↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
12/16

私の屍を越えて往け

 目が覚めた時、そこは病院だった。


 その認識は、同時に、いま現在のたった一つの「記憶」でもあった。


 今、その場から記憶が始まった。そんな気分である。あるいは、最初からある程度の知能を持って生まれてきた、と言い換えることもできるだろう。とにかく、今以前の記憶というものがない。そんな状態で、波人は上半身を起こした。


 とたんに走る、頭部への激痛。あまりの痛さに、波人は頭を手で押さえる。するとそこには、大仰とも思える長さの包帯が、帽子にでも見立てるかのように隙間なく巻かれていた。


 自分が目を覚ましたことで、近くにいた看護師が気分を聞いてくる。一通り定石に沿った動きをすると、看護師は主治医を呼びに部屋を出て行った。


 脳波を調べる機械が、近くにあった。いくつかの状況認識が、波人に自分の置かれた立場を理解させる。ここが病院であり、脳波を調べる機械のある部屋で目が覚め、自分に記憶がないとくれば、説明されずとも分かるというものだった。謎なのは、せいぜい自分が冷静でいられる、その一事くらいである。


 主治医が部屋を訪れ、一通りの事情を聞いた時、それは波人の予想とほぼ一致した。つまり、どこかで頭部に強い衝撃を被り、気を失った。それを誰かが病院に連れてきたというものである。


 波人は、それに付け加えて自分に記憶がないということを伝えると、彼らは難しい顔をした。後で知ったが、それは波人の持ち物から金銭がほとんど発見されておらず、治療費を得ることが困難であるという思いからであったようである。


 その後、医師たちは必死に、波人の記憶を取り戻させる努力をした。医師としての建前は当たり前だろうが、このままでは治療損ということの方が医師たちには耐え難かったのであろう。


 患者の精神状態より医師の生活費の心配が優先された治療の中で、波人が持っていた、空に近いサイフの他には唯一の持ち物に、やはり話は焦点を置かれた。


 それはスポーツバックであり、その中に入っていた剣道の道具一式であった。剣道道具には、かつての持ち主であったと思われる者の名が刻まれていた。その名に覚えがある筈だ、親族か何かだろう、住所とかも思い出せ、という内容の言葉を、できるだけ穏当な表現の、優しい口調で医師たちは波人に繰り返した。


 お陰で波人は、そんな、自らに関して何も記憶のなかった状態から、少しは進歩した。とりあえず自分に関して、二つのことを思い出したのである。


 一つは入院中、医師たちの会話を密かに耳にしたことで、思い出した、というよりは判明したことである。


 それは、自分の脳に腫瘍があり、大金のかかる、かつ生存率の低い大手術をしなければ長くは生きられない、という、大層うれしくない話であった。


 そしてもう一つは、剣道道具に刻まれた名前「来宮幸枝」という人を、自分は探さなくてはいけないということである。何かはおぼろげながらしか思い出せないが、大切な人の名前だった気がするのである。


 その二つの事実が波人の中に注がれ、醸されると、彼はいても経ってもいられなくなった。そのまま黙って病院にいても、自分が何者であるかも思い出せずにこの世を去るだけだと思った。儲け第一の病院の治療を受けていたところで、記憶が回復するとは波人には思えなかったのである。


 こうして、波人はスポーツバックを持った逃亡者となった。


 自らの記憶を取り戻し、記憶の彼方で自分を手招きしている「来宮幸枝」に会いにいこうとする、滑稽ながらも悲しい命懸けの逃亡者に──






 目が覚めた時、そこは吉川家で自分が借りている部屋だった。


 田中はじめと名乗っていた青年は、今、ようやく自分の本当の名、兵藤波人という名を思い出す。


 空白だった部分が今、完全に埋まり記憶が積み重なり始めた。あるいは、病院から今までの記憶の下に、かつて過ごしてきた記憶が底上げされた、と言い換えることもできる。とにかく、かつて逃走した病院で目覚める以前の記憶が復活した。そんな状態で、上半身を起こした。


 病院の時は、目を覚ましたことで看護師が側に寄ってきて気分を聞いてきた。だが今、その役を担える人物は、自分の横で壁に寄り掛かって寝ていた。


 細かい事情は無論分からないにしても、そのために波人は、自分が今こうして吉川家の部屋で寝ていられる大略が何となく分かった。


 きっと、この健やかな寝息をたてているおさげの少女が、背負うなりして連れてきてくれたのだ。わざわざ、自分の負傷を手当までしてくれて。


 そこまで考えた時、とたんに頭部へ激痛が走る。あまりの痛さに、波人は頭を手で押さえ、前のめりにうずくまる。かつて病院でそうであったように、頭には包帯が巻かれていた。が、そんなものを気にしている余裕は波人にはなかった。それ以上に、波人を苛み、苦しめるものがあったから。


