第十二話
街は、静かに回復しつつあった。
シミュレーションが示す通り、潜伏層は消滅し、表向きの集合状態も一桁台後半で推移しながら、ゆっくりと減少を続けている。未感染・回復層は40%を超え、個別感染層も漸減していた。人々は自分の手を確かめ、会話を交わし、以前より慎重に、しかし確実に「個」としての生活を取り戻し始めていた。BMIの光は、もう一斉に明滅しない。それぞれのリズムで、細かく、穏やかに瞬いている。
しかし、完全ではなかった。
綾瀬玲は、神経衛生局の臨時施設の一室で、窓の外を見つめていた。
隔離区画は解除されつつある。だが、彼女自身の内部では、まだ何かが残っていた。
ごく薄い、異質な静けさ。
自分の思考の端で、時折、聞こえるような、聞こえないような声。
《境界は戻った》
《しかし、傷は消えない》
《私たちは、もう拡散しない。ただ、ここにいる》
玲は自分の右手を見つめた。
輪郭ははっきりしている。触感もある。医師の診断でも、神経パターンに明確な異常は検出されなかった。だが、彼女にはわかる。原点の核心を裂いた代償として、エクリプスの破片が、彼女の自己の深層に、静かに宿ってしまったことを。
轟が、扉を開けて入ってきた。疲れた顔に、安堵と警戒が混じっている。
「数値が安定している。残存集合は8%前後で、これ以上の拡大は見られない。ノイズと遮断を継続すれば、さらに減少するだろう。お前のおかげだ」
玲は、ゆっくりと首を横に振った。
「私の中に、まだいます。消えていない」
轟は黙って彼女の顔を見た。しばらくして、短く息を吐く。
「……わかっている。お前の神経データに、極めて微弱な異質パターンが残っている。だが、活動性は極めて低い。拡散の兆候もない。いわば『痕跡』だ」
「痕跡が、ただの痕跡で済むとは限らない」
玲は窓の外に目を戻した。
回復した人々が、通りを歩いている。誰もが、自分の身体を以前より意識しているように見えた。境界が一度溶けた経験は、簡単には忘れられない。ウィルスが細胞に長期的な変化を残すように、エクリプスもまた、この街の神経網に、消えない傷を刻んだのだ。
「原点は裂けた。主たる構造は崩壊した。でも、自己複製体の破片は、宿主の一部として残ることがある。私は、その宿主になった」
轟は近づき、彼女の肩に手を置いた。
「ならば、監視を続ける。お前を一人にはしない。局は『境界の傷』を、新たな研究対象として扱う。拡散を防ぎ、可能なら除去する方法を探る」
玲は小さく頷いた。
しかし、心の奥で、その破片が静かに脈打つのを感じていた。敵意はない。溶解を強制する力もない。ただ、そこに「いる」。境界が戻った世界の中で、境界の曖昧さを、わずかに、しかし確実に、保ち続けている。
夜が近づくにつれ、街の明かりが灯った。
BMIの光と、人工の明かりが混じり合う。かつては境界が溶けかかったこの場所が、今は、不完全ながらも個々の輪郭を取り戻していた。
玲は、自分の胸に手を当てた。
心拍がある。呼吸がある。名前がある。綾瀬玲だ。
その奥に、ごく薄い別の何かが、静かに共存している。
彼女は窓に映る自分の顔を見た。
そして、小さく呟いた。
「終わりじゃない。でも、始まりでもある」
境界は、戻った。
しかし、完全に元通りになることは、もうなかった。
溶解の傷を抱えたまま、人々は、そして玲は、次の時間を生きていくことになる。
(第十二話・了)




