「笑わない」
――話は、まだ兵藤波人が田中はじめを名乗り、喜多島医院で診察を受けた直後にまで遡る。
時計の針が一分を数十回刻んだ後、診察室の扉が開いた。待ち合い人用のソファーに、本棚から取ったレディースファッション雑誌を読んで待っていた愛美が、本を脇に置いて立ち上がる。ゆっくりと近づいてくるはじめに、愛美は声を掛けた。
「はじめさん……どうでしたか?」
「何でもなかったよ」
はじめは笑顔で答えた。
「言ったろう? あの時は空腹で倒れただけだって。君の剣道の先生も、何か見まちがっただけだよ」
「……本当ですか?」
後ろで穏やかに微笑んでいる喜多島に、愛美の視線が注がれる。
「ああ。問題ないよ」
その言葉を聞き、お下げの少女はため息をつく。安堵のため息だった。
「よかった……」
胸に手を当て、目をつむる。そんな愛美の姿を見て、はじめは心にかすかな痛みが走った。それは彼女の、自分への心配の度合いを見せられたからであったろうか。
「……ゴメン。心配かけちゃったみたいだね」
「いいえ……」
はじめの暗い顔に、おさげの少女は笑って見せた。だが、その瞳に涙になりきれぬ潤いがあったことをはじめは見逃さなかった。
どうして、会ってからたったの三日の男をそこまで――
そう思う。だが、はじめは純粋に嬉しかった。
「ただ、片桐先生が言ったから……先生、嘘や冗談を言う方ではないから……それで、少し、不安になってしまって」
片桐というのは、道場であったあの灰色のひげの老人だろう。はじめは頭の中ではそう考えていたが、口に出したのは別のことだった。
「さ、行こう。何でもないと分かれば、病院に長居は無用だろ?」
「ええ……そうですね」
「おや、もう帰っちゃうのかい? もっとゆっくりして……あっ」
そこまで言って、終始穏やかだった喜多島の顔に、とつぜん驚きと不安の彩りがあふれた。彼は急に身をひるがえすと、急いで診察室の中に戻る。そして、「ああ、やっぱり」という無念の声を中から響かせるのだった。
「……どうしたんだ? 喜多島先生」
「ええ。何かあった……あ」
診察室に入った時、愛美は喜多島が何をしていたかを思い出した。
「多分、今日の晩ご飯を何にしようか、考えてらっしゃるのです」
「晩ご飯?」
「……同じ診察室にいたのに、匂いとかなかったんですか? 湯気とか」
「匂い? 湯気?」
「……分からないなら、いいんですけど」
気の毒になった愛美は、診察室に向かって歩きだした。
「はじめさんは、玄関で待っていてください。私、先生を今日の晩ご飯にお誘いしてきますから」
「え……」
はじめの胸中に一瞬、不安がよぎった。愛美と喜多島が診察室で二人きりになることに。 もし、喜多島が愛美の可憐さ、その魅力に抗しきれず、魔が刺して襲いかかっったらどうなるか。喜多島の身体は大きく、がっしりしている。いかに愛美が剣道を嗜んでいようとも、上から被さるように押さえ込まれてしまえばひとたまりもないのではないか。そうなったら、愛美の可憐な身体が、あんなことやこんなことをされてしまって……
「いや、そうではなく」
はじめは、両手で何かを右脇にどけるゼスチャーをする。
「……どうかしたんですか?」
「いや、天地神明に誓って何事でもない。決して」
はじめ自身としては、若気のいたりによってあらぬ方へ暴走した妄想を、右にどけたという確固たる理由があるのだが、はたから見てれば独りでゼスチャーする寒い男にしか見えない。いや、事実そうなので愛美のはじめを見る視線は若干冷たかった。しかし愛美が人の心を読めたなら、視線が冷たい程度では済まなかったろう。天にあって万物を見守る者が、愛美に千里眼を与えてなくて本当によかった。はじめは心底そう思った。
「? 変なはじめさん。……じゃあ、玄関で待っててくださいね」
