表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『婚約破棄されて返した指輪から、亡き王妃の声が聞こえます ~石の記憶を読む地味令嬢、冷徹皇太子の偽婚約者になりました~』  作者: 極楽鳥


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
20/30

第20話 忘れられる前に、七つの宝石へ「彼」を縫い留めました

「ノア」


「はい、殿下」


「私たちは、初めてどこで会った」


 婚約披露宴が終わってから、二時間が経っていた。


 負傷した者の治療と招待客の身元確認が終わり、大広間に残された鏡片もすべて回収された。ベルモント伯爵は地下牢へ移され、国王は今度こそ医師とマルタによって寝室へ連れ戻されている。


 ルシアンは王太子宮の私室で長椅子に座り、胸元に浮かんだ王冠形の痣をギデオンに調べられていた。


 その最中、何の前触れもなくノアへ尋ねたのだ。


「初めて、でございますか」


「ああ」


「十四年前、殿下が十三歳、私が王宮へ上がったばかりの十六歳のときです。西の資料室で、私が書類棚を倒しました」


「そうだったか」


「はい。殿下は棚の下敷きになった私を助けるより先に、『分類番号がすべて混ざった』とおっしゃいました」


「私なら言いそうだな」


「そのあと一晩かけて、一緒に書類を並べ直してくださいました」


 ノアは笑おうとした。


 しかし、うまく笑えなかった。


「覚えていらっしゃいませんか」


「資料室の場所も、当時使われていた分類法も覚えている。だが、その場に君がいたことだけが思い出せない」


 室内から音が消えた。


 セラフィナは作業台の前に座ったまま、手の中の細い銀線を見つめた。


 聞き間違いではない。


 まだ数時間しか経っていないのに、星冠はすでにルシアンの記憶を奪い始めている。


「次の質問を」


 ルシアンが言った。


 ノアは答えられず、代わりにギデオンが尋ねる。


「現国王の即位年を覚えていますか」


「王国暦六百十二年。先王崩御の三日後、臨時議会の承認を受けて即位した」


「陛下の正式なお名前は」


「アレクシス・ディーン・ヴァルハルト」


 即答しかけた言葉が、最後の一音でわずかに遅れた。


「父上の名を忘れかけた」


 ルシアンは、他人の症状を確認するように言った。


「殿下」


「そんな顔をするな、ノア。忘れたわけではない」


「忘れかけたのですよね」


「ああ」


「同じではありません」


「まだ答えられた」


「今は、でしょう」


 ノアの声が荒くなる。


「申し訳ございません。殿下を責めても仕方がないことくらい分かっています。ですが、資料室のことを覚えていないと聞いて、平気な顔をしろと言われても無理です。私にとっては、あの夜から今までずっと続いている関係なのですから」


「すまない」


「謝らないでください。それでは、私が謝らせたようではありませんか」


「では、何と言えばいい」


「分かりません。分からないから腹が立つのです」


 ノアは顔を背けた。


 怒りたい相手はカシアンであり、ルシアンではない。頭では理解していても、忘れられた痛みまで理屈どおりには動いてくれない。


「私も忘れたいわけではない」


「存じています」


「ならば」


「忘れた側より、忘れられた側のほうが傷つく場合もあるということです。殿下が悪くなくても、私は傷つきます。それくらいは許してください」


「……分かった」


 ルシアンは少し考え、言い直した。


「忘れてしまって、残念だ。君が話してくれたことも、私には覚えのない誰かの話に聞こえる。それが不快だ」


「はい」


「だが、君が私を長く知っていることは信じている」


「ありがとうございます」


 ノアの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。


 ギデオンは王冠形の痣へ細い銀針を近づけた。針は触れる前に黒く変色し、先端から粉になって崩れ落ちる。


「予想より早い」


「どの記憶から失われるのですか」


 セラフィナが尋ねた。


「星冠が欲しいものは、王太子としての知識と王家の魔力です。政務、歴史、外交、軍事についての記憶は最後まで残すでしょう。カシアンは、それを奪って殿下として振る舞うつもりですから」