 頭痛の波が少し落ち着いた後、しかし波人は、その苦しみによって上半身を起こし直すことができない。


 愛美の恩への暖かな感謝の念も、消し飛んだ。


 胸に飛来する、物理を越えた痛みのために。






『はい。それであの……ユキちゃん……いますか?』


『………』


『……おばさん?』






 告げられる事実。それを告げた時の、幸枝の母の顔。それらのことを、何と表現していいか分からなかった。


 淡い恋の対象だった娘の、その母。その人の言う言葉の意味も、浮かんでいた表情も、その頃の波人には、今まで見たこともないものであったから。


 当時の記憶が蘇り、胸の痛みの激しさが増し、波人は布団に顔を埋める。


 過去を失って目覚めた病院から、過去を取り戻したつい先まで、記憶の彼方にいる誰かに会おうと願っていた。記憶が返れば全てが丸く収まると、あまりにも少ない路銀で、無謀とも思える旅路に身を委ねた。


 しかしその先に待っていたものは、






『……あの娘は……もう、どこにもいないの……この世の……どこにも……』






 もう二度と取り戻すことのできない思い出だけだった。


 告げられる事実。それを告げた時の、幸枝の母の顔。


 交通事故だった、と言う。だが、それが何だろう。


 それがたとえ他のどんな理由であったとして、それが何であろう。


 変わりはない。二度と再び、幸枝に会うことができないことには。


 波人の目頭は熱く高ぶり、布団が涙で湿った。






 深夜。


 月も隠れ、白夜の山中はいよいよ真の闇に包まれた。一寸先すら容易に見えず、その中を人が行くのは不可能なように思われた。


 だが、その中を行く者がいる。兵藤波人であった。


 彼は全てを思い出していた。


 自分は天涯孤独の孤児院出身であること。幼い頃、憧れ焦がれた少女がいたこと。その少女が引っ越し、別れたこと。その少女との、喧嘩ともじゃれあいともつかぬ遊びが高じて、剣道を始めたこと。


 その剣道で活躍すれば、どこかで少女が見ていてくれるかもと死ぬ気で打ち込んだこと。中学になるころには、関東大会を征する剣士になったこと。それと同時期に、己の脳内に腫瘍があることが発覚したこと。


 それを摘出手術するには、めまいを起こしそうな桁の金と運が必要であると医師に宣告されたこと。延命を物理的に不可能と捉え、幼きころの想いに残りの人生を捧げ、孤児院を飛び出し旅の空の下に身を置いたこと。


 奇跡的に、少女の引っ越し先を突き止めたこと。その先で、少女は中学二年の時、帰宅途中でダンプカーの飲酒運転事故に巻き込まれてこの世を去っていたこと。


 そして――


(全てに絶望し、この身を崖から投じたこと……)


 幼き頃の想い人、来宮幸枝の眠る墓地を、その母である早枝より聞き、墓参りに行った。お墓のある場所は、幸枝の家族が住まう場所からは大分離れた田舎にあり、波人は一人で墓地に向かった。そして、線香を上げながら、波人は無言だった。


 現実に、口で何も言わなかったというだけではない。心の中で、波人は幸枝に語りかけるべき何事も見つけ出せずにいたのだった。


 生まれた時から、両親の顔も、愛情も知らなかった。


 孤児院の子ということで、ロクな育ち方をしないだろうと周囲の蔑みを受けた。


 唯一心通じ合えたと思った片思いの娘は、引っ越して自分の前からいなくなった。


 自分の活躍をどこかで見ていてほしいと、剣道で打ち勝ち続けて得たものは、脳腫瘍による自らの短命という事実の認識だけだった。


 自分の生命が、あと数年の後に消える。そう知った時、波人は幼かった頃の思い出にすがった。恥も外聞も捨てて。せめて最後に、思い出の共有者に会いたい、と。


 しかし、それすらももう、手の届かぬところに行ってしまっていた。


 あとわずかで少年から青年になろうとしている年齢の若者は、だが、もはや「あとわずか」までの刻すらも生きる気力を残してはいなかった。何事かを考えてしまう脳も、その命で動いてしまう手足も、波人には煩わしいだけだった。