玄関の方に踵を返し、愛美に背を向けたはじめは、やや小さい声色で返事をした。
「あ、ああ。待ってるよ」
愛美と二人きりになった時、はじめは喜多島忠志が自分とかわした会話を愛美に漏らすのではないか、という恐れがあった。だが、まさか馬鹿正直に「君と先生に、自分の耳の届かない場所で会話してほしくない」とは言えない。ここは喜多島の口の堅さを信じて、玄関に行くしかなかった。
それに今、はじめの身体には変化が訪れていた。それは全身を見ればわずかなものだったが、はじめの社会的立場からすれば非常に大きなものだった。愛美にそれがばれてはたまらない。千里眼でなくても、はじめが何を考えたかばれてしまうというものだった。
「それじゃあ、すぐに行きますから」
そう言って、診察室の扉の奥へと消える愛美。はじめは、自分の身体的変化がばれなかったことを安堵して玄関へと歩きだした。
だがその時である。診察室の方に視線を向けながら歩きだしたはじめは、前に掃除用の金バケツが並々と水を張って置かれていることに気づかなかった。期せずしてそこに足を突っ込み、突如感じた足の冷たさに驚き、拍子にバケツに突っ込んで自由を失った足が絡まり、仰向けに激しく転倒した。
「ぐはぁっ!?」
そしてその弾みで足からバケツが抜け、宙を舞った後に中に張ってあった水がはじめを包み込む。
「つ、冷たっ……」
次いで、仰向けに倒れているはじめの顔に、空となったバケツが落下した。
「がふぅ!」
天にあって万物を見守る者は、愛美に千里眼こそ与えなかったものの、罪深き者に罰を与えることにはやぶさかではないようであった。
夜。吉川家では、はじめが愛美の父である明彦の、少し大きめな服をまとって風呂から上がっていた。
「やっぱり、少し大きかったですね?」
「俺も小柄な方じゃないと思うけど、明彦さんは大柄だな」
はじめの身長は、百八十にわずかに届かないといった背丈である。だが、明彦の服はどう見ても百九十センチ用を誇っていた。
掃除用バケツに張られた水によってずぶ濡れとなったはじめは、急いで吉川家に戻り、その身を風呂で洗い清めた。
その際、愛美はカップラーメンをノビノビにしてしまった喜多島を夕食に誘ったのだが、「これは、頑張っている私に食事のひとつでも奢れという天啓ですね」と、受付嬢の藤岡女史にさらわれた。従って今、吉川家の人口は昨夜と同じ総数二名である。
はじめが風呂で汗と共に掃除用水を洗い流している間、愛美は二人分の夕食を作っていた。父親の分は、仕掛けだけしておいて、後はレンジで暖めるだけの状態で台所に置いておく。母親・佳子が、約七年前に他界してより今日まで、それが愛美の役割であり、義務であった。その時、愛美は未だ中学生にも満たぬ年であったが、だからといって彼女の父はこのおさげの少女を甘やかしはしなかった。
何もしないより大変だったのは当たり前だが、お陰で、愛美は今なら大抵のものはレシピさえあれば作れる。その料理の腕前が、気に入った男の口を喜ばせることに貢献しているのだから、今この瞬間は、愛美としては大変なだけではなかったと思えた。
「さ、はじめさん。もうできてますよ」
風呂上がりのさっぱりと血行の良くなった顔で広間に赴くと、そこには愛美の労作が並んでいた。戻ってきて、風呂を浴びて、出たら食事が用意されている。しかもそれは、自分に惚れたと言ってくれる、そうお目にかかれぬほど可憐な美少女のお陰なのだ。
今、はじめは、喜多島医院での不幸な出来事など遠い彼方のどこ吹く風、生半可な既婚者よりもはるかに幸福な思いを噛み締めていた。
これでビールでもあれば文句なしに最高なのだが、さすがに未成年者にして居候の身でそこまで言えぬ。寝床と食事だけで、すでに望外のもてなしなのだ。これ以上、何を求めることができるだろう。
「はじめさん……お酒はお飲みになりますか?」
