汝、関東の──
世の中まちがっている。柳沢孝治は、世の不条理に怒りを感じていた。
愛美を、会ったその日よりずっと想い続けた自分が退けられ、どうしてあんな見も知らぬ男が愛美に見初められるのか。自分の片思いだったなら、諦めもついたかも知れない。だがかつて、愛美からの愛情は自分一人が受けていただけに、愛美への想いを諦め切れるものではなかった。
無音一刀流道場主・片桐に、先日、私闘を行った咎で道場の掃除をしている孝治は、はじめのことを考え、今後どうしていくかを頭ひねっていた。
――やはり、一騎打ちの決着を付けるしかない。
どうしても、その結論にたどり着く。願わくば、田中はじめが病魔を癒したその後に倒した方が万事、都合がいい。だが、これに関しては自分ではどうにもできない。田中はじめ本人の意志が、とても重要になってくる。
(まあ、メグちゃんが病院に引っ張っていったみたいだし……平気か)
愛美の性格は、小学校の頃から知っている。彼女が田中はじめを本気で愛しているのなら、首に縄を付けてでも病院に連れていくことは分かっていた。もっともそれはそれで、孝治としてはあまり面白いことではないが、今はそれを言っても詮無きことであった。
道場の床拭き掃除も終わり、孝治は己の身体に軽くストレッチを施す。そして、掃除が終わったことを部屋まで赴き、片桐に伝えた。
「そうですか。ご苦労様です」
相手がいかに半世紀以上年下の若輩であろうとも、この片桐聖剛の礼儀正しさは揺るがない。およそ、見下したり卑屈になったりということとは無縁の男であった。
「そういえばね、柳沢くん」
「はい?」
「昨日、君と試合した彼ですが……」
「はあ」
「どこかで見た顔だと思うんですけど。君は分かりませんか?」
「先生も?」
意外であることを隠す必要はなく、孝治は素直な反応を片桐に示した。
「一昨日、戦った後もそう思いました。気のせいかと思いましたが、先生もとなると……」
「あなたと渡り合える、あなたと同年代の者など、そういる者ではないでしょう」
「先生にそう言っていただければ、光栄です」
「まったく。いつまで、爪を隠しておくつもりですか?」
「もう、出します。現に、昨日出しました」
「彼は何者なのでしょうね」
話が、はじめのことに戻る。孝治の思考もはじめのことに戻り、再び頭脳の中の人物記録欄を検索する。
そうしながらも、孝治は片桐の部屋から退出していた。長くとどまる理由はもう片付けたし、道場にい続ける必要はもうなかった。だが、退出して片桐の部屋の扉を閉めた瞬間、田中はじめの顔が孝治の記憶から検索された。
「……まさか」
その顔の所有者は、名前を田中はじめというのではない。剣道の、熟達者であればあるほど知っている可能性を増す、そんな人物だった。
それは、孝治が遠路はるばる関東大会会場を見に行った時、試合の時に遠目で見たことがあった顔だ。
「そうだ……間違いない。彼の剣技に、ぼくは戦慄したんだ……見間違える訳がない」
初対面の時に思い出せなかったことを悔やみつつ、孝治は呟いた。
「だが……なぜ、その彼がここにいる? どうして、田中はじめなどと名乗って、こんな地方都市に来ているんだ」
孝治は、愛美のこととは別に、再び田中はじめを名乗る剣道の使い手に会わねばと思った。
しばし廊下で考え込んだ後、孝治は男子更衣室に向かって歩きだした。
夜。電車に揺られ、愛美と共に吉川家に戻り始めたはじめは、ため息をついた。
スポーツバックは見つからなかった。道中、近くの交番もひとつ漏らさず立ち寄って、そういう落とし物がなかったかどうか聞いた。その全てが、否定するものであった。
つい先程まで、あくびをかみ殺していた愛美は、歩き続けた疲れが出たのか今ははじめの肩を枕代わりに眠りの園へ旅立っている。周囲の視線が少し気恥ずかしかったが、時刻は十時を回っており、自宅ならばもう愛美は寝る準備を整えて寝床に入っている頃であった。そんな自分のペースを押してでも捜し物を手伝ってくれた愛美のためならば、周囲の視線を気にしないことなど簡単であった。
「本当に……好きになろうとしてくれているんだな……」
愛美の寝顔を見つつ、そう思った。
愛美の示す愛情表現は稚拙なものであろう。多分、今時の小学生ですら、もう少し言葉巧みに表現すると思う。だが、愚直なまでのストレートな言葉表現が、ムードもなにもあったものではないのに、はじめはその方が好感が持てた。持って回って表現されるより、よほど気持ちいい。
「会ってまだ四日なのにな……」
初日。踏まれ、蹴られ、竹刀で殴られた。とんでもない女だ、と思った。だが、一緒にいるうちに、普通の恋人の途中経過を全部すっ飛ばして、はじめの方も愛美のことが好きになり出していた。だが、そこからもう一歩、「なり出した」から「なった」に至るまでに、はじめは障害を感じる。他のどこでもない、自らの心の中に。
愛美の、通常では考えにくい突飛な態度、好意の押し付け方に、戸惑っているということは無論ある。だがそれ以上に、今は失われている記憶の中に、その壁が何であるのかが分かる鍵が眠っているように思う。だが現在のところ、記憶が回復する見込みはない。
自分はどこから来たのか。そしてどこに向かおうとしているのか――
マンガや映画などに、よくある大げさな言葉だった。だが、我が身で感じてみて分かる。それを言った人間は、大げさでも何でもない、切実に告げているのであろうことを。
――これからどうすればいいのだろう?
