もしものはなし④
兄たちの試合も終わり、帰路についたのは夕暮れも目前になった頃だった。女主人や護衛らをこの時間まで付き合わせてしまったことを申し訳なく思いながら、人通りもまばらになった会場を進む。
帰りの馬車も行きと同じく、そこまで家格の高くない貴族らに溶け込むようにして佇んでいる。一行の姿を認めた御者が礼を取り、馬車の扉を開いて、踏み台を用意する。その間にニケは女主人の肩のケープをどうしましょうか、と尋ねた。外を歩いている間はいいのだが、膝をつき合わせて乗る馬車の中では暑いかもしれない。
「脱いでおいた方がよさそうねえ」
「そうですね……おばあさま、失礼しますね」
手にしていたかごを従者に扮した護衛に預け、少し膝を折って女主人の首元の留め具に指をかけようとした、その時だった。
ざわりと人混みが揺れる。馬車を牽く馬とは違う、それよりも早く蹄鉄が打ち付けられる音に、騎馬が迫ってくるのだと分かる。護衛の武官らが目配せをして、ざわめきと女主人との間にさりげなく立ちはだかった。
「いったい何事かしら……?」
不安そうに眉を寄せる女主人を安心させるようなことを言えるわけでもなく、ニケは少しでも支えになれるように寄り添うことしかできない。
武官の身内、それもこの場には平民ではなく貴族が多いこともあり、声を上げて何が起きているのかと問う男性もいる。おそらくは比較的爵位の高い、身なりのいい一行の側仕えが歩み出て、現れた騎兵に問いかける様子が遠目に見えた。
声を張っているわけではないやり取りは途切れ途切れにしか聞こえなかったが、どうやら不審な輩が紛れ込んでいるらしく、その確認なのだという。それにしてはいささか物々しい雰囲気だが、詳細は分からない。
若い騎兵の中に、以前兄が家に連れてきたことのある青年の姿を認めて、ニケはつい目で追ってしまう。覚え違いでなければ、彼は確か近衛に上がったのではなかったか。
けれども王族の警護を主に担う近衛が、いかに王宮内のこととはいえ外縁部の区域に、怪しい者がいたというだけで駆り出されるのだろうか。他人のそら似か、先の動乱の中で配置換えがあったのかのどちらかだろう。
どうやら観客らの中に、目撃された不審な輩が紛れていないか、留守の間に馬車に忍び込んではいないかをあらためていくらしく、門に近い一行が早速検分を受けていた。家紋が入っているような馬車を用意できる、裕福な――なおかつそれなりの爵位を持つ貴族から優先的に捌かれていく中、ここで変に目立つわけにも行かない女主人一行は、大人しく順番が回ってくるのを待つことしかできない。
不幸中の幸いと言うべきか、貸馬車に見せかけている馬車には御者に扮した護衛の一人が常に付いていたそうだし、中に不必要な武装なども積んでいない。護衛役の青年数人は帯剣しているが、周囲には同じような武官の姿もあり、そうおかしな様子はないはずだ。
「私たちまでは、少し時間がかかりそうですね」
「そうですね……おばあさまに、先に馬車に乗って休んでいただくくらいは許していただけないでしょうか……」
ニケの言葉に、青年は頷くと、巡回している歩兵に声をかけ、出発は後になってもいいから主人一人だけでも風の当たらないところにやりたいのだと申し出た。歩兵は胡乱げに一行を見やったあと、年かさの女主人に目をとめ、仕方ないとため息をつく。
「ただし、馬車の中を検めてから、扉は完全には閉めないこと。いいですかな」
「はい」
検分を受けるために御者に扮した護衛が馬車から降りて、扉を開ける。ニケたちも場所を開けるために一歩二歩下がる。
歩兵が従卒らしき少年と共に一行の馬車に近づいたその時、隣りに寄せられていた一際大きな貸馬車から壊れるような音と共に――いかにも怪しい男が飛び出してきた。
周囲の護衛らが瞬時に身構えるが、男は歩兵らの間を縫ってほど近くの木立に手をかけ、高い壁を飛び越えて姿を消した。あっという間の出来事にニケが言葉を失う中、兵士や騎馬はけたたましくその後を追う。
「追えっ」
「東門に馬を走らせて先回りさせろ!」
騎馬のほとんどが頭を返してその場を後にし、弓を携えた歩兵が遠くを行き交うのが見えた。
それでも場に残った兵士がまだ隠れている者はいないかと隣の貸馬車の中を検分し、その傍らで取り残されたニケと女主人は呆然と取り残されていた。周囲の護衛たちはひとまず警戒を解き、誰かが侵入者か、とこぼす。
催しで警備が手薄になるのを狙って忍び込んだのだのか、それとも別の目的があったのか――ともあれ、捜していた不審者が見つかったのであれば、これ以上足止めされることもないだろう。
「おばあさま、とりあえず馬車の中へお入りください。あまり長く風に当たられてはいけませんわ」
「そうねえ……もういいのかしら?」
ニケの言葉に女主人は護衛をまとめるルキウスを見上げる。
彼は御者役の護衛に近付き、鋭い目で隣の荷馬車をねめつけた。
「これはずっと隣りにいたのか?」
「いえ。隣になったのは帰りの時刻になって混雑してきてからです。うちは最初から通用門から離して止めてありましたから……止まってたのは一刻もないくらいかと」