 だが、その何事かを考える脳が、自分の最後の行動を考え出した。


 どうせ、あとわずかで尽きる生命であるのなら。今尽きることと、どれだけの差があるのだろう、と──


 波人の脳は、己の足に最後の命令を下した。


 自分を、幸枝の元に行ける場所に導け、と。


 飛び降りれば、死ねるだけの高さがある場所に行け、と……






(だが、俺は死ねなかった)


 幸枝が眠る地に存在した山間から、落ちれば死ぬと思える高さからその身を投げ、しかし結果は、記憶を失いつつも一命を取り留めた。通行人に助けられ、病院に運ばれた。


(俺は、自分の生命を捨てることすら出来なかった訳だ)


 波人は笑った。健全な笑いではない。己を蔑む笑い、運命を罵る笑いだった。


 記憶を失い、幸枝の面影だけが頭の中に残り、会いたい、再会したいという想いだけが空しく蘇った。


 すでに来宮幸枝という存在は死んでこの世からいなくなっているのに、記憶を失ったせいで旅を続けた。孤児院から飛び出して後、旅先で偶然、幸枝の引っ越し先を知った時までのように。


 全てが馬鹿馬鹿しかった。記憶を失うことで、無駄な時間を生き永らえてしまった。いや、無駄どころか、記憶の回復と共に蘇った様々な悲しみを、再び味わうことになった。


 あの時死んでいれば、二度もこんな、苦しい思いなどせずに済んだものを――


(もうたくさんだ)


 目に映る全てがイヤだった。


 何もかもがどうでもよかった。


 もはや、死ぬこと以外に望みはない。死して再び、幸枝と会いまみえること以外に。


 波人は一歩、また一歩と白夜山中を歩いていった。山頂の方を目指して、確かな死の歩み、自らの人生を終える終焉の歩みを。


 白夜山にも、飛び降りれば助からぬであろう高度の場所はあるだろう、と。今この時ではなく、失われた過去を見据えた、虚ろな瞳で上方を見た。


 そのとき、波人の視界に入った。


 この四日間、自分に好意以上の態度を示し続けてくれた少女の姿を。


 布団から抜け出し家を出た後、愛美も起きて波人の後を追ってきていたらしかった。そして、先回りして目の前に現れた。この山に長年住んできたのなら、波人に先んじて回り込むことなど造作もないに違いない。


(愛美……ちゃん)


 愛美だから、今の波人の瞳にも映った。


 他の誰でもダメだった。もしこれが他の誰かであったなら、波人は相手を無視し、その足を止めることはなかったであろう。


 だが、この四日間で示された愛美からの好意には、波人の心を動かすものがあった。心凍てつかせ拒絶するには、おさげの少女から受けた、見も知らぬ筈の自分に向けてくれた心の交流の記憶は暖か過ぎた。


「やあ……」


 だから波人は、少女の側まで歩み寄ると、足を止めて口を開いた。


 本当は、記憶の中の幸枝以外に話しかけることなど、億劫なだけだったけれど。


「どちらに……行かれるんですか、はじめさん?」


 今だ仮の名で波人を呼ぶ愛美の顔に、疑問と憂いが同時に内在した表情が浮かんでいた。あるいは、波人の生気のない姿に、胸騒ぎを覚えたのかも知れない。


「……花見に」


 我ながら苦しいその場しのぎだ、と波人は思う。しかしまさかバカ正直に「投身自殺をしに」とは言えない。だがそうであれば、こんな時間に山の上を目指して歩いている理由など、うまいものが思いつかなかった。


「花なら、上に行かなくてもあります」


 愛美が、当然の返答をする。周囲一面桜景色、わざわざ上に行く理由は皆無だった。


「上の花なら、もっと綺麗かと思って」


 いかにも取って付けた言い訳だった。実際、取って付けた言い訳なので、案の定、愛美を説得するには至らない。


「……じゃあ、もう戻りましょう。怪我を押して見に行くほど、上と下の桜に違いはありませんから……」


 愛美は、その可憐な容姿に目一杯の穏やかさ、暖かさを込めて波人に微笑みかける。だがそれは、不安の裏返しであった。愛美は、今ここで波人を一人にしてしまったら、二度と会えなくなってしまうという不安を抱いていたのだ。


