で待っていろと? またお前を一人で行かせろと言うのか」
「一人ではありません」
ルシアンはセラフィナたちを見た。
「それに父上が来れば、私は敵だけでなく、無理をして倒れそうな父親まで気にしなければならない。率直に言って邪魔です」
「もう少し言い方があるだろう」
「今の私は父上との適切な会話を忘れているようです」
「お前は昔からこうだ」
国王は不満そうに言いながらも、反論はしなかった。
「父上には、ここでやることがあります」
「何だ」
「私が戻ったら、母上の話の続きをしてください」
「戻らなかったら?」
「国王として国を守る。それくらいは、私より長く王をしてきたのだからおわかりでしょう」
「どちらも、私には酷な役目だ」
「私にそういう役目を与えてきたのは、父上です」
国王は苦笑した。
「本当に、嫌なところばかり残っている」
「残っているのではありません。今の父上を見て、新しく言っています」
「なお悪いな」
親子は抱き合わなかった。感動的な言葉で過去を水に流すこともしなかった。
ただ国王は、北塔を示す古い懐中鏡をルシアンへ手渡し、その手を一度だけ強く握った。
「戻れ。話していないことが、まだ山ほどある」
「命令ですか」
「父親からの頼みだ」
「……努力します」
それが今の二人にできる、精いっぱいの約束だった。
◇
北塔へ向かう頃には、空がわずかに白み始めていた。
十五年前の火災以来、北側の庭園は閉鎖されている。手入れされなくなった生垣は人の背丈を越え、枯れた蔓が黒い鉄柵へ指のように絡みついていた。
懐中鏡の裏にはめられた琥珀が、進むべき方向を示すように明滅している。
「右、カシアンの匂い」
セラフィナの肩に乗ったラピスが鼻を鳴らした。
「左にもカシアン。前にもいる。みんなちょっとずつルシアン。気持ち悪い」
「正直な感想だな」
「でも、この古い琥珀の匂いは右。こっちは誰の顔もつけてないカシアン」
ラピスに従い、崩れかけた回廊を抜ける。
やがて木々の間から、焼け焦げた北塔が姿を現した。
外壁の半分は黒いままだった。窓には硝子の代わりに鏡晶石がはめ込まれ、昇り始めた朝の光を鈍く反射している。
「歓迎されているようですね」
ノアが扉を見上げた。
十五年間閉ざされていたはずの扉は、わずかに開いていた。
ルシアンが剣を抜き、先頭に立つ。セラフィナが続き、その後ろへギデオンとノアが入った。
塔の内部は、外から見たよりも広かった。
壁一面に鏡が張られている。そのどれにも一行の姿は映らず、見知らぬ光景が浮かんでいた。
幼いルシアンが、母親らしき女性の膝で眠っている。
少年のノアが机へ突っ伏し、その肩へ若いルシアンが黙って外套をかけている。
青い指輪を修復するセラフィナを、工房の入口から見つめているルシアン。
「……これは」
『彼が失った記憶だよ』
カシアンの声が、すべての鏡から響いた。
『本人に返す前に、君たちにも見せてあげようと思ってね。記憶というのは面白い。口では言わなかったことまで、実に素直に残っている』
「姿を見せろ」
ルシアンの声に、鏡の中の彼が一斉に笑った。
『急ぐな、甥よ。君は彼女へ、自分が何を思っていたか知りたくはないのか?』
鏡の中で、工房のセラフィナが振り向いた。
髪は乱れ、頬には研磨剤の白い粉がついている。華やかな令嬢とは程遠い姿だった。
『彼女の顔より、最初に手を見た。細かな傷だらけで、指先は薬品に荒れていた。その手なら、嘘で飾られた王冠を壊してくれるかもしれない――そう思った』
「聞く必要はない」
ルシアンが鏡とセラフィナの間へ立った。
「それが私の記憶だとしても、今の私が口にした言葉ではない」
『おや。都合の悪い過去は自分ではないと言い張るのか』
「記憶は事実そのものではありません」
セラフィナは鏡の中のカシアンへ言った。
「その瞬間に抱いた感情の欠片です。殿下がそう思ったとしても、今の殿下を縛るものにはなりません」