「……え?」
「父のために買ってあるビールがあるんですけど……よろしかったら」
はじめは絶句した。この世に、こんな(小市民的ながら)幸運があっていいものか、と、思った。
むろん、会った初日から今まで、散々蹴られ殴られはたかれて、酷い時には踏まれたことすらあったことは忘却した上での感想である。
わずかにためらったが、ありがたくいただくことにする。その際、はじめは「お酒は成人になってから」という短文は、何語であろうと読めないことに決めた。
テーブルの前に座り、わざわざ愛美にお酌までしてもらって、夕食にありついた。
「はじめさん」
「ん?」
幸福に顔がゆるみっぱなしのはじめに、ビール瓶を両手で持った愛美が視線を注ぐ。
「どうですか? 三日間、この町で暮らしてみて」
「……どうですか、と言われても……」
とたんに、はじめの顔が難しげなものに変化した。
「まだ三日、町の方に何回も繰り出したわけでないし……何とも言えない」
愛美の表情が、心なしか暗いものを含んでいるように見受けられたので、はじめとしてはそこで言葉を切ることはできなかった。
「でも、この……白夜山はいいと思う」
町に降りるたび、周囲の樹木を見る。今は春、その樹の大半は今この季節の花を付け、桃色の吹雪をはじめに見せる。自然を愛しているなどと、おためごかしを言う気はないが、それらが美しく、心に染み渡るように見入ってしまうことは事実だった。
「町とかにはない……落ち着いた、騒々しくない感じというか……何て言えばいいかな」
はじめは、自分の中にある考えを言葉に直そうと頭を捻るが、なかなかいい言葉が浮かんでこない。もともと、自分に学があるとは思わないはじめだが、こういう時は自分に文学力がないことがもどかしい。
「閑雅、ですか?」
そんなはじめの、思いをくみ取り言葉に変えたのは、自らの口ではなく愛美のそれだった。
「そう、それそれ、カンガだよ、カンガ」
閑雅とはどういう意味か、いやそれどころかどんな字を書くかすらはじめには想像できなかったが、このおさげの少女が言うなら間違いなかろうと、根拠もなく頷く。
「嬉しいです。はじめさんも、この山のいいところを理解してくれて」
はじめのそんな態度に、愛美は言葉通り嬉しそうな顔をする。だが、やはりどこかに、微量の哀愁が感じられた。
「愛美は? ここを、気に入ってるのかい」
「………」
ごく単純に、是とする答えが返ってくると思ったはじめは、意外に感じた。愛美は、今度こそ間違いない哀愁の念を、その顔に浮かべたから。
「愛美?」
「……最初は、好きではありませんでした」
愛美はいう。ここに引っ越してきたのは、病を発し、倒れた母親を、都心の汚れた空気から非難させるためであったのだ、と。
「この家、この場所は、母のためのサナトリウムみたいな意味合いで、父が大金をはたいて購入したんです」
ここは、父親・明彦の剣道の師が住まう地で、明彦も何度か訪れていたことがあるのだという。その時、この山の中を散策し、老いて後はこの山の中に隠棲したい、と思った。それが、妻・佳子の病により、予定よりも約半世紀も早く、この地に越してくることにしたのだと。
「そうか……」
とっさに、掛ける言葉もない。将来はともかく、少なくとも今は、愛美の独白に差し挟めるような、同量の哀愁を含んだ話は、自分の方にはまったくないのだから。
「小さい頃の私にとって、ここは、住み慣れた町から遠く離れている上に、母を死に追いやった場所だったんです」
幼い子供に、住み慣れた町を離れる意味は理解できなかった。幼女に、母親がろくに歩けなくなった理由は分からなかった。童女が理解できたのは、とつぜん大好きな友達たちと離れた場所に行かねばならなくなり、その見知らぬ場所で暮らすようになった後、大好きな母親が歩くことすらできなくなり、やがて永遠に会えなくなったことだけだった。
