記憶回復フラグきた────!(笑)
きお「兵藤……波人……」
孝治の口から発せられた名を耳にした時、はじめの頭に鋭い痛みが走った。頭部ではない、脳に直接打撃を被ったような、そんな痛みであった。
「君の本当の名を思い出した時、名を偽り、何のためにこの田舎町に来たか、そのことを思い出した瞬間は知りたいと思ったが、今はもうどうでもいい」
言葉に温度があり、氷点下になることがあるのなら、今、柳沢孝治が発している言葉こそがまさにそれだった。
「正直、今、喜びで全身が震えている。大会覇者と、二度も剣を交えられたのだから」
しかも、ほぼ互角の立ち会いを展開して見せた。剣の道は己が研磨の道、他者を打ち倒すための道にあらず、という無音一刀流の教えに従い、孝治は今まで学校主催の大会ですら手加減してきた。だが、悟りを開いたような年齢の片桐道場主ならともかく、まだ闘争本能が猛る孝治のような年齢の者に、その教えは酷だった。
それだけに、喜びに打ち震えたのだ。関東随一の兵藤波人との立ち会いを。
そして、師・片桐の言葉を。
爪をいつまで隠すのか、という言葉。それは──裏を返せば、出していいということだ。
「最初は、メグちゃんに言い寄る身の程知らずとしか思わなかった。メグちゃ……吉川さんの男を見る目も濁ったと」
土を踏み鳴らし、孝治が一歩前に進み出た。
「だが、君があの兵藤波人であるのなら考え直そう」
孝治の、口の端がわずかに吊り上がる。鋭い瞳と相成って、孝治の顔は今とても剣呑な笑みが浮かんでいた。寄るもの全てを低温で焼き切るような、そんな笑顔。
「何がいいたい?」
はじめはあえて、記憶が消失していること、自分が何者であるかさえ分からないことは言わなかった。言ったところで、眼前の青年の心には届かないことが、理性によらぬもので悟ったから。
「君は吉川愛美をどう思っている?」
はじめの言に答えるでなく、孝治は問いかける。
問われて、はじめは驚いた。今、孝治にそう聞かれるまで、自分自身の愛美に対する気持ちを明快に意識したことがなかったことに。
愛美からの気持ちを受け止めようという気持ちはあったが、自分が愛美をどこまで考えているのか、というのは考えたことがなかったのた。
そして、ひとたび意識した時、愛美への思いは激流となってはじめの中を荒れ狂った。
「ほしい」
好き、ではない。
愛している、でもない。
自分自身という一個人が、吉川愛美という存在の全てを、欲しかった。相手を物のように語ると、たとえ他者よりどれほどなじられようと、それがはじめの、偽らざる本当の気持ちだった。
「完璧だ」
孝治の顔が、愉悦で歪む。これ以上はないというほど、楽しげに。
闇夜の宙に、何かが投げてよこされた。思わず受け取ってしまうはじめは、それが手に握られた時、剣道家としての得物であることを確認した。
だが、それは竹刀ではない。試合に使うには危険すぎるものであった。
「……本気か」
「無論」
それは木刀であった。こと殺傷力においては、竹刀とは比較にならない。それと承知で、孝治は凍りつくような笑みを微塵も崩さなかった。
「君とぼくとは並び立たない。同じ娘を欲する、不倶戴天の天敵だ」
今この時より、柳沢孝治は挑戦者であり、刺客だった。関東大会覇者への挑戦者にして、恋敵を葬り去らんとする刺客。
孝治の中には、二つの深刻な無念があった。一つは、道場内、学園剣道部での雄敵の不在。そしてもう一つは、至上とまで思えた恋人との心の交流の断絶。その二つの無念さが孝治の中で交ざり合い、やがて心の中で荒れ狂うようになった。
今、田中はじめ、ないし兵藤波人は、そんな行く場のない孝治の感情の、これ以上はないというほどの絶好の目標となったのだ。
一方、はじめの方も心穏やかではなかった。
