第20話 忘れられる前に、七つの宝石へ「彼」を縫い留めました
「ノア」
「はい、殿下」
「私たちは、初めてどこで会った」
婚約披露宴が終わってから、二時間が経っていた。
負傷した者の治療と招待客の身元確認が終わり、大広間に残された鏡片もすべて回収された。ベルモント伯爵は地下牢へ移され、国王は今度こそ医師とマルタによって寝室へ連れ戻されている。
ルシアンは王太子宮の私室で長椅子に座り、胸元に浮かんだ王冠形の痣をギデオンに調べられていた。
その最中、何の前触れもなくノアへ尋ねたのだ。
「初めて、でございますか」
「ああ」
「十四年前、殿下が十三歳、私が王宮へ上がったばかりの十六歳のときです。西の資料室で、私が書類棚を倒しました」
「そうだったか」
「はい。殿下は棚の下敷きになった私を助けるより先に、『分類番号がすべて混ざった』とおっしゃいました」
「私なら言いそうだな」
「そのあと一晩かけて、一緒に書類を並べ直してくださいました」
ノアは笑おうとした。
しかし、うまく笑えなかった。
「覚えていらっしゃいませんか」
「資料室の場所も、当時使われていた分類法も覚えている。だが、その場に君がいたことだけが思い出せない」
室内から音が消えた。
セラフィナは作業台の前に座ったまま、手の中の細い銀線を見つめた。
聞き間違いではない。
まだ数時間しか経っていないのに、星冠はすでにルシアンの記憶を奪い始めている。
「次の質問を」
ルシアンが言った。
ノアは答えられず、代わりにギデオンが尋ねる。
「現国王の即位年を覚えていますか」
「王国暦六百十二年。先王崩御の三日後、臨時議会の承認を受けて即位した」
「陛下の正式なお名前は」
「アレクシス・ディーン・ヴァルハルト」
即答しかけた言葉が、最後の一音でわずかに遅れた。
「父上の名を忘れかけた」
ルシアンは、他人の症状を確認するように言った。
「殿下」
「そんな顔をするな、ノア。忘れたわけではない」
「忘れかけたのですよね」
「ああ」
「同じではありません」
「まだ答えられた」
「今は、でしょう」
ノアの声が荒くなる。
「申し訳ございません。殿下を責めても仕方がないことくらい分かっています。ですが、資料室のことを覚えていないと聞いて、平気な顔をしろと言われても無理です。私にとっては、あの夜から今までずっと続いている関係なのですから」
「すまない」
「謝らないでください。それでは、私が謝らせたようではありませんか」
「では、何と言えばいい」
「分かりません。分からないから腹が立つのです」
ノアは顔を背けた。
怒りたい相手はカシアンであり、ルシアンではない。頭では理解していても、忘れられた痛みまで理屈どおりには動いてくれない。
「私も忘れたいわけではない」
「存じています」
「ならば」
「忘れた側より、忘れられた側のほうが傷つく場合もあるということです。殿下が悪くなくても、私は傷つきます。それくらいは許してください」
「……分かった」
ルシアンは少し考え、言い直した。
「忘れてしまって、残念だ。君が話してくれたことも、私には覚えのない誰かの話に聞こえる。それが不快だ」
「はい」
「だが、君が私を長く知っていることは信じている」
「ありがとうございます」
ノアの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
ギデオンは王冠形の痣へ細い銀針を近づけた。針は触れる前に黒く変色し、先端から粉になって崩れ落ちる。
「予想より早い」
「どの記憶から失われるのですか」
セラフィナが尋ねた。
「星冠が欲しいものは、王太子としての知識と王家の魔力です。政務、歴史、外交、軍事についての記憶は最後まで残すでしょう。カシアンは、それを奪って殿下として振る舞うつもりですから」
「では、先に奪われるのは」
「好き嫌い、個人的な習慣、誰かと過ごした時間。つまり、殿下を王太子ではなく、一人の人間にしているものです」
国を治めるための知識だけを残し、人を愛した記憶を奪う。
それはカシアンにとって、都合のよい空の器を作る作業なのだ。
「止める方法はないのですか」
