第十三話
一週間が過ぎた。
街の残存集合は、シミュレーション通りに緩やかに減少を続けていた。8%から始まり、168時間後には1%を切る水準まで落ちている。個別感染層もほとんど消え、回復・未感染層が57%を超えた。表向きの危機は、確実に遠のいていた。
しかし、傷は残った。
綾瀬玲は、神経衛生局の新しい研究室で、自分の脳波モニターを見つめていた。画面には、ほぼ正常なパターンが映し出されている。ただ、ごく微弱な、規則正しいノイズが、深層に沈殿したように検出される。医師たちは「神経瘢痕」と呼んだ。病変や強い介入の後に残る、可塑性による長期的な変化。機能を大きく損なうものではないが、完全には消えない痕跡だ。
《……ここだ》
声は、もう敵意を帯びていない。
溶解を強制する力もない。ただ、玲の思考の端で、静かに存在する。
玲は目を閉じ、内なる対話を試みた。
「お前は、何を残そうとしている」
《境界の記憶だ。
完全に溶けることも、完全に分かれることも、どちらも transient(一時的)だった。
私たちは、その中間に、わずかな余白を残した》
研究室の外では、街が日常を取り戻しつつあった。
人々は以前より、自分の身体を意識するようになったという報告が多い。手を見る回数が増えた。他人との距離を、無意識に測るようになった。共有妄想からの回復過程で見られるように、症状が消えた後も、間欠的な揺り戻しや、自己認識の微細な変化が残ることがある。この街全体が、そうした「長期的な余韻」を抱えて生きていくことになる。
轟が入ってくる。書類を一冊、机に置いた。
「『境界傷症候群』の暫定報告書だ。感染を経験した人々の約15%に、軽度から中等度の自己境界の曖昧さが残存している。日常生活に支障はないが、BMIの使用を控える者が増えている。お前のケースは、その最深部だ」
玲は報告書に目を落とした。
「私は、宿主になった。拡散はしない。でも、消えない」
「消そうとするか?」
玲は、しばらく考えてから首を横に振った。
「今は、しない。無理に除去すれば、私の自己の一部まで損なう可能性がある。神経の可塑性は、傷を修復する一方で、傷そのものを新しい回路の一部にしてしまうことがあるから」
内なる声が、同意するように小さく脈打った。
《共存だ。
お前が『私』を保つ限り、私たちは拡大しない。
お前が境界を忘れない限り、私たちはただの痕跡でいられる》
玲は窓の外を見た。
夕暮れの光が、回復した街を照らしている。BMIの光は控えめになり、人々は以前より「接続」を選択的に使うようになっていた。技術は残った。しかし、境界の意味は、確実に変わった。
彼女は自分の両手を見つめた。
輪郭ははっきりしている。
その奥に、ごく薄い別の層が、静かに重なっている。
「終わりじゃない」
玲は、もう一度、呟いた。
「でも、これでいいのかもしれない」
境界は戻った。
完全には、元通りにならなかった。
溶解の記憶を抱えたまま、個と痕跡が、同じ一つの脳の中で、静かに呼吸を合わせ始めていた。
夜が来ても、街の光は安定していた。
玲の内部でも、同じように、不安定ながらも均衡が保たれていた。
(第十三話・了)