一行の中では年かさの、あごひげを蓄えた御者は唸りながらこめかみをもみほぐす。今は女主人の護衛にあたっているとはいえ、本来は軍人として城や要人警護を務めている彼等にとって城への侵入者が気にかかるのだろう。
彼等はいくつか確かめるように言葉を交わし、改めて馬車の中を確かめてから、踏み台を降ろして女主人にどうぞと手を差しのべる。ニケも背中に手を添えて付き添うが、馬車の座席までを後押しする力はないので、そこから先は青年に任せる。
女主人が腰を落ち着けたことを確認したルキウスがニケも馬車に乗るよう促し、その手を取ろうとした時だった。
「待て」
怒りなのか、顔を紅潮させたやや年かさの歩兵がこちらに歩いてきて制止する。
そうして彼はルキウスに迫ると、先ほど逃亡した侵入者の仲間なのではないか、どこの家の者だといきなり声高に主張し始め、ニケは他の護衛の青年の背にかばわれながら当惑するより他になかった。
ここで正直に将軍の養い親の一行であると胸を張って主張することも出来ず、ニケのセラピアの家名を告げたとして、護衛を手配できるような裕福な家ではない。嘘をついたところでそれが露呈すればややこしいだけだ。
そんな時にもルキウスや他の護衛らは冷静で、詰め寄る男に賊とは無関係であることや、将軍の部下の一人である将校の名を出してその縁者一行であることを伝えている。おそらくは事前に家名を問われた際に出す名前を決めていたのだろう。ニケは女主人の世話をするようになってから知った名だが、軍ではさぞ名の通った人なのか、歩兵の顔に気まずそうな色がにじむ。
騙りだと疑うのなら少将様の前に引きつれていかれても構わないが、と言葉を切るルキウスに様子を伺っていた群衆も不安そうに顔を見合わせていた。そうこうしている間に人混みをかき分けて、他の兵士たちも何事かとこちらに集まりはじめる。
「ニケさんはどうぞ馬車の方へ」
「はい……」
馬車の中で不安そうな様子の女主人が気になって落ち着かないニケに護衛の青年が声をかけ、断ってから馬車の上までニケの体を押し上げてくれる。
あぁよかったと立ち上がってニケを迎え入れようとする女主人を手を上げて押しとどめ、ニケは女主人の向かい側、馬車の先頭側に背を向けるようにして座席に腰を下ろした。
ただ御前試合の観覧に来ただけだというのに、屋敷に帰ることができるのはいつになるのだろうか。
そうこぼす女主人を慰めるべく、努めて明るい声を作る。
「まだ今日は旦那様が打ち上げの宴に顔を出すから帰ってこられないかもとお聞きしていた日でよかったかもしれません。これから帰るのでは支度が間に合いませんもの」
「それもそうねえ」
旦那様の帰ってこられない日は、高齢の女主人とニケだけの食卓になることもあって簡素な食事で済ませることが多い。護衛の武官たちは別に食事をすることになっており、気を遣う必要はないと申しつけられているので、作るのも大抵は二人分だ。帰宅の連絡があった日は普段は作らない少し手の込んだ料理や、肉料理も作るようにはしているが、王城の豪勢な食事ばかりでは肥えてしまうと笑う旦那様の希望もあって、二品程度、増えるくらいなのだが。
ぽつぽつと気を紛らわせるように小さな声で話しているうちに、開け放たれた馬車の扉の向こうでは、遠巻きにこちらの様子をうかがっていた他の観客たちが他の兵士や衛士らに誘導されて通用門の向こうに消えていくのが見える。会場に入る時に通った門なので、おそらくはそのまま帰路につくことを許されたのだろう。
ニケたちのすぐ近くにいた一行も、気の毒そうな視線を寄越すと、足早に立ち去っていく。うらやましいと嘆息してニケはこっそりと、未だに疑念を解こうとしない歩兵の様子を伺う。ルキウスたちは困惑した善良な護衛といった体で、無関係である旨を訴えてくれてはいるが、話は終わりそうにない。
他の観客たちの、最後の一組が門の向こうへ消えたのが見えたところで、少し離れた別の門が開き、数人の歩兵らに続いて数頭の騎馬――否。ニケの記憶違いでなければ、先ほどの御前試合で見たばかりの、深緑の軍服姿がその中にあった。
(旦那様――?)
風にふわりと、まるで炎が立ちのぼるように靡いた赤い髪まで見えれば、間違えようもない。思わず声に出してしまいそうになるのを抑え込み、護衛らをかえりみれば、気付いたらしい何人かが苦虫をかみつぶしたような顔になっている。彼等にとっても想定外の登場であるのだろう。
近付いてくる数頭の軍馬と、それに騎乗した英雄の姿に一行を囲むように配置されていた歩兵らが飛び上がらんばかりの勢いで姿勢を正し、道を開けていく。ルキウスに詰め寄っていた年かさの歩兵の顔色は、一瞬で赤から青白いものに変わっていった。
「閣下!」
「ご苦労。真面目に仕事してくれてるとこ悪いが、その馬車はうちの佐官が手配したやつでな。侵入者とは無関係だと俺も保証しよう」
「そ、そうとは知らず失礼いたしました!」
恐縮する歩兵に鷹揚に頷くと、怪しいところがないのであれば他の観客同様に解放するよう伝えて騎首を返し、馬車の横を通り過ぎるようにして、あの侵入者が逃げた、木立の辺りに馬を進める。
ニケは慌てて馬車をとび降りると、他の護衛たちと同様に、深々と頭を下げて礼を取った。
――その姿を、高い回廊から見下ろしていた者がいたことには、ついぞ気付かずにいた。