第35話 北ルナリア
ラムダは手に取ったカップを下ろし、私もまた同様にテーブルへと置く。北ルナリアの状況などこの目で見たことはない。
大公閣下は僅かに目を細め遠くを見るよう視線を上げている。
「化け物共が跳梁跋扈していると、まさかそんな風に思ってはいまいな」
視線を下げ我々二人を視界に定める閣下に私が応じる。
「それはないでしょう。ギルドはそんな風聞を流しているのですか」
「いいや。さてそうだった、ご令嬢は殺戮の勇者と直に会ったのだったな」
首肯し閣下の言葉を待つ。
「北ルナリアは整然としたものだ。私もこの目で見たわけではない。が、ギルドの冒険者共によると事実らしい。ではなぜ勇者は海を渡り南下したのだ」
これは先日行った秘密会議に関わる話だ。恐らく私が語るべき事柄ではない。またラムダも議論を交わすことが出来ない。今は受け身に徹するべきか。たとえ我々が一応の結論を持っていたとしても。
黙して語らない我々を認めてか閣下は続ける。
「目に見えた話だ。ギルドの奴らは勇者は北ルナリアで敗北したと喧伝しているが、真に受けることは出来ない。せいぜい政治的に敗北したという程度だろう。理由は分かるな」
分かるな、と尋ねられても安易に応じることは出来ない。私の裁量で応じられない以上ラムダが答えるべきだろう。様子を窺っていると、
「整然としているのかは未だ情報として定かではありませんが、勇者が何を求めているのかは明白です。既に行動に移しています」
ラムダは静かに受け答えた。だがそんな彼の誤魔化しを閣下は認めない。
「南はいい、北ルナリアでの話だ。勇者が敗北したというのなら一体いつどこでどのような勢力に負けたのだ。それが全く伝わってこない。作り話の一つも流れてこないのはおかしいであろう」
確かに仰る通りである。そもそも論として、
「魔族との戦乱は百年続くと言われている。それはどこの話だ? 当然北ルナリアである。我々南ルナリアが巻き込まれたのここ十年。で、一体いつどこの勇者が敗北したというのだ」
冒険者ギルドは殺戮の勇者と敵対している。勇者に関する情報の正確性には疑問符が付く。敵対関係にある理由は明白で奴が転生者を狩り殺すからだ。
じっと聞き入る我々を眺め閣下は更に続ける。
「勇者が南下した理由は行動から見て明白だ。奴は聖ナルタヤを頼った。いや、実際は利用しようとしているのかもしれん」
核心に迫っている……だからと身動ぎ一つしないのはおかしな話だろう。ラムダはともかく私は素直に首肯して見せた。
「では聖王国の勇者となったのはなぜか。当然聖王国を含めるナルディニア地域をいずれ来る大戦に巻き込む為だ。エルカといったな。ご令嬢、君は勇者から何を聞いた」
閣下のそれは鋭利な問いかけではなく穏やかな口振りだった。なるほど、素直に応じたいところだが立場がそれを許さない。閣下の意図は登城してこそ明確になるものだ。今、大公閣下は明らかに時間を稼ごうとしている。なぜ?
疑問を胸に仕舞いこみ口を開く。
「転生者について色々と。異世界や異世界人についても。以降はどうか王宮でお話し合いになってはいかがでしょう」
「そうしたいのは山々だが、ライン王国まで巻き込まれるのは承服しかねる」
唐突、重く響く音がした。
目の前の男が本性を露にしたからだ。
何を今更、この状況でライン王国だけ無傷というわけにはいかない。もう南ルナリア中央部、すぐ近く、エストバル地域にまで戦禍は迫っているのだ。そもそもそれを私達に話す意図が読み取れない。一人の重臣として陛下や殿下に伝えるべき事柄だ。
はっと我に返りラムダを確かめると沈痛な面持ちで閣下を見つめていた。素直に受け取れば心情も察するが、これは違う。私はあえて身を乗り出す。
「閣下、それはご本心ではありませんね」
「はて、戦禍を望む為政者がおるとでも?」
「戦禍は今や南ルナリアにまで広がっています。殺戮の勇者が……」
くそっ、これ以上話すことが出来ない。私を秘密会議に呼び寄せた理由はこれだな。秘密と謳われてしまっては迂闊に話せなくなる。歯噛みする私を認め、閣下は怪訝な顔を浮かべた。
「ご令嬢、何か言いたげだが言えん理由もあろう。想像はつく」
ここでの沈黙は肯定を意味する。助けを求めるよう再びラムダを確かめると、諦めたかのよう俯いていた。何を、あなたの仕事でしょうに!
内心激昂する私に、
「殺戮の勇者は聖王国についた。ならばせいぜい聖王国に励んでもらえばいいのだ。責を負うべきは聖王国であり、聖王国を全面に押し出す。それが勇者の望みでもあろうしな」
冷水を浴びせるよう閣下は告げた。




