教室とクラスメイト
初夏の朝日が、
真新しい制服の肩に容赦なく降り注ぐ。
一歩、また一歩。
赤星くんの少し後ろを歩きながら、
僕は自分の呼吸がどんどん浅くなっていくのを感じていた。
「大丈夫だ。ちゃんと息、できてるか?」
前を歩く彼が、何度も振り返って僕を確認してくれる。
その度に僕は、コクリと小さく頷き返した。
彼がいてくれなかったら、
校門をくぐる前に、逃げ出していたかもしれない。
やがて、たどり着いた2年B組の教室。
赤星くんが、ガラリと前後の扉を開けた。
朝の喧騒に包まれていた教室の空気が。
僕の姿を見た瞬間、
水を打ったように、ピタリと止まった。
視線。
無数の、感情の読めない視線が、
僕という「異物」の全身に突き刺さる。
息が、止まりそうになる。
でも、誰かが僕に石を投げたり、
直接ひどい言葉をぶつけてくるわけではなかった。
彼らはただ、
遠巻きに、ヒソヒソと耳打ちをしながら、
僕を「観察」しているだけだった。
それが余計に、僕の足元をすくうような恐怖を煽る。
「……白石」
ふいに、教室の入り口に、
担任の武田先生が姿を現した。
先生は僕の姿を見ると、ホッとしたように目尻を下げた。
「よく来たな。……とりあえず、朝のHRの前に、
少しだけ生徒指導室で話をしよう。体調の確認もしたいしな」
「……はい」
武田先生の言葉に、僕は小さく頷く。
赤星くんを見ると、彼は「行ってこい」と力強く笑い、
僕の背中をポンと叩いてくれた。
その手の温もりに背中を押され、
僕は先生の後に続いて、逃げるように教室を後にした。
◆
白石の背中が見えなくなった、その瞬間だった。
張り詰めていた教室の空気が、
一気に、どす黒いノイズとなって弾けた。
「……おい、赤星。マジでなんなんだよ」
ドン、と。
俺の机の前に真っ先に立ち塞がったのは、
親友の健太だった。
その後ろには、クラス委員の高橋(莉子)と、
彼女を取り囲む数人の女子たちが、
非難めいた視線で俺を睨みつけている。
「なんなんだよって……見りゃわかんだろ。
白石が、学校に来れるようになったんだよ。
すげぇ頑張ったんだから、普通に迎えてやれよ」
なるべく平坦な声で返した俺の言葉に。
健太は、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「そういうこと言ってんじゃねぇよ!」
健太の怒声が、教室に響く。
「なんでお前が、あいつの保護者ヅラしてんだよ!
あいつ、ずっと引きこもってたんだろ?
急に来たと思ったら、なんか髪も長くて不気味だし……
あんなの、クラスの空気悪くなるだけじゃねぇか!」
健太の言葉に同調するように、
高橋の取り巻きの女子が、甲高い声で口を挟む。
「そうだよ、赤星くん!
最近、赤星くん絶対におかしいよ。
部活も適当になってるし、高橋さんのことも無視して。
全部、あの白石ってやつの家に行き出してからじゃん!」
「ずっと暗い部屋にいたんでしょ?
なんか、変な洗脳でもされてんじゃないの?」
「……お前、マジで頭おかしくなっちまったのかよ」
健太の、吐き捨てるようなその一言。
教室中の人間が、俺を、
そして白石を、
「正しくないもの」として糾弾している。
高橋を見ると、彼女は泣きそうな顔で俯き、
自分のスカートの裾を強く握りしめていた。
彼女が傷ついているのはわかる。
俺が、彼女の気持ちに応えられないからだ。
でも。
「……おかしいのは、どっちだよ」
俺の口からこぼれたのは、
地を這うような、低く冷たい声だった。
健太が、ビクッと肩を揺らす。
「お前ら、あいつとまともに話したこともねぇだろ。
あいつがどれだけ怖がりながら今日ここに来たか、
どれだけ必死に息をしてるか、知りもしねぇくせに」
俺の脳裏に浮かぶのは。
あの薄暗い部屋で、一人で震えていた白石の姿。
それでも、必死に自分の足で立とうとして、
俺のノートに綺麗な字を書いてくれた、あいつの横顔。
「気持ち悪いだの、不気味だの……
安全な場所から、寄ってたかって石投げて。
お前らがそうやって『異物』扱いするから、
あいつは……あんな暗いとこから、出られなくなったんだろうが!!」
ドンッ! と。
俺は自分の机を、力の限り両手で叩きつけた。
激しい破裂音に、
女子たちが「ひっ」と悲鳴を上げて後ずさる。
俺は初めて気付いた。
白石が怯えていた「外の世界」とは、
まさにこれなのだ。
『普通』から少しでも外れた人間を、
集団で指を指し、笑い、切り捨てる、この残酷な教室の空気そのもの。
「赤星……お前……」
健太が、信じられないものを見るような目で俺を見る。
俺がこんなふうに、彼らに向かってマジギレしたのは、