 もし、世に言う「女の感」というものが存在するなら、いまこの時の愛美のそれが、鋭く研ぎ澄まされていたのかも知れない。


 起きた時、布団がもぬけの空となっており、慌てて家から飛び出し、どことも知れぬ筈の波人の行き先を読み、先回りしてみせた。そして今、ここで波人を一人にしたら、もう二度と会うことができないという感覚を、理性や理論によらぬ領域で悟ってみせたのだから。


 波人としては、ここは一旦引くところなのであろうと思う。思うがもはや、別の機会をのんびり待つような気力は残ってなかった。波人は、一刻も早くこの世から去ることしか頭になかった。


 せめて最後に迷惑を残してはならないからと、吉川家の包丁を使わなかったのが。


 せめて最後に笑って別れようと、今こうして嘘をついているのが、せめてもの彼の気力であったから。


 そしてその気力も、もはや尽きた。


 愛美と、というより、心の中の幸枝以外の人間と、四の五の問答を繰り返すのが煩わしくなり、波人はもはや無言で愛美の横を通り過ぎようとした。


 だが、愛美はそんな波人の前に回り込み、決して先へは行かせまいとする。家から抜け出した波人の前に、先回りして眼前に姿を出してからのこのわずかな時間、急速に成長して行く胸騒ぎが、いよいよ大きなものとなって愛美の心を覆っていった。


 道を譲って欲しいという意志を、波人はもはや言葉にすらしようとはしなかった。前に立ちはだかった愛美を、乱暴に右手で払い退けようとする。


 だが、愛美は頑としてどこうとはしない。足に踏ん張りを利かせ、自分の右肩に掛けられた波人の右手を両手で掴み、必死に抵抗を試みた。


 だが、先日までの記憶を取り戻そうとしていた時のじゃれ合いと違い、波人は愛美に対して、手加減はもはや微塵も加えなかった。病院生活の時期もあったとはいえ、元々の武道者としての骨格に恵まれた身体と、関東大会を征するだけの稽古によって研磨された男としての膂力は、女では容易に抗し切れるものではない。抵抗も空しく、愛美は勢い良く横に弾き飛ばされ、地面を転がることになった。


 必死に地面の上を転がる己の身体の回転を圧し止めながら、愛美は理解した。何がどう、というのは分からない。だが、今、青年を放っておいてはマズい、全力を持って、彼が上に行くのを阻止しなければならない、という勘を、愛美は確信に変えた。


 波人はもはや、地面に転がった愛美に視線を向けようとすらせず、邪魔者のいなくなった山頂への道を歩きだしていた。それを見て、愛美は慌てて立ち上がり、大声で波人の背中に呼びかけた。


「はじめさん!」


「………」


 波人は、足を一瞬止めた。だが振り返りはせず、声すら出さず、それがわずかなためらいでしかなかったと言わんばかりに、再び歩きだした。


 愛美は急いで波人の後ろに追いすがり、その右腕を両手で掴んだ。


 波人は、右腕に渾身の力を込め、その愛美の両手を力いっぱい振り払う。


 だが今度は、愛美は吹き飛ばされなかった。愛美とて幼少の頃より剣の道を歩み続けた女剣士であり、そこらの生なかな婦女子とは身体のつくりが違う。全身を乗せた勢いであればともかく、右腕だけの膂力で弾け飛ばせるような、やわな女ではなかった。


 波人はこの時、ようやく愛美の方に振り返った。だがそこに浮かんでいる顔は、愛美がこの数日間に見た、どの表情とも違った。


「離せ」


 つい数時間前まで、一緒にスポーツバックを探しに一日中歩き回っていた相手とは、愛美は思えなかった。それほどの衝撃を、愛美は受けた。


 歩き回っている間、愛美は自分の様々なことを話して聞かせた。たった一つ、どうしても言えない事柄を除いて。


 そのとき波人は、笑ったり、拗ねたフリをしたり、笑わせてくれたり、褒めてくれたり、からかってきたりと、そんな返事をしてくれた。自分の拙い求愛に、それを上回る情で返してくれた。


 よく知りもしない自分に言い寄られ、さぞ困惑したであろう。あるいは、気持ち悪くすらあったかもしれない。


 それなのに、目の前の青年はしっかりと答えようとしてくれていた。同じくらい、愛そうとしてくれていた。


 してくれていたのだ、つい数時間前まで。


 なのに――


「どうして……?」


 なのに今、波人のその自分を見つめる顔はどうだろう。まるで、見下していると言っても過言ではないくらい、冷ややかなものだった。真にこの数日間付き合って来た波人と同一の人物であるかさえ、愛美には疑わしく思えてしまう。


