第23話 母の声を忘れた皇太子に、亡き王妃の子守歌を教えました
「……誰が、歌っている?」
星冠から失われた偽石。その空の台座を見つめたまま、ルシアンは尋ねた。
ひどく静かな声だった。
セラフィナはすぐに答えられなかった。答えを口にした瞬間、彼が本当に失ったものまで確定してしまう気がしたからだ。
それでも、嘘をつくわけにはいかない。
「亡き王妃陛下です。殿下のお母様の声です」
「……母上の」
ルシアンは眉を寄せた。
驚きも、悲しみも、その顔には浮かばなかった。ただ知らない曲名を教えられた人のように、もう一度、かすかな歌へ耳を澄ませている。
「母上が八年前に殺害されたことは覚えている。北方公爵家の出身で、王立慈善院の設立に尽力したことも、青い瞳だったことも知っている。だが――」
彼はそこで言葉を切り、自分のこめかみへ指を当てた。
「声がない。笑った顔も、怒った顔もない。思い出そうとすると、公式肖像画の女がこちらを見ている。あれは母上ではない。いや、母上なのだろうが……私の母ではない」
「ルシアン」
国王が名を呼んだ。
その声が震えていたからだろう。ルシアンは父へ目を向けたものの、慰めるような言葉は口にしなかった。
「父上。母上は、どんな人でしたか」
「どんな、と言われても……気高く、慈愛に満ちた人だった。民を思い、王家の責務を――」
「それは追悼式で父上が読んだ文章です」
ルシアンはきっぱりと遮った。
「碑文に彫られた女の説明なら、私もできます。そうではなくて……薬を飲むときに嫌な顔をしたのか、朝は機嫌が悪かったのか、私を本気で叱ったことがあったのか。そういうことを訊いています」
国王は口を閉じた。
王妃のことを語れと言われたのに、最初に出てきたのが王妃としての姿だった。その事実に、自分自身で傷ついたような顔をしていた。
「気は短かった」
やがて国王が言った。
「とくにカードで負けたときはひどい。自分で決めた規則なのに、負けそうになると『その規則は今の手には不公平だ』と言い出した。三度に一度は札を袖へ隠していたし、見つけると、私が細かすぎると逆に腹を立てた」
「……母上が、いかさまを?」
「ああ。弱かったからな。いかさまをしても、だいたい負けた」
国王の口元に、ごく薄い笑みが浮かんだ。
「苦い薬も嫌いだった。侍女の目を盗んで鉢植えへ捨て続け、王妃の居室だけ妙に草花が枯れるので庭師が悩んでいた。足が冷えると言って、冬になると寝台の中で私の脚に足を押しつけてきた。冷たいと文句を言えば、『妻が凍えているのに自分だけ温かく眠るつもりですか』と叱られた」
「公式肖像では、いつも白百合を持っています」
「あれは白百合の香りが苦手だった。最初の肖像を描いた画家が勝手に持たせたのだ。それが王妃の象徴として定着してしまい、式典のたびに白百合を抱えさせられていた。肖像画の微笑みが少し引きつっているのは、そのせいだ」
セラフィナは思わず、記憶の中の王妃の肖像を思い浮かべた。誰もが慈愛に満ちた微笑みだと評していたが、そう聞いてしまえば、確かに少し腹を立てているようにも見える。
「お前を叱るときは早口になった。あまりに早口になるものだから途中で舌を噛み、自分で笑ってしまう。すると、お前が『笑うなら最初から叱らないでください』と、余計に怒るのだ」
「私が?」
「お前は昔から、怒っている最中に相手が笑うのを嫌った。馬鹿にされたと思うらしい」
「……それは、今も嫌です」
「そうか。そこは残っているのだな」
国王は笑いかけ、けれど途中で笑うことをやめた。
残っているものを喜べば、失われたものの大きさまで認めることになる。親子そろって、それをどう扱えばいいのかわからないらしい。
