わがままな境界線
放課後の下駄箱前。
部活へ急ぐ生徒たちの喧騒の中で、
俺はクラスの高橋に呼び止められた。
「赤星くん。……今日も、白石くんの家に行くの?」
不安げに揺れる彼女の瞳。
俺が毎日、部活が終わると脇目も振らずに
隣の家へ向かっていることに、
気づいていたのだろう。
「ああ。プリント届けるだけだけどな」
「……どうして、赤星くんがそこまでするの?」
高橋の言葉に、俺は足を止めた。
「先生のお手伝いなら、もう十分じゃない?
ずっと学校に来ない子に、
毎日赤星くんが自分の時間を割くことないよ……」
彼女の言うことは、正論だった。
俺だって、最初の数日はただの面倒な
お使いだとしか思っていなかった。
でも。
『だれ……ですか。勝手に……開けないで、ください……っ』
あのひどく怯えたつり目と。
昨日、ガラス越しに聞いた、
あのしゃくり上げるような泣き声を思い出す。
「……ごめん」
俺は、高橋のまっすぐな視線を受け止めながら、
静かに、けれどはっきりと告げた。
「俺が、行きたいんだよ。
あいつを、あそこに一人にしときたくないから」
俺の言葉に、
高橋はハッと息を呑み、
傷ついたように小さく唇を噛んだ。
彼女の好意に気づかないふりをして、
残酷に突き放すようなことを言っている自覚はある。
最低だと思いながらも、
俺の足は、迷いなくグラウンドへ、
そしてあいつの待つ境界線へと向かっていた。
◆
ザクッ、ザクッ。
すっかり陽が落ちた夕暮れ時。
いつものように庭の砂利を踏みしめ、
俺は縁側に腰を下ろした。
ドン、と背中を預けると、
すりガラスの向こう側に、
今日も小さな影が揺れるのがわかった。
昨日の今日だ。
俺の踏み込んだ言葉に怯えて、
今日は窓際にいないかもしれないと思っていたから。
その気配を感じただけで、
胸の奥がじんわりと熱くなる。
「……おっす。今日もプリント持ってきたぞ」
なるべく、いつもと同じトーンで。
変に重くならないように、明るく話しかける。
「今日さ、クラスのやつに聞かれたんだよ。
なんで毎日お前のとこ行くの、って」
ガラスの向こうの影が、
ピクッと小さく跳ねたのがわかった。
「俺もよくわかんねぇけどさ。
ただ、お前とこうして一緒にいる時間が、
嫌いじゃないっていうか……」
そこまで言った時だった。
「……どうして」
すりガラスの向こうから。
か細くて、掠れた、
けれどはっきりとした『声』が聞こえた。
ドクン、と心臓が大きく跳ね上がる。
「どうして……そんなに、優しいんですか」
震える声。
言葉の端々に、
まだ拭いきれない恐怖と、
信じたいという切実な願いが滲んでいた。
初めて、あいつが俺に向かって
自分の意思で言葉を投げてくれた。
その事実がたまらなく嬉しくて、
俺は無意識にガラス戸に手を伸ばしそうになるのを、
グッと堪えて拳を握りしめた。
「……優しくなんか、ねぇよ」
喉の奥が熱くて、声が少しだけ上擦る。
「俺はただの馬鹿で、ガサツで、
お前みたいに繊細なやつの気持ちなんか、
半分もわかってやれないと思う」
ガラス越しの影に向けて。
俺は、自分の中にある嘘偽りのない感情を
言葉にしてぶつけた。
「でも、俺はお前のこと、もっと知りたい。
すりガラス越しじゃなくて、
ちゃんと、お前の顔を見て話したい」
「……っ」
「だから、優しいんじゃなくて……
これ、俺のわがままなんだよ」
沈黙が落ちる。
風の音が、やけに大きく聞こえた。
ガラスの向こうのあいつは、
何を思い、どんな顔をしているのだろうか。
「……俺は待つから。
お前が、自分でここを開けてくれるまで」
俺のその言葉に。
すりガラスの向こうの影が、
ゆっくりと、
本当にゆっくりと、頷くように揺れた。
カサリ、と。
窓の向こうで、何かが畳を擦る音がした。
それは、
俺たちの間にある分厚い境界線が、
音を立てて崩れ始めた、
確かな合図だった。