「では、先に奪われるのは」


「好き嫌い、個人的な習慣、誰かと過ごした時間。つまり、殿下を王太子ではなく、一人の人間にしているものです」


 国を治めるための知識だけを残し、人を愛した記憶を奪う。


 それはカシアンにとって、都合のよい空の器を作る作業なのだ。


「止める方法はないのですか」


「星冠から偽石を外すしかありません。しかし、それまで殿下の記憶が持つかどうか」


「持たせます」


 セラフィナは作業台の上へ、七つの宝石を並べた。


 小粒の紅玉、煙水晶、黄玉、月長石、緑碧玉、青玉、そして無色の水晶。


「記憶そのものを取り戻すことはできなくても、石へ別の記憶を残せます。殿下ご自身の思い出が奪われるなら、私たちが覚えている殿下を、外から繋ぎ止めます」


「《記憶留め》か」


 ギデオンが宝石を覗き込んだ。


「理論上は可能です。ただし、石へ残せるのは、ここにいる者が強く覚えている場面だけです。整った言葉を用意しても意味がない。感情がなければ、宝石は覚えません」


「七つの石すべてに、違う記憶を入れます」


「時間がありません。台座を組むだけでも半日はかかります」


「お父様と三人で作れば、二時間でできます」


「銀線を細くしすぎれば切れるぞ」


 アルドが口を挟んだ。


「分かっています」


「分かっている顔ではない。焦るとお前は、必要な補強まで削る」


「お父様もギデオンも、私を十三歳の職人のままだと思っていませんか」


「二十一になっても、焦り方が同じだからだ」


「師匠の意見に賛成です」


「八年ぶりに戻ってきた人が、父親の側へ立たないでください」


 ギデオンは銀の義指を鳴らし、作業台の向かいへ座った。


「では、二十一歳のお嬢さん。俺は鎖を作ります。中央の台座は任せますが、一度でも急いで銀線を切ったら交代です」


「切りません」


「その台詞を言ったときのあなたは、よく切ります」


「二人とも、手を動かしてください」


 アルドが溜息をつきながら工具を取った。


 言い争いながらも作業は始まった。


 不思議な光景だった。八年もの間、互いに離れていた三人が、今は同じ卓を囲み、一人の人間の記憶を守るために銀を曲げている。


     ◇


 最初の紅玉を手に取ったのは、国王だった。


 マルタに止められたにもかかわらず、寝間着の上へ外套を羽織り、再び王太子宮まで来てしまったらしい。


「陛下。今度こそ、寝ていてくださいと申し上げたはずです」


「息子が私の名前を忘れかけているのに、一人で眠れると思うか」


「思いませんが、だからといって倒れてよい理由にはなりません」


「記憶を一つ話したら戻る」


「二つ話そうとなさったら、長椅子ごと寝室へ運びます」


「それはもうやめろ。王としての威厳が傷つく」


「王の顔を盗まれた時点で、多少の威厳は諦めてください」


 国王は反論できず、紅玉を握った。


「ルシアンが五歳の頃だ。王冠を作って、私へ持ってきたことがある」


「五歳の殿下が?」


 ノアが尋ねる。


「ああ。青い硝子玉を針金で繋いだ、ひどく歪んだ王冠だった。指を三か所も切り、血だらけの手で『父上の王冠は重そうだから、軽いものを作った』と言った」


 国王の手の中で、紅玉が淡く光る。


「私は忙しいと言って、受け取るだけで終わらせた。礼を言ったかどうかも覚えていない。あの子は、私が喜ばなかったと思っただろう」


「私は覚えていません」


 ルシアンが言った。


「そうか」


「ですが、父上が今も覚えているなら、作った意味はあったのでしょう」


「お前は、そういうことを簡単に言うな。こちらがどれだけ後悔していると思っている」


「では、後悔を減らすため、今礼を言ってください」


「十四年も経ってからか」


「何年経っても、言わないよりましだと父上ご自身が叔父上へ言ったのでしょう」


 国王は困ったように笑った。


「ありがとう、ルシアン。あれは、私が持った中で一番軽い王冠だった」


 紅玉の内側へ、小さな青い光が宿った。


 二つ目の煙水晶を持ったのはノアだった。


「私が二十歳のとき、父が危篤になりました。しかし任務中で、領地へ戻る許可が下りなかった」


「そのことは覚えているかもしれない」


 ルシアンが額へ手を当てる。


「君の休暇申請書に、私が署名した」


「いいえ。殿下は私の名前で、書類を作り直しました」


「公文書の偽造だな」


「今、その部分を冷静に分析するのはやめてください。おかげで私は、父の最期に間に合いました。戻ってから礼を言うと、殿下は『記録係が一人減ると困るからだ』とおっしゃった」