「母上は、私を何と呼んでいましたか」
「人前ではルシアンと。二人きりのときは、青い鳥と呼んでいた」
「なぜ鳥なのです」
「お前は赤子の頃、青いリボンを握らせると泣きやんだ。それであれが、『青い鳥を捕まえたから、今夜は幸せが逃げない』と言ったのが始まりだった」
ルシアンは何かを探すように目を閉じた。
しかし、見つからなかったのだろう。しばらくして開かれた瞳には、行き場のない苛立ちだけが残っていた。
「なぜ、今まで話してくださらなかったのですか」
「お前が、訊かなかったからだ」
答えた直後、国王は顔をしかめた。
「いや。今のは、言ってはならない言葉だった」
「十一歳で母親を亡くした子どもに、自分から訊けと?」
「すまない」
「謝ればよいという話でもありません。父上はずっと、母上を立派な王妃としてしか語らなかった。私が覚えているのも、国民が知っている母上と同じです。父上だけは、違う母上を知っていたのに」
「ああ。私は隠した。語れば、あれがもういないことまで本当になってしまう気がした」
国王の手が、杖の柄を強く握り締めた。
「私はお前の前で、父親であるよりも、妻を失った男でありすぎた」
「きれいに言い換えないでください。父親であることから逃げたのでしょう」
「……そうだ」
弁解はなかった。
ルシアンも許すとは言わなかった。
血を分けた親子だから何も言わなくてもわかり合えるなどというのは、家族に夢を見すぎた人間の作り話なのだろう。わかり合えないうえに、他人より遠慮なく傷つけられる。それでも簡単には縁を切れないから、家族は面倒なのだ。
「人間の親子、めんどくさい」
ラピスが空気を読んだのか、読まなかったのか、セラフィナの肩から口を挟んだ。
「石なら割れたら、割れたって見える。人間、割れても服着て、偉そうにする」
「ラピス、陛下と殿下に向かって――」
「否定できないから、叱りにくいな」
ギデオンを制したのは国王だった。
ルシアンは小さく息を吐くと、再び空の台座へ視線を戻した。
「母上の声を、残せるか」
「完全な記憶として戻すことはできません」
セラフィナはあえて先に告げた。
「音を別の石へ写すことはできます。でも、それを何度聞いても、殿下が過ごした時間そのものが戻るとは限りません。これは記憶の代わりではなく、帰り道の目印です」
「君は、こういうときにも夢のある言い方をしないな」
「職人が品物の効能を大げさに説明すると、あとで苦情が来ますから」
「王太子からの苦情は面倒そうだ」
「たいへん面倒です。ですので先に、できないことはできないと申し上げます」
ルシアンはほんの少し口元を緩めた。笑ったというほどではない。それでも、記憶を失ってから初めて彼自身の温度が戻ったように見えた。
ギデオンが作業鞄から、小指の先ほどの月長石を取り出した。
「響きを移すなら、これを。透明度は高くありませんが、そのぶん他の記憶が混ざっていない」
「ありがとうございます」
月長石を受け取ったセラフィナは、空の台座へ手を伸ばす前にルシアンを見た。
「殿下。王妃陛下の声を聞かせていただいてもよろしいですか」
「なぜ私に許可を求める。母上の声は、私の所有物ではない」
「王妃陛下の公的な演説なら、そうかもしれません。でも、これは殿下へ歌われた子守歌です。お二人の間にあったものを、私の判断だけで覗きたくありません」
「では、私にも許可を求めるべきではないか」
国王が言った。
冗談ではないらしい。少し拗ねた顔をしている。
「もちろん陛下にもお願いします。ただし、聞こえたものすべてをお伝えするとは限りません。歌以外の私的な言葉が残っていた場合は、私のところで止めます」
「私は夫だぞ」
