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『婚約破棄されて返した指輪から、亡き王妃の声が聞こえます ~石の記憶を読む地味令嬢、冷徹皇太子の偽婚約者になりました~』  作者: 極楽鳥


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第21話 名前を忘れた皇太子へ、もう一度「はじめまして」を言いました

「君の名前が、思い出せない」


 ルシアンは、まるで自分が罪を犯したような顔で立っていた。


 廊下の窓から差し込む月明かりが、胸元の七つの宝石を照らしている。首飾りは確かに光を保っていた。それでも星冠は、数時間前まで彼が呼んでいた名前を奪ってしまった。


 セラフィナは何か答えなければと思った。


 大丈夫です、と言おうとした。


 けれど、大丈夫ではなかった。


「……そうですか」


 ようやく出たのは、それだけだった。


「すまない」


「謝らないでください」


「だが」


「殿下のせいではありません。忘れたくて忘れたわけではないでしょう」


「それでも、君を傷つけた」


「傷ついていません」


「今、私から目を逸らした」


「寝起きなので、顔を見られたくないだけです」


「先ほどまで私の前で、寝台へ倒れたまま話していた人が?」


「余計なところは覚えていらっしゃるのですね」


 言った瞬間、嫌な言い方をしたと気づいた。


 忘れた本人へ、なぜそこだけ覚えているのかと責めても仕方がない。分かっているのに、感情はいつも正しさから少し遅れてついてくる。


「申し訳ありません。今のは、忘れてください」


「これ以上、忘れさせないでくれ」


 ルシアンは困ったように言った。


 冗談なのか、本気なのか分からない。おそらく本人にも分かっていないのだろう。


 セラフィナは扉を大きく開いた。


「廊下で話す内容ではありません。お入りください」


「入ってもいいのか」


「この時間に男性を部屋へ入れるのは、あまりよくありません」


「では、やめよう」


「今さら戻ろうとしないでください。誰かに見つかったら、私の名前を確認しに来ただけだと正直に説明するつもりですか」


「嘘をつくよりはいい」


「婚約者の部屋を訪ねた理由として、それ以上に悲しい説明はありません」


 ルシアンは黙って部屋へ入った。


 セラフィナは長椅子を勧め、自分は向かいの椅子へ座る。いつもより少し遠く感じたのは、彼が名前を知らない他人になってしまったからかもしれない。


 いいや、他人ではない。


 顔も声も、困ったときに右手の親指で人差し指の付け根を擦る癖も、何も変わっていない。


 変わっていないからこそ、苦しかった。


「では、改めまして」


 セラフィナは膝の上で手を組んだ。


「はじめまして。セラフィナ・リードです。二十一歳。職業は宝石修復師で、石に残された声を聞くことができます」


「セラフィナ」


「はい」


「セラフィナ・リード」


「合っています」


「私の婚約者」


「三か月限定の、偽の婚約者です」


「その部分まで言う必要があるのか」


「正直に話せとおっしゃったのは殿下です。私たちは恋愛の末に婚約したわけではありません。殿下が王妃様の指輪を調べるため、私へ契約を持ちかけました」


「君は、それを受け入れた」


「はい。王妃様の死と、母の死の真相を知りたかったからです。契約書は十九条。能力の使用を強制しないこと、仕事を妨げないこと、身体へ触れる場合は事前に同意を得ることなどを決めました」