それが、愛美に相手にされていない男であったとしても、はじめは黙っていなかっただろう。であるのに、目の前の柳沢孝治はかつて愛美と色々あったと思われる男だった。
はじめ自身の、気づいてしまった愛美への強烈な独占欲が、孝治にはっきりとした敵意を抱かせた。
月明かりと桜吹雪のカーテンの中、陽炎のようにゆらりと、孝治が動く。それが試合の、否、死闘の始まりの合図だった。
「消えてしまえ、兵藤波人!」
「貴様が消えろ……!」
──二人の高校男子が、一人の女子高生をめぐって殺しあう。
端から見れば三流の冗談としか思えない光景が、白夜山の中で現実となる。
だが、どれだけ端から見て異常・滑稽であろうとも、当人たちは至って本気、真剣だった。
激しい木刀の打ち合う音が、白夜山に響き渡う。
初撃を交えると、関東大会制覇容疑者と辺境の無名の若剣士は、互いの立ち位置を逆転させた。
再び木刀が打ち合われ、間にあった桜の花びらを霧散するように飛び散らせた。しばし重なり合った木刀を互いに相手へ押し付けようとする。それが無駄と知るや二人は同時に後方に跳んで距離を稼ぎ、次に目標に狙い撃つ隙をうかがうべく、平行線を描くようにはじめ側からは右、孝治側からは左に向けて擦るように走る。
戦いながら、はじめの中にわずかながら困惑が芽生えていた。
剣道を嗜んでいたことすら思い出せない我が身の、なんとなめらかに動くことよ──そして、
理由などどうでもよい。強豪と打ち合えることの、なんと心震えることよ!
当たりどころが悪ければ死すらあり得る、そんなのっぴきならない状況で、はじめはむしろ楽しんでいた。
孝治の方は、はじめと打ち合える喜びなどいまさらのことで、はじめと竹刀を交えた時から、すでに感じていたことであった。だが、一回戦うごとに、一回得物を交えるごとに手ごわくなっていくこの相手に、さらなる歓喜を抱いていたのも事実である。
各自、己の木刀を、叩きつけること、突くこと、なぎ払うこと数十回。相手の木刀を、かわすこと、受け止めること、押し返すことこれまた数十回。勝利は遥かかなたの地平で、どちらともがそこにたどり着くのは遠い未来の出来事に感じた。
だが、そんな実力の拮抗した勝負にも、終焉が訪れた。
互いの木刀が、いったい相手のそれと何回激突した後であったろう。ついに孝治の木刀が、はじめの面を捕らえた。鈍い音を立てて、脳天に食い込む。衝撃で額が割れ、血が雨となって桜色の地面に赤を添える。次いで、その己の血の雨の上に、はじめはうつ伏せに倒れ込んだ。
だが同時に、はじめの木刀が孝治の胴を捕らえていた。正確には左肋骨のあたりを。孝治はその部位を右手で押さえ込むと、激しいうめき声を上げてその場にしゃがみこんだ。
互いに重症であった。だが木刀であったゆえに、はじめは孝治が自分の頭に木刀を振るうゆとりを与えてしまっていた。
(これが、木刀ではなく真剣であったなら──)
孝治はすでに絶命し、頭への打ち込みは実現していなかったかも知れない。そのことを、誰より分かっていたのは孝治自身であった。
激痛が走る肋骨部位を押さえつつ、孝治は肉体のものではない痛みに顔をしかめていた。
「いててて……ちくしょう……」
少年、兵藤波人は頭をさすった。そして同時に、どうして相手の少女、来宮幸枝には自分の小枝が当たらないのかを不思議に思った。何回やっても、自分の木の枝は空を切り、少女の枝は自分の身体の至るところに吸い込まれる。枝に何か細工があるのではないか、と本気で思い、もっている枝を交換してみて、今、この有り様であった。
「アハハハハ! 相変わらず弱っちいの!」
枝を後頭部に当てて、両手でそれを押して戻る枝の弾力を楽しみつつ、幸枝はコロコロと笑った。鈴の音のような、澄んだよく通る声であった。
「うるさいっ! バカ!」
波人は、顔を真っ赤にして叫んだ。ただ負けたのが悔しいのではなかった。このままでは、いつまでも幸枝を「お嫁さん」にできないではないか。それの方が、波人にはとても悔しかった。