「亡くなられた方にも秘密はあります」
「……厳しいな、リード嬢は」
「父上。私には、もっと厳しいそうです」
「それなら公平だ」
ようやく二人の許可を得て、セラフィナは空の台座へ指先を触れた。
冷たさが爪の奥へ入り込んだ。
その直後、誰かの手に包まれるような温もりが胸へ流れ込んでくる。
『眠れ、眠れ、青い鳥。夜は翼をたたむだけ。朝を忘れた星たちも、おまえの名前を知っている――』
優しい声だった。
完璧に澄んだ歌声ではない。途中で少し息が乱れ、歌詞を間違えたのか、小さく笑う声まで混じっている。
これが王妃だった。
肖像画の中で微笑み続ける聖女ではない。眠らない子どもに困りながら、それでも抱く腕を緩めなかった、一人の母親の声だ。
セラフィナは月長石へ歌を導いた。
乳白色だった石の奥に青い光が灯り、ゆっくりと鳥の羽のような模様を描いていく。
しかし、歌に重なるようにして、別の音が聞こえた。
硬い石が、金属の爪から抜き取られる音。
靴音。
三度鳴り、四度目だけが欠けた鐘。
そして、笑いを含んだ男の声。
『よく眠れ、ルシアン。次に目を覚ますとき、お前の朝は私のものだ』
セラフィナの指先に、鋭い痛みが走った。
『始まりの塔で、王になろう』
「セラフィナ!」
身体が後ろへ傾く前に、ルシアンの腕が腰を支えた。
空の台座から手が離れる。セラフィナが鼻の下を押さえると、指に赤い血がついた。
「大丈夫です。少し深く入りすぎただけで――」
「君は聞く許可は求めたが、血を流す許可は求めていない」
「私も血を出す予定はありませんでした」
「では今後、予定外の血が出る仕事は禁止する」
「宝石修復師の仕事が半分ほどできなくなります」
「安全な半分だけで働け」
「それなら殿下も、王太子の仕事の危険な半分をおやめください」
「私は先ほど、王冠より君を選んだばかりだ」
「選んだからといって、まだ王冠を捨ててはいません。言い合いに都合よく誓いを利用しないでください」
「君は本当に、私に対して遠慮がないな」
「それをお望みになったのは殿下です」
「記憶にない約束を次々と持ち出されるのは、いささか不公平ではないか?」
「では、今の分として新しく覚えておいてください」
言い返しかけたルシアンが、ふと口を閉じた。
彼の腕はまだセラフィナの腰へ回されたままだった。
「……名前は、出てきた」
「え?」
「考えるより先に、君の名を呼んだ。これは失った記憶ではない。今の私が覚えたものだろう」
セラフィナは返事に困り、鼻を押さえたまま顔をそむけた。
血が出ていてよかった。頬が赤くなったことまで、少しはごまかせる。
「お二人とも、抱き合っているところ申し訳ありませんが、痴話喧嘩の続きは移動しながらお願いします」
ノアの冷静な声で、ルシアンはようやく腕を離した。
「痴話喧嘩ではない」
「腰を抱いたまま仕事の方針でもめるのは、十分に痴話喧嘩です。それより、リード嬢。何が聞こえました?」
セラフィナは鐘の音と、カシアンの言葉を伝えた。
国王の顔色が変わった。
「北塔だ」
「お心当たりが?」
「あの塔の鐘は、四つ目の音が鳴らない。幼い頃、カシアンが夜中に鐘を鳴らそうとして、舌の部分を壊した。修理を命じたが、あれが『三つのほうが特別な鐘らしい』と言い張って、そのままになった」
国王は、苦いものをのみ込むように続けた。
「十五年前、カシアンが死んだとされた場所でもある」
「始まりの塔、ですか」
「あそこで死んだことにして、別の顔で生き始めた。あれにとっては、確かに始まりの場所だろう」
「すぐ行く」
ルシアンが言うと、ラピスが鼻先をひくつかせた。
「だめ。匂い、いっぱい。悪い石の匂い、七つに分かれてる。どれもルシアンの匂いする」