「それも、私なら言いそうだ」


「ええ。私は腹が立ちました。素直に親孝行をしてこいと言われていたら、普通に感謝できたのに。殿下は人に恩を売るのが下手です。相手が礼を言えないような言い方ばかりする」


「不満の記憶でもいいのか」


 ルシアンの問いに、ギデオンが答える。


「強く残っているなら、立派な記憶です。人間は、褒め言葉だけでできているわけではありませんから」


「では、このまま入れます」


 ノアは煙水晶へ語りかけた。


「私は、あなたのそういう面倒なところに何度も腹を立てました。それでも十四年、あなたのそばにいます。なぜなら、言葉が足りなくても、あなたが誰かを見捨てない人だと知っているからです」


 煙水晶が、静かな銀色に輝いた。


 三つ目の黄玉を手に、マルタが前へ出る。


「殿下が九歳のとき、王妃様に叱られて晩餐室の卓の下へ隠れたことがありました」


「待て」


「覚えていらっしゃるのですか」


「覚えていないが、その話を皆の前でする必要はないだろう」


「恥ずかしいと思えるなら、まだ殿下ご本人ですね」


 マルタは構わず続けた。


「夕食はいらないと意地を張りながら、卓の下でビスケットを十二枚もお召し上がりになりました。翌朝、誰が食べたのか尋ねると、犬だと答えました」


「王宮で犬を飼っていたのか」


「いいえ。一頭も」


「九歳の私は、もう少しましな言い訳を考えられなかったのか」


「口元に屑をつけたまま、犬だと言い張っておられました」


 部屋に小さな笑いが広がる。


 ルシアンも呆れたように笑った。


 その瞬間、黄玉が温かな金色へ変わった。


「笑っていらっしゃる殿下も、泣いていらっしゃる殿下も、卓の下でビスケットを盗む殿下も、私は知っています。王太子である前に、あなたは随分と手のかかる子供でした。今も、あまり変わっておりません」