「もう俺に構わないでくれ」


 そんな自分を見つめてくる顔が、昨夜、愛美が自分の母親の話をしている時と同様、ないしはそれ以上の悲しみに彩られたのを見て、波人は、死の願望、虚無の氷に凍てついた己の心にわずかばかりの痛みが走ったことを自覚する。


 ギリギリのところで、まだ波人は人としての感覚を保っていた。まだ、この世の全ての事柄と縁を断ち切るというところまでには至っていなかった。


 しかしそれも、蜘蛛の糸と呼ぶのすらおこがましいほど危うい、か細い理性の線にしか感じられなかったけれど。


「イヤです!」


 そんな波人に、愛美は叫んだ。叫ばずにはいられなかった。


「今のはじめさんは、放っておけません! うまく言えませんが、……どこか、危ういものを感じます!」


 それを聞いて波人の心は、灼熱した。思い出した様々な過去で、共通点は自分の願いがことごとくかなわなかったこと。


 今また、死にたいという願いすら阻む存在が目の前にいる。今この瞬間、波人の心は熔岩と化した。


 愛美に、ではない。


 運命、宿命とかいうものを司る何者かに、波人はもはや我慢の限界だった。


「いい加減にしろっ!」


 頬を叩く音が、甲高く白夜山中に響いた。


 愛美が両手で掴んできている右腕とは逆、左の手で波人は、愛美を思いきり張り飛ばした。


 さすがの愛美も、これはたまらなかった。波人の右腕を掴んでいた手は離れ、勢い凄まじく転倒する。


 波人にはたかれた右の頬が疼いている。だがそれより、波人が自分に手を上げたことの方に気を取られ、呆気に取られてしばし立ち上がるのも忘れた。


「たくさんだ……もうたくさんだ!」


 父と母がいる、普通の家庭に生まれることも。


 自分を孤児と、見下すことのない友達も。


 腫瘍を患うことのない、健康な身体に生まれることも。


 何ひとつ自分で選ぶことも得られることもできないのなら、せめて。


「死ぬことまで邪魔されてたまるものか!」


「……死……!?」


 波人の言葉に、愛美は絶句した。


「死ぬって……どうして……どうして、死ななければならないんですか」


 愛美としては、そう聞くより他にない。


 熱く疼く右の頬を摩りながら、立ち上がって波人を見据える愛美。服についた土や埃、桜の花びらなど気にしている場合ではなかった。


 殴り飛ばされてなお立ち上がり、関わってくる愛美に波人は、もはや殺意の領域にも到達しかねないほど、憎しみの籠もった視線を持って応じた。


「君には関係ないことだ」


 声のトーンが、一瞬前と比べて急速に落ちた。だが、それゆえに声に籠もる憎しみの量は相対的に増大していることが、愛美には感じられた。


 歯を食いしばる、唇が破けるほど。手を握り締める、肌が白くなるほど。捨て身となって求愛した結論が、この結末なのだろうかと思えば、悔しさに歯軋りしたくなるのは当然であった。


 だが彼女の、柔和とは言い難いその心が、波人を諦めることを頑なに拒絶する。


 吉川愛美という存在の、一個人の矜持にかけて。自らに、諦めという名の敗北を背負わせることを。


「がっかりです。すごく」


 だが、言葉による引き留めは、自分にはできそうにないことも分かっている。


 だから、自分にできる止め方をする。男も女も関係ない、自分として。


 吉川愛美として。


「一目惚れした相手が、こんな恩も知らない、ちょっと嫌なことがあっただけで、死ぬなんて駄々をこねる、お子様だったなんて」


 愛美のその言葉が、波人に与えた変化は劇的だった。虚無とも、冷たい憎しみともつかぬ静けさに包まれた波人の顔が、時間を逆行したかのように再び激しく怒りに歪んだ。


「……お子様だと?」


「周囲に迷惑をかけ、スネて自分でそれを改善しようとすらしない……そういう行いは、大人ではありません。幼児のすることです」


「お前になにが分かる!?」


「何も分かりません。子供っぽい人の言い分なんか!」


 竹刀を一回、自分と波人の間で水平に振り、虚空を切り裂く愛美。


「たとえどんな理由があろうとも、死ぬなんてこと、絶対にさせません! どうしても死ぬとおっしゃるなら……この、吉川愛美の屍を乗り越える覚悟で行ってください!」


 その言葉に、波人の目がスッ……と細まった。


 波人の、その日二度目の剣道の戦いが、静かに始まった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。