第五話 春の予定
春の服を出すために引き出しを開けたら、奥から小さな帳面が出てきた。
薄い青の表紙で、角に花が描いてある。買った日のことを覚えていた。持ち物を書き出しておけば、新しい家へ移るときに困らないだろうと思ったのだ。
最初の頁に、本、と書いてあった。
その下には、母の刺繍した膝掛け、小さな鏡、手紙の箱。思いついた順に並べたので、細かいものの間に椅子が一脚入っている。
窓のそばで本を読むのにちょうどよい、自分の部屋の椅子だった。あちらにも椅子ぐらいあるだろうに、と笑いかけて、口元が止まった。
この春には、リュシアンと同じ家に住んでいるはずだった。
頁の隅に、彼と相談すること、と書いてある。そこから先は白かった。相談する前に、春が来てしまったのだ。
私は帳面を閉じた。
窓の外で、庭師が鉢を運んでいた。冬の間は屋内にあったものだ。あまりに小さな鉢なので、両手に三つずつ持っている。
見ているうちに、一つ落とさないかと気になった。彼が無事に並べ終えるまで、窓のそばに立っていた。
* * *
昼食のあと、母から伯母の手紙を見せてもらった。
母の姉は、馬車で一日かかる町に住んでいる。春になったら来ないかと、毎年のように誘ってくれていた。去年の手紙には、来年は忙しいでしょうけれど、と添えてあった。
今年は、そんなことは書いていなかった。庭の杏の木を切ろうとしたら夫に反対されたことと、隣家の犬がまた仔を産んだことが、便箋二枚にわたって書かれていた。
「お母様は、いらっしゃるの?」
「そうね。一週間ほど行ってこようかと思っているの」
「私も一緒に行っていい?」
母はお茶を注ぐ手を止めた。
「もちろん。でも、読書会はいつだったかしら」
私は頭の中で日にちを数えた。ちょうど重なる。今度はマノンの家で、皆がそれぞれ好きな短い物語を持ってくることになっていた。
「その週の日曜日だわ」
「では、出発を遅らせましょうか」
「お母様は、いつから行くつもりだったの?」
「火曜日。お父様が町へいらっしゃるから、途中まで一緒に」
母はそれから、別の日でも構わないと言った。
私は手紙の端を揃えた。会で読むつもりの本も、もう選んである。一度休んだら、皆がその本の話を終えてしまうかもしれない。
それでも、伯母の庭を思い浮かべると、行きたかった。隅に古い煉瓦の塀があり、暖かい日にはそこへ椅子を出してもらえる。子供の頃、母と二人で豆の鞘をむいた場所だった。
「火曜日にしましょう。マノンには、今月は休むと書くわ」
「寂しくない?」
「少し。でも、次に会ったときに何を話したか聞けるもの」
そう答えてから、私は伯母の手紙をもう一度開いた。
「杏の木は、まだあるのよね」
「あると思うわ。お義兄様が椅子を置いて動かなかったそうだから」
母と顔を見合わせて笑った。伯父なら、やりそうだった。
* * *
マノンからの返事は、二日後に届いた。
伯母の町に古い本を扱う店があるから、時間があれば見てきてほしい、と書いてあった。彼女の探している詩集の名もあったが、わざわざ寄り道をしなくてよいと、後ろに小さく付け足してある。
私は紙の端へ、行ってみるつもりだと書いた。見つかったら、いくらまでなら買ってよいかも尋ねた。
会で皆が読む短い物語は、帰ってから貸してくれるという。ジュリーはもう別の一冊を持ってくると言い出したそうで、会はまた長くなりそうだった。
返事を書き終えてから、青い帳面を開いた。
持ち物の続きを書こうとして、最初の頁にある椅子を見た。旅には持っていけない。
そこはそのままにして、新しい頁へ、本を三冊、と書いた。
服、手袋、マノンの手紙。それから、母に頼まれた裁縫箱。
夕方、母が部屋へ来たとき、私は帳面を机に開いていた。
「その膝掛けも持っていくの?」
「ええ。馬車では、まだ寒いかもしれないでしょう」
母は椅子に掛かった膝掛けを手に取り、縁を確かめた。自分で刺した葉の模様に、糸のほつれを見つけたらしい。
「ここだけ直しておくわね」
私は頷いてから、母を呼び止めた。
「お母様。今日、これを見つけたとき、少し泣きたくなったの」
帳面の表紙を撫でた。母は椅子へ座り、私の言葉を待った。
「春になれば、もう何とも思わなくなるかと思っていたわ」
「旅行は、もう少し後にする?」
「ううん。行きたいの。それとは別に、これを書いていたときのことを思い出して」
母に帳面を渡すと、最初の頁を読んで、小さく息を吐いた。
「この椅子、どうやって馬車に載せるつもりだったのかしらね」
「荷物用の馬車を、一台多く頼もうと思っていたのよ」
「椅子のために?」
「本もあるもの」
笑うと、目の縁が熱くなった。母は帳面を返し、私の頬に触れてから、膝掛けを持って立ち上がった。
「旅のほうは、三冊で収まりそう?」
私は机に積んだ四冊を見た。
「まだ選んでいるところ」
「帰りに増える分も考えておいてね」
母が扉を閉めたあと、私は薄い一冊を棚へ戻した。残したうちの一冊は、伯母にも読んでほしい本だった。
* * *
出発の日は、朝からよく晴れた。
馬車へ乗る前に部屋を見回すと、窓際の椅子には何も掛かっていなかった。膝掛けは旅の鞄のいちばん上にある。
玄関で待っていた母は、私の手荷物を見て眉を上げた。
「三冊?」
「三冊よ。帰るときのことは、帰るときに相談させて」
母は笑って、先に馬車へ乗った。
町を出るまで、私は窓から外を見ていた。知っている店の前を通り、リュシアンと歩いたことのある角も曲がった。あの日に話したことが少し浮かんだが、隣で母が外套の紐をほどくのを見て、荷物を膝へ寄せた。
分かれ道で父の馬車を見送り、次の町で休憩した。馬車に戻ると、母は眠くなったと言った。
「着いたら起こしてちょうだい」
「その前に、お昼をいただくのでしょう」
「では、お昼にも」
私は膝掛けの半分を母へ渡した。残りは自分の膝に広げ、鞄から本を取り出した。
頁をめくる音と、車輪の音が続いた。
夕方に着くと、伯母は私たちの顔を見るより先に、荷物はそれだけかと尋ねた。母は私を見て、今のところは、と答えた。
杏の木は残っていた。伯父がその下の椅子に座り、片手を上げている。
翌日の朝食で、伯母は町の市場へ案内しようと言ってくれた。私は頷いてから、マノンの手紙を出した。
「この本屋へも行ってみたいの。遠いかしら」
「市場の先よ。昼には閉まるから、先に寄りましょうか」
「ええ。帰りに杏の花も、近くで見たいわ」
伯父が、椅子をもう一脚出そうと言った。
私はお茶を飲み終え、部屋へ手袋を取りに戻った。机の上で開いたままの帳面に、本屋、と書き足す。すぐ下へ市場、と書いて、少し考えた。
午後のところは、まだ空けておいた。
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