「星冠から偽石を外すしかありません。しかし、それまで殿下の記憶が持つかどうか」
「持たせます」
セラフィナは作業台の上へ、七つの宝石を並べた。
小粒の紅玉、煙水晶、黄玉、月長石、緑碧玉、青玉、そして無色の水晶。
「記憶そのものを取り戻すことはできなくても、石へ別の記憶を残せます。殿下ご自身の思い出が奪われるなら、私たちが覚えている殿下を、外から繋ぎ止めます」
「《記憶留め》か」
ギデオンが宝石を覗き込んだ。
「理論上は可能です。ただし、石へ残せるのは、ここにいる者が強く覚えている場面だけです。整った言葉を用意しても意味がない。感情がなければ、宝石は覚えません」
「七つの石すべてに、違う記憶を入れます」
「時間がありません。台座を組むだけでも半日はかかります」
「お父様と三人で作れば、二時間でできます」
「銀線を細くしすぎれば切れるぞ」
アルドが口を挟んだ。
「分かっています」
「分かっている顔ではない。焦るとお前は、必要な補強まで削る」
「お父様もギデオンも、私を十三歳の職人のままだと思っていませんか」
「二十一になっても、焦り方が同じだからだ」
「師匠の意見に賛成です」
「八年ぶりに戻ってきた人が、父親の側へ立たないでください」
ギデオンは銀の義指を鳴らし、作業台の向かいへ座った。
「では、二十一歳のお嬢さん。俺は鎖を作ります。中央の台座は任せますが、一度でも急いで銀線を切ったら交代です」
「切りません」
「その台詞を言ったときのあなたは、よく切ります」
「二人とも、手を動かしてください」
アルドが溜息をつきながら工具を取った。
言い争いながらも作業は始まった。
不思議な光景だった。八年もの間、互いに離れていた三人が、今は同じ卓を囲み、一人の人間の記憶を守るために銀を曲げている。
◇
最初の紅玉を手に取ったのは、国王だった。
マルタに止められたにもかかわらず、寝間着の上へ外套を羽織り、再び王太子宮まで来てしまったらしい。
「陛下。今度こそ、寝ていてくださいと申し上げたはずです」
「息子が私の名前を忘れかけているのに、一人で眠れると思うか」
「思いませんが、だからといって倒れてよい理由にはなりません」
「記憶を一つ話したら戻る」
「二つ話そうとなさったら、長椅子ごと寝室へ運びます」
「それはもうやめろ。王としての威厳が傷つく」
「王の顔を盗まれた時点で、多少の威厳は諦めてください」
国王は反論できず、紅玉を握った。
「ルシアンが五歳の頃だ。王冠を作って、私へ持ってきたことがある」
「五歳の殿下が?」
ノアが尋ねる。
「ああ。青い硝子玉を針金で繋いだ、ひどく歪んだ王冠だった。指を三か所も切り、血だらけの手で『父上の王冠は重そうだから、軽いものを作った』と言った」
国王の手の中で、紅玉が淡く光る。
「私は忙しいと言って、受け取るだけで終わらせた。礼を言ったかどうかも覚えていない。あの子は、私が喜ばなかったと思っただろう」
「私は覚えていません」
ルシアンが言った。
「そうか」
「ですが、父上が今も覚えているなら、作った意味はあったのでしょう」
「お前は、そういうことを簡単に言うな。こちらがどれだけ後悔していると思っている」
「では、後悔を減らすため、今礼を言ってください」
「十四年も経ってからか」
「何年経っても、言わないよりましだと父上ご自身が叔父上へ言ったのでしょう」
国王は困ったように笑った。
「ありがとう、ルシアン。あれは、私が持った中で一番軽い王冠だった」
紅玉の内側へ、小さな青い光が宿った。
二つ目の煙水晶を持ったのはノアだった。
「私が二十歳のとき、父が危篤になりました。しかし任務中で、領地へ戻る許可が下りなかった」
「そのことは覚えているかもしれない」
ルシアンが額へ手を当てる。
「君の休暇申請書に、私が署名した」
「いいえ。殿下は私の名前で、書類を作り直しました」
「公文書の偽造だな」
「今、その部分を冷静に分析するのはやめてください。おかげで私は、父の最期に間に合いました。戻ってから礼を言うと、殿下は『記録係が一人減ると困るからだ』とおっしゃった」
「それも、私なら言いそうだ」