「どれほどの苦難にも泣くことなかれと父に育てられ、歯を食いしばってその教えを守ろうとしたんですけど、その時だけは我慢できませんでした」
愛美のまぶたが降り、口も真一文字に閉じられる。その心が、数年前に飛翔していた。それは、今と同じ季節、桜乱れ舞う春のこと。町と家とを結ぶ、桃色に染まり上がった通い慣れぬ山道を何十分とかけて戻ってきた愛美。家にたどり着くと、小走りに中へと駆け上がる。数日前、最上級生の六年を小学校から送り出して春休みを向かえており、愛美はたいそう機嫌がよかった。勉強せずに、好きな剣道を日がな一日中やってられる休みは、愛美としても大好きであった。元気よく、ただいまと叫ぶ。
だが、最高の気分が最悪の気分に変わるのに、そう時間はかからなかった。
普段なら、弱々しくも返ってくる母の返事が、その日は返ってこなかった。怪訝に思い、母親の寝室に向かう愛美。寝室のふすまを開き、中を覗くと、そこには前かがみになり、苦しそうにうめき声を発する母の姿があった。
いくら幼いとはいえ、母親が病で苦しんでいることくらいは分かる。背負っていたランドセルを廊下に放ると、愛美は母親のすぐ隣にまで駆けつけた。そして、大丈夫、苦しいの、と心配げに何度も問う。母・佳子の方は、病魔の苦痛が全身を覆っていたが、それでも不安がる娘のために微笑んで見せた。
「母は、外に出たがりました」
どうせ死ぬなら、布団の上ではなく桜舞う山の中で人生の最後を迎えたい、と。直接そう言った訳ではなかったが、今、愛美はこの年にして、母はそういう思いだったのではと考える。立つこともかなわなくなっていた佳子は、だが、娘の手を借りて外に出たという。愛美は止めるべきか迷った。しかし母親が必死の顔で懇願してきては、それを退けることはできなかった。この時、佳子の身体が百五十弱の身長であったことと、長い病による体重の軽減、それと父親から散々鍛え上げられていたことで愛美が母を支えられたことは、目には見えぬ何者かの、せめてもの巡り合わせであったのか。
娘が母親に肩を貸し、可憐な容姿の母娘は外へ出た。亀でもまだはやく歩けるかという速度で、ゆっくりと林の方へと歩いていく母娘。桜の花はその間にも容赦なく降り注ぎ、二人は山道と同じくその身が桃色に染まっていった。
白夜の山でも一、二を争おうという大樹の元にたどり着くと、佳子は疲れたと言って樹の根に腰掛けた。そして、樹に寄り掛かって娘の方に顔を向ける。
そして、母と娘の、取り留めもない会話が始まった。愛美が生まれた日のこと、幼い愛美を連れて親子で旅行したこと、愛美が幼稚園に入ったこと、明彦が愛美に剣道をやらせはじめたこと……
「私バカだから、どうして母が私の話ばかりするのか、最後まで分からなかったんです」
母が病で苦しんでいる。それは前から分かっていた。だが、人の「死」というものに関しては、愛美はまだ漠然とすら分かっていなかった。自分の大好きな人が、自分の目の前から永遠に消えてなくなってしまうということが、どうしても想像できなかったのだ。
「話が、母が私を甘やかし、それを父からよく叱られたという話になった時でした」
それまで、小康を保ち娘と会話を楽しんでいた佳子の容体が急変した。前かがみになり、右肺のあたりを押さえ、苦痛のうめき声をあげてろくに娘への呼びかけにも答えられない。しばらくすると激しく咳き込むようになり、その際には喀血を伴っていた。
愛美がそれまでに見て来た、どんな怪我よりも大量の、それは血液であった。膝を擦りむいて血を出すのでも痛いのに、今、母の痛みはいかほどであったろうか? 幼い愛美には想像もつかなかった。ただオロオロと、母親に無事を聞くことしかできなかった。
そんな佳子の喀血も、やがてとまった。だが、再び小康になったというのではない。
