第22話 記憶のない皇太子は、王冠より私を選びました
『王冠よりも、その者を選ぶと』
星冠保管庫の扉に浮かび上がった言葉を、誰もすぐには読み上げなかった。
地下回廊には窓がない。それなのに、夜明け前の冷たい空気がどこからか流れ込み、セラフィナの頬を撫でていく。
ルシアンは彼女を抱き留めたままだった。
「殿下。もう立てます」
「本当に?」
「はい」
「先ほども怪我はないと言ったあと、足へ力が入っていなかった」
「驚いただけです。離してください」
「分かった」
彼は素直に腕を緩めた。
けれど、セラフィナの身体がわずかに傾くと、すぐに腰へ手を戻す。
「……やはり、まだ立てていない」
「今のはドレスの裾を踏んだだけです」
「同じことだ。転ぶ可能性がある」
「違います。ドレスから足を退ければ解決します」
ルシアンは自分の靴の下を見た。
セラフィナの青いドレスの裾を踏んでいる。
「すまない」
「名前を忘れたことより、こちらは殿下の責任です」
「では、こちらだけ謝る」
「そうしてください」
ルシアンが裾から足を退ける。
こんな状況で何を話しているのだろうと、セラフィナ自身も思った。しかし、普段と変わらないやり取りをしている間だけは、名前を忘れられた悲しさも、三日後に彼がすべてを失う恐怖も、少し遠ざかる気がした。
「この誓いは、どういうものなのですか」
セラフィナは扉の言葉を見つめた。
「言葉どおりなら、殿下は王位と私のどちらかを選ぶことになります」
「古い王家の誓約です」
ギデオンが答えた。
「星冠保管庫へ入る伴侶は、王家の最も危険な秘密へ触れることになる。もし王冠が人を害するものへ変わったとき、王位ではなく人を選べる者でなければ、伴侶として認めないという意味でしょう」
「誓ったら、私は王妃になるのですか」
「法的な婚姻とは別です。ただし、王家の結界からは、殿下と同等の入室資格を持つ伴侶として認められます」
「三か月後に契約を終えても?」
「王家の誓約は、契約書の期限を読みません」
「では、いつまで続くのです」
「二人が互いを選ばなくなるまでです」
「随分と曖昧ですね」
「七百年前の王族へ苦情を言ってください。古い術は、気持ちだけは重く扱うくせに、細かな条件を何も書き残しません」
「契約書なら、そんな文面は認めません」
セラフィナが言うと、ルシアンが扉へ向けて尋ねた。
「条件の詳細を説明しろ」
扉は答えない。
「答えろ。互いを選ばなくなるとは、どう判断する」
やはり沈黙している。
「殿下。扉と交渉しようとなさらないでください」
「条件が曖昧なまま誓えというほうがおかしい」
「扉に、第十九条まで作らせるつもりですか」
「可能なら」
「不可能だから七百年間、この文面なのでしょう」
扉から、急かすように赤い光が放たれた。
ルシアンは不愉快そうに眉を寄せる。
「態度の大きな扉だな」
「王家の持ち物なので、殿下に似たのではありませんか」
「私より会話が通じない」
「同じくらいです」
ノアが小さく咳払いをした。
「お二人とも、まずは陛下をお呼びしましょう。伴侶の誓いが必要だとしても、陛下なら王族としてお一人で入れるはずです」
「それなら、最初から父上を連れてくればよかったのではないか」
「殿下の記憶がどの程度失われたのか、確かめる意味もありました。それに陛下は、今度こそ寝台へ縛りつけられております」
「文字どおりに?」
「マルタが、寝台の柱へ寝巻きの帯を結んだと聞いています」
「それは不敬ではないか」
「陛下は三度も寝室を抜け出しました。医師はマルタの判断を支持しております」
ルシアンは少し考え、頷いた。
「父上らしいな」
「覚えていらっしゃるのですか」
ノアの問いに、彼は口を閉じた。
「父上が何度も抜け出したことは、今聞いたから分かる。以前からそういう人だったかは、思い出せない」
「そうですか」
ノアは目を伏せた。
「ですが、殿下らしい返事ではありました」