「ええ。私は腹が立ちました。素直に親孝行をしてこいと言われていたら、普通に感謝できたのに。殿下は人に恩を売るのが下手です。相手が礼を言えないような言い方ばかりする」
「不満の記憶でもいいのか」
ルシアンの問いに、ギデオンが答える。
「強く残っているなら、立派な記憶です。人間は、褒め言葉だけでできているわけではありませんから」
「では、このまま入れます」
ノアは煙水晶へ語りかけた。
「私は、あなたのそういう面倒なところに何度も腹を立てました。それでも十四年、あなたのそばにいます。なぜなら、言葉が足りなくても、あなたが誰かを見捨てない人だと知っているからです」
煙水晶が、静かな銀色に輝いた。
三つ目の黄玉を手に、マルタが前へ出る。
「殿下が九歳のとき、王妃様に叱られて晩餐室の卓の下へ隠れたことがありました」
「待て」
「覚えていらっしゃるのですか」
「覚えていないが、その話を皆の前でする必要はないだろう」
「恥ずかしいと思えるなら、まだ殿下ご本人ですね」
マルタは構わず続けた。
「夕食はいらないと意地を張りながら、卓の下でビスケットを十二枚もお召し上がりになりました。翌朝、誰が食べたのか尋ねると、犬だと答えました」
「王宮で犬を飼っていたのか」
「いいえ。一頭も」
「九歳の私は、もう少しましな言い訳を考えられなかったのか」
「口元に屑をつけたまま、犬だと言い張っておられました」
部屋に小さな笑いが広がる。
ルシアンも呆れたように笑った。
その瞬間、黄玉が温かな金色へ変わった。
「笑っていらっしゃる殿下も、泣いていらっしゃる殿下も、卓の下でビスケットを盗む殿下も、私は知っています。王太子である前に、あなたは随分と手のかかる子供でした。今も、あまり変わっておりません」
「それは記憶というより説教ではないか」
「両方です」
四つ目の緑碧玉には、近衛隊長が初陣の記憶を残した。
戦死した兵士を見た十九歳のルシアンが、天幕の裏で吐いていたこと。平気な顔で指揮を執りながら、夜になると亡くなった兵士全員の名前を、一人ずつ確認していたこと。
「殿下は、恐れを知らない方ではありません。怖くても、翌朝にはまた先頭へ立つ方です」
「それを勇敢と呼ぶのか」
「私はそう呼びます。ただし、何でも一人で背負うところは迷惑です」
「今夜は不満ばかりだな」
「親しい者の記憶とは、そういうものかもしれません」
近衛隊長が笑うと、緑碧玉に深い光が灯った。
五つ目の月長石を手に取ったギデオンは、十二歳のルシアンが、王妃の壊れた髪飾りを修復へ持ち込んだ日のことを話した。
「石の中に白い傷がありました。交換したほうが美しくなると勧めると、殿下は拒んだ。王妃様が、その傷は月にかかった雲のようで好きだと言っていたから、傷ごと直せと」
「私が、あなたの工房へ?」
「当時の俺は下働きでした。殿下は俺の顔など覚えていなかったでしょう。けれど俺は、生意気な王子だと思いながら、その言葉を覚えていました」
「また悪口か」
「今は、良い意味で生意気だったと思っています」
「便利な言い換えだな」
「人間は八年もあれば、昔の嫌な記憶へ都合のよい意味を足すものです。だから記憶は、真実そのものではないのでしょう」
月長石が、雲のかかった月のように輝いた。
六つ目の青玉は、ラピスが担当した。
『我はこいつに噛みついた』
「なぜ噛んだ」
『腹が減っておったからだ』
「理由になっていない」
『竜にはなる。それに、人間は我を見つけると、角を切ろうとするか、皮を剥ごうとする。だから先に噛んだ』
ラピスは青玉を両手で抱えた。
『だが、こいつは我を切らなかった。痛いと言いながら、食える石を持ってきた。そして、保管庫の外へ連れ出した』
「それは覚えている」
ルシアンの声に、わずかな明るさが戻る。
「君は最初、私の上着の中へ隠れていた」
『隠れておらぬ。運ばせてやったのだ』
「そういうことにしておこう」
『こいつは、我を恐れなかった。正しく言えば、恐れておったが、怖くない顔をした。我はその匂いを覚えておる。顔を盗まれても、名前を忘れても、我なら見つけられるぞ』
青玉が、ラピスの鱗と同じ鮮やかな青に染まった。