「鏡晶石で追跡を散らしたのでしょう」
ギデオンが空の台座を調べながら、険しい顔で言った。
「偽石を追う限り、カシアンが用意した偽の道へ誘導されます。あの男がまだカシアンだった頃から持っていた品が必要です。借りた顔にも、ルシアン殿下の記憶にも染まっていない物が」
全員の視線が国王へ集まった。
国王は露骨に目をそらした。
「……ない」
「陛下」
「ないと言っている」
「陛下が嘘をつくときは、右の眉だけ上がると、先ほど王太后付きの老侍女から聞きました」
ノアに指摘され、国王の右眉がさらに上がった。
「余計なことを教える女だな」
「何をお持ちなのですか」
「銀の懐中鏡だ。裏に琥珀がはめてある。カシアンが十二歳の頃まで使っていた」
「王家の記録では、カシアン殿下の私物はすべて焼却されたことになっていますが」
「記録と引き出しの中身が同じとは限らん」
「普通は同じであってほしいものです」
「人間は記録通りには片づかないのだ、ノア」
国王は居心地悪そうに咳払いした。
「私室の机、その一番下に二重底がある。鍵は薬箱の中だ」
「陛下の薬箱は医師が毎日開けます」
「私が薬を嫌って触れないから、医師も最近は侍従へ渡している。侍従は私が嫌がるので、箱ごと見せるだけだ」
「威張って説明することではありません。あと、王族の皆様は隠し場所を他人に当てさせる遊びをおやめください」
愚痴を残して、ノアは懐中鏡を取りに向かった。
待っている間に、セラフィナとギデオンは月長石を銀線で包み、記憶留めの首飾りの裏へ固定した。八つ目の石として加えると均衡が崩れるため、留め金の内側へ隠す形になった。
ルシアンが月長石へ触れると、王妃の子守歌が小さく流れた。
『眠れ、眠れ、青い鳥――』
彼は息を止めて聞いていた。
「これが、母上の声」
「ああ」
国王が答え、歌の続きを口ずさもうとした。
ところが、最初の三音目でルシアンが顔をしかめた。
「父上。音が外れています」
「まだ三音しか歌っていないだろう」
「三音で十分です」
「母上も、陛下へ同じことをおっしゃいました」
台座から聞いた歌を覚えていたセラフィナが訂正すると、国王は不満そうに黙り込んだ。
「二人して言わなくてもよいだろう」
「二人ではありません。王妃陛下を入れて三人です」
ルシアンが、ほんの一瞬だけ声を立てて笑った。
母の歌を忘れた場所で生まれた、父親の音痴を笑う記憶。
失われた過去ではない。今ここで、初めて手に入れた家族の記憶だった。
ほどなくして、ノアが黒い箱を抱えて戻ってきた。
中に収められていたのは、手のひらに収まるほどの銀の懐中鏡だった。表面には細かな傷があり、裏側の琥珀は端が欠けている。
「カシアンが私に投げつけたものだ」
国王が言った。
「喧嘩の最中に、『その腹の立つ顔を自分で見ろ』とな。私は腹が立ったので拾った」
「腹が立ったのなら捨てればよかったのでは?」
ルシアンの問いに、国王はしばらく答えなかった。
「……弟からもらった、最後の物だった」
憎しみだけで十五年も引き出しへ隠しておくことはできない。
かつて愛していたから、捨てられなかったのだ。愛していた相手が怪物になったと認めれば、自分の過去まで汚れる気がしたのかもしれない。
「私は、あれを愛していた」
国王は自分に言い聞かせるように言った。
「だから見誤った。今は憎んでいる。憎んでいるから、また見誤るかもしれん。人は感情を捨てれば正しくなれると言う者もいるが、そんなものは嘘だ。捨てたつもりの感情ほど、見えない場所から判断を曲げる」
「陛下。この鏡の記憶を読ませていただきます」
「ああ。今度こそ、すべて暴いてくれ」
セラフィナが懐中鏡へ触れた瞬間、琥珀が熱を帯びた。