誰かが忘れるたび、残された側は一度ずつ傷つく。
悪い人間はいない。責める相手もいない。それでも痛みだけは確かに残り、その痛みを隠そうとすれば、かえって人間関係は歪んでしまう。
だから今は、傷ついたことも口にしなければならないのだろう。
◇
「私は退位していない!」
地下回廊へ連れてこられた国王は、扉へ向かって怒鳴った。
『王位を退きし者に、星冠は応えぬ』
「偽の勅書だと言っている! 印影を盗まれただけで、退位を認めた覚えはない!」
『王璽により定められた』
「王璽は毒を仕込まれていたのだぞ!」
『王璽により定められた』
「この扉は人の話を聞かないのか!」
「先ほど、殿下も同じことをおっしゃっていました」
セラフィナが言うと、国王は息子を見た。
「私たちは、この扉に似ているらしい」
「誰が言った」
「セラフィナだ」
「セラフィナ?」
名前を自然に呼ばれ、彼女は驚いてルシアンを見る。
彼は左手首を確認していなかった。
「殿下。今、私の名前を」
「先ほど教えられたことは覚えている。過去の記憶がないだけだ」
完全に定着したわけではない。
それでも、もう一度覚えてくれた。それだけで胸の奥が温かくなる自分は、ひどく単純だと思う。
「陛下。議会と大聖堂が偽の勅書を正式に破棄すれば、入室資格も戻るはずです」
ノアが説明する。
「どれほどかかる」
「最短で三日です」
「その頃には、ルシアンの記憶がなくなる」
「はい」
国王は黙り込み、扉へ浮かぶ誓いを見た。
「これしかないのか」
「おそらく」
「ならば、誓えとは言えないな」
国王の言葉に、セラフィナは意外なものを感じた。
「陛下なら、王国のために誓うようお命じになると思っていました」
「それでは扉が開かない。命じられた誓いなど、王冠を選ぶことと同じだ」
「ですが、時間がありません」
「だからこそ急いで誓えば、あとで必ず傷になる。私は、王冠のために人の気持ちを後回しにし続けた。その結果が弟と妻の死だ。今度は息子の人生まで、私が決めるつもりはない」
国王はルシアンへ向き直った。
「記憶がないことを理由に、軽々しく選ぶな。お前が今、目の前のリード嬢へ好意を抱いていたとしても、失った記憶が戻れば気持ちが変わるかもしれない」
「失った記憶が戻らなければ?」
「それも考えろ」
「父上は、どちらを望んでいる」
「私は、お前に生きてほしい」
「セラフィナを選べば、私が助かる可能性は上がる」
「だからといって、彼女を生きるための道具にするなと言っている」
「選ぶのと、道具にするのは違う」
「お前に違いが分かるのか。彼女と出会ったことすら覚えていないのに」
国王の言葉は厳しかった。
だが、それはセラフィナを守るためでも、記憶を失った息子が後悔しないためでもあった。
「殿下。私は誓いを受けられません」
セラフィナは言った。
「理由を聞いても?」
「今の殿下は、選択肢を与えられていません。私を選ばなければ、保管庫へ入れず、記憶を失う。それは選択ではなく脅迫です」
「君は、私に君を選んでほしくないのか」
「そういう聞き方は卑怯です」
「では、聞き方を変える。君は、記憶を失う前の私に選ばれたかったのか」
「答えません」
「なぜ」
「殿下は、人の触れられたくないところへ、急に手を入れるのがお上手ですね」
「すまない」
「謝れば続けていいという意味ではありません」
ルシアンは一度口を閉じた。
「分かった。では、私の考えだけを話す」
「過去のご自分について、何も覚えていないのに?」
「過去を忘れた人間には、今の考えを持つ資格もないのか」
セラフィナは答えられなかった。
「記憶がなければ、私はルシアンではないのか。星冠に奪われるたびに、私は少しずつ別人になるのか」
「そんなことは言っていません」
「だが、君も父上も、過去を覚えていない私の選択は信用できないと言っている」
「それは……」