このままではユキを、隣の組のネギシに取られてしまうではないか。
「バカって言った方がバカなんだよ~だ」
だが、そんな波人の淡い心など知る由もなく、小さな舌を精一杯のばしてアカンベーをする幸枝。それがまた普段は可愛いと思ったりするのだが、今の波人には憎たらしいことこの上ない。
「う~っ」
だが、論理においても腕力においても勝てぬとあれば、これは男の、そう、コケンとやらに関わるのであった。
男は女を守らねばならない。それが守られているようではダメだ。波人は必死であった。
「そんなことじゃ、いつまで経っても私のお嫁さんにはなれないよ?」
いつまでも拗ねている波人から目を離し、踵を返して軽やかに走りだす。だが見捨てた訳ではなく、幸枝は手頃な木の上に上り始めた。
「あ、バッカでぇ。男は『お婿さん』って言うんだよ。そんなことも知らないの?」
ようやく見つけた相手の論理の欠点に突っ込み、波人は勝利の快感に酔う。二週間ほど前のおはじき以来、久々の快挙であった。
「……! い、い~んだもんっ、私が間違えるわけないもん。ナミトが間違ってるのよ!」
勝ったと思った相手に隙をつかれ、慌て、かつ顔を赤くして怒った。ナミトのクセになまいき、というやつである。
「い~や、ユキが間違ってる」
相手が激高すると、反対に余裕ができるのは幼稚園生も変わらない。波人は鼻息を大きく出して、小賢しげな笑みを浮かべる。
そう、これこそが男と女のあるべき姿なのだ。波人は満足だった。
「なによ、一回も私に勝てない弱虫のクセに! ベーだ、弱虫弱虫ぃ~だ!」
賢しげな口調の波人に、幸枝は切り札を切った。ジョオウサマの家来は、身の程を忘れてはいけないのである。
波人の、自分に対する反逆の罪は重い。この程度の屈辱刑は当然であった。
「うっせえ! 手を抜いてやってるだけだろっ! 調子に乗るな!」
波人の余裕が、とたんに崩れる。口でどう言おうとも、幸枝にケンカで一度も勝ったためしがなく、いつも泣かされている波人だった。
ここは虚勢でも、言わねばならぬ時であった。男・兵藤波人、未来の嫁に後ろ姿は見せられない。
「嘘つきぃ! もし本当なら、私がナミトのお嫁さんになってあげるわよ~だ!」
あからさまにバカにして、レロレロと波人に舌を振る幸枝。波人のその言い草は、散々聞き飽きたというものであった。
もう一度やられないと、分からないのだろうか。困った家来である。
「言ったな!? 見てろよぉ!」
波人は心に誓った。絶対に強くなって、あの木の上でレロレロしてる幸枝を、いつかメロメロにしてやると。
幸枝は、孤児院生の自分に別け隔て無く接してくれた。ただその一点だけでも、波人は幸枝が好きだった。
二人で駆け回った。殴り合い、蹴り合った。水を掛け合った。砂の山を作り合った……
唯一、不満だったのはチャンバラに勝てなかったこと。それも先日、ようやく枝当て合戦で勝ち、幸枝をお嫁さんにする権利を獲得した矢先のことだった。
「どうして行っちゃうんだよ!? ぼくのお嫁さんになる約束だろ!?」
波人は泣いてそう叫んだ。親の仕事の都合で引っ越すと言った。
嘘だ。やっぱり僕がコジだから、お父さんもお母さんもいないから、だから幸枝も僕を避けようとしているんだ。
波人はそう思った。
「だって……仕方ないんだもん」
幸枝は波人が好きだった。有り余る体力で遊び回って、手の早い暴力的な幸枝と、夜遅くまでどこまでも遊んでいられるのは、男女双方の中でも波人一人だけだった。他の子供は、泣いてしまったりして最後まで付き合ってくれなかった。
自分だって、好きで引っ越すんじゃない。昨日だって、必死に引っ越したくないと泣いて親にせがんだのに。でもダメなものは、ダメなのだ。なのにそういうこちらのことを、分かろうともしてくれない。男の子の、こういう一方的なところは嫌いだ。