「私が作ったのか」


「大半は殿下です」


「随分と細かい男だな」


「ご自分のことでしょう」


「今の私には、記憶の中にいる別人のように思える」


 ルシアンは、七つの宝石を指先でなぞった。


「私たちは、どうやって出会った」


「聞きたいのですか」


「ああ。覚えていないなら、知っておきたい」


「美しい出会いではありませんよ」


「それでもいい」


 セラフィナは少し迷った。


 都合の悪い部分を省き、運命的な物語に作り替えることもできる。今のルシアンなら、それを疑わず信じるかもしれない。


 だからこそ、そんなことはしたくなかった。


「私が、大勢の前で婚約を破棄された日です」


「私が破棄したのか」


「違います。オスカー・ベルモントという元婚約者にです。彼はミレイユ様を選び、私は返された指輪から王妃様の声を聞きました」


「オスカー・ベルモント」


 ルシアンは顔をしかめた。


「ベルモント伯爵の息子。父親の罪を知らず、君との婚約を一方的に破棄した。ミレイユ嬢には、すでに円満に解消したと嘘をついていた」


「覚えているのですか」


「ああ。彼を尋問したことも覚えている」


「そうですか」


 声が思ったより冷たくなった。


 セラフィナ自身、それを隠せなかった。


「すまない」


「だから謝らないでください。殿下が忘れる順番を決めたわけではないでしょう」


「君は、私が元婚約者の名を覚えているのに、君の名を忘れたことへ腹を立てている」


「そうですよ」


 否定するのをやめた。


「腹も立ちますし、悲しくもあります。オスカー様の名前は王国の事件記録に繋がっているから、星冠にとって残す価値があったのでしょう。私の名前は、王太子として国を治めるためには不要だった。理屈は分かります。それでも、はいそうですかと笑えるほど、私は聞き分けのよい人間ではありません」


「怒っていていい」


「殿下へ怒っているわけではありません」


「だが、私の前で怒るしかないだろう。星冠やカシアンは、ここにはいない」


「それが嫌なのです。何も悪くない人へ感情をぶつけて、相手が受け止めてくれることを期待するのは」


「私は、受け止めたいと思っている」


「どうしてですか」


「分からない」


 ルシアンは少し考えてから、続けた。


「君の名前は思い出せなかった。それでも、扉を叩くならここだと分かった。顔を見たら、私にとって大切な人だと感じた。君が悲しんでいると、逃げずに聞くべきだと思う。その理由は説明できないが、感覚だけは残っている」