最後の一つ。
無色の水晶を前に、セラフィナは言葉を失った。
「無理に美しいことを言う必要はありません」
ノアが言った。
「今夜の流れを見る限り、不満でも石は光ります」
「では、不満ならいくらでもあります」
「聞こう」
ルシアンが彼女を見る。
「殿下は、とにかく無茶をなさいます。こちらへ危険なことをするなとおっしゃるのに、ご自分の命は平気で投げ出そうとする。契約だから利用すると言いながら、私が石の声を聞く前には、必ず許可を取ってくださる。優しいことをなさるのに、優しいと思われるのは嫌なのか、すぐ余計な言葉を足します」
「かなり言われているな」
「まだあります。怪我をしても隠す。眠らない。食事を忘れる。助けられることに慣れていない。人の手を六時間も握っておきながら、そこに医学的な根拠は一つもない」
「その話は、もう終わったと思っていた」
「終わっていません。私の手は半日痺れていました」
皆が笑った。
けれどセラフィナは笑えなかった。
「それでも、私は殿下を忘れたくありません」
自分の声が震える。
「私が知っている殿下は、完璧な王太子ではありません。面倒で、不器用で、言葉が足りなくて、時々とても腹が立つ人です。でも、大勢の前で私と同じ顔の女が現れたとき、私の可愛げのなさを覚えていてくださった」
「褒めたつもりだったのだが」
「分かっています。だから余計に困るのです」
セラフィナは水晶を握りしめた。
「私はまだ、自分の気持ちへ、きれいな名前をつけられません。三か月後のことだって、分かりません。でも、あなたがルシアン殿下でなくなるのは嫌です。あなたがご自分を忘れても、私は、私が知っているあなたを忘れたくありません」
透明だった水晶の中心に、青と銀の光が生まれた。
強く、温かい光だった。
ルシアンはしばらく水晶を見つめていた。
「私も、君だけは忘れたくない」
誰も何も言わなかった。
セラフィナも返事ができなかった。
その言葉を聞いた水晶だけが、鼓動のように光っていた。
◇
七つの宝石を繋いだ首飾りが完成したのは、真夜中を過ぎてからだった。
ルシアンが身につけると、王冠形の痣を覆っていた黒い光が弱まった。
「完全には止まっていません」
ギデオンは痣を確認し、険しい表情を崩さなかった。
「それでも、流れは半分以下になっています。星冠へ向かう記憶を、七つの石が引き留めている」
「あと三日は持ちますか」
「持たせるしかありません。その間に、保管庫へ入り、偽石を外します」
皆が退出したあとも、セラフィナはしばらく部屋に残っていた。
「少し眠ってください」
「君もだ」
「私は工房へ戻り、工具の準備をします」
「今夜くらいは休め」
「殿下にだけは言われたくありません」
「今夜、何度目だろうな。その言葉を聞くのは」
「殿下が、言われるようなことばかりなさるからです」
ルシアンは、七つの宝石へ触れた。
「もし私が何かを忘れたら、正直に話してくれ」
「正直に?」
「都合よく美化するな。私が立派な人間だったなどと言う必要はない」
「その点は、ご心配なさらないでください。不満も含めて、すべてお話しします」
「それなら安心だ」
「本当に安心するところですか?」
「誰かの作った理想の私になるよりはいい」
セラフィナは扉の前で振り返った。
「おやすみなさい、ルシアン殿下」
「おやすみ、セラフィナ」
彼は確かに、彼女の名前を呼んだ。
◇
それから一時間も経たないうちに、セラフィナの部屋の扉が叩かれた。
寝巻きへ着替えたばかりの彼女が扉を開けると、廊下にルシアンが立っている。
胸元には、七つの宝石を繋いだ首飾りがあった。
「殿下。どうなさったのです」
「確認したいことがある」
「何を?」
ルシアンは、ひどく困った顔で彼女を見た。
「君の顔は覚えている」
「はい」
「君が私にとって、とても大切な人だということも分かる。私の婚約者で、宝石修復師で、無茶をすると私を叱る人だ」
「それだけ覚えていれば、十分です」
「だが」
ルシアンの声が掠れた。
「君の名前が、思い出せない」
忘れたくないと願った、その夜のうちに。
ルシアンは、セラフィナの名前を忘れた。