古い記憶ではない。
つい先ほどまで、誰かが触れていたかのような熱だった。
「離れろ!」
ギデオンの声より早く、鏡面に青白い光が走った。
曇っていた銀の中に、一人の男の姿が浮かび上がる。
銀の髪。青い瞳。冷たく整った顔立ち。
それは、セラフィナの隣にいるルシアンとまったく同じ顔だった。
『兄上なら、まだ持っていると思った』
ルシアンの顔をしたカシアンが笑った。
『あなたは昔から、捨てたふりだけは上手だったから』
「カシアン」
『そんな顔をするな、兄上。おかげで、こうして家族全員で話せる』
鏡の中の男は胸元から、星冠より抜き取った偽石を取り出した。
石の中には青と琥珀の光が渦巻いている。
『この石はよく話す。ルシアン本人は黙り込んでばかりなのに、記憶のほうは驚くほど饒舌だ。母親の手の冷たさ。叱られたときの声。初めて剣を握った日の恐怖。それから――』
カシアンの瞳が、鏡越しにセラフィナを捉えた。
『君に触れるたび、みっともないほど速くなった心臓の音まで』
ルシアンがセラフィナを背へかばった。
その動きを見て、カシアンはますます楽しそうに笑う。
『そう、それだ。その癖も覚えている。彼女を背へ隠せば守った気になる。視界から消えるほうが不安なくせにね』
「黙れ」
『母親の声を忘れたそうだね、ルシアン』
カシアンは偽石へ唇を寄せ、歌い始めた。
『眠れ、眠れ、青い鳥。夜は翼をたたむだけ――』
それは、月長石に残せなかった歌の続きだった。
『迷子になった朝が来ても、帰る枝はここにある――』
「やめろ!」
国王の怒声が、星冠の間へ響いた。
カシアンは歌うのをやめなかった。
最後の一節まで歌い終えると、ルシアンの顔で穏やかに微笑んだ。
『この歌詞は、義姉上がルシアンの熱が下がらなかった夜にだけ歌ったものだ。私は知らなかった。けれど今は知っている。母親の声を息子が忘れ、殺した男が覚えているとは、ずいぶん皮肉だと思わないか?』
ルシアンの手が、首元の記憶留めを強く握った。
『夜明けまでに北塔へ来い。セラフィナも一緒にだ。伴侶の印がなければ、星冠の儀式は完成しない』
「彼女は連れていかない」
『彼女が決めることだろう? 君はそういう男だったはずだ。ああ、それももう忘れたのか』
鏡の中のカシアンは首を傾けた。
そして、セラフィナだけを見つめて囁いた。
『三か月後も?』
全身の血が凍りついた。
それは、偽りの婚約を始めた二人だけが知る問いだった。
カシアンはルシアンの声で、自らその答えまで口にした。
『今は、そこまでです――だったね』
鏡の光が消えた。
誰も、すぐには声を出せなかった。
やがてルシアンが自分の手首を見た。忘れないために書いたセラフィナの名を、指でゆっくりとなぞる。
「……セラフィナ」
「はい」
「今の言葉は、私たちのものだったのか」
嘘をつけば、彼をもっと傷つける。
だからセラフィナは、震えそうになる声を押さえて答えた。
「はい。私たちだけの、大切な言葉でした」
「そうか。私は忘れて、あの男が覚えているのか」
ルシアンは目を閉じた。
それでも、次に目を開けたときには迷いがなかった。
「ならば取り返しに行く。母上の歌も、君との言葉も、私が失ったすべてを」
彼はセラフィナへ手を差し出した。
「ただし、戻らなかったときはもう一度作る。あの男がどれほど私の過去を奪おうと、今の私が君を選ぶことまでは奪わせない」
セラフィナは、その手を取った。
本物のルシアンが忘れた母の歌と二人の合言葉を、ルシアンの顔をしたカシアンだけが覚えている。
北塔で待っているのは、王冠を奪う敵ではない。
ルシアンという人間そのものを奪い、セラフィナに偽物を選ばせようとする男だった。