「私は君と出会った日のことを覚えていない。十九条の契約を作ったことも、君の手を六時間握っていたことも、三か月後も帰したくないと言ったことも思い出せない」
ルシアンは自分の手首に書かれた名前を見た。
「それでも、名前を失ったとき、私は君の部屋へ行った。扉に弾かれた君を、考えるより先に抱き留めた。今、君がこの誓いを一人で背負おうとしていることが嫌だと思う」
「私は背負おうとしていません」
「自分が断れば、私が誓わずに済むと考えている。私が後悔する可能性も、王国への責任も、君がまとめて背負って、先に答えを出そうとしている」
「それは殿下を守るためです」
「私の選択を奪って守ることを、君は嫌っていたはずだ」
以前、セラフィナがルシアンへ言った言葉だった。
守ることと、選択を奪うことは違う。
記憶を失っても、この人は人が最も返されたくない言葉を選ぶらしい。
「ずるいです」
「ああ。おそらく、過去の私も同じようにずるかったのだろう」
「そこは否定してください」
「材料がない」
セラフィナは、扉へ手を当てた。
冷たい銀の向こうから、低い鼓動が伝わってくる。偽石に繋がる星冠が、ルシアンの記憶を食べている音なのかもしれない。
「王冠より私を選ぶということは、この国を捨てるという意味ではありませんか」
「王冠は国ではない」
ルシアンは即座に答えた。
「王位も、国そのものではない。民を守るための立場だ。もし一人の人間を犠牲にしなければ保てない王冠なら、私はそれを選びたくない」
「私は一人の職人です」
「だから何だ」
「殿下の一存で、王冠より重く扱われてよい人間ではありません」
「人の重さを身分で決めるな」
「殿下がそれをおっしゃるのですか」
「王太子だから言っている。王冠の価値を知っている私が、君より軽いと判断した」
「それは王冠に失礼では?」
「人の話を逸らすな」
国王が横から口を挟む。
「その言い方はよくない。王冠を軽いと言い切る王太子を、私は育てた覚えがない」
「父上は、私の過去を知っているのか」
「もちろんだ」
「ならば、私がどういうつもりで言っているかも分かるはずだ」
「分かるから腹が立つ。お前は昔から、何かを選ぶと決めたら、もう片方を必要以上に悪く言う」
「自分を納得させるためですか」
セラフィナが尋ねると、国王は頷いた。
「捨てた側へ未練がないふりをするためだ。面倒な性格だろう」
「よく分かります」
「二人で私を分析するのはやめてくれ」
「記憶を残すために必要なことです」
「それなら仕方がないな」
ルシアンが本当に納得したので、セラフィナは笑ってしまった。
なぜ笑ったのか、自分でも分からない。
時間はなく、怖くて、悲しくて、この先のことなど何も決められない。それでも、記憶を失った彼と、息子を説教する国王と、余計なことまで記録するノアがいる。
今だけは、この面倒な人たちを失いたくないと思った。
「一つ、条件があります」
セラフィナは言った。
「聞こう」
「この誓いは、私が王妃になることへの同意ではありません。私の仕事を辞めることにも同意しません。殿下の記憶が戻ったあと、改めて互いの気持ちと今後について話し合います」
「分かった」
「今の返事だけでは信用できません」
「扉の前で契約書を作るのか」
「必要なら」
ノアがすでに紙を取り出していた。
「携帯用の簡易契約書がございます」
「なぜ持っている」
「お二人が、いつ新しい条件を増やすか分かりませんので」
セラフィナは思わずノアを見た。
「用意がよすぎませんか」
「十九条を作ったお二人へお仕えする者として、当然の備えです」
「今、書いている時間はない」
ルシアンはセラフィナの前へ立った。
「記憶が戻ったあと、私が誓いを理由に君へ婚姻を強制した場合、契約違反として君から婚約を解消できる。それでいいか」
「慰謝料もいただきます」
「王家が支払う」
「お前が払え」
国王が言った。
「なぜ父上は、そこだけ厳しい」