出会ってから初めてのことだったからだ。
「俺は、おかしくなんかねぇよ。
俺はただ……」
あいつの隣に、いたいだけだ。
あいつの世界を、もう二度と暗闇に戻したくないだけだ。
これ以上言葉を重ねても、
彼らには絶対に伝わらないと悟り。
俺は乱暴に椅子を蹴り飛ばすと、
そのまま教室を飛び出した。
廊下を走る足音が、
自分の鼓膜の奥でガンガンと鳴っていた。
教室を飛び出した俺は、
息を切らしながら生徒指導室の前に立ち、
勢いよく引き戸を開け放った。
バンッ! という荒々しい音に、
パイプ椅子に座っていた白石がビクッと肩を跳ねさせる。
「赤星……くん?」
驚いたように目を丸くするあいつの顔を見た瞬間。
俺の中で張り詰めていた糸が、
プツリと切れる音がした。
「……白石」
名前を呼ぶ声が、情けないほど震えていた。
拳を固く握りしめ、
ぜぇぜぇと肩で息をする俺の姿は、
どう見ても「普通」じゃなかっただろう。
「おい、赤星。どうした」
対面で話を聞いていた武田先生が、
怪訝な顔で立ち上がる。
俺は、喉の奥に込み上げてくるドロドロとした熱を、
なんとか言葉にしようともがいた。
「先生、俺……っ、あいつら……!」
健太の怒声。女子たちの冷たい視線。
『普通』を盾にして、
彼を異物として排除しようとする教室の残酷な空気。
それが悔しくて、悲しくて、
どうしようもなく腹が立った。
けれど、武田先生は、
俺の震える拳と、今にも泣き出しそうな顔をじっと見つめ。
「……わかった。もう何も言うな」
静かに、だけど力強い大人の声で、
俺の言葉を遮った。
「……先生」
「お前がそんな顔して飛び込んでくるってことは、
教室で何かあったんだろう。
……お前、一人で戦ってきたんだな」
その一言に。
俺の目から、ボロボロと情けない涙がこぼれ落ちた。
ダチとぶつかったこと。
教室の空気を壊したこと。
その重圧と恐怖を、先生は全部わかってくれたのだ。
武田先生は小さくため息をつき、
壁のキーボックスから、古びた鍵を一つ手に取った。
「旧校舎の三階にある、使ってない理科準備室。
あそこの鍵を開けておいてやる。
……今日は、二人ともあそこで過ごせ」
「え……」
「白石にとっても、今の教室はまだ息苦しいだろう。
それに、お前も今は少し、頭を冷やしたほうがいい」
先生は、俺と白石の背中をポン、と軽く叩いた。
「HRも、一時間目も、俺が適当に誤魔化しておく。
だから、今日はもう……外界のノイズはシャットアウトして、
二人で静かにしてろ」
大人の、不器用で、最大限の優しさだった。
俺は、涙を袖で乱暴に拭いながら、
深く、深く頭を下げた。
◆
旧校舎の理科準備室。
埃の匂いと、薬品の古い匂いが混ざった、
薄暗い四角い箱。
武田先生が鍵を開けてくれたその部屋に入り、
重いドアが閉まった瞬間。
俺は糸が切れたように、
ドアを背にしてズルズルと床にへたり込んだ。
「……赤星くん」
白石が、心配そうに俺の前にしゃがみ込む。
「僕の、せいだよね。
教室で……赤星くん、みんなと、喧嘩したの?」
その声は微かに震えていて、
あいつの顔には、深い自責の念が浮かんでいた。
自分がいることで、俺という光を汚してしまったとでも
言いたげな、痛々しい表情。
「違う」
俺は、強く首を振った。
「お前のせいじゃない。
俺が、あいつらのあの空気に……
ムカついて、勝手にキレただけだ」
「でも……っ」
「俺は、お前がどれだけ頑張ってここに来たか、知ってる。
あんな暗い部屋から、俺と一緒に行くって……
そう言って、震えながら制服着てくれたの、知ってるから……」
言葉が、また涙と一緒に詰まる。
俺は両手で顔を覆い、膝の間に顔を埋めた。
ダサい。本当にかっこ悪い。
白石を守りたかったのに、
結果的にあいつを不安にさせて、自分が泣いているなんて。
その時。
ひんやりとした、冷たい感触が。
顔を覆う俺の手の甲に、そっと重なった。
「……」
顔を上げると。
白石が、自分の細くて白い両手で、
俺のゴツゴツとした手を、包み込むように握っていた。
「……泣かないで」
悲しそうな、でも、信じられないくらい優しい声だった。
「僕のために、怒ってくれて……ありがとう」
白石の指先から、
静かで、穏やかな体温が流れ込んでくる。
ずっと俺が与えてきたはずの熱。
それを今度は、
彼が俺の痛みを冷ますように、優しく返してくれている。
教室のノイズも、健太の怒声も、
ここには届かない。
埃の舞う、静かな空き教室で。
俺たちはただ、お互いの手のひらから伝わる体温だけを頼りに、
この正しくない世界から、ひっそりと身を隠していた。