 失われたのは、名前と過去の一部。


 けれど、積み重なったものが何もかも消えたわけではないらしい。


「泣いてもいい」


 ルシアンが言った。


「嫌です」


「なぜだ」


「私が泣いたら、殿下はまた謝るでしょう」


「謝りたい」


「殿下のせいではないことで謝らないでください」


「自分の意思ではなくても、私が忘れたことで君が傷ついたのなら、謝るくらいは許してほしい」


「許しません」


「君は頑固だな」


「そのことは、首飾りの水晶にも入っています」


「そうだった」


 ルシアンの指が、無色の水晶へ触れた。


 石の中に、青と銀の光が浮かび上がる。


「触れたまま、目を閉じてください」


「何が起きる」


「私が石へ残した、殿下についての記憶が流れます。ただし、殿下ご自身の記憶が戻るわけではありません。あくまで、私から見た殿下です」


「聞いてもいいのか」


「はい。もともと、殿下へ残したものですから」


 ルシアンが目を閉じる。


 水晶の光が強くなった。


『面倒で、不器用で、言葉が足りなくて、時々とても腹が立つ人です』


 セラフィナ自身の声が、部屋へ小さく響いた。


『それでも、私は殿下を忘れたくありません』


 ルシアンは目を開けた。


「随分な言われようだ」


「前半だけ取り上げないでください」


「後半も聞いた」


「ならば、黙っていてください」


「君は、私をそのように見ていたのか」


「昨夜、皆様の前で聞いたでしょう」


「聞いたという事実は覚えている。だが、そのとき何を思ったのかは、うまく掴めない」


 彼はもう一度、水晶へ触れた。


「これは、君の中にいる私だ」


「はい」


「私自身の記憶ではない。それでも、不思議と嫌ではない。立派すぎる人物にされるより、信用できる」


「不満をたくさん言った甲斐がありました」


「それに」


 ルシアンはセラフィナを見た。


「君の声で自分を説明されると、ここへ戻れる気がする」


 セラフィナは視線を落とした。


 言葉を選ばなければならないのに、この人は時々、選ぶ時間すら与えずに胸へ入ってくる。


「殿下。今は記憶を失って、不安になっていらっしゃいます。そのせいで、私へ必要以上に頼っている可能性があります」


「そうかもしれない」


「否定しないのですね」


「否定できる材料がない」


「でしたら、今の感情だけで何かを決めないでください」


「三か月後のことか」


「それも含めてです」


「私は、三か月後も君を帰したくないと言ったらしいな」


「覚えていないなら、無理に拾わなくていいのです」


「君は何と答えた」


「今は、そこまでです」


 ルシアンが小さく笑う。


「やはり、君はその答えをするのだな」


「笑わないでください。私は真剣です」


「私も真剣だ。忘れても、同じ答えを聞くと安心する」


「どうしてですか」


「君が私に都合のいいことを言っていないからだ」


 ルシアンは立ち上がり、卓上にあった紙と筆を取った。


「書いてほしい」


「何をですか」


「君の名前を。自分で書いても、ただの文字にしか思えない。君の手で書いてくれれば、少なくとも誰が教えたのか分かる」


 セラフィナは筆を受け取った。


「どこへ?」


「手首へ」


「肌に書くのですか」


「紙は失くすかもしれない」


「お風呂へ入れば消えますよ」


「それまでには、もう一度書いてくれ」


 差し出された左腕を取り、袖を少し捲る。


 筆先が肌へ触れると、ルシアンの指がわずかに動いた。


「くすぐったいですか」


「少し」


「我慢してください」


「君は、触れる許可を取らないのか」


「殿下から書けと頼まれました」


「なるほど。契約上の同意は成立している」


「こんなときまで契約の確認をしないでください」


 セラフィナは手首の内側へ、ゆっくりと文字を書いた。


 ――セラフィナ・リード。宝石修復師。婚約者(仮)。


「なぜ、仮とつけた」


「三か月限定だからです」


「そこは忘れさせてくれてもよかった」


「都合よく美化するなとおっしゃったでしょう」


「記憶のない私は、過去の私へ少し腹が立ってきた」


「私も時々、腹を立てています」


「気が合うな」


「殿下ご自身です」


 そのとき、部屋の扉が激しく叩かれた。


「殿下! こちらにいらっしゃいますか!」


 ノアの声だった。


 扉を開けると、何冊もの帳面を抱えたノアと、道具箱を持ったギデオンが立っていた。


「やはり、セラフィナ様のところでしたか」


「どうして分かった」


「ご自分の部屋にいらっしゃらず、護衛にも行き先を告げていない。以前の殿下なら一人で星冠保管庫へ向かったでしょうが、今の殿下が最初に探すとすれば、セラフィナ様だと思いました」


「それは、私を理解しているという意味か」


「残念ながら、十四年お仕えしておりますので」


 ノアは帳面を卓上へ置いた。


「殿下が忘れたことを補うため、身辺記録を作りました。陛下のお名前、王族との関係、側近、使用人、過去の負傷、好きなもの、苦手なものまで記載しています」


 ルシアンが一冊を開く。


「私は、煮た人参が嫌いなのか」


「正確には、嫌いであることを認めるのがお嫌いです。皿の端へ避けながら、『最後に食べる予定だった』とおっしゃいます」


「そのようなことまで記録する必要があるか」


「殿下を王太子の業務報告書にしたくなかったので」


 ノアは言った。


 それから、少し苛立ったようにセラフィナを見る。


「記録では人間を取り戻せないとお考えでしょう」


「そこまでは言っていません」


「ですが、顔に出ています。殿下を事実の一覧へ変えてしまうことが、正しいのか私にも分かりません。それでも、書かなければ消えてしまう。私にできることは、書き残すことだけです」


「ノア様」


「何もしないで、殿下が私を忘れるのを待てとおっしゃいますか」


「おっしゃいません」


 セラフィナは帳面の一冊へ手を置いた。


「記録してください。ただし、正式な経歴だけでなく、皆様が腹を立てたことも、くだらない失敗も残しましょう。殿下が後から読んで、ご自分が嫌になるくらい正直に」


「それは少々、量が多くなります」


「ノア」


「冗談です。半分ほどは」


 ノアはようやく息を吐いた。


「申し訳ありません。セラフィナ様へ怒ることではありませんでした」


「今は、皆が誰かへ怒りたいのだと思います。私も先ほど、殿下へ八つ当たりをしました」


「六つほどだったと思う」


「数えていたのですか」


「忘れないように」


 ルシアンの返事に、誰も笑えなかった。


「殿下、手首を見せてください」


 ギデオンが、書かれた名前と王冠形の痣を交互に確認する。


「セラフィナお嬢さんの名前が、最初に奪われたのは偶然ではありません」


「どういうことです」


「星冠保管庫は、王族と正式な伴侶しか入れない。現在、殿下以外で扉を開けられる可能性があるのは、正式な婚約者として認められたお嬢さんです」


「カシアンは、私と殿下の繋がりを切ろうとしている?」


「おそらく。名前は、人と人の記憶を結ぶ最も分かりやすい鍵です。偽石は、保管庫へ入るために必要な記憶から選んで奪っている」


「首飾りでは防げないのか」


「全体の流れは遅らせています。しかし、狙いを定めて抜かれた記憶までは止められません」


「では、今すぐ保管庫へ向かいます」


 セラフィナは立ち上がった。


「私を正式な婚約者として認識しているか、扉で確かめます」


「拒まれた場合は?」


「そのとき考えます」


「それは私の台詞だったはずだ」


「忘れたなら、私が使います」


     ◇


 夜明け前の星冠保管庫は、地上よりも冷えていた。


 地下回廊の突き当たりにある銀色の扉には、王冠と二つの手を象った紋章が刻まれている。


 以前は、ルシアンとセラフィナが並んで触れるだけで開いた扉だった。


「お嬢さん。少しでも異常を感じたら離れてください」


 ギデオンが後ろから言った。


「分かっています」


「あなたの『分かっている』も、殿下の『問題ない』と同じくらい信用できません」


「今それを言いますか」


「今だから言うのです」


 セラフィナは扉の左側へ手を置いた。


 右側にはルシアンが触れる。


 銀色の紋章が淡く光った。


『王家の血を継ぐ者よ』


 石造りの回廊へ、古い声が響く。


『汝と共に立つ者の名を告げよ』


 ルシアンは左手首を見た。


 そこには、セラフィナが書いた名前が残っている。


「セラフィナ・リード」


 迷いのない声だった。


 だが、扉は開かなかった。


『その名は、汝の内にない』


 銀色の光が赤く変わる。


『記憶になき名は、伴侶にあらず』


「離れてください!」


 ギデオンが叫んだ。


 扉から強い衝撃が放たれ、セラフィナの身体が後方へ弾き飛ばされる。


 床へ落ちる前に、ルシアンが抱き留めた。


「怪我は」


「ありません。それより、扉が……」


 王妃の青い指輪は、氷のように冷たくなっていた。


「婚約発表も、契約書も残っています。それなのに、なぜ」


「王家の古い結界は、書面ではなく本人の意思と記憶を読み取ります」


 ギデオンは閉ざされた扉を見つめた。


「殿下が、お嬢さんを婚約者として選んだ記憶を失った。だから結界も、その繋がりを失ったと判断したのでしょう」


 ルシアンの腕に力が入った。


「もう一度、選べばいい」


「殿下には、彼女と過ごした記憶がありません。名前だけを知識として与えられても、古い結界は認めない」


「では、どうすれば」


 ルシアンの問いに応えるように、扉の中央へ新たな文字が浮かび上がった。


『新たに伴侶を望むならば、王家の名において誓え』


 赤い光が二人を照らす。


『王冠よりも、その者を選ぶと』


 それは三か月限定の偽婚約では、決して口にできない誓いだった。

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