正しい世界の正しくない感情
薄暗い部屋に、
無機質な電子音が響いた。
めったに鳴ることのない、
僕のスマートフォンの着信音。
画面に表示された『武田先生』の文字に、
僕は小さく息を吸い込み、
少しだけ震える指で通話ボタンを押した。
「……はい」
「お、白石か。電話に出てくれてよかった。
急にごめんな。……体調は、どうだ?」
電話越しに聞こえる、
少しだけ気を使ったような、優しい大人の声。
以前の僕なら、
この電話に出ることすらできず、
ただ着信音が鳴り止むのを布団の中で待っていただろう。
外の世界と繋がってしまうのが、恐ろしかったから。
「……大丈夫、です。元気にしてます」
「そうか。……ならよかった」
武田先生はホッとしたように息を吐き、
それから、少しだけトーンを落として言った。
「あのさ。最近、赤星のことなんだけど。
俺はもうプリントのお使いは頼んでないんだが……
あいつ、まだお前のとこに行ってるか?」
その名前に。
心臓がトクン、と小さく跳ねた。
「……はい。来て、ます」
「そうか。……あいつ、迷惑かけてないか?
ガサツだし、声もでかいし。
お前がしんどいなら、俺からあいつに言うから……」
「違います」
自分でも驚くほど、
はっきりとした声が出た。
電話の向こうで、
先生がわずかに息を呑む気配がした。
「……赤星くんは、僕に、勉強を教えてほしいって。
だから……毎日、来てくれてるんです。
迷惑なんかじゃ、ありません」
少しだけ早口になってしまった僕の言葉に。
武田先生は、しばらくの間沈黙し。
やがて、
電話越しでもわかるくらい、
とても穏やかに、嬉しそうに笑った。
「……そうか。赤星のやつ、
お前に勉強教えてもらってんのか。
ふふ、あいつらしいな」
「……先生?」
「いや。……白石、赤星の馬鹿に
付き合ってやってくれて、ありがとうな。
また、何かあったら……いや、何もなくても、
いつでも電話してこいよ」
プツリ、と通話が切れる。
僕は静かになったスマートフォンを見つめ、
それから、
畳の上に広げられたままの、
赤星くんの数学のノートにそっと触れた。
『ありがとう』。
先生から言われたその言葉が、
胸の奥で、あたたかく反響していた。
◆
「なぁ、赤星。お前マジで、白石とどういう関係なんだよ」
グラウンドの隅の水道。
部活終わりに泥だらけの顔と腕を洗っていた俺の背中に、
親友の健太が声をかけてきた。
蛇口を捻って水を止め、
ジャージの袖で顔を拭いながら振り返る。
「どういう関係って……。
この前も言ったろ、俺が数学教えてもらってんの」
「だから、それがわかんねぇんだよ」
健太は腕を組み、
呆れたような、でも少しだけ心配そうな顔で俺を見た。
「なんでわざわざ、不登校のやつのとこに通うんだよ。
勉強なら、俺とか高橋とかに聞けばいいじゃんか。
……お前、この前の高橋の涙、見てねぇわけじゃないだろ」
健太の言葉に、俺は少しだけ言葉に詰まる。
高橋が泣いていたこと。
そして、健太が彼女のことをずっと気にかけていること。
全部、わかっている。
「……高橋には、悪いと思ってる。
でも、勉強教えてもらうのは、白石じゃなきゃダメなんだよ」
「はぁ? なんでだよ」
「……あいつが、俺を待ってるからだ」
自分で言ってから、
少しだけ恥ずかしくなった。
でも、それが一番しっくりくる嘘偽りのない本音だった。
「あいつの部屋には、マジで何もねぇんだ。
一人でずっと、暗いとこで息止めてるみたいでさ。
……俺が邪魔しに行かないと、
あいつ、また自分を傷つけちゃうかもしれないから」
健太は、俺の真剣な目を見て、
大きくため息をつき、頭をガシガシと掻いた。
「……お前さぁ。
それ、ただの同情じゃなくて、
もう完全に肩入れしすぎだぞ」
「同情なんかじゃねぇよ」
「わかってるよ。お前がそういう馬鹿だってことは」
健太はポイッと、
自分の首にかけていた綺麗なタオルを俺の顔に投げつけた。
「でもな。クラスの空気、あんま良くねぇぞ。
お前が白石のことばっか気にしてるから……
高橋の周りの女子とか、結構ピリピリしてっからな。
気ぃつけろよ」
タオル越しに聞こえた健太の忠告は、
痛いくらいに現実味を帯びて、
俺の耳に重く残った。
◆
放課後の教室。
生徒たちがまばらになり始めた空間で、
高橋は、自分の机に突っ伏すようにして座っていた。
「……赤星くん、今日もすぐに帰っちゃったね」
ぽつりとこぼした彼女の言葉に、
周りを囲んでいた数人の女子たちが、
一斉に同情と苛立ちの声を上げた。
「ホント、最近の赤星くん、絶対おかしいよ!
前はあんなに高橋さんと仲良く話してたのに」
「わかるー。ずっと上の空っていうかさ。
プリント届ける係も終わったんでしょ?
なんで未だに、あんな引きこもりのとこ通ってんの?」
取り巻きの一人が、
大げさに肩をすくめて吐き捨てるように言う。
「白石くんって、入学式の日に一回見ただけだけど、
なんか髪長くて、気味悪かったよね。
男のくせにナヨナヨしててさ」
「ね、それ! ちょっと不気味だよね。
赤星くん、変な同情して洗脳されてんじゃないの?」
「高橋さんがこんなに悩んでるのに、
完全に無視とかありえない。
マジで赤星くん、最近冷たすぎるよ」
次々と飛び交う、赤星と白石への非難の声。
それは、高橋を慰めるための言葉でありながら、
異物を排除しようとする、教室特有の冷たい空気だった。
「……みんな、もういいよ」
高橋はゆっくりと顔を上げ、
力なく首を振った。
「赤星くんは、冷たくなったんじゃないの。
ただ……」
彼女の脳裏に、
廊下で真っ直ぐに自分を見据えた、
あの時の赤星の目が浮かぶ。
『俺が、行きたいんだよ』
「ただ、彼の見ている世界に……
もう、私が入る隙間がないだけなんだよ」
高橋の寂しそうな声は、
同調して騒ぎ立てる女子たちの声にかき消され、
放課後の教室の喧騒の中に、
虚しく溶けて消えていった。
「……赤星くん、今日も行っちゃったね」
放課後の教室。
窓からグラウンドを見下ろしながら、
高橋は誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。
本当は、応援してあげなきゃいけないんだ。
学級委員として。
そして、彼の「友達」として。
学校に来られないクラスメイトの家へ毎日通い、
勉強を教わっているのだと、彼から聞いた。
赤星くんのそういう、損得勘定のない真っ直ぐで優しいところが、
私はずっと好きだったから。
『あいつの部屋には、マジで何もねぇんだ』
そう言った彼の目は、
私には絶対に踏み込めない、
遠くて深い場所を見つめていた。
胸の奥が、黒くてドロドロとした感情で満たされていく。
いい子でいたい。
彼の優しさを、正しく肯定できる人間でありたい。
なのに、頭の中を支配するのは、
顔もよく知らない「白石涼」への、醜い嫉妬だった。
なんで、白石くんなの。
なんで、私じゃないの。
あんなに毎日、楽しそうに笑い合っていたのに。
私がいくらプリントをまとめてあげても、
日直を代わってあげても、
彼は絶対に、あんな熱を帯びた瞳で私を見てはくれなかった。
学校にも来ないで、暗い部屋に引きこもって。
可哀想なフリをして、彼の優しさに縋り付いて。
赤星くんの「特別」を、いとも簡単に奪っていった。
ズルい。
気持ち悪い。
大嫌い。
「……私の、赤星くんなのに」
誰もいなくなった教室で。
高橋は、自分の醜い感情に蓋をすることもできず、
ただ机に突っ伏して、声を出さずに泣き続けた。
正しくありたいと願う彼女の涙は、
見えない境界線の向こう側にいる涼への、
確かな憎悪へと変わっていた。
◆
カキィィィン、と。
金属バットの甲高い音が、夕暮れのグラウンドに響き渡る。
「おい健太! 今の球、甘いぞ! 集中しろ!」
先輩の怒声に、「すんません!」と大声で返し、
俺は帽子を深く被り直した。
マウンドからキャッチャーミットを見つめる。
いつもなら、あそこに座っているのは赤星だった。
俺が投げて、あいつが受ける。
それが当たり前の日常だったはずなのに。
グラウンドの隅に目をやると、
校舎の窓からこちらを見下ろしている、高橋の姿があった。
いや、彼女が見ているのは俺たちの練習じゃない。
すでに赤星が走り去っていった、校門の向こう側だ。
ギュッと、ボールを握る手に力が入る。
高橋が、赤星のことを好きなのは知っていた。
そして、俺が高橋のことを好きなのも、
周りのやつらはみんな気付いている。
赤星は鈍感な馬鹿だから、
そういうクラスの空気や、高橋の気持ちに、
これっぽっちも気付いていない。
それが余計に、高橋を傷つけていることも。
「……クソが」
誰に向けての言葉か分からない悪態が、
口をついて出た。
赤星は親友だ。
あいつが本気で誰かを助けようとしているなら、
背中を押してやるのが「ダチ」の役目だ。
頭では分かっている。
あいつの行動は、人として間違ってなんかいない。
じゃあ、この苛立ちはなんだ。
高橋が泣いているのを見るたびに、
胸の奥で暴れ回る、この理不尽な怒りは。
赤星を殴るわけにはいかない。
あいつは真っ直ぐに、誰かを救おうとしているだけだから。
高橋を責めるわけにもいかない。
あいつはただ、赤星のことが好きなだけだから。
誰も、間違っていない。
誰も、悪くない。
だからこそ、俺の中で行き場を失った怒りの矛先は、
たった一つの「異物」へと向かっていった。
『白石涼』。
あいつさえ、いなければ。
あいつが、赤星の優しさに付け込んで、
暗い部屋に縛り付けたりさえしなければ。
赤星はいつも通りグラウンドで泥まみれになって笑っていて、
高橋はそれを見て、嬉しそうに微笑んでいて。
俺は、そんな高橋の横顔を、
すぐそばで守っていられたはずなのに。
「……全部、あいつのせいじゃねぇか」
俺たちの平和だった日常を壊した、疫病神。
そんな身勝手で理不尽な憎悪だと分かっていても。
俺は、自分の中に芽生えた黒い感情を、
どうしても止めることができなかった。
振りかぶって投げた白球は、
キャッチャーのミットを大きく外れ、
バックネットに鈍い音を立てて突き刺さった。