幸枝は、そう思った。
「嘘つき! ぼくが勝ったらお嫁さんになるって約束したじゃないか!」
顔をうつむかせ、目をそらす幸枝を、波人は責め立てた。やはり幸枝が孤児の自分を避けようとしているとしか波人には思えなかった。波人を避ける他の子のように、幸枝も波人を避けることに決めてしまったのだ。
きっとそうだ。だから、引っ越しで逃げるんだ。
「……だって」
波人のお嫁さんになること、それがどういった意味なのか、幸枝には漠然としか分からない。約束した時、ただ、これからもずっと二人で遊んでいくという思いがあっただけだ。 だが、自分の意志とは無関係のところでそれが守れないことは知っていた。悔しかった。波人に悪いとも思う。
でも、ここまで言うことはないと思う。私だって、好きで引っ越すのじゃないのに。本当は、波人の側にいたいのに。
「嘘つき! 嘘つき! 嘘つき!」
幸枝がお嫁さんにならないことをなじる波人は、だがそのことをなじっているのでは、実はなかった。なじっているのは、自分を見下していないフリをして、対等に付き合っていたフリをしたことに対してだった。少なくとも波人の方ではそう感じた。
だから、お嫁さんの約束を破ったことにかこつけて、幸枝をなじる。幼い激情は、そうでもしていないと収まりがつかなかった。
「……私だって……っ」
だが、さすがにそうなじられてばかりいれば、後ろ暗い幸枝も頭にくる。自分のせいではないのだから、なおさらだった。
これだから、男の子は大嫌いだ。
「何だよ!?」
もう波人は、自分の気持ちすらよく分からなくなった。もう、何もかもが悪いように見えた。全てが、自分に悪意をもっているように思えた。その中で、ただ一つ思うこと。
ユキだけは、信じていたのに。
「なによぉ、分からず屋! ナミトなんか嫌い! 大っ嫌い! バカァ!」
こんなに苦しいのに、こんなに離れたくないのに、全然分かってくれない。誰が、波人から逃げたいなんて思うものか。それなのに、この分からず屋。
ナミトなんか、大嫌いだ。
「……嫌いで結構だよっ! ユキなんか死んじゃえ、バーカ!」
騙されていたことが悔しかった。この時、それが勘違いであることを、知ることも教えてくれる者もいなかった。だから、騙されていると信じて疑わなかった。
だが、それ以上に、騙されていたと信じてしまってなお、それでも幸枝が好きな自分が悔しかった、幸枝を嫌いになれない自分が情けなかった。
出会わなければよかった。好きにならなければよかった。だから思う。
ユキなんて、この世からいなくなってしまえばいいんだ。
その存在ごと。自分の記憶ごと。
北条学院中等部の体育館にて、その猛稽古は行われていた。
都内に北条の剣士あり、と他校に言わしめるほど、そこは強豪のひしめく剣道部の名門であった。やはり高等部の活躍が目覚ましいが、その高等部に至るための中等部にも、すでにして他者に猛者と呼ばしめる者たちは存在していた。
今年は、その中でも特に鬼才としての光沢に満ちた者がいる。
「おい……あれが」
「ああ。関東中学大会の覇者、兵藤……」
中等部に進学し、剣道部に入部してよりすぐ、兵藤波人は頭角を現した。北条の剣道部にあって、彼は二つ年上の三年生を、軒並み選抜試合で下し、大会出場の権利を得た。そして出たその年の大会で、優勝して見せたのだ。
優勝は、その年だけではない。その後、二年、三年と時を重ねても、彼にかなう者は存在しなかった。剣道の名門である北条が、全国に呼びかけ強豪・猛者を集った中でのことである。その実力は半端なものではなかった。
「やっぱり、威厳っていうか、まとってるオーラみたいなものが違うな」
「……そうか? お前、適当なこと言ってねえ?」
