Heat also run away out of windows.
短編
暑くて溶けそう。もう何回思っただろう。
外はもっと暑いだろうけど、でも今外にいない私にとってそれはどうでもいいことだった。学校の中も暑い。クーラーも扇風機もない、三階の教室なんて。
こういう日は自分がバス通学なのを恨んでしまう。ううん、バスの中はとっても快適。だけど、ラッシュ時間のほかは一時間半ごとにしか来ないから、夏休みの登校日なんかは待ち時間がつらい。こんなことを言っていると自転車通学の子達に失礼かもしれない。かもしれないけど、自転車通学でない私には実はどうでもいいことだったりする。
ところで、このクラスのバス通学者は私一人で、今日みたいな半日の日は教室に残るのも自然に私一人になる。だけど今日は私のほかに人がいた。クラスメイトの友達らしい男子が、そのクラスメイトと別れの挨拶を交わしてから動こうとしない。名前もクラスも知らない人だけど、同じバス通学であることは知っていた。
なので、どんなに暑くても寛大な心で彼の滞在を黙認することができていた。きっと彼も今、暑くて溶けそうって思っている。実際、溶けてしまいそうに机に伏せていた。
そんな彼を観察するのも早々に切り上げる。私は朦朧とする意識の中、夏休み真っ盛りの教室の景色や匂いや音を拾っては取りこぼす消極的な姿勢で五感に収集させて、時間を潰していた。もちろん暇だった。けど、それを始めて数分もしないうちに教室内に変化があった。
——バチン。
それなりに大きい、何かがぶつかったような音がした。次いで、バチバチと擬音しても差し支えなさそうな耳障りな羽音が長く鳴った。
はじめの音でびっくりした私は、その音源を確認する為に反射的に上を見上げた。茶色っぽい羽が廊下側の壁に向かってはばたいていた。(ぶつかる、)
予想通りそれはそのまま壁に激突して、重力に従って落ちかけた。この頃にやっと、私はそれがセミだって思い当たった。よくいるんだよね、部屋に入ってきてあちこちぶつかるセミ。そんな風に呆れている冷静な自分がいたにはいたけど、暴力的とも言える羽音と衝突音がどこからともなく恐怖感を運んできて、私は首をすくめる。セミは再度上昇していた。
ふと横に気配を感じて振り向くと、さっきまで引き剥がしても起きなさそうだった彼が立っていた。その眼はとっても眠たそう。力の無いとろんとした視線は、たぶんこれからまだ迷走を続けるセミに向けられていた。
安眠妨害だね、なんて声を掛ける間もなく、彼は少し、ほんの少しだけ姿勢を低くしたと思ったら、次の瞬間跳び上がっていた。あんな些細な踏み切りでどうして、と呆気にとられるほど高く。本当はそんなでもなかったのかもしれないけど、そのときの私にはそう見えた。
天井に向けて伸びた右手が空を掻くように動くと、彼は無事に着地する。その一連の動作は突風が吹きぬけるように一瞬のものだったけど、私の目に強烈な色を残していった。
「これ、何?」
あまりのことに意識が頭から離れていたから、掛けられた声にすぐ返事が出来なかった。教室内がさっきより明るい気がする。どうしてか鼓動がどくどくする。
相変わらず眠たそうな彼の目が何かを見下ろしていた。その手は、とてもとても大切なものを扱うように何かを包んでいて、被せるようにしている左手がわずかに隙間を作っている。私は首を傾げ、近くに寄ってみた。覗き込んだところから、ジジ、という小さな鳴き声が聞こえた。さっきの言葉を思い出す。
「セミ…だよね、」
「それはわかる」
他になんて答えたらいいの。というかそれよりも、ジャンプして飛んでいるセミを捕まえた彼に感心しきっていた。感心、という言葉には収まらないくらいだったけど——そういえば古典でこんな感情の単語があったような。
しばらく沈黙があって、それから知識の中からひねり出したように「ミンミンゼミ?」と彼が言った。私はセミの種類には詳しくないので、ちょっとうなってから「わからない」と答えた。彼は表情ひとつ変えなかったけど、どことなく残念そうにしたようにも見えた。
だからといって私にどうにか出来るわけでもなかったから、また降りてきた沈黙の中で古語の記憶を漁っていた。意味はたしか、驚き、呆れる。
(うーん…「大江山」で出てきた気がするんだけど…)
一方で、彼はまだセミの種類を考えていたみたいだった。ぽつぽつと聞いたことのある名前を呟いている。くまぜみ。ひぐらし。つくつくぼーし。何か手がかりになったりしないかな、と都合のいい期待を寄せて耳を傾けてみたけど、当然何のヒントにもならない。
ああ、もう、どうでもいいや。諦めて一緒にセミの名前を挙げることにした。
「アブラゼミ、とか」
「アブラゼミ」
思いついた名前を言ったら、彼はそれを復唱した。それ以降黙ってしまって、もしやこのセミがアブラゼミだと受け取ってしまったんじゃ、と思った私は「わかんないけど」と付け足した。返事するように唸った声は眠そうだった。セミはじっと大人しくしている。
彼らを眺めていても、時計の針すら進みそうになかったので他のセミを考える。
ツクツクボーシは言っちゃったし。ミンミンゼミと——それに似た名前のセミ、いなかったっけ?
同じように音を繰り返す名前だった気がするんだけど、なかなか出てこない。きっと鳴き声の擬音語にセミってつけたようなやつだ。
今日はこんなのばっかりだなと、ふと思う。私の記憶力が悪くなってきているのか、それとも夏の暑さのせいなのか。後者でありますように、なんて考えたとき、何故か頭の端で古語の引き出しが音を立てた。
「あ、『あさまし』!」
「あさまし?」
聞き返した彼に、思わず勢いで力いっぱい頷いてしまう。次の言葉はなかったけど、再度自分の手元を見下ろした彼は納得したみたいだった。でも私はその単語を思い出せた爽快感で、勘違いを生んでしまったことにしばらく気付いていなかった。
気付いたのは思い立ったように窓辺に移動した彼が、外に手を突き出して「じゃあね、アサマシ」と言いながらセミを逃がしたときだった。
20100827