愛美は、最初なにが起こったのか分からなかった。
「……それから母は、もう二度と私に話し掛けてはくれませんでした」
もはや意志を持って自分に降りかかる桜の花びらを振り落とすこともできなくなった佳子は、まるで山の一部となって消えてしまうかのように、桃色の中に埋まっていく。愛美は必死に、もう決して返事をすることはない相手に呼びかけながら、その桜の花びらが母親の顔を埋めてしまわないよう小さな手で払い続けた……
「私には、それが桜の、山の仕業に思えたんです」
降り注ぐ桜が、母・佳子の魂を連れ去ってしまったのだと、そう考えた。そして、そんな場所に母を連れてきた父・明彦を恨んだ。病院に駆けつけてきた明彦の身体を、泣きながら殴った。手が痛くなるまで殴った。手が痛くなっても殴った。大人からすればまったく要領を得ない愛美の抗議と暴力に、しかし常日頃は厳格な明彦も、その日だけは愛美の言うままなすがままにしていた。
「いま思うと、幼いとはいえ我ながら本当にバカでした。父もその時、きっと困ったことと思います」
笑っちゃいますよね、と、微笑む愛美。
「笑わない」
「え?」
「絶対に笑わない」
「……はじめさん?」
「笑う奴なんかいたら、俺が半殺しにしてやる」
「………」
それは、どれほどの沈黙だったろう。およそ長い時間が過ぎて、はじめは微笑んで愛美に告げる。
「……ご飯、食べようか? せっかく作ってくれたのに、冷めちゃもったいない」
前言を忘却し、明るく告げるはじめに、しかし、愛美は忘却をよしとしなかった。
「ずるいです」
「え?」
「そこまで言ってくださるなら、普通はもう一歩、何かしてくださるものです」
その発言に、二人の間に再び沈黙の壁が立つ。
やがてゆっくりと、はじめが口を開いた。
「愛美」
「はい」
はじめは、愛美の両肩を掴んで自分の胸の中に抱き寄せた。そして、手を愛美の背中に回した。
「一分間でいい、このままでいさせてくれ」
「……はい」
そして、力強く愛美を抱き締めた。
「はじめさん」
「ん?」
「……そのスポーツバック……」
そこまで言い、愛美は、目をつむる。
『スポーツバック? あれだろ? 剣道道具一式が入ってるやつ。うん、この間検診に行った帰り、途中で拾ったよ。白夜山に剣道道具なんて、ぜったい吉川さん宅絡みだろうとは思ってたけど、案の定だったねえ』
先刻、喜多島医院にて。喜多島医師が夕食をノビさせてダメにしたことを察した愛美は、放っておけないと診察を終えたはじめと入れ替わるように診察室に入った。そこで、少しはじめの話をすることとなったのだ。
そして、先日、吉川家にやってきた帰り、スポーツバックを見つけた話をしてくれたのだ。それだけなら、愛美は素直に喜べた。しかし、
『でも、道具には来宮幸枝さんって書いてあったよ? メグちゃん、そんな名前の剣道友達いるのかい?』
その話を聞いて、愛美はまるで賞味期限の切れた牛乳をそれと知らずに口に含んでしまったかのように顔をしかめた。名前から察するに、100%とまではいかないがどう考えても女の名前である。
それを、凄く必死になって探している一目惚れの相手。そんな状況を素直に喜べるほど、愛美はまだ人生の年輪を重ねていない。
――そのスポーツバックの中身の主。来宮幸枝さんって、誰ですか。
そう聞きたかった。自分は無駄な恋をしているのか。それを知りたかった。確かめたかった。愛美には、無駄な時間を過ごすような精神的余裕はなかったから。
でも。
『笑わない』
『絶対に笑わない』
『笑う奴なんかいたら、俺が半殺しにしてやる』
「……スポーツバックがすぐに見つからなくても、ちゃんと、最後まで協力させてもらいますからね」
「うん、ありがとう」
明らかに、一分以上。ずっと、はじめは愛美を抱き締め続けた。