「自分の失敗の金を国庫から出すな」
「では、私個人の財産から支払う」
「金貨二百枚です」
「高くないか」
「王冠より私を選ぶのなら、安いでしょう」
「分かった」
「本当に認めるのですか」
「君が今、少し楽しんでいることも含めて認める」
見抜かれ、セラフィナは視線を逸らした。
「それでは、誓ってください」
ルシアンは扉へ右手を置いた。
赤かった光が、淡い青へ変わる。
『王家の血を継ぐ者よ。汝は王冠よりも、その者を選ぶか』
「私は、彼女との過去を覚えていない」
ルシアンは飾らない言葉で答えた。
「だから、忘れた気持ちを愛だとは言わない。戻るか分からない記憶を理由に、永遠を約束することもしない」
セラフィナは黙って、その横顔を見つめた。
「それでも今、私はセラフィナ・リードを信じる。彼女の仕事も、意思も、私にとって都合の悪い答えをするところも含めて、この人を選ぶ」
ルシアンの手首に書かれた文字が、青い光を放った。
「王冠が彼女を犠牲にしろと命じるなら、私は王冠を捨てる」
扉の右半分に刻まれた紋章が輝く。
『選択を受け入れた』
今度は、セラフィナの前へ文字が浮かんだ。
『王家と並び立つ者よ。汝は王冠ではなく、その者を選ぶか』
セラフィナは扉へ左手を置いた。
「私は、王太子という肩書を選びません」
手のひらから、青い指輪の温かさが伝わる。
「自分を大切にできないくせに、私を守ると言い張る人。優しいことをしても認めず、契約書がなければ気持ち一つ伝えられない人。記憶を失っても、私の言葉を使って私へ言い返すような、面倒な人を選びます」
「もう少しよいところはなかったのか」
「今は誓いの途中です。黙っていてください」
「分かった」
「そうやって、時々だけ素直なところも含めて選びます」
扉の左半分が輝いた。
『双方の選択を受け入れた』
銀色の扉が、ゆっくりと左右へ開いていく。
同時に、ルシアンの手首へ書かれていた「婚約者(仮)」の文字が滲み、その上へ小さな青い星の印が浮かんだ。
「セラフィナ」
ルシアンが呼んだ。
今度も手首を見ていなかった。
「名前を、思い出したのですか」
「過去は戻っていない。だが、今ここで君を選んだことは覚えている」
「それで十分です」
十分であるはずなのに、泣きそうになった。
セラフィナは顔を見られないよう、開いた扉の向こうへ先に足を踏み入れた。
◇
保管庫の最深部に、星冠は残されていた。
銀と白金で作られた王冠には、王家の歴史を象徴する十二個の宝石が並んでいる。
しかし、中央の台座だけが空になっていた。
「偽石がありません」
セラフィナは駆け寄った。
星冠そのものはある。
ルシアンの記憶を吸い続けている鏡晶石だけが、台座から外されていた。
『琥珀と冷たい鏡の匂いだ』
ラピスが空の台座へ鼻を近づける。
『あの男が持っていった。まだ匂いが新しいぞ』
「カシアンは、祝宴から逃げたあと、ここへ来たのか」
「彼も王家の血を引いています。法的には死者でも、結界には王族として認められたのでしょう」
ギデオンが台座を調べる。
「偽石との繋がりは切れていません。石を探し出さなければ、殿下の記憶は戻らない」
「どこへ持っていったのでしょう」
そのとき、空の台座から微かな歌声が聞こえた。
優しい女性の声だった。
子供を眠らせるための、古い子守歌。
ルシアンの身体が、わずかに震える。
「殿下。聞こえますか」
「ああ」
「懐かしいですか」
彼はしばらく歌声を聞いていた。
それから、ひどく申し訳なさそうな顔で尋ねた。
「この歌を歌っているのは、誰だ」
セラフィナは答えられなかった。
ルシアンは母親が存在したことを覚えている。
王妃が殺された事実も知識として残っている。
それでも、母の声を忘れていた。
「王妃様です」
ようやくセラフィナは答えた。
「殿下のお母様の声です」
星冠は、セラフィナの名前だけではなく、亡き母の記憶まで奪い始めていた。