「それは記憶というより説教ではないか」


「両方です」


 四つ目の緑碧玉には、近衛隊長が初陣の記憶を残した。


 戦死した兵士を見た十九歳のルシアンが、天幕の裏で吐いていたこと。平気な顔で指揮を執りながら、夜になると亡くなった兵士全員の名前を、一人ずつ確認していたこと。


「殿下は、恐れを知らない方ではありません。怖くても、翌朝にはまた先頭へ立つ方です」


「それを勇敢と呼ぶのか」


「私はそう呼びます。ただし、何でも一人で背負うところは迷惑です」


「今夜は不満ばかりだな」


「親しい者の記憶とは、そういうものかもしれません」


 近衛隊長が笑うと、緑碧玉に深い光が灯った。


 五つ目の月長石を手に取ったギデオンは、十二歳のルシアンが、王妃の壊れた髪飾りを修復へ持ち込んだ日のことを話した。


「石の中に白い傷がありました。交換したほうが美しくなると勧めると、殿下は拒んだ。王妃様が、その傷は月にかかった雲のようで好きだと言っていたから、傷ごと直せと」


「私が、あなたの工房へ?」


「当時の俺は下働きでした。殿下は俺の顔など覚えていなかったでしょう。けれど俺は、生意気な王子だと思いながら、その言葉を覚えていました」


「また悪口か」


「今は、良い意味で生意気だったと思っています」


「便利な言い換えだな」


「人間は八年もあれば、昔の嫌な記憶へ都合のよい意味を足すものです。だから記憶は、真実そのものではないのでしょう」


 月長石が、雲のかかった月のように輝いた。


 六つ目の青玉は、ラピスが担当した。


『我はこいつに噛みついた』


「なぜ噛んだ」


『腹が減っておったからだ』


「理由になっていない」


『竜にはなる。それに、人間は我を見つけると、角を切ろうとするか、皮を剥ごうとする。だから先に噛んだ』


 ラピスは青玉を両手で抱えた。


『だが、こいつは我を切らなかった。痛いと言いながら、食える石を持ってきた。そして、保管庫の外へ連れ出した』


「それは覚えている」


 ルシアンの声に、わずかな明るさが戻る。


「君は最初、私の上着の中へ隠れていた」


『隠れておらぬ。運ばせてやったのだ』


「そういうことにしておこう」


『こいつは、我を恐れなかった。正しく言えば、恐れておったが、怖くない顔をした。我はその匂いを覚えておる。顔を盗まれても、名前を忘れても、我なら見つけられるぞ』


 青玉が、ラピスの鱗と同じ鮮やかな青に染まった。


 最後の一つ。


 無色の水晶を前に、セラフィナは言葉を失った。


「無理に美しいことを言う必要はありません」


 ノアが言った。


「今夜の流れを見る限り、不満でも石は光ります」


「では、不満ならいくらでもあります」


「聞こう」


 ルシアンが彼女を見る。


「殿下は、とにかく無茶をなさいます。こちらへ危険なことをするなとおっしゃるのに、ご自分の命は平気で投げ出そうとする。契約だから利用すると言いながら、私が石の声を聞く前には、必ず許可を取ってくださる。優しいことをなさるのに、優しいと思われるのは嫌なのか、すぐ余計な言葉を足します」


「かなり言われているな」


「まだあります。怪我をしても隠す。眠らない。食事を忘れる。助けられることに慣れていない。人の手を六時間も握っておきながら、そこに医学的な根拠は一つもない」


「その話は、もう終わったと思っていた」


「終わっていません。私の手は半日痺れていました」


 皆が笑った。


 けれどセラフィナは笑えなかった。


「それでも、私は殿下を忘れたくありません」


 自分の声が震える。


「私が知っている殿下は、完璧な王太子ではありません。面倒で、不器用で、言葉が足りなくて、時々とても腹が立つ人です。でも、大勢の前で私と同じ顔の女が現れたとき、私の可愛げのなさを覚えていてくださった」


「褒めたつもりだったのだが」


「分かっています。だから余計に困るのです」


 セラフィナは水晶を握りしめた。


「私はまだ、自分の気持ちへ、きれいな名前をつけられません。三か月後のことだって、分かりません。でも、あなたがルシアン殿下でなくなるのは嫌です。あなたがご自分を忘れても、私は、私が知っているあなたを忘れたくありません」


 透明だった水晶の中心に、青と銀の光が生まれた。


 強く、温かい光だった。


 ルシアンはしばらく水晶を見つめていた。


「私も、君だけは忘れたくない」


 誰も何も言わなかった。


 セラフィナも返事ができなかった。


 その言葉を聞いた水晶だけが、鼓動のように光っていた。


     ◇


 七つの宝石を繋いだ首飾りが完成したのは、真夜中を過ぎてからだった。


 ルシアンが身につけると、王冠形の痣を覆っていた黒い光が弱まった。


「完全には止まっていません」


 ギデオンは痣を確認し、険しい表情を崩さなかった。


「それでも、流れは半分以下になっています。星冠へ向かう記憶を、七つの石が引き留めている」


「あと三日は持ちますか」


「持たせるしかありません。その間に、保管庫へ入り、偽石を外します」


 皆が退出したあとも、セラフィナはしばらく部屋に残っていた。


「少し眠ってください」


「君もだ」


「私は工房へ戻り、工具の準備をします」


「今夜くらいは休め」


「殿下にだけは言われたくありません」


「今夜、何度目だろうな。その言葉を聞くのは」


「殿下が、言われるようなことばかりなさるからです」


 ルシアンは、七つの宝石へ触れた。


「もし私が何かを忘れたら、正直に話してくれ」


「正直に?」


「都合よく美化するな。私が立派な人間だったなどと言う必要はない」


「その点は、ご心配なさらないでください。不満も含めて、すべてお話しします」


「それなら安心だ」


「本当に安心するところですか?」


「誰かの作った理想の私になるよりはいい」


 セラフィナは扉の前で振り返った。


「おやすみなさい、ルシアン殿下」


「おやすみ、セラフィナ」


 彼は確かに、彼女の名前を呼んだ。


     ◇


 それから一時間も経たないうちに、セラフィナの部屋の扉が叩かれた。


 寝巻きへ着替えたばかりの彼女が扉を開けると、廊下にルシアンが立っている。


 胸元には、七つの宝石を繋いだ首飾りがあった。


「殿下。どうなさったのです」


「確認したいことがある」


「何を?」


 ルシアンは、ひどく困った顔で彼女を見た。


「君の顔は覚えている」


「はい」


「君が私にとって、とても大切な人だということも分かる。私の婚約者で、宝石修復師で、無茶をすると私を叱る人だ」


「それだけ覚えていれば、十分です」


「だが」


 ルシアンの声が掠れた。


「君の名前が、思い出せない」


 忘れたくないと願った、その夜のうちに。


 ルシアンは、セラフィナの名前を忘れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