『相変わらず厳密だ。恋をしていた証拠を見せられても、喜んではくれないのか』
「証拠にはなりません。それに、本人が忘れていることを勝手に皆の前で話す人は嫌いです」
『私の中にある以上、もう私の記憶だ』
「盗んだ物を持っているだけで、持ち主になれるなら、世の中から窃盗罪はなくなります」
複数の鏡に映るカシアンの笑みが消えた。
「セラフィナ、あまり挑発するな」
「腹が立ったので」
「君は怒ると、身の安全を忘れるのか」
「殿下は怒っていなくても忘れます」
『なるほど。ルシアンが惹かれた理由がよくわかる。君たちは、互いの嫌なところがよく似ている』
「カシアンにだけは言われたくありません」
その瞬間、塔全体が大きく揺れた。
床の隙間から鏡晶石が伸び、ルシアンとセラフィナの間を切り裂くように壁を作る。
「セラフィナ!」
ルシアンが腕を伸ばした。
セラフィナも手を伸ばしたが、指先が触れる直前に鏡の壁が閉じた。
「殿下!」
鏡の向こうでルシアンが剣を振り下ろす。しかし刃は鏡面へ沈み込み、別の鏡から飛び出して壁を傷つけた。
「セラフィナ、そこを動くな! すぐに――」
声まで遠ざかり、鏡の中へ吸い込まれていく。
セラフィナの側に残されたのは、肩へしがみついたラピスだけだった。
「一人にしない約束、五分で破った」
「私が破ったのではありません!」
「カシアンに苦情言う?」
「生きて会えたら、まとめて言います」
懐中鏡の琥珀が、塔の奥へ向かって強く輝いた。
罠だとわかっている。それでも、立ち止まっていればルシアンの記憶は奪われ続ける。
セラフィナは夜星糊の印がある手首を握り、細い通路を進んだ。
やがて、円形の広間へ出た。
天井まで届く巨大な鏡の前に、ルシアンが立っている。
「殿下!」
「来るな、セラフィナ」
彼の額には血がにじみ、右手には剣が握られていた。手首には夜星糊で描いた七つの星がある。
「カシアンが近くにいる。私から離れるな」
ルシアンが左手を差し出した。
セラフィナが一歩踏み出したとき、背後から足音が聞こえた。
「その男から離れろ、セラフィナ」
振り向いた先にも、ルシアンがいた。
同じ顔。同じ声。同じ額の傷。
同じ剣を握り、手首には同じ七つの星が描かれている。
「そちらがカシアンだ」
後から現れたルシアンが言った。
「鏡の壁が閉じたあと、私の姿を奪って先回りした」
「嘘だ。そいつは君が来る直前に鏡から出てきた」
最初のルシアンが言い返した。
「セラフィナ、私を見ろ。君は先ほど、勝手な犠牲を払わないと約束させた。最低でも五秒は相談すると」
「それはカシアンも鏡を通して聞いていた!」
もう一人が声を荒らげた。
「私の手首を見ろ。君の名前が書いてある」
「見える場所にある印など、いくらでも写せる。夜星糊の印を確認しろ。ギデオンが――」
「それも同じです」
セラフィナは掠れた声で遮った。
二人の手首には、まったく同じ七つの星がある。夜星糊の銀粉まで、同じように瞬いていた。
「匂いは?」
セラフィナが小声で尋ねると、ラピスは困ったように鼻を鳴らした。
「どっちもルシアン。どっちもカシアン。悪い石が、二人の間で混ざってる」
セラフィナの掌にある伴侶の印が熱を帯びた。
右のルシアンへ向けても、左のルシアンへ向けても、同じように青く輝く。
星冠の魔法さえ、二人を区別できなくなっていた。
「セラフィナ。私を信じろ」
一人が言った。
「信じるな。記憶ではなく、今の私を見て選べ」
もう一人が言った。
それは、星冠の間で本物のルシアンが口にした言葉だった。
二人が同時に手を差し出す。
同じ顔が、同じ青い瞳でセラフィナを見つめた。
「本物を選べ、セラフィナ」
二人の声まで、完全に重なった。
合言葉も、母の歌も、伴侶の印も、すでに奪われている。
間違えれば、セラフィナは自分の手で偽物へ星冠を渡すことになる。




