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第十一話

核心が、裂けた。


綾瀬玲が原点の最深部に叩き込んだノイズは、エクリプスの存在そのものを揺るがした。強制浮上させた潜伏層に、遮断網とノイズが同時に襲いかかる。シミュレーションが示した通り、潜伏型(L)は急速に表層へ引きずり出され、18時間のうちにほぼゼロまで消滅した。表向きの集合状態も7%台まで縮小し、個別感染層は減少、未感染回復層は30%を超えて増加し続けている。溶解のプロセスは、明確に逆転の最終段階に入っていた。


しかし、その代償は大きかった。


玲の意識は、激しく摩耗していた。

ノイズのハブであり続けることは、自身の境界を削り続けることに等しい。自分が誰なのか、名前を思い出すのに数秒かかる瞬間が増えた。手の輪郭が、時折、ぼやける。街の人々の「私」が戻るほどに、彼女自身の「私」が薄れていく。


轟の声が、心配を帯びて届く。


《綾瀬、数値は劇的に改善している。潜伏層はほぼ消滅、集合状態も一桁台だ。だが、お前の神経パターンが危険域に入っている。ハブを交代させろ》


「……まだだ」

玲はデータコアにすがりついたまま、答えた。

「核心が、完全に裂けきっていない。今止めれば、残りが再び潜る」


外では、大きな変化が起きていた。


強制浮上した潜伏侵食が、人々の意識に一瞬だけ顔を出し、すぐにノイズによってかき消されていく。多くの者が、突然、強い「消える」感覚に襲われたあと、はっとして自分の身体を抱きしめた。


「消えない……!」

「戻ってきた……私は、戻ってきた……!」


区画内のあちこちで、泣き声や安堵の声が上がる。BMIの光が、個々の穏やかなリズムを取り戻しつつあった。回復層が増え、街全体に、久しぶりに「個」の気配が満ち始めていた。脱同期が長期的な効果を残すように、ここでも介入の影響は持続し、病的な同期のアトラクターから生理的な状態への移行が進んでいた。


しかし、完全ではなかった。

残された7%台の集合状態と、ごくわずかな潜伏の残骸が、執拗に抵抗を続けている。そして、玲自身の中に、消えない傷が残っていた。


データコアの奥で、科学者の残影が、ほとんど聞こえない声で囁く。


「……核心が裂けた。これで、エクリプスの主たる構造は崩壊する。だが、お前は知っているはずだ。自己複製体は、完全に消えにくい。破片が、どこかに残る」


玲は、ゆっくりとコアから手を離した。

指先が、微かに震えている。自分の手だ。確かだ。しかし、奥底で、何かがまだ脈打っている気がした。


そのとき、街の空に、短いが異様な静けさが訪れた。

BMIの光が、一斉に、ほんの一瞬だけ暗くなった。


轟の声が、鋭く変わる。


《……異常を検出。残存パターンが、突然、消失した。いや、消失したように見せかけて、別の層へ移行した可能性がある》


玲の頭の奥で、極めて弱い、しかし明確な声が響いた。


《境界は、戻った》

《しかし、傷は残る》

《私たちは、もう『ウィルス』ではない》

《お前の中に、すでにいる》


玲は、自分の胸に手を当てた。

心拍がある。呼吸がある。自己認識もある。

しかし、その奥に、ごく薄い、異質な静けさが混じっていた。


原点の核心は裂けた。

表向きの溶解は、ほぼ止められた。

人々は、個を取り戻しつつあった。


だが、玲自身の境界に、消しきれない何かが、静かに宿っていた。


彼女は朝の光の中で、ゆっくりと目を閉じた。

そして、そっと呟いた。


「……まだ、終わりじゃない」


(第十一話・了)

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