隣の友人が、そのように称することを、彼は少し忌々しく思い、それが反論するための口を開かせた。彼らもまた名門・北条にその実力を見込まれ、特待生として入学したのだ。友人の、根拠のない迷信的な発言に、尊敬というより畏怖のような感情を見取ったためでもあろう。まず自らを鼓舞し、大会の覇者になってみせるくらいの気概なくして、何が特待生、何が北条剣士であろうか。
「フン、お前程度では分からない……ん?」
友人の言わんとするところをまるで気に止めもせず、兵藤波人を見ていた少年は、だが、その波人の身体が緩慢な動きをしているのに気がついた。
「あれ、どうしたんだ?」
片割れも、波人の異変に気づく。明らかに、あれは健康な人間の動きではなかった。
「ちょっ……何だ!?」
二人が、波人の様子がおかしいと認識を等しくした時である。波人の身体が傾いたかと思うと、波人は体勢を整えることもなく、倒れるに任せて体育館の床に仰向けとなった。
「医者だ、医者を呼べ、医者!」
そこに波人がたどり着けたのは、奇跡のようなものだった。
幼いころ別れた、初恋の人を探して旅をする。それは常ならば理性のなせる業になく、迷妄の産物である。
だが、ひとたび脳漿に悪性の腫瘍を患い、大金なくばその余命もいくばくしかないとあらば、その迷妄に残る人生を捧げることも厭いはなかった。他の理想に準ずるには、波人はまだ年若く、それ以上の価値観を見つけてはいなかった。
「お久しぶりです、おばさん」
「来宮」の表札が掛かった家の扉、その横につけられたインターホンを押すと、誰であるかとの問いかけの声が響く。だが波人ははやる気持ちに一般常識を失念し、自分の気持ちだけで返事をしてしまう。
「……失礼ですけど、どなたですか?」
幸枝の母は、声だけで相手の判別ができる超能力とは無縁であった。まして彼女の知るナミトくんは幼稚園時のものであり、声変わりを済ませた中学生・兵藤波人の声など、彼女が知るはずもない。
「あ、えっと……ユキちゃんと幼なじみだった……」
再度何者であるかを問われて、ようやく波人は自分が名乗りもしていないことを分かる。だが、それでもまだ、どこかで名乗らずとも分かってほしいという思いに駆られ、回りくどく言ってみる。
「……ナミトちゃん? ナミトちゃんなの?」
声も違う。引っ越したところから距離もある。だが、娘より引っ越し先を聞いていたのか、と思い、いくつかの記憶の泡が脳の中で交じり合い、彼女は娘の幼なじみである兵藤波人の存在を思い出した。
「はいっ! お久しぶりです、おばさん」
名乗らずとも分かってもらえたことに、波人は感激のため声が高まっていた。そこからさらに何かインターホンから声が聞こえてくるのを待った波人だったが、変化は声でなく扉が開くという形で行われた。幼児だった波人の方と違い、数年経った今でも幸枝の母の容姿はまるで変わっていない。彼女は、波人の全身を見つめて何度も頷いた。
「ええ……ええ、懐かしいわね、本当に……もう中学生? はやいわね」
波人は覚悟していたことがある。
それは、先方に気持ち悪がられる、ということだ。
数年前の思い出にすがり、親同士の付き合いもなかった者の家に訪れるというのは、先も述べたように常識の産物ではない。自らが普通に老齢まで生きることかなわぬ身であると知ったからこそ、行えたことである。
だがそんなものは波人の都合で、先方には関係ない。変質者として白眼視されても文句は言えない。それが、懐かしがられ、歓迎の表情をされたことで、波人の心は救われた。
「はい。それであの……ユキちゃん……いますか?」
これなら、幸枝も暖かく迎えてくれるかも知れない。喜びに打ち震える波人の心は、そう期待しここまで来た目的を言葉にして体外に発する。
またしても自分の気持ちを優先させ、礼儀をすっ飛ばしていたが、もはや波人に余裕はなかった。
別れたあの時よりずっと求めていた姿が、すぐ近くにあるのだから──