仮にスポーツバックが見つかっても、その後にやることが、実に曖昧なものであることは変わりない。
捜し物が見つかったからといって、記憶が確実に戻るなどという保証はどこにもないのだ。むしろ、今まで旅して戻らなかったものなのだから、何の変化も起きないことの方がよほど考えられる。であれば、バックが見つかった後、はじめにできることと言えば、病院から抜け出した直後から白夜の山中で倒れる直前までと、同じにならざるを得ない。
記憶の彼方で、手招きしている人物の捜索――
失われた記憶の中で、唯一自分がやらねばならないと思えることがそれだった。それが誰であるのか、何者であるのかさえも分からない。だが、それでもはじめは、その人物に会わねばと思うのだ。そして、自分の余命、いくばくもないことを告げなければと。
そこまで考えて、はじめの脳裏に一人の人物が思い浮かぶ。記憶が戻ったのではない、数少ない、この数日で出会った者の一人、喜多島忠志であった。
彼は医者である。そして、彼ははじめが現状を全部話した唯一の存在だった。
頼るものもすがるものもない彼にとって、喜多島忠志は蜘蛛の糸程度には希望と思える。 明日、もう一度喜多島医院に行ってみるか。そう考えた時、車内にアナウンスが流れた。
次が風丘駅であることを告げるそのアナウンスを聞いたはじめは、愛美を揺り起こし、下車する体勢を整えた。
帰り道、はじめは、白夜山の暗い夜道が想像以上に帰宅を阻む難敵となって目の前に立ち塞がっていることを認識した。側に愛美がいなかったら、途方に暮れていただろう。
電車の中ではずっと眠り姫だった愛美が、風丘町で降り、一言はじめに謝礼を言うと、白夜山中・吉川家までの道案内役へと姿を変えた。
小学生の頃から住み慣れた白夜山中を、愛美は周囲の暗さをものともせずに進んでいく。少し気を抜くと、はじめはすぐに彼女の遅れを取ることになった。そうならないよう、はじめは必死に前方で揺れる愛美のおさげが遠ざからないよう進んだが、山の整っていない道を行く時は、地面に足が取られてしまう。昼間はあまり気にならなかった山道も、こうして夜、這うようにして歩いてみると、その険しさか浮き彫りになる。このような中で育てば、身体が頑丈になりそうだとはじめは愛美を見る。愛美の心身の頑健さは、剣道と、この山が育んだものなのだと、はじめはこの時場違いの思いを抱いたものだった。
空には断続的に雲があり、月明かりが届く時と届かない時が間を置いて訪れた。月明かりが届く時、周囲がそれによって見えるようになり、この世のものとは思えない光景が目の前に広がる。
吸い込まれてしまいそうだ――
夜空の蒼い闇と、月明かりによる銀光に照らし出された桜吹雪が、はじめの脳裏に昨日の愛美の話を思い起こさせる。
(私には、それが桜の、山の仕業に思えたんです)
魂を、どこかこの世でないところに連れていってしまう、そんな錯覚を抱かせた。
そんな風景が、はじめの五感を少し狂わせてしまったのか。気がつくと、目の届く場所に愛美の姿が見えない。風景に気を取られている隙に、はぐれてしまったみたいだった。
「……愛美?」
折しも周囲の妖しい桜風景に魂を奪われるかのような錯覚の後である。はじめは急に不安になり、自分に一目惚れしている筈の少女の名を、か細く呼んでみる。
だが、返事の変わりに強風が吹き、地面に落ちていた花びらが舞い上がり、桜の豪雨がはじめを横凪ぎしていった。
目や口に入りかけた花びらを手で拭うと、はじめはとりあえず前進を始めた。その場にたたずんでいるよりは、まだしも進んだ方が迷信的な恐怖が和らいだからだ。
……それから、どれだけ歩いただろうか。はじめの時間感覚が確実に麻痺し始めた時、前方に、人の気配を感じた。
いつ果てるとも知れない山道、周囲の桜、その二つへの迷信的な恐怖が、はじめに孤独感を覚えさせ、第三者を求めさせた。もっと具体的には、愛美を。
ゆえに、そこに立つものを愛美だとはじめは思った。だが、そこに立ってはじめを凝視してきていたのは、愛美ではない。
再び、雲が切れる。月明かりが、地上に降り注ぐ。風に舞う桜の花びらが、桃色のカーテンを作って右往左往する。そのカーテンが風の微弱化によって途切れた時、月明かりによって照らし出された姿は、しかし愛美でこそなかったものの、はじめがこの数日で、すでに見知った者の顔だった。
「柳沢……」
鋭い眼光を放ち、一切の妥協を許さぬ巌のごとき表情を浮かべ、口を真一文字に切り結んでいる。自然、その視線を受け止めるはじめの顔も、厳しい、引き締まったものになっていった。
風が、桜が二人の間を何度も吹き抜ける。どれほどの時が経ったのであろう、やがて孝治の方から、口を開いた。
「待っていた、田中くん……いや」
孝治の瞳が、さらに鋭利さを増す。視線で人が斬れたなら、それではじめを切り殺すと言わんばかりに。
「関東中学剣道大会覇者、兵藤波人